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2010年8月

2010年8月31日 (火)

休憩~ちょっとだけ音楽のことを

昨日は、久しぶりに、映画やまんがの話をしながら酒を酌み交わすという至福の時間を過ごしました。何十年振りかのこと。酒がすすみ、気が付いたら終電近い時間ということで、昨日は書き込みができませんでした。

で、いままで、通勤の行き帰りで聴いた音楽や読んだ本のことを感想を交えて、ここに書いてきたのですが、昨日は、酒が入っていたので音楽も本もOUTの状態でした。それで、今日は、音楽全般に対する私の好みについてまとめて書いてみることにします。個々の感想から、 “この人はこんな好みなのか”と類推してもらえるのが、一番いいのですが、そうしてもらえるには筆力が及びません。

私が、主に聴くのはCDショップの棚ではクラシック音楽に置かれているような音楽です。しかし、クラシック専門というわけでもなく、今まで、ここに感想を書いてきたようにロックやポップスも聴きます。そこに底流している共通項と言えるようなものは、思うに、クラシック音楽に特徴的なことを要素として強く持っていることです。それを一言で、「非人間的」とでも言えるでしょうか。音楽は普遍的にこうだと言えないでしょうが、本来的に、人が歌ったり、楽器を演奏したりというのは、歌うのは自分の声で自分の身体を共鳴体とするし、楽器も身体の一部のようにして、これまた身体を共鳴させ、音楽を奏でるものではないでしょうか。身体は個人により、それぞれ違うはずで、同じように歌っても、楽器を奏でても、響きはその人によって違ってくるでしょぅ。それだけでなく、そのような響く音楽の節だったり、拍子だったりも違って響くはずです。そのため、音楽は歌ったり奏でたりする特定の個人とは切っても切れない、抜き差しならない関係にあるはずです。例えば、邦楽や舞踊のある流派では、その伝承は、個人から個人にパーソナルに口移しというような身体上の方法で伝えられる。

さらに、専用の場で、音楽だけが単独で演奏されて、それを聴く人がいるというものよりも、踊りながらだったり、酒を飲みながらだったり、作業をしながらだったり、その音楽に合わせて身体を動かしたり、というような他の何か、しかも身体を動かすような行為と不可分一体であったのではないか思います。また、このような場では、そこにいる人が交互に、または一緒に歌ったりで、奏でながら聴いたり、その逆だったりと役割は固定されず、絶えず流動的だったのでないか。

そういう要素を強く残しているのが、いわゆるワールドミュージックというジャンル(民族音楽?)?だったり、また、ヒップ&ホップやソウル、R&Bなどといった黒人音楽もそうでしょう。民謡、島唄、お祭りのお囃子、みんなそうではないか。ここに共通しているのは、楽譜を必要としない、即興的にその場で音楽が作られる性格が強いことです。

さて、この辺でクラシックの特徴として、私が言いたいことが想像できるのではないでしょうか。具体的に言うと、クラシック音楽に特徴的な楽器にオルガンというのがあります。オルガンは古い言葉でいうと「オルガノン」で、その意味は宇宙とか世界の構造とかしくみとかいう意味で、そこから派生して機構とか機械という意味が出てきます。実際に、オルガンは鍵盤という操作する部分と音を出す部分が別で、他の打楽器や管楽器、弦楽器とも違って、機械に近い。そして、奏でる人の身体に音を共鳴させて響かせない。オルガンを奏でる人は、奏でるというよりはオペレーターに近いイメージです。そして、主にオルガンが演奏される教会では、踊るということは厳重に禁じられていたそうです。音楽に乗るというようなこと、音楽に酔うというような感覚に流されること、楽しむということは、快楽に溺れることとされて、禁じられていたらしい。では何故音楽が奏でられていたかと言うと、神様の完全な世界を表現し、信者にそれを言葉以外の方法で理解させるためだったそうです。中世のポリフォニー音楽。今に残された巨匠と言われる人たちの楽譜に基づいて演奏されたCD(例えば、ジョカスカン・デュ・プレ、オルランド・ラッスス、パレストリーナ、トマス・ルイス・ビクトリア…)を聴くと、これを聴いて自然と身体が乗って動きだすということは想像できません。これらは、教会でオルガン奏者や合唱隊が奏でるのを、ミサの出席者が謹んで聴くというように奏でる人と聴く人が分化していたでしょう。また、神の完全な世界を表わすためには、個々の人間の個性が入り込むのは厳禁です。不完全な人間の要素が入り込めば、神の完全は崩れてしまいます。完全な世界を毎度再現するために、訓練をつんだものなら誰でも厳密に再現できるようなシステムが必要です。それが楽譜です。そして、それが後のクラシック音楽に続きます。

