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2010年9月

2010年9月30日 (木)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(11)

昨日、いや今日の続きです。続きじゃ分りにくいという人は(8)を読んでください。

一つひとつは小さい話かもしれませんが、数多くの因果論理が着実に積み重なって戦略ストーリーの一貫性が出来上がっています。ストーリーの一貫性の正体は、「何を」「いつ」「どのように」やるのかということよりも、「なぜ」打ち手が縦横につながるのかという論理にあります。要するに、論理が大切だということです。静止画を動画にするのは論理です。ストーリーの一貫性の正体も論理にあります。論理のないところにストーリーはつくれません。論理というと何やら難しそうですが、パスをつなげる論理は当たり前のことばかりです。普通の知的な能力があれば、誰でも容易に理解できます。ビジネスはしょせん人間が人間に対してやっていることです。「論理が大切」、そんなことは誰もがわかっていることです。にもかかわらず、なぜ多くの企業「戦略」が論理不在の、無味乾燥な静止画の羅列で終わってしまうのでしょうか。一つには、構成要素(個別のSPやOC)が目に見えるのに対して、それをつなぐ論理は目に見えない、ということがあるでしょう。しかしそれ以上に、個別のアクションやプラクティスが「目に見え過ぎる」ようになっていることが大きいと思います。世の中で流通する情報の量は以前と比べて飛躍的に増大しています。新聞や雑誌などのメディアは、他社の動向や成功事例を毎日、洪水のように吐き出しています。コンサルタントに聞けば、彼らはその業界の「ベストプラクティス」を、それこそ手に取るように知悉していますから、いろいろなことを教えてくれるでしょう。しかし、そうしたアプローチは要素のつながりについての論理を覆い隠してしまいます。「ベストプラクティスに学べ!」という思考(?)様式には、そもそも「違い」をつくるはずの戦略を阻害し、同質的な競争へと企業をドライブしていくという面があります。しかし、問題はそれ以上に深刻です。安易なベストプラクティスの導入が戦略ストーリーの基盤となる論理を殺し、その結果として戦略ストーリーの一貫性を破壊しかねないからです。

個別の構成要素を首尾一貫した因果論理で結び付け、競争優位へとまとめ上げる。これが戦略ストーリーの役割です。戦略ストーリーはSPやOCの構成要素と競争優位との間に介在するものとして位置付けられます。「違いを作って、つなげる」という二つの戦略の本質のうち、ストーリーとしての競争戦略は後者に軸足を置いています。戦略はwhathowwhenwherewhyといったさまざまな問いかけに答えなくてはなりません。義妖怪の競争構造をひとまず競争戦略の外部にある変数として扱っていますが、どの業界で競争するかという土俵の選択は、文字通りwhereを問題にしています。いつその業界に参入するかというタイミングの選択も重要な問題ですので、これも入れて考えれば、業界の競争構造はwherewhenに焦点を当てています。SPは「何をするか」「何をしないか」という活動の選択にかかわる打ち手ですから、ここではwhatが主要な問題となります。典型的にはSPは「自社で内製するのか外部から調達するのか」というようなトレードオフの選択ですから、whichに対する答えといってもよいでしょう。一方のOCは自社にユニークな「やり方」から生まれる違いですから、戦略のhowを問題にしています。これに対して、戦略ストーリーではwhyが一義的な問題となります。SPやOCの一つひとつの違いがなぜ相互につながり、全体としてなぜ競争優位と長期利益をもたらすのか。戦略ストーリーとはこうした因果論理の束にほかなりません。

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(10)

昨日、いや一昨日になってしまいましたが、そのつづきです。著者の語り口をご堪能ください。

ストーリーを構想する第一歩としてシュートの軸足を定めなければならないのは、①WTP、②コスト、③ニッチ特化による無競争、の三つのシュートの間にトレードオフの関係があるからです。もちろん①と②を同時に実現できればそれに越したことはないのですが、WTPシュートにつながるパスとコスト低下につながるパスとの間には、あちらが立てばこちらが立たぬの関係があるのが普通です。①および②と③のシュートの間にもトレードオフがあります。「成長を実現しつつ、無競争で利益を出す」というのには無理があります。成長に対するストイックな姿勢が、無競争のニッチを維持する前提条件だからです。

ストーリーとは、二つ以上の構成要素のつながりです。「パスのつながり」こそがストーリーとしての競争戦略の分析単位になります。個別のバスの良し悪しは、それ自体では評価できません。そのパスの有効性は、他のパスとのつながりの文脈でしか決まらないからです。静止画と動画の分かれ目がパスのつながりです。個々のバスは「静止画」にすぎません。パスが縦横につながり、シュートまで持っていけたとき、戦略は静止画から動画のストーリーになります。ストーリーが優れているということは、パスが縦横にきちんとした因果論理でつながっているということを意味しています。戦略ストーリーの評価基準はストーリーの一貫性です。一貫性の次元として、次の三つが考えられます。

・ストーリーの強さ

・ストーリーの太さ

・ストーリーの長さ

今、話を単純にして、XとYという二つの構成要素の間のつながりを考えます。ここでつながりとは、XとYを可能にする(促進する)という因果論理を意味しています。たとえば「量産すればコストが下がる」という因果関係は、規模の経済という論理に基づいています。ストーリーが強いということは、XがYをもたらす可能性の高さ、つまり因果関係の蓋然性が高いということです。「量産すればコストが下がる」という因果関係は、「テレビCMをやればWTPが上がる」という因果関係よりも、一般的にいってより確からしく、したがって、より「強い」ストーリーだといえるでしょう。もちろん本当にそうなるかどうかは、やってみなければわからないのがビジネスの常なのですが、論理的な蓋然性でいえば、全社のほうが強そうです。

優れた戦略の二つ目の条件は、ストーリーの太さです。「太さ」とは、構成要素間のつながりの数の多さを指しています。一石で何鳥にもなるパスがあれば、その分ストーリーは太くなります。

ストーリーの長さとは、時間軸でのストーリーの拡張性なり発展性が高いということを意味しています。反対に、パスの間に強いつながりがあっても、将来に向けた拡張性がなければ、それは「短い話」で終わってしまいます。ここでいう話の長さというのは、ある戦略を説明するときに要する物理的な時間の長さを意味しているのではありません。「くどくど説明しなければいけないような戦略は成功しない」というのはそのとおりです。論理があいまいで、説明にダラダラと時間がかかってしまうという意味での「長い話」が良くないのはいうまでもありません。論理がきちんと突き詰められていれば、話はシンプルになります。その意味での「短い話」はむしろ歓迎です。ここでいう短い話とは、ストーリーを構成する因果論理のステップが少ないということを意味しています.逆に、長い話とは、因果論理が前へ前へとつながっていき、ストーリーに拡張性や発展性があるということです。「それで、どうなるの?」という問に対して、次々と答えが繰り出される、これが話の「長さ」です。パスの間にある種の好循環を生み出す論理が組み込まれているほど、ストーリーは「長く」なります。

そこに一貫したストーリーかあるかどうか、これが優れた戦略の条件だという話をすると、実務家の方々、特に成功した経営者の方々からは決まってある疑問が返ってきます。それはこういう反応で「ストーリーとしての競争戦略というのはあくまでも後知恵だ。後から見ると、あたかもよくできたストーリーが初めからあったように見えるけれども、実際はその場その場の状況に対応してさまざまな打ち手を繰り出していたというのが経営の現実だ。最初からストーリーがあったわけではない」。そのとおりです。ビジネスの場合、脚本もキャスティングも大道具も小道具もすべてが完全に準備されてから幕が上がるわけではありません。ビジネスはやってみなければわからないことが多過ぎます。ごく粗い脚本で、暫定的なキャスティングで、舞台装置の準備もそこそこに、まずはやってみよう…というスタンスで戦略が実行に移されるというのがむしろ普通でしょう。初めからストーリーが出来上がっているわけではありませんし、その必要もありません。しかし、それでも戦略はストーリーだというのが私の見解です。

マブチとサウスウェストにはいくつかの共通点があります。第一に、いずれも秀逸でユニークな戦略ストーリーで成功した企業です。第二に、しかし、いずれも初期の段階から完成されたストーリーを持っていたわけではありませんでした。第三に、戦略ストーリーをつくる大きなきっかけとなった打ち手に、フリーハンドでの合理的な選択の結果というよりも、当時の状況からして「仕方がなかった」「そうせざるをえなかった」という面がありました。「災い転じて福となす」とか「怪我の功名」といってもよいでしょう。最初から完璧なストーリーの全体像を準備万端整えて、それを忠実に実行した結果成功したのでないということは明らかです。私の話を聞いた多くの経営者が、「最初からストーリー」があったわけではない…」と疑念を呈するゆえんです。この種の疑念に対する私の答えは、「半分は正しいけれども、半分は間違っている」というものです。最初からストーリーの全体が細部まで出来上がっていたかというと、確かにそんなものはない。しかし、そうだとしても優れた経営者はごく初期の段階からストーリーの原型をつくっている。そして、個別の打ち手がストーリーにフィットするのか、ストーリーの文脈でどのような意味を持つのかを突き詰めて、新しい打ち手を繰り出したり、これまでの打ち手を修正している。つまり、初めから完成されたストーリーがあったわけではないけれども、個別の構成要素をバラバラに扱わずに、ストーリーとして仕立てていこうという意識と意図が戦略構築のプロセスに一貫して流れています。ストーリーそのものはなくても、戦略の「ストーリー化」という思考様式は初めからあった、というわけです。

こうしたストーリーで成功した企業であっても、ごく初期の段階では、ごく単純なストーリーの原型があるだけです。完成されたストーリーが初めから出来上がっているわけではありません。場合によっては、ストーリーの原型すらなく、ただの思いつきや成り行きでとりあえず利益が出そうなことに手を出してみたいという、「前ストーリー段階」からビジネスが始まることも少なくないでしょう。ビジネスを実行する過程で企業はさまざまな機械や脅威に直面します。そのうちいくつかは、戦略ストーリーの構築や進化によっての重要なインプットなり契機になります。こうした機会や脅威との相互作用を経て、戦略ストーリーは徐々に練り上げられていきます。構築途上の段階では、戦略ストーリーの原型と比べていくつかの新しい要素が取り込まれています。ここで大切なことは、ストーリーを進化させるインプットは周到な事前の計画やそれに基づく合理的な選択の結果として表われるわけでは必ずしもありません。戦略には不確実性がつきものです。偶然に生じたハプニング的な事象も戦略に大きな影響を与えます。企業がなぜそのアクションをとったのか、その時点での直接的な理由を聞いてみると、実は偶然の成り行きだったり、たまたまぶち当たったチャンスだったり、資源の不足を克服するための苦肉の策だったりするのがむしろ普通です。しかし、たとえそうした偶然のチャンスや自然な成り行きや当座の打つ手がストーリー構築の契機となったとしても、そうした個別の要素の持つ可能性や意味をストーリーの文脈で考え、それらを素材を使いながら一連の流れを持ったストーリーに仕立てようという思考様式を一貫して持っていたはずです。そうでなければ、そのときそのときで現われる脅威に場当たり的に「反射」するだけで、いつまで経ってもストーリーは生まれません。また、あるときにストーリーの原型を手に入れたとしても、その後次々に現われては消える機会にやみくもに手を出したり、脅威に直面したときにその場しのぎの打つ手に終始するだけでは、ストーリーは練成できません。遅かれ早かれストーリーの一貫性が破壊され、長期利益は獲得できなくなります。優れた戦略家は、機会や脅威を受けてある特定のアクションをとるときに、それがストーリー全体の文脈でどのような意味を持つのか、それを取り巻く他の構成要素とどのように連動し、競争優位の構築や維持にとってどのようなインパクトを持っているのかを深く考えます。ストーリーという視点がもたらす洞察を基準にして、新しい要素を取り込み、その一方でこれまで手がけていた打ち手を排除する、こうした微調整の繰り返しで戦略ストーリーは徐々に練り上げられていくものです。

2010年9月29日 (水)

あるIR担当者の雑感(4)~アナリスト・プラットフォーム

今日、ジャスダックでアナリスト・プラットフォームの説明会に行ってきました。アナリスト・プラットフォームというのは、ジャスダック証券取引所が大阪証券取引所と合併することを機に、新たに上場会社向けに始めるサービスのひとつです。ジャスダックのような新興市場という中小の企業は東証一部に上場している大企業と違って投資家の知名度が低く、また企業を投資家に紹介するアナリストと呼ばれる人たちの目にも止まりにくいため、ジャスダックで企業に関するレポートをつくりホームページに載せることで、世に広く知らしめようという制度です。

具体的には、ジャスダックと契約したリサーチ会社などのアナリストが上場している会社を取材して、紹介レポートや決算時等に定期的なレポートを書いて、ジャスダックのホームページに載せる。また、レポートを書いてもらった会社も、そのレポートを会社紹介などに活用できるというものです。

説明会の出席者は多かったし、利用する会社は多いのかもしれません。いま、日本の株価は低迷しています。とくにジャスダックのような新興市場の株価の落ち込みは激しいので、なんとか市場が活性化させたいということから、何かやってみようという姿勢は、歓迎すべきことだと思います。とくに、小さい会社ではIRに手間をかける余裕がないので、証券取引所が積極的に仕掛けようというのは、ありがたいです。

しかし、しかしです。ここで作成される上場会社のレポートはジャスダックが契約したリサーチ会社などのアナリストが書くことになります。いままで、証券会社であれ調査会社であれ、そこのアナリストが企業レポートを書いていたのは、基本的にはお客さんである投資家に対して書いていたわけで、レポートを書く対象が明確だったと思います。そして、作成したレポートに対する責任を負っているはずです。だから、企業に対して厳しい意見も言えたと思います。例えば。企業のちょうちん記事を書いていればお客さんである投資家から信用されなくなる、というように。だからこそ、投資家はそれを参考に投資の検討ができたと思います。

ところが、今回のアナリスト・プラットフォームは、上場会社が手数料を支払い(ジャスダックも補助金を出してくれます)ます。つまり、企業の依頼に基づいてレポートを書くことになります。これで、果たして投資家に信頼されるようなレポートをかけるのか、というのが問題と思います。もちろん、アナリスト個人の職業的な良心は尊重しますが、企業が金を出すことで、アナリストの手足を縛ることになってしまわないか、です。そして、第二に問題だと思うのは、第一の点と矛盾するようですが、企業は金は出すが口は出せないという点です。企業の依頼によってアナリストが作成したレポートに企業は口出しすることは、できないそうです。これって、取引の常識から考えて、おかしいと思います。仮に、新聞社が取材にきて記事を書かれて、その内容に不満があっても、公開の抗議はできても、強制的に直させることはできない。しかし、新聞紙にお金を払って広告を出す時には、事前に内容を確認し直すものは直して掲載するわけです。そういうのを、私は常識と思いますが、アナリスト・プラットフォームは、このどちらでもありません。これは、何も企業に都合悪いレポートを書かせたくないということではなくて、レポートの中に事実誤認があっても直せないことや、また、アナリストが手を抜いたレポートを書いても、やり直させることはできないことにもなります。私もIRの業務を担当してきて、アナリストの取材をうけたことも少なくありませんが、彼らは自らの責任でレポートをするため、取材には真剣勝負のようなところがありました。彼らも、投資家に対して有意義な情報を出していかなければいけないわけです。それで糧を得ているわけですから。しかし、アナリスト・プラットフォームの取材には、はたしてそういう緊張感があって、レポートが書かれるのか、今のところは分かりません。

新たなジャスダックは10月中旬からスタートになります。このアナリスト・プラットフォームも、それと同時にスタートするそうです。まず、アナリストが企業を取材してレポートを作成するのに、しばらく時間がかかるというので、年明けくらいからボツボツ掲載が始まるということなので、まずは、それを見てから、参加するかどうか決めても遅くないと、個人的には思いました。

2010年9月28日 (火)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(9)

では、核心部での著者の語り口を堪能してください。手っ取り早いのがいいという人は、前日の(8)に私の読みがあります。

実際にビジネスの文脈で、ストーリーとしての競争戦略を組み立てるというのは、どういうことでしょうか。ストーリーを組み立てるときに、柱となるのは次の五つです。

・競争優位(Competitive Advantage)ストーリーの「結」…利益創出の最終的な論理

・コンセプト(Concept)ストーリーの「起」…本質的な顧客価値の定義

・構成要素(Components)ストーリーの「承」…競合他社との「違い」

SP(戦略的ポジション)もしくはOC(組織能力)

・クリティカル・コア(Critical Core)ストーリーの「転」…独自性と一貫性の源泉となる中核的な構成要素

・一貫性(Consistency)ストーリーの評価基準…構成要素をつなぐ因果論理

それぞれCから始まるので、これを「戦略ストーリーの5C」と呼ぶことにします。ストーリーとしての競争戦略は、ここまでお話してきたように流れを持った動画です。しかし、いきなり複雑な動画を始めから終わりまでその細部までいちどきに構想できるというものでもありません。思考の順番、つまり「終わりから考える」ことが大切です。どんな戦略ストーリーでも、エンディングは決まっています。それは「持続的な利益創出」というハッピーエンドです。エンディングが決まっているので、終わりから逆回しに考えたほうが、一貫したストーリーを組み立てやすいのです。問題になるのはエンディングの直前の場面、つまり「利益が創出される最終的な論理」です。これはサッカーでいえば「シュート」、お話の起承転結でいえば「結」に当たります。ストーリーを構想する人は、要するになぜ点が入るのか、まずシュートのイメージを固めなくてはなりません。利益創出の最終論理というと、何やら大げさに聞こえるのですが、話はいたってシンプルですのでご安心ください。

WTP─C=P

これが最も根本的な利益(P)の定義です。この式にあるWTPというのは、Willingness To Payすなわち顧客が支払いたいと思う水準を意味しています。顧客が何らかの価値を認めるから収入が発生するわけで、その大きさはWTPによって決まります。当然WTPを獲得するためには何らかのコスト(C)がかかります。煎じ詰めれば、利益は「WTPからそれにかかるコストを引いたもの」です。このように利益を定義すると、利益創出の最終的な理屈は、競合よりも顧客が価値を認める製品やサービスを提供できるか、あるいは競合よりも低いコストで提供できるかのいずれかとなります。つまり、ゴール直前のシュートには、大別して「WTPシュート」もしくは「コストシュート」の二つがあるということです。ありうるシュートの一つは、コストに軸足を置いたものです。他社と比べてWTPが高いわけではありません。せいぜい競争価格でしか売れないのですが、何らかの理由でそれにかかるコストを競合他社より小さくすれば、利益が出る、という考え方です。一方、コストの点では他社と同等かそれ以上にかかってしまうけれども、何らかの理由で顧客がより多く(もしくは頻繁に)支払いたくなる状態をつくる、というのがWTPに軸足を置くシュートです。厳密にいえば、「低価格戦略」という言葉はありません。それは「高コスト戦略」という言葉が非常に奇妙に聞こえるのと同じ理由です。戦略ストーリーのゴールは長期利益にありますので、シュートは「何故儲かるのか」に対する答えになっていなければなりません。「低価格」と「高コスト」はいずれもWTPとコストのギャップを圧迫し、利益を小さくする方向に働きます。これでは儲からない理屈になってしまいます。シュートになりうるのは、「低価格」ではなく、あくまでも「低コスト」のほうです。低コストの裏づけがあれば、状況によっては攻撃的な低価格を仕掛けることもできるでしょう。しかし、低コストであったとしても必ずしも低価格にするンスを短期間で高めるとか、規模の経済や経験効果をねらって一気に生産量を増やすというような意図で、低コストの達成に専攻して「戦略的」に低価格に踏み切ることはもちろんありえます。しかし、その場合は先行的な低価格という打ち手が他の打ち手とどのように連動して最終的に利益創出のシュートにつながるのか、そのストーリーがきちんと描かれていることが条件になります。基本的には競争優位の最終的な中身はこのどちらかなのですが、もう一つ、「そもそも競争があるから利益をあげにくいのであって、競争がなければそれに越したことはない」という第三のシュートがあります。相手チームがいて、そこに競争があるからなかなか点が入らない、だとしたら、そもそも競争がなければ、相手に邪魔されずにPKをやるようなものだから、ほぼ確実に点が入るのではないか、というのが第三のシュートの基本的な発想です。これは要するに「独占」による無競争状態をつくるということです。ただし、自然に市場全体を独占することは普通はできません。どうかするというと、業界全体を相手にせずに、競争の土俵を自ら特定のセグメントや領域に狭く絞り、その範囲に限定して事業を行うことによって、事実上競争がないような状態をつくる、すなわちニッチに特化するというのが第三のシュートの中身になります。

2010年9月27日 (月)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(8)

昨日まで三回も引用を続けましたが、それほど著者の語り口には惹かれるということです。

第3章 静止画から動画へ

いよいよ、本編です。ここからはこの著作を存分にお楽しみください、といっても、ここでは面白いところは出し惜しみします。これは著作に触れて堪能して下さい。例えば、スターバックス・コーヒーとかアマゾンとか実際の企業が、実例となって戦略ストーリーの各要素が説明されます。その語り口もあわせて、各企業のストーリーはワクワクするほど面白い。マブチモーターやベネッセ、サウスウェスト航空というような実例に即して、ストーリーの構成について説明したり、コンセプトの違いを自動車メーカーの戦略の違いから説得力ある説明をしたりと、楽しみながら読み進めることができます。

ストーリーは、業界の競争構造、ポジショニング、組織能力に続く第4の利益の源泉となると、著者は言います。以前、戦略をサッカーになぞらえて説明していましたが、ストーリーの場合は、同じサッカーをするにしても他社と違うパス回しの流れを確立すれば、競争優位を獲得できるということになります。ここで注目すべきは、スーパースターがいるというような個別の構成要素よりもパスのつながりの方です。これが、ここでの競争優位の正体なのです。

このようなストーリーを実際にビジネスの文脈で組み立てるときに柱となるものとして、次の5つをあげ、これらを準じ説明していきます。ここが本書の核心部分といってもいいと思います。ただし、あくまでもストーリーは動画としての流れであることが前提です。

・競争優位(Competitive Advantage)ストーリーの「結」…利益創出の最終的な論理

・コンセプト(Concept)ストーリーの「起」…本質的な顧客価値の定義

・構成要素(Components)ストーリーの「承」…競合他社との「違い」

SP(戦略的ポジション)もしくはOC(組織能力)

・クリティカル・コア(Critical Core)ストーリーの「転」…独自性と一貫性の源泉となる中核的な構成要素

・一貫性(Consistency)ストーリーの評価基準…構成要素をつなぐ因果論理

この要素が時系列順になっていないことに注意して下さい。これはストーリーを組み立てるときの順番となります。ということは終わりから組み立てるわけです。しかも、終わりは決まっています。前章で見た戦略の目的です。つまり「持続的な利益の創出」というハッピーエンドです。サッカーで言えばゴールです。「結」はゴールを決めるシュートで、いかにシュートにつなげていくかが、その課題です。

著者は利益をあげるためには、コストを下げるという方向と顧客が支払いたいという水準が高まるという二つの方向があるといいます。サッカーの例でいえば、シュートの軸足をどこに置くかだ、といいます。コストダウンに進めるか、高付加価値で勝負するか、ニッチに逃げるか。この違いは、シュートへの持っていき方の違い、つまり、シュートに向けたパスの違いです。

ここでパスの流れの重要さに辿り着きました。ひとつひとつのパスの有効性、他のパスにうまくつながることですから、一つを取り出して良し悪しを論ずることはできません。他のパスとのつながりの文脈で捉えるわけです。これを著者は因果論理と呼びます。この因果論理が通っているためには、次の三つの次元で考える必要があると言います。

・ストーリーの強さ

・ストーリーの太さ

・ストーリーの長さ

実務面からいうと、このような戦略は当初から完璧に出来上がっていて、このとおりに戦略を実行するということはありえません。実際には、シンプルな原型のようなものを経営者がイメージしていて、実際の場面で個々の打ち手をこの原型のイメージとすり合わせているうちに、ストーリーが出来上がってきたといいます。おそらく、それはその経営者のコアな部分から発したもの、その人の経営の原点のようなものではないでしょうか。

その点で、「結」の次に考えるべきものとして、コンセプト、つまり、「何をするのか」で、自身を見つめることです。

この後、明日から、またまた引用に、お付き合いください。

2010年9月26日 (日)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(7)

昨日の続きです。これで第二章は終わりです。長いという方は、(4)を手っ取り早く、お読みください。

ここまで、競争戦略の考え方を、ポジショニング(SP)と組織能力(OC)との二つの視点からお話してきました。いずれも、要するに違いをつくるとう話なのですが、「違いには違いがある」というのが、ここで言いたかったことです。SPの戦略は、競争優位の源泉を企業を取り巻く外的なコンテクストに求めます。つまり、広い競争空間のどこかにうまく他社との違いをつくることができる「位置取り」があるはずで、それをはっきりさせようという発想です。つまり、「アウトサイドイン」(外から内へ)の発想です。一方のOCは、外的なコンテクストよりも、その企業の内部にあるコンテクストを重視します。自分たちの持っている武器をよく理解した上で、それを簡単にまねができないOCに練り上げていけは、それが他社との違いになって、利益が出るだろうという考え方です。これは「インサイドアウト」(内から外へ)の発想です。SPの戦略の中身は、何をやって何をやらないかという意思決定です。すでにお話したように、この考え方に立てば、OE(他社よりもベター)は政略になりません。「何をやるか」よりも、「何をやらないか」の方に戦略的な意思決定の本質があります。なぜかというと、「何をやらないか」の選択がトレードオフをつくるからです。トレードオフをつくれば、「あちら立てればこちらが立たぬ」になるので、他社に対する違いを持続することができます。これに対して、OCはむしろSPの持続性に懐疑的な立場をとります。いくらトレードオフをつくっても、そのSPが成功したら、他社も何とかして同じ活動を選択してくるのではないか、という懸念です。OCは違いとして、前に使った言葉で言えば、OEを重視しているといえます。SPかOEかという分類ではOEであっても、そのOEが他社にまねできないものであればそれはOCであり、利益の源泉となりうる、という考え方です。時間をかけてでも、容易にはまねできないルーティンを構築していくことが戦略の焦点となります。このようにSPとOCを対比していくと、それぞれの考え方の根底にある基本思想の違いが浮かび上がってきます。SPの戦略の本質を一言でいえば、「いかに競争圧力を回避するか」という思想です。放っておくと競争圧力をもろにかぶってしまいます。だからこそ独自の位置取りが必要になります。うまい位置取りをすれば、正面からの殴り合いをせずに済みます。この意味でSPの戦略論は「競争の戦略」というよりは、本質的には「無競争の戦略」なのです。OCは競争を回避するのではなく、むしろ「男には戦わなければいけないときがある」という構えで、競争圧力を受け入れ、それに対抗しようとする戦略です。殴り合いはしょせん避けられない、だから受けて立とう、その分他社がまねできにいような強力なパンチに磨きをかけていこう、という話です。より「競争的」な競争戦略といってもいいでしょう。

SPとOCの違いは、時間軸で捉えることもできます。SPは活動の選択についての意思決定ですが、それは経営資源と全く無関係に行われるわけではありません。当然のことながら、何らかの資源に対する投資や資源配分がそれに続くはずです。ですから、SPの戦略も経営資源を無視しているわけではないのです。しかし、SPの考え方には時間軸での広がりがありません。活動の選択についての意思決定とは、すなわち資源配分についての決定であり、それは即時に何らかの動員を引き起こします。これがSPの戦略論の背後にある考え方です。言い換えれば、お金があれば、意思決定は自動的に何らかの経営資源の獲得なり配分をもたらすという考え方です。これに対してOCは、意思決定の時点ですぐ手に入るような経営資源は、競争相手に対して本当に効果があるパンチにはなりえない、だからじっくりと時間をかけても独自の組織ルーティンに落とし込み、それを練り上げていかなければならない、という考え方です。このようにOCの考え方には時間的な広がりがあります。これに対してSPの戦略論はどちらかというとスタティック(静的)な性格を持っているといえるでしょう。このように考えると、SPとOCでは戦略形成におけるマネジメントの役割についても違った前提を持っていることが分かります。SPの戦略論では、マネジメントは意思決定者です。何をやり、何をやらないか、活動の選択に責任を持っています。「ビッグ・ディシジョンを下すCEO」というイメージです。マネジメントの意思決定は、戦略のありようを直接的に左右します。この意味で、マネジメントは戦略なり競争優位に直接的に影響力を行使できる存在です。一方のOCの戦略論では、マネジメントの競争優位に対する影響力はより間接的なものになります。OC構築プロセスは長い時間を必要とするのが普通です。ルーティンとしてのOCには創発的な面が多分にあります。裏を返せば、マネジメントが意思決定を通じて直接に操作できないからこそ、成果と因果関係が不明確になり、経路依存的になり、つまりは、まねしにくくなるのだというのがOCの論理です。

SPとOCは対照的な戦略思考なのですが、この違いはあくまでも「思考としての違い」ですので、現実的には明確な線引きをすることはできません。つまり、ある会社の戦略を構成している要素を取り出して、これはSP、こっちはOC、などと簡単に区別することはできません。実際には、その要素が、SPとOCのどちらの論理で競争優位をもたらしているのか、相対的にしか判断できません。ですから、現実の戦略はSPとOCを両極とする次元のどこかに位置するわけです。この意味で、SPとOCの間には連続性があります。

現実の企業戦略は、SP志向かOC志向かのどちらかに偏る傾向にあります。SPとOCは、その発想が対照的なだけに、どちらかが優勢になると一方劣勢になるという綱引きのような関係にあります。つまり、SPとOCの間にはテンション(対立関係)があるのが実際のところです。SPの戦略はある種のトレードオフを前提として、ベクトルの方向の違いをつくろうとします。これは本質的には「無理をしない」という発想で、正面からの殴り合いを回避し、無競争の状態になるべく近づこうという考え方です。これに対してOCは、時間をかけてでも独自能力を構築し、これをテコに既存のトレードオフを突破しようとします。つまり、「無理をすれば道理(トレードオフ)が引っ込む」という発想です。ですから、どちらかの論理で競争優位を追求することが、他方の論理を弱めることになります。このことはトップマネジメントの経営スタイルの違いを考えるとわかりやすいでしょう。SP志向の経営者は、自らの大胆ではっきりした戦略的選択で競争優位を獲得したいと考えます。白黒をはっきりさせるエッジが利いたタイプ、プロのディシジョン・メーカーといったイメージです。こうした経営者はどちらかというとせっかちで、自分の戦略的選択についての意思決定が、なるべく早く企業の業績に反映されるのを好みます。逆にいえば、それが競争優位にどのようにつながるのか、はっきりした因果関係がその時点ではわからないようなアクションは積極的にはとらないでしょう。これと反対に、OC志向の経営者は「じっくりと体を鍛えておけば、それが後々になって効いてくる」という体育会系の考え方の持ち主です。筋力トレーニングと同じで、強めの負荷をかけてトレーニングをしていたほうが、だんだんとそれまでは持ち上がらなかったような重たいものでも持ち上げられるようになります。「無理をしていれば、そのうちに無理が無理でなくなる」というわけで、積極的に無理を受け入れるという発想です。このような体育会系の経営者にとっては、意思決定によってトレードオフをはっきりさせるということは、その意思決定の時点で将来のOCを鍛える可能性を殺してしまうことになりかねません。資源に限りがあるからこそ、「何をやらないのか」をはっきりさせなければいけないというのがSPの発想なのですが、「(今はできなくても)鍛えているうちにできるようになる」というのがOC志向の経営者です。こういう人であれば「何をやらないか」を事前にはっきりさせようとは思わないでしょう。

Klaus Schulze 「Timewind」

957 クラウス・シュルツというシンセサイザー奏者。間違ってゲンダイ音楽の音楽家にもカテゴライズされることもあり、70年代に流行ったドイツのプログレッシブ・ロック・グループ、タンジェリン・ドリームの元メンバーといっても、よほどのマニアではないと分らないでしょう。

クラシック音楽が好きな人ならば、あえて言えばシェーンベルクの「浄夜」の弦楽合奏版やワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」のようなオーケストラ曲のような響きのイメージに似ていると言えなくもないです。ただし、シンセサイザーなので、オーケストラとは響きの質が違います。

風鳴りを模した音で始まりますが、基本的には持続音、あるいはロックに特徴的なリフと呼ばれる短い節で何重にも、繰り返し重ねられ、表れあるいは消えるということの繰り返しです。持続音や節ともいえないほどの短いリフレインが点々と出ては消え、と積み重ねられるので、メロディというようなものがないです。

しかし、沢山の要素が重ねられるため、響きとしては複雑で分厚いものとなり、これが延々と続きながら(多くが30分近い長さです。)、分厚さがだんだんの募っていくことに伴って、音量がじわじわと大きくなっていきます。それはあたかも響きの場がひろがり、その響きの世界に囲まれ、中に惹きいれられるような感覚にとらわれます。ここで、聴き手が感じるのはクラシック音楽の後期ロマン派のような超ロマンチックな響きの世界です。

2010年9月25日 (土)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(6)

昨日の続きです。長いという方は、一昨日の(4)を手っ取り早く、お読みください。

戦略とは何でしょうか。前の章でも簡単に触れたように、競争戦略の第一の本質は「他社との違いをつくること」です。競争の中で業界平均水準以上の利益をあげることができるとしたら、それは競争他社との何らかの「違い」があるからです。競争戦略は個々の企業の間にある差異にこだわります。経済学が想定する完全競争になってしまえば利益は出ない。たとすれば、利益を出すためには、経済学でいう完全競争の前提を壊せばいいわけです。それは「みんな同じ」という前提です。完全競争の世界では、個々のプレイヤーには「顔」がありません。しかし、プレイヤーの間に違いがあれば、完全競争にならないので、利益を生み出すチャンスが拓けます。これが競争戦略の根本にある考え方です。

ここで強調したいのは、他社との違いを考えるときに、二つの異なったタイプの違いがあるということです。ここで注目する切り口は、「程度の違い」と「種類の違い」という分類です。程度の違いというのは、その違いを指し示す尺度なり物差しがあるというタイプの違いです。種類の違いには、それを指し示す物差しがありません。すでにお話したように、「違いをつくる」ということが競争戦略の本質なのですが、そこから先は「違いの中身」や「違いのつくり方」について、二つの異なるパラダイム(基本的なものの見方)があります。結論を先取りすれば、この二種類の違いのうち、「種類の違い」を重視する考え方を「ポジショニング」といいます。一方は、どちらかというと「程度の違い」に競争優位の源泉を求める考え方で、ここのカギとなるのが「組織能力」という概念です。

ポジショニングとは「位置取り」のことです。SPの戦略では、戦略とは企業を取り巻く競争環境の中で「他社と違うところに自社を位置付けること」です。もっと平たくいえば、「他社と違ったことをする」、これがSPの戦略論の考える競争優位の源泉です。なぜ、ポジショニングの戦略論はSPの違いを重視するのでしょうか。少なくとも三つの理由があります。第一に、OE(程度の違い)は賞味期間が短いということです。第二に、SPがはっきりしていないと、企業はすべての要素をベターにしようと努力の方向を拡散してしまい、その結果、報われないことにお金を使ってしまうという問題です。第三にあるOEの物差しでの上で右に行くのがベターなのか、それとも左に行くのがベターなのか、SPがはっきりしていなければそもそもこのこと自体がわからないという問題があります。

SPの戦略とは活動の選択、つまり、「何をやり、何をやらないか」を決めるということです。明確なポジショニングによる違いを構築するためには、「何をやるか」よりも、「何をやらないか」を決めることがずっと大切です。なぜかという、SPの戦略論を支えているのは「トレードオフ」、つまり「あちら立てばこちらが立たぬ」という論理だからです。標準化とカスタマイゼーションを同時に推し進めることはできません。投入できる資源には限りがあるので、同時にすべてのことをやるのは不可能です。資源が分散し、利益が相反します。裏を返せば、「何をやらないか」をはっきりさせれば、他社との違いを持続させることができるという論理です。このようにSPとは、競争上必要となるトレードオフを行うことに他なりません。逆にいえば、トレードオフが存在しないのであれば、何も選択する必要はなくなり、ポジショニングも必要なくなります。その場合にはどんなによいアイディアでも、すぐさま競争相手に模倣されてしまうでしょう。だからこそ、「何をやらないか」という選択が大切になるのです。ポジショニングの戦略論の根底には、このシンプルな論理があります。

ここまで、SPの考え方を説明してきました。SPが「他社と違ったことをする」のに対して、OCは「他社と違ったものを持つ」という考え方です。SPの戦略論が企業を取り巻く外的な要因(その最たるものが業界の競争構造)を重視するのに対して、OCの戦略論は企業の内的な要因に競争優位の源泉を求めるという考え方です。つまり、「競争に勝つためには独自の強みを持ちましょう」という考え方です。こういってしまえば当たり前のように聞こえるのですが、大切なのは、ここでいう「独自の強み」とは何なのかということです。OCの戦略論の起源は、経営資源という観点からその企業に固有の強みや弱みを考える資源ベースの企業観という理論にあります。経営資源とは、企業に蓄積・保有されているヒト、モノ、カネ、情報、知識といった企業活動に必要な要素の総称です。しかし、すべての経営資源がOCとなるわけではありません。さまざまな経営資源の中で、「組織特殊性」の条件を満たすものを、一般の経営資源と区別してOCといいます。組織特殊性とは、平たくいえば「他者が簡単にはまねできず(まねしようと思っても大きなコストがかかる)、市場でも容易には買えない」ということです。SPがトレードオフを強調するのに対して、OCのカギは「模倣の難しさ」にあります。今ここで、二つの企業の同じ製品を、同じ原材料と生産プロセスを使って、同じ顧客に、同じ流通チャンネルで販売しているとします。この場合、企業間に違いがないので、両社は価格競争に陥り、十分な利益をあげられません。しかしあるとき一方の企業が、生産効率を飛躍的に高めるような生産システムの開発に成功したとします。ここで残りの一方の企業がとりうる選択肢には二つあります。一つは現状のやり方をそのまま維持するという道です。この場合、その企業の利益水準はますます悪化するでしょう。もう一つの道は、競争相手が開発した生産システムがなぜ効率を改善したかを理解し、それをまねするという選択肢です。もしその生産システムがあまりコストをかけずに簡単に模倣できるものであれば、競争は元の状態に戻ります。ここで問題となるのは、そのような経営資源が他の企業にとって模倣可能なものであるかどうかです。もしその経営資源が短い期間に、低コストで他の企業に移転・模倣されてしまうものであれば、せっかくの競争優位もいずれは消滅してしまいます。こう考えると、お金があるという資金的資源そのものはOCとはいえないことがわかります。お金は最も移転可能性が高い経営資源だからです。資本市場や金融市場を通じて調達することができ、企業間での取引も容易です。他社がそう簡単にまねできない経営資源とは何でしょうか。組織に定着している「ルーティン」だというのが結論です。ルーティンとは、あっさりいえば「物事のやり方」です。さまざまな日常業務の背景にある、その会社に固有の「やり方」がOCの正体であることが多いのです。なぜ、このようなルーティンとしてのOCは模倣が難しいのでしょうか。相互に関連し合った三つの理由があります。第一の理由は、暗黙性です。「因果関係の不明確さ」といってもよいでしょう。あるルーティンがどのように作用して、それがなぜ高い経営成果をもたらすのかという因果関係は、SPと比べてはるかに不明確です。セブン─イレブンの発注ルーティンが典型的にそうであるように、OCの存在がごく日常的な「仕事の進め方」に埋め込まれているために、その実態は外部からは見えにくいのが普通です。POSやグラフィック・オーダー・ターミナルといった発注業務で使われているITはまねできても、得られる情報のどこに注目し、どのように使いこなすかという本質的なレベルまではなかなかまねできません。第二の理由は、経路依存性です。組織ルーティンは企業の内部で長い時間をかけて、紆余曲折を経て形成されます。ですから、OCのあり方は、その企業のそれまでのビジネスの経験や経路と切り離しては考えられません。これを経路依存性といいます。結果的に出来上がったルーティンを費用面的に模倣し、導入することはできるかもしれません。しかし、そのルーティンが経路依存的であった場合、そこから全く同じ効果を引き出すためには、それが出来上がってきた歴史的なプロセスをもう一度たどらなければなりません。これは非常に困難です。第三の理由は、OCそのものが時間とともに進化するということです。

2010年9月24日 (金)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(5)

それでは、第二章の語り口を堪能してください。長いのが嫌だという人は、前日の私はこう読んだという要約に回ってください。

まずは、競争戦略の対象範囲です。戦略には異なる二つのレベルがあります。一つは競争戦略、もう一つは全社戦略です。ここでのポイントし両者を区別して考えると言うことです。競争戦略とは、特定の業界、つまり競争の土壌が決まっていて、ある企業の特定の事業がその競争の土俵で他社とどのように向き合うのかにかかわる戦略です。ですから、競争戦略は事業戦略ともいいます。全社戦略と競争戦略は、もちん相互に関係していますが、大きく性格が異なります。

競争戦略の二つの目の前提は勝ち負けの基準です。競争というからには勝ち負けがあります。どの業界を取り上げてみても、そこには強い企業と弱い企業が混在しています。なぜ、強い企業は強く、弱い企業は弱いのでしょうか。競争戦略論という分野は、この問に対して納得いく説明、しかも場当たり的な説明ではなくて、統一的な視点に基づいた説明を与えることを目的としています。この会社は強いとか、あの会社は弱いとか、イヤな言葉ですが「勝ち組」とか「負け組」とか、ふだん私たちはそういう言葉を自然に使っています。ところで、われわれは何を基準にそういっているのでしょうか。どういう状態が「勝ち組」であり「成功」なのでしょうか。つまるところ、企業経営は何を最大化するべきなのかという問題です。一見すると当たり前のように見えますが、改めて考えてみると、なかなかに込み入った、そのために誤った理解を招き易い問題です。企業がめざすべきゴールとは、本当のところ何なのでしょうか。勝ち負けを判定する基準として大切そうなものをとりあえず七つはせかり並べてみました。

     利益

     シェア

     成長

     顧客満足

     従業員満足

     社会貢献

     株価(企業価値)

競争戦略の考え方では、①の利益をもっとも重視します。もう少し詳しく言うと、「長期にわたって持続可能な利益」です。戦略論ではSSPといったりします。長期とは具体的に何年くらいかと聞かれると困ってしまうのですが、少なくとも四半期の単位の瞬間風速的な利益ではなく、五年、十年と持続可能な利益を追求すると言うのがまっとうなゴールの置き方です。

企業が一義的に追求するべきゴールが利益だとすれば、次におさえておきたいのは、利益はどこから生まれるのかという「利益の源泉」についての理解です。戦略論の考え方からすると、企業が生み出す利益には、いくつかの源泉があります。

第一の利益の源泉が、「業界の競争構造」です。世の中にはそもそも利益を出しやすい業界と、利益を出しにくい業界がある。業界の利益ポテンシャルに影響を与える要因は何か。これが業界の競争構造という問題です。もし皆さんがこれからフリーハンドでゼロから事業を始めると言う立場にあれば、業界の競争構造を理解することは、とりわけ重要な意味を持っています.利益が出やすい業界を注意深く選び、利益が出にくいような構造にある業界への参入を避ける。この戦略的選択がとても大切になります。

競争戦略論の有名な枠組みの一つに、マイケル・ポーターさんが確立した「ファイブフォース」があります。ファイブフォースについては聞いたことがある方も少なくないと思います。これはある業界の競争構造が儲かりやすいようになっているかどうかを分析し、理解するためのフレームワークです。ボーターさんご自身の本はもちろん、多くの競争戦略の教科書に必ず出てくる話なので、ここでは内容の詳細には立ち入らず、その基本的な考え方だけを押えておきたいと思います。このフレームワークの前提はシンプルです。どんな業界でも、その業界の利益を奪おうとする圧力がかかっています。これらの圧力が大きければその業界の潜在的な利益機会は小さくなり、逆に圧力がそれほどなければ潜在的な利益機会が大きくなります。圧力には次の五つの種類があります。その第一の圧力が、「業界内部の対抗度」です。対抗度というのは聞き慣れない言葉ですが、その業界やすでに参入している既存企業の間の競争の激しさを意味しています。対抗度はさまざまな要因によって変わってきますが、たとえば、競争企業の数を考えてみましょう。100社がひしめき合っているような業界よりも、3社だけしか参入していない業界のほうが利益を出しやすいのが普通です。もし独占であれば対抗度はゼロになります。市場の成長性も対抗度を左右します。急速に成長している業界では、市場全体が毎年大きくなっていくものですから、新たに開拓される更地をどの企業で獲得するかという競争になります。しかし、成長が止まってしまった業界では、どこかの企業が成長すると言うことは、どこかが売上やシェアを減らすと言うことになります。「業界内部の対抗度」が、すでに参入している企業間で現実のものとなっている競争に注目しているのに対して、第二の圧力である「新規参入の脅威」は潜在的な競合関係を問題にしています。今その業界に参入している企業が平均的に見て高い利益水準を達成していれば、その業界に参入しようと考える企業もまた多いでしょう。しかし、参入するにはコストがかかります。このコストのことを参入障壁といいます。だれでも簡単に入っていけるような業界であれば、参入を阻止するために価格を低く設定する、といったことが必要になります。結果としてその業界の利益機械は小さくなってしまいます。参入障壁が高い業界の例として、写真フィルム業界があります。写真フィルムの製造は大変な投資を必要としますし、販売チャンネルを構築していくのも気の遠くなるような努力を要します。写真フィルムメーカーはかなりの利益を長年にわたってあげ続けていました。それでもなかなか参入業者が現われなかったのは、それだけ参入障壁が高いからです。その一方で、現在の写真フィルム業界は、第三の圧力、「代替品の脅威」にさらされています。デジタルカメラの急速な台頭で、デジタルメディアとプリンタがあればフィルムを買わなくても済んでしまいます。このように、代替品とは「買い手にとって同じ機能やニーズを満たし、しかもそれを手に入れれば、もともとあった製品がひつようなくなってしまうような製品」を意味しています。第四と第五の圧力、「供給業者の競争力」と「買い手の交渉力」は、製品サービスの利益における競合関係に注目しています。業界と供給業者、買い手はいつも利益の綱引きをしているという考え方です。どんな業界でも投入資源(材料や生産機械や従業員や部品など)の供給業者を必要とします。どちらがパワーを持つのかを意味しています。供給業者の交渉力が強ければ、それは業界にとって脅威になります。業界の利益が供給業者のほうに流れてしまうからです。交渉力とは、利益の綱引きにおける力の強さにほかなりません。

以上で説明したように、ファイブフォースは五つの側面からその業界が直面している脅威の大きさを分析し、業界の利益機会を検討するためのフレームワークです。この分析からは大きく分けて次の二つことがわかるでしょう。一つは、いうまでもなく、競争構造の分析によって町の住みやすさを知ることができるということ。繰り返し強調しますが、利益の第一の源泉は業界の競争構造です。幸いにして、皆さんの業界がファイブスターであれば、自然体で一所懸命やっていればまずまずの利益が期待できるでしょう。もう一つは、戦略の必要性です。実は、第二の利益の源泉が「戦略」なのです。そもそもハワイに住んでいたら、極端な言い方ですが、戦略は必要ありません。自然体で暮らしていればよい。しかしすべての企業が初めから住みやすい国に住んでいるわけではありません。多くの企業は、北極とまではいかなくても、星が一個か二個しかしかない業界での競争を強いられています。業界の競争構造の冒頭で、私はわざと「もし皆さんがこれからフリーハンドでゼロから事業を始めるという立場にあれば」という条件を設定しました。しかし現実には、全く白紙状態から起業しようとするような人を別にして、フリーハンドで業界の選択をできる立場にある人はあまりいません。特定の業界にすでに住んでいるという人のほうがずっと多いでしょう。その業界の外から利益ポテンシャルを見極めようとするアナリストやコンサルタントや潜在的な新規参入者といったアウトサイダーにとっては、ファイブスターはとても役に立つ考え方ですが、競争の当事者である業界のインサイダーにとっては、「今さらそんなこといわれても困るよ…」という面があるのです。業界の競争構造は、かなりの程度まで個別企業の努力を超えた環境要因ですから、いきなり業界全体をファイブスターに持っていこうとしても無理があります。つまり、ほとんどの企業にとって、競争のフォース(圧力)は多かれ少なかれ受け入れなければならない問題なのです。そこで、第二の利益の源泉である「戦略」が必要になるわけです。たとえ現時点でハワイのようなファイブスターの業界に住んでいる企業であっても、中長期的な観点に立てば、戦略は無視できません。なぜかというと、ほとんどの業界において、星の数は時間と共に徐々に減っていくのが普通で、増えることはあまりないからです。これには二つ理由があります。その一つはまたしても競争です。もしある業界がハワイであれば、そこは明らかに住みやすいのですから、多くの企業がぜひとも引っ越したいと考えるでしょう。いくらある時点での参入障壁が高くても、なんとかしてそれを乗り越えるか、かいくぐるかして、その業界で暮らしたいものだと考えるはずです。多くの企業にとって魅力的な業界であれば、時間とともに立て込んできて、だんだん住みにくくなってくるということが容易に推測できるでしょう。もう一つは、マクロレベルの競争環境の変化です。グローバリゼーションや技術革新、規制緩和といった大きなトレンドは、ほとんどすべてが競争の圧力を強め、以前は光り輝いていた星を一つまた一つ消していく方向に作用します。つまり、マクロで見れば、やっかいなことに世の中は必ずといっていいほど利益が出にくいような方向へと進んでいくのです。

2010年9月23日 (木)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(4)

第2章 競争戦略の基本戦略

ここまでが、準備篇で競争戦略というものの考え方が立脚している基本論理についての説明が行われます。ここでの論点は①競争戦略の対象範囲、②競争戦略の目的、③利益の源泉の三点です。

①競争戦略の対象範囲

 戦略には競争戦略と全社戦略の二つのレベルがあり、ここでは前者の競争戦略を対象とします。

②競争戦略の目的

 これは、競争の結果として何を持って成功した、つまり、競争に勝ったとするかの基準と重なります。それを目的に競争をするわけですから。これに関しては、色々な議論はありますが「長期にわたって持続可能な利益」を目指すべきゴールとします。これがここで議論する競争戦略の目的です。

③利益の源泉

 戦略論の立場から、企業の利益はどこから生まれるかという利益の源泉について、代表的な二つを説明しています。その第一が業界の競争構造で、企業が属する業界自体が利益を出しやすい業界かそうでないかをマイケル・ポーターのファイブ・フォースのような基準を用いて説明しています。そして、第二が「戦略」です。企業が属している業界がすべて利益をあげやすは限りません。そこで厳し業界にぁても、いかに利益をあげていくかという戦略をたてて事業を進めていくことになるわけです。

では、ここで「戦略」とは何かという、議論に進んでいきます。競争戦略の第一の本質は「他社との違いをつくること」だと著者はいいます。みんなが同じだったら競争にはならないですね。

ここで、さらに著者は他社との違いを考えるときに、代表的な二つのタイプがあることを説明します。これは、ある企業が戦略として他社との違いを作ろうとする時に、どのような点で違っていくかという切り口のことで、これからストーリーとしての戦略を考えていくときにも、戦略のタイプ分けをする指標にもなります。その二つというのがSPとOCです。この違いは、企業の体質や経営者の志向性、企業が置かれている環境の違いなどを反映しているようです。

このうちSPとはポジショニングの違いで、実際に企業が「何をやり、何をやらないか」という位置取りによって他社との違いをつくるものです。例えば、オーダーメイドに特化するとか、格安品しか扱わないとか、あるいは今までどこも扱わなかった全く新たな製品を扱うといったことで他社との明確な違いを作り出すのです。

これに対して、OCは組織能力とも言い、他社との競争に勝つために独自のものを持とうとするもので、例えば、独自の生産システムを作って同じ製品でも価格や品質で他社に差をつけるということで違いを作り出すのです。

これらについて、著者はマブチ・モーターやサウス・ウェスト航空のような具体的事例に即して説明しています。ここはこの著作の魅力でもあるので、実際に読んで堪能して下さいとしか言う他ありません。この二つはあくまでも考え方なので、実際の経営では明確な線引きはできませんが、だいたいの企業はどちらかの要素に偏っていて、それが企業の特徴となっているようです。

では、このあと上で書いたことの突っ込んだ内容は、おいしい引用を参照して下さい。この章あたりから、実例が出てきて、だんだん面白くなってきます。でも、この一番おいしいところは、実際の本で堪能して下さい。

読むにつれて、どんどん惹きこまれてしまうので、たくさん引用したくなる衝動を抑え切れません。しかし、著者も強調するように全体の「流れ」が大切です。構成要素だけ見ていたのでは、真価は味わえません。引用で興味をもったなら、ぜひ全体を読むことをお勧めします。この章も、次回から3回に分けて引用を紹介します。

2010年9月22日 (水)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(3)

昨日の続きです。

ストーリーという視点を強調する二つの目の理由は、このところ特にその傾向が強まっていると思うのですが、現実の企業経営の中で、戦略ストーリーをじっくりと考え、語り合うことが希薄になっているのではないかという懸念です。従来の戦略論には「動画」の視点が希薄でした。戦略のあるべき姿が動画であるにもかかわらず、その論理を捉えるはずの戦略「論」はやたらと静止画的な話に偏向していたように思います。しかも、戦略論の「静止画症候群」は、このことよりいっそう顕著になっているのではないか、というのが私の問題意識です。素朴に考えれば、そもそもあらゆる戦略は面白い「お話」であるべきですが、これまでも強調してきたように、ストーリーということになると、whatwhenhow muchだけでなく、whyが話の中心になります。ところが、やっかいなことに、whatwhenに比べて、whyに対する説明はどうしても話が長くなります。しかも、whyの線は一本ではありません。複数の打ち手があれば、前後左右に一手を結びつける線は広がっていきます。特定の文脈に依存した因果論理のシンセシスである以上、戦略はワンフレーズでは語れません。ある程度「長い話」にならざるをえません。ところが、それを論理化するはずの戦略論はやたらと「短い話」に終始しているのが現状です。その典型がテンプレート戦略論やベストプラクティス戦略論です。こうした短い話が横行するのも、もとをただせば戦略論のユーザーのニーズがあるからです。なぜ、ユーザーは静止画的な短い話を好むのでしょうか。思いつくままに理由を挙げてみましょう。第一に、とにかく忙しい。戦略ストーリーを突き詰めて考えるゆとりがない。そういう人にとっては、テンプレートやベストプラクティスがあれば、手っ取り早く「戦略をつくっている気分」になれます。第二に、テンプレート戦略論やベストプラクティス戦略論の主たるユーザーは、実際のところ経営者というよりも経営企画部門などの「戦略スタッフ」であることが多い。彼らの仕事は戦略構想そのものでなく、戦略を構想する人(経営者や事業部門長などのジェネラル・マネージャー)が必要とする情報の整理や分析です。そもそもシンセシスの任にない人々であれば、手っ取り早いアナリシスのためのテンプレートを好むのは自然な成り行きです。第三に、「プロフェッショナル経営者」という幻想です。もちろん、真の意味での経営技量なりシンセシスに優れた経営者は存在します。しかし、ここでいうカギカッコつきの「プロフェッショナル経営者」というのは、戦略があたかも標準的なスキルセットであると誤解している人々のことを指しています。「経営者の戦略スタッフ化」といってよいでしょう。こうした人々にとってテンプレートやベストプラクティスは過度に心地よく響きます。第四に、コンサルタントによるマーケティングの影響があります。コンサルタントが戦略論や本や論文で供給するのは、それが往々にして本業のマーケティングにとって有効だからです。第五に、静止画的な短い話は、コミュニケーションが簡単だということがあります。ビジネスはある意味で「長い話」を嫌うものです。厳しい競争にさらされているほど、素早く分かり易い「ソリューション」が求められるようになり、長い話を突き詰めて考え、話し合い、共有するゆとりがなくなります。情報技術の進展は入手可能な情報の量を飛躍的に増大させました。しかし、ここで忘れてはならないのは、「情報の豊かさは注意の貧困をもたらす」というトレードエフです。戦略ストーリーを支えている因果論理は、「情報」よりも「注意」の産物です。大量の情報が飛び交うほど、因果論理にについての注意は希薄になります。逆にいえば、因果論理を捨象した「静止画」であるほど情報技術で扱い易く、したがってコミュニケーションしやすく、また共有しやすくなります。「共有したつもりになりやすい」といったほうがいいでしょう。第六に、近年のマクロ環境の変化があります。グローバル化、投資家からの圧力の高まり、こうしたこのところのマクロな経営環境の変化は、とりわけ長い話を嫌がる傾向を加速させているように思います。グローバル化が進むと、言語や文化的な背景が違う社内外の利害関係者と意思を共有しなければなりません。そうした文脈で長い話を持ち出すのは、自然と気が引けるものです。こうしたいくつもの圧力は、戦略論を「短い話」へと押込めてしまい、シンセシスとしての戦略構想がよって立つ因果論理から実務家の目をそらしがちです。「長い話」としての戦略論を取り戻す必要がある、そして、そこにこそストーリーの戦略論の役割と貢献があるというのが私の考えです。

戦略とスーリーとして語り、組織で共有するということは、戦略の実効性を大きく左右します。これがストーリーという視点にこだわる三つ目の理由です。戦略の実行を担う人々は、具体的な仕事としては特定の機能や部門を担当しています。しかし、戦略ストーリーはあくまでもシンセシスです。相互に独立した要素へと完全に分解することはできません。アナリシスでは割り切れないのです。自分の仕事がストーリーの中でどこを担当しており、他の人々の仕事とどのようにかみ合って、成果とどのようにつながっているのか、そうしたストーリー全体についての実感がなければ、戦略の実行にコミットできません。戦略ストーリーをつくる立場にいるリーダーだけでなく、ミドルマネジメント以下の多くの人々も、仕事に向かって突き動かされるような面白いストーリーを強く求めているはずです。ストーリーの面白さは、戦略の実行にかかわる社内の人々を突き動かす最上のエンジンになります。数字で綴られた静止画の羅列に突き動かされる人がいるでしょうか。素晴らしい経営理念やビジョンや価値観を掲げる会社はたくさんあるのですが、具体的な戦略の段になって出てくるのが無味乾燥な静止画のリストであれば、せっかくのビジョンも「床の間の掛け軸」になってしまいます。ストーリーをつくる前に、下ごしらえというか、基本的な材料は一通り揃えなければなりません。当然、現状を分析して、われわれは今どこにいるのかを知らなければなりませんし、到達すべき地点、あるべき姿としての目標を設定しなければなりません。競争環境とか市場環境、利用可能な経営資源とその制約条件もある程度までわかっていなくてはなