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2010年8月27日 (金)

渡辺保「渡辺保の歌舞伎劇評」

41vfmiwaw5l 渡辺保「渡辺保の歌舞伎劇評」を少しずつ読んでいる。氏の劇評の2冊目、自身のホームページに随時掲載しているものを収録。新聞等の媒体に載せているものではないので、制約がなく、思ったところを書いているという。この人の劇評は歌舞伎を見ていない私にも面白い。その理由は、文章が論理的に明快なこと。シンプルで、文章の関係が接続詞ではっきりしている。若い人が論理的な文章を習うのには、お手本になる。そして、劇評が個々の劇の良し悪しを言うだけではなく、そこに評者が歌舞伎の可能性や奥深さを随所に顕にしているところ。単に、あれが良かった、悪かったで終わることなく、この評者は何が良いのか、悪いのか、どうして良いのか、悪いのかを説明しようと努力している。当然、そこには、歌舞伎とは何かの根本的な問いかけが、そのたびに為されている。それが文章に現われている。また、素晴らしい舞台に接したとき、評者が役者の個々の立ち居振舞いに意味を発見しているところが凄い。一つの手振りの意味を解した事で、場面の重要性や登場人物の隠れた信条が、新たに明らかになってい来るのは感動的ですらある。古典演劇として、ある意味完成され、限られた演目を繰り返し上演しているにも関わらず、そこに、まだまだ新たな発見の余地がある歌舞伎の奥深さをまざまざと見せ付けてくれる。それはまた、一方で役者の成長でもあり、時代の変遷により捉え方が変化していることにもよるのかもしれない。しかし、そこにある、評者の歌舞伎の可能性に対する確信や、自分よりも年下の若手の役者からの、その新たな歌舞伎の可能性を見出す評者の謙虚さ、いわば歌舞伎への愛から由来しているのだろう。一つのしぐさに対する本の些細な心配りに対する目配りが、作品の見方を変えてしまう現場に立ち会えるような臨場感がある。読者はそこに、歌舞伎の奥深さを感じることができる。比べるに、クラシック音楽の批評の場合は、同じように完成された古典の世界でありながら、批評の多くは良し悪しか、正邪の指摘に終始する。音色の取り方が作品に新たな意味を与えるというような批評は呼んだことがない。つくづく、このような評者を持つことのできる(多分、歌舞伎役者は昔から、大向こうと呼ばれる見巧者を大事にしてきた伝統が、評者のように人を生んだのだろう)歌舞伎の奥深さに感心させられる。通して読むのもいいし、ランダムにページを開いて、気の向いた評をつまみ読むのも楽しい。しかし、本当に楽しいのは、私が歌舞伎の舞台を見る人だったら、自分の見た舞台を印象と評者の劇評とを見比べることだろう。きっと、世界が広がる感じを味わえるだろう。

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