さて、このように音楽の響きだけを他の要素と切り離して純粋に取り出して、演奏する人の要素も消して、ただひたすらに抽象化された音の響きだけを聴くということ、時代を現代に跳びますが、これって、録音した音だけを聴くことと似ていませんか。音の響きを録音してレコードというものを作り出したのはクラシック音楽の本場である欧米です。議論が飛躍しているかもしれませんが、クラシック音楽で音楽はこういうものだと考えると、響きだけを取り出して単独で聴いて楽しむという発想が出てくると思います。

だって、例えば踊ることと奏でることが切り離せないなら、自分の身体を共鳴させることが切り離せないから、ヘッドフォンで聴くのは音楽とは言えないでしょう。その意味で、さっきワールド・ミージックに?をつけたのは、そのように括ること自体が、実はクラシック音楽による音楽というものの考え方をベースにしたものに変質してきていると言えるのです。

さて、そこで私の好んで聴く音楽です。それは、ここまで延々と述べてきたクラシック音楽の特徴が強い音楽です。響きの要素である、メロディやハーモニー、あるいは響きそのものという言葉からきたサウンドを重視した音楽。リズムという要素はちょっと後退してもらいますが。ちょっと長くなって、読むのに疲れるかもしれません。(すいません。)で、私が音楽を語るときには、このような好みゆえに、響きの要素を中心にして語ることがくせのようになっているようです。

明日からは、また、その日聴いた音楽や読んだ本のことを、書きます。

2010年8月30日 (月)

茅原実里「Parade」

270 今日は休日出勤。いつも会社の行き帰りは携帯プレーヤーで音楽を聴いているが、混雑した電車の中で携帯プレーヤーをかけているので、音漏れの心配が少ないクラシック音楽を聴いている。しかし、今日の電車は空いているので、多少の音漏れには目をつぶって、いつもと違うのを聴いた。

茅原実里「Parade」。いわゆるアニメの声優さんで主題歌も歌っている人らしい。しかし、何の先入観なく聴いていると、そこには、日本には殆んど現われなかったプログレっぽいハードロックのハイトーンのボーカルが存在していた。例えば、イエスのジョン・アンダーソンやスティックスのトミー・ショウ、ジューニーのスティーブ・ペリーのような。この人、声優をやっているせいか、裏声で甲高い声(いわゆるアニメ声)のハイトーンが苦もなく出せてしまう。しかも、この人のハイトーンは伸びがあって、声につやがある。このような魅力的な高音は浜田麻里以来ではないだろうか。でも、彼女は浜田麻里のような、どこかで無理をしているような感じがしない。ハードロックのボーカルがするハイトーンの雄叫びを、この人は、それと感じさせず、さりげなくやっている。例えば「Paradise lost」の間奏部で転調のときに派手ではないけれど、印象的に演っている。ただし、この曲でいうと、最初の入りのところでは高い声とは反対に低いドスの効いたところから始まる。腹式呼吸でキチンと発声していて、地声は低いのかもしれないが、その迫力はかなり。だから、彼女のハイトーンには強靭なベースが支えているので、高いこえでもキンキンしないのもそうだろう。この曲でいうと、全体のトーンは低音のベースで、さびは転調して一転高い音に飛躍することで一層強調されるような構成になっている。彼女の歌の魅力は低音と高音の対比にある。しかも、低音で歌われているところが高音で歌われるサビへの経過段階に終わらず、音楽として保っている。それだけに、サビへの転換が劇的に行われる。それが、プログレ・ハード的な大げさな伴奏にピタリとはまる。とくに、アニメという非現実的な世界では、主題歌や劇伴では、こういう大袈裟なものに違和感がない。この人の魅力は密度の高い声と、これに負けない大袈裟ともとれる曲構成と伴奏ということになるが、これは虚構というのか、非現実の世界─そう言えば、プログレの代表的なバンド、キングクリムゾンや初期のジェネシスはアルバムの中で完結した虚構世界を創っていた─アニメの世界で最も活き活きとするのかもしれない。できれば、この先、中途半端なポップ路線に走らないで、もっともっと閉じた完結した世界で、例えば、プログレの組曲のようなものを追求してほしいと思う。

…と書いてきて、一番よく聴いているクラシック音楽のことは、未だ全然触れていない。これから、そっちを書きます。

2010年8月28日 (土)

中島みゆき「EAST ASIA」

中島みゆき「EAST ASIA」。デビューの頃の印象しかなかった(「時代」とか)が、ヤマハ出身のニューミュージックとか、失恋の歌を暗く歌うとかいうイメージを持っていたが、このアルバムを聴けば、本格的なボーカリストだということが分かった。下腹からしっかり声を出して、歌いきっている。喉で歌う若い歌手には出ない迫力。下腹から声を出していると、ドスの利いた声がでる、またフォルテでも余裕が出る。それを喉のテクニックで歌いまわしている。だから小手先で表面的な感じがしない(例えば、Bzのボーカルのように喉でビブラートをかけて歌うと、歌詞が聞き取れないし、声の伸びがなく、ボーカルの存在感が感じられない。)。圧倒的な説得力で迫ってくるのだ。かつての美空ひばりを思い出してしまった。きっと、実際のライブはもっと凄いと思う(アンプを介さないで、小さなライブハウスか何かで生の声で聴くのが一番凄いと思う)。とくに、このアルバムは大仰に歌いきる曲とアレンジが多く、このような彼女の唱法に合っている。いまの日本では、他の歌手では真似ができないだろう。面白いことに、演歌に近いのだ。彼女のファンに言うと叱られるかもしれないが、私はこれをとてもいいことだと思っている。彼女がこれを自覚してやっているのなら、素晴らしいことだ。若いロック系の人で、これを無自覚にやっている人が多い。私は音楽的な知性と歴史感覚の欠如と思っている。

彼女の曲の場合、以前は歌詞の内容のことがよく論じられていたように思う。(私は彼女のファンではないが、メディアを終始追いかけているわけではないので、思い違いもあるかもしれない)しかし、このアルバムを聴く限り、彼女の圧倒的な存在感のある声と、それを載せる歌がメインなのではないかと思う。以前比較されることが多かったユーミンには、こういう必殺の武器がない。そのかわりに、歌詞でストーリーをつくって聞く者をそのストーリーの中に招き入れ、彼女の歌が良質な効果音の役目をはたすようなところがある。だから、かえって声の存在感は邪魔になる。ユーミンのそういう声だからそうなったのか、曲作りがそうだから、そのような歌い方になったのは、ニワトリが先か玉子が先かと同じだ。ユーミンの曲は、具体的な場所や小道具が散りばめてあり、歌詞がストリーとして辻褄が合っていて、歌詞を曲と切り離しても、ひとつの文章として何とか追い掛けることができる。こうこいう曲、歌詞つくりをする人は多いのではないか。メッセージ系?の歌をつくるひととか、さだまさしのような人とか。

で、中島みゆきの曲というと、彼女の曲にも、ユーミンと同じようなストーリーもある。…もあるのだ。しかし、ユーミンにあるような具体的な場面が浮かぶということはない。もっと抽象性が高い。どちらかというと、人の感情の動きがそのままストーリーになったような感じだ。そこで、こころの動きを託したことばが、中島みゆきの圧倒的な声に乗ることで、活き活きとして生命感を与えられる。別の言い方をすれば、抽象的な言葉が中島みゆきの声で歌われることで生身の人間のこころとなって聴く者に迫ってくる。それが、彼女の曲を他の歌手がカバーしても面白くないのは、かろうじて演歌~歌謡曲の歌手で聴くのが面白いのは、そのためではないか。もしかしたら、長唄のような邦楽の人に演ってもらうと面白いのかもしれない。

でも、今、書いてきたことって、26日や27日に書いたことと矛盾しているかもしれない。言行不一致でした。

2010年8月27日 (金)

渡辺保「渡辺保の歌舞伎劇評」

41vfmiwaw5l 渡辺保「渡辺保の歌舞伎劇評」を少しずつ読んでいる。氏の劇評の2冊目、自身のホームページに随時掲載しているものを収録。新聞等の媒体に載せているものではないので、制約がなく、思ったところを書いているという。この人の劇評は歌舞伎を見ていない私にも面白い。その理由は、文章が論理的に明快なこと。シンプルで、文章の関係が接続詞ではっきりしている。若い人が論理的な文章を習うのには、お手本になる。そして、劇評が個々の劇の良し悪しを言うだけではなく、そこに評者が歌舞伎の可能性や奥深さを随所に顕にしているところ。単に、あれが良かった、悪かったで終わることなく、この評者は何が良いのか、悪いのか、どうして良いのか、悪いのかを説明しようと努力している。当然、そこには、歌舞伎とは何かの根本的な問いかけが、そのたびに為されている。それが文章に現われている。また、素晴らしい舞台に接したとき、評者が役者の個々の立ち居振舞いに意味を発見しているところが凄い。一つの手振りの意味を解した事で、場面の重要性や登場人物の隠れた信条が、新たに明らかになってい来るのは感動的ですらある。古典演劇として、ある意味完成され、限られた演目を繰り返し上演しているにも関わらず、そこに、まだまだ新たな発見の余地がある歌舞伎の奥深さをまざまざと見せ付けてくれる。それはまた、一方で役者の成長でもあり、時代の変遷により捉え方が変化していることにもよるのかもしれない。しかし、そこにある、評者の歌舞伎の可能性に対する確信や、自分よりも年下の若手の役者からの、その新たな歌舞伎の可能性を見出す評者の謙虚さ、いわば歌舞伎への愛から由来しているのだろう。一つのしぐさに対する本の些細な心配りに対する目配りが、作品の見方を変えてしまう現場に立ち会えるような臨場感がある。読者はそこに、歌舞伎の奥深さを感じることができる。比べるに、クラシック音楽の批評の場合は、同じように完成された古典の世界でありながら、批評の多くは良し悪しか、正邪の指摘に終始する。音色の取り方が作品に新たな意味を与えるというような批評は呼んだことがない。つくづく、このような評者を持つことのできる(多分、歌舞伎役者は昔から、大向こうと呼ばれる見巧者を大事にしてきた伝統が、評者のように人を生んだのだろう)歌舞伎の奥深さに感心させられる。通して読むのもいいし、ランダムにページを開いて、気の向いた評をつまみ読むのも楽しい。しかし、本当に楽しいのは、私が歌舞伎の舞台を見る人だったら、自分の見た舞台を印象と評者の劇評とを見比べることだろう。きっと、世界が広がる感じを味わえるだろう。

2010年8月26日 (木)

井上和雄「シューベルトとシューマン」

415wydibnhl  井上和雄「シューベルトとシューマン」。この人、経済学者かなんかなのだが、趣味で室内楽をやっていて、その経験からモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンの本を書いていた。それが、音楽の響きと受け取る人の印象の起こり方を個人レベルで記述していたのに好感をもっていた。とくに、クラシック音楽について書かれたものは、音楽学的薀蓄か楽譜ばっかりで文章は何を言っているか分からない、個人がどう感じるのは自明といわんばかりのナイーブな認識しかないものや、個人の思い入れを音の響きとは無関係にダラダラ書き連ねる、どうしてそう感じたか全くわからないものや、作曲家や演奏家の伝記をなぞっているだけのものが大半で、吉田秀一のような半端な文章がまともな部類に入るという淋しい状況で、音の響きとその印象がとにかく結びつくという稀有な本だった。本を読みながらCDを聞くと、成る程書いていることが理解できた。ただ、それに共感できるかまた別だが。共感以前の本が多かったのだ。それで、この本も期待して読んだ。期待はどうだったか、半分当り、半分外れのような内容だった。原因としては、この辺になるとアマチュアでは演奏できないのか、モーツァルトやハイドンでは生彩のあった音の響きの書き方が活き活きとしていなかった。その分もうひとつ消化不良の印象を受けた。また、本人がロマン主義に対して屈託を持っているようで、素直に印象を書きにくく、持ってまわったような感じがした。また、この二人の作曲家は弦楽四重奏に積極的ではなかったせいもある。でも、シューマンを知的というのはユニークだが、なんとなく分かるし、シューベルトの晩年の見方もそれなりに理解できる。作曲家の精神分析なんかの引用に頼ったり、ちょっと残念だったが、それでも、クラシック音楽についての著作としては、いい本だと思う。

2010年8月25日 (水)

中島みゆき「ファイト」

yutubeで偶然、中島みゆきの「ファイト」のライブ音源を聴いた。

http://www.youtube.com/watch?v=MfeRPIIqHBc&feature=related

背筋に寒気が走った。フリーズしてしまった。歌詞がどうだとか、曲がどうだかということは、いくらでも言えるが、憑かれたような彼女の声の凄みに圧倒される。巫女という言葉がそのまま当てはまるような。曲や歌詞がある種の怒りや思いを載せ易いものであるし、それだけに誤解を受けやすいものでもある。実際、私自身もこの類の歌には乗せられやすい、感傷的な面も多分にある。しかし、この彼女はそんなものも吹き飛ばすような凄みがあった。吉田卓郎のカバーがいかにも表層的に言葉の響きからイメージの詩と同じように歌っているのと、いかに違うことか。今まで、中島みゆきの良さが分からなかった。これを聴くと、そんじょそこらの歌手とは次元が違う。

中島みゆき「歌旅」。yutubeの音源が圧倒的だったので、ライブアルバムを急いで手に入れた。さすがに、あの神憑りのような凄みはなかったが、その代わりに録音がいいのと、曲数が多いのでバラエティを楽しめた。同じ曲「ファイト」もここで歌っているが、アレンジで盛り上げ、彼女も曲の後半で乗ってきた感はあるが、演技的というのか、技巧が鼻についた。最後近くに“男にうまれたかった”のフレーズで声を荒げ、それなりの迫力は出ていた。しかし、曲全体の演技構成上のお約束みたいな感じで、あの音源の吐き捨てるような自分の性を呪うような、しかしそのような自分を嫌悪するような、まさに“私の敵は私です”を体現するような、曲と自分が重なる“研いだ爪を自分に突き刺す”を地で行く迫力は出なかった。あの音源では、声の存在感がすごく、圧倒的な声の説得力が彼女の存在を引っ張っていく感があった。ライブを通しで聞かせてくれないため、それぞれの演奏が1曲ごとに切られてしまっているのは残念だが、彼女の巧さが良く分かる。ときどき、一時だけだが声の存在が光るときがある、それが通しではないのが残念。ずっと通しで光っているなんてことは、絶対にありえないが。それができたら、まともな生活はできないだろう。このアルバムを通して聴くと、彼女の方向性として、絶対的な声の可能性を持ちながら、この気まぐれな声に頼ることから、演技的な構成への傾き、指向が強く感じられた。うまくいけば、安定的に毎回のライブで一定の水準で説得力を及ぼすことができるだろう。しかし、これがアザとさとなれば、単にクサいだけになる。彼女のファンを対象としてだけなら、この方向性はベストかもしれない。それ以外に感じたことでは、とくに後半では日常で生活している大人の男女向けの応援歌を歌おうとしていること。彼女のことだから、拳を振り上げろとか、頑張れを県こするような単純なものではないし、また、大人ともなれば、そんな単純なものでは相手にできないだろう。そのてんでは、ある程度の複雑な背景や、諦念のようなものも理解しながらということだ。しかし、「地上の星座」のようなノスタルジックな方向は私には逃げに感じられる。彼女なりに模索していることには好感が持てた。

「メイド・イン・ジャパンは終わるのか」(3)

そろそろまとめに入る。半導体、携帯電話あるいはデジタルカメラやゲーム等といったエレクトロニクス産業を中心に、現在日本企業が直面している問題は、不景気といった一過性のものではなく、90年代以降の半導体技術、デジタル技術の進歩そしてグローバリゼーションの進展によって、一方で製品の開発や生産の対象が急速に拡大し単に品種を増やすだけでなくときには相互に矛盾するような多種多彩な対応が大量にしかも急速に求められ、他方では個別の製品の枠を超えて普遍的な機能を抽象化によってピックアップし超LSIのような集積回路に担わせることによって完成品よりもデバイスが主導権を握っていくことが進んだ。このような産業システムの質的な変化に対応する能力が企業活動の成否を決するようになっていった。そのプロセスにおいて、日本企業は遅れをとり、迷路に嵌っていった。

日本のメーカーは特定の顧客を念頭に製品や技術を個別最適化するものづくりのための「摺り合わせ能力」に秀でているが、このことが、先に説明した産業システムの質的な変化への対処を遅らせたといえる。それが典型的に現れているのがエレクトロニクス産業といえる。

従来のものづくりはパソコン等や家電製品の最終製品が顧客のニーズを汲み取り、主導してきた。しかし、このような事態が進行して、集積回路がどの製品にも搭載され、しかも機能の中核を担い、これに合わせて部材が作られるようになると、最終製品ではなく、集積回路がものづくりを支配するようになってしまった。その結果、完成品をつくる家電メーカーやパソコンメーカーはものづくりを支配できなくなった。

しかし、日本企業が世界で強さを持ち続けている産業、自動車や産業機械は、構造上そのような傾向が比較的現れにくく、日本の特異な「摺り合わせ能力」を生かせる。このように市場の構造を捉えなおして、ポジショニングを見直し、これに応じて戦略を練り直すことが重要と説く。

これからの日本企業の選択肢は学者の論文の常として、こんなものかなぁというところだ。しかし、日本企業の経営について、かつての強みゆえに、状況変化のスピードについて行くことに遅れるという構造的な分析は説得力がある。実は、ここ数年が転換期にあり、日本企業が内在的にも、外的な事情からも、柔軟に変化していく努力を怠ってきたのではないか、という実感は現場レベルでもあったのではないか。これに対して、言葉を与えてくれたという感じがしている。ひとつの視点で、このように考えると、これから前向きに、自らを見直し、変えていくことで、未だ日本企業は甦ることができると前向きな気持ちになれるではないか。その意味では、論文ではあるが元気が出る“熱い”本だった。

これに関連して、小川紘一「国際標準化と事業戦略」も読んでいるところ、後で投稿するかもしれない。

2010年8月24日 (火)

Rainbow「On Stage」

506 今日の通勤時に携帯プレーヤーで聴いた音楽

レインボーの初期のライブアルバム。私見だがハードロックには2種類ある。ひとつは、ブラックサバスや初期のジュダスプリーストのような詩に重点をおいたボーカルが歌うというよりは朗詠するようなタイプ、バックは往々にして細かなリフを刻む。そして、ディープパープルやユーライアヒープのようなメロディが主なバンド、ボーカルはメロディを歌い、バックはフレーズを歌わせ、音を重ねていく。だんだんキャリアを積むにつれてドラマティックな曲が増えていく。前者のバンドは日本ではあまり人気が出なかったのに対して、後者のタイプには人気バンドが多い。リッチー・ブラックモアがディープパープルを脱退して結成してこのレインボーは完全に後者の部類に入る。ギターは歌っているし、曲はドラマティック。それだけに古さを感じるきらいはある。今の微分されたような細かなビートのヘビメタに比べるとスピード感はない。音的にも当時の最先端だったろうが尖った感じがしない。その意味で純粋にメロディ、歌を聞けるようになった。それで残っているのかもしれない、と思うようになった。ロニー・ジェイムス・ディオのボーカルのフレージングは昔のポップスの影響が分かりとても聞きやすいし、親しみ易い。リッチーのギターも歌一杯だ。

「メイド・イン・ジャパンは終わるのか」(2)

今日も暑い。都心に出た。

「メイド・イン・ジャパンは終わるのか」を続けて読んだ。80年代に日本の経済を牽引し、圧倒的な強さを誇った半導体産業。

現在の半導体産業を特徴付ける第一の要因は、半導体の集積度が急速に増大したことに起因する複雑性の増大である。それが半導体製造プロセスに高次の統合と柔軟性を要求したが、現場レベルに蓄積されてきたプロセス統合能力が対応しきれず、日本の半導体産業の競争力は低下していった。

増大する複雑性は、製造プロセス内の相互依存性の強さと範囲を拡大した。新たな相互依存性に対処するためには、先進的な情報技術(MES)の利用にともなって、製造プロセス全体の構造(アーキテクチャ)を見直すことが必要となった。また、プロセスの可視性を高めて、より広い範囲にわたる人々の協同活動を促進することを求められた。そこで鍵となったのは、抽象レベルをあげて生産プロセス全体を俯瞰し、新たな統合方法を基盤にプロセスを再構成することであった。それはまた、統合ノウハウの所在(人からシステム)、統合知識の形態(暗黙知から形式知へ)、統合範囲(個別プロセスからプロセスモジュール、プロセス全体へ)における根本的な変化を意味していた。こうした動きにおいて日本企業は米国企業に大きく遅れてしまった。

半導体の集積度があがり、コストが低下するとともに、半導体を利用する製品が拡大し、出口である市場の多様性が高まった。その結果、DRAMのような汎用製品であっても、複数の出口を想定したプロセス開発が必要とされた。特定の用途に向けて最適化するのではなく、拡大する多様な市場での利用を想定した開発が必要となった。

そこで、共通機能を抽出して、それを異なる製品間で共有化することが必要となる。90年代後半以降、米国をはじめ海外の半導体メーカーは、これに対応したワンランク上の統合的な知識・ノウハウの蓄積に邁進している。他方、日本のメーカーは、このような状況に十分対応できていない。

たしかに、巷間言われるとおり、日本の半導体メーカーは90年代以降激化した設備投資競争に迅速に対応できなかった。しかし、内部では、このようなところで遅れを取り始めていたといえる。では、どうするのかは、次回。

2010年8月22日 (日)

「メイド・イン・ジャパンは終わるのか」(1)

41xyky7abel  暑い。休日のため会社の中は冷房が入っていない。なんで、こんな日まで会社に来るのか、とも思う。目一杯仕事を抱えてさばききれないというのでもないだろう。家に居場所がなくて、会社に逃げてきているというのでもない。あまり考えたくはないが、仕事が好きなのだろうと思う。机に座って、色々なことを考える。日々動く目前の処理では、考える暇もないようなことをじっくり考えてみる。そういうことを、このところ、とても大切なことと思うようになってきた。

青島矢一、武石彰、マイケル・クスマノ「メイド・イン・ジャパンは終わるのか」。80年代には“ジャパン・アズ・ナンバーワン”などと賞賛され、奇跡と呼ばれた日本経済が、現在では終焉したともいわれ、この短期間の評価の毀誉褒貶はどうしてなのかを問うている本。まず、評価に対しては、80年代の賞賛に対しては、欧米の経営学者や評論家の一部が、当時の欧米企業の経営戦略に大きな疑問を感じ、ちょうど、当時の代表的な企業の業績が停滞していたときに、成長していた日本の企業に仮託して自己の理論を展開したということ。つまり、彼らの理論展開のために日本企業の経営に対する評価が利用された点が大きいと言う。その証拠に、彼らの取り上げた日本の企業は極端な偏りを示している。そして、現在の日本企業に対する酷い評価はその裏返しということだ。つまり、アングロサクソン系の市場経済重視のエコノミストや批評家が業績好調なアメリカ企業を評価するために日本企業を時代遅れとしてくさすと言うことだ。

では、実際はどうなのか、分析が恣意的にならないように、日本経済を牽引してきたエレクトロニクスや自動車に絞りを変遷を分析していく。その結果、大雑把にいえば80年代の日本的経営は高度経済成長の増産経営に対して有効に働き、洗練されてきたもので、増産が鈍った80年代から矛盾が出てきていたのを、日本企業は根本的な対応を後回しにし、その場しのぎを続けてきたために、世界経済の環境の激変についていけず、矛盾を増大させ、体力を消耗させたというのだ。それは、日本のメーカーのシンボルともいえる技術開発にも言える。

例えば、携帯電話ではアナログ電話ではアメリカのシェアを独占し、技術的にも優位に立っていたのに、モトローラの共通プラットフォームをベースにローエンドで格安とすることでシェアを稼ぎ、ハイエンドで利益を回収するという物量戦略に、生産工程でのカイゼンでは追いつかず、シェアを奪われ、デジタル化では尚更物量戦略が有効となるのに、対応が進まず市場から撤退し、欧州では既に負けてしまっていた規模の差の不利を解消できず、世代交代に時期に生産工程のプラットフォーム化でノキア等の後塵を配し、品質とコストで遅れをとったため起死回生のチャンスを逃し、日本でしか通用しないガラパゴスとなってしまった。今日はここまで

2010年8月21日 (土)

成田龍一「故郷という物語」

41t3wxt57fl 成田龍一「「故郷」という物語」

この程度の単行本を通勤の行き帰りのそれぞれ30分で、3日で読んでしまうのは速いのか。年間百冊読むというと、そんなに速く読めるのかという人がいたが、個人差なのか。もっとも、私自身、速いことよりも、内容が残っていることの方が大事な気がするが。しかし、読書ははっきり言って、不毛な楽しみ、時間の浪費なのである。それが読書の楽しみと思っている。さて、この本、明治以降の近代化の過程の中で、地方から東京に出てきた青年が東京という都心の生活に溶け込んでいく一方で、郷土の共同体の文化から徐々に離れると共に、いうならばノスタルジイとして「郷土」を言語化し、意識化していく過程を実証していく。例えば、県人会のような郷土会の運営や雑誌、石川啄木を代表とした文学で取り上げられた、地方からの上京した青年と故郷との関係性、とくに啄木の場合には、郷里から排除され一課離散の目にあうため、複雑ではあるが、その分郷土からの遊離と理想化され観念化された「故郷」が定型的に提出されている。できれば、これを国家機構が統合の手段として利用していく様を、もっと突っ込んでほしかった。例えば「故郷」という唱歌には、抽象化された故郷の光景がうたわれ、しかも作詞者をあえて不詳とすることで、特定の個人の故郷ではなく抽象化された故郷一般として、この歌が統合において機能したことなど。また、この「故郷」が戦後の経済復興、高度経済成長の過程で、地方の農村共同体自体が崩壊していったことによって、どのように変容していったかも、分析してほしかった。このようにフィクション(装置)としての共同体、例えば、家族、会社、地域社会の中で、我々は生きているのだから、その中で個人が居場所や機能を担うペルソナが、いわばアイデンテティなわけで、人格のフィクションとしての性格まで、突っ込めるのではないか。

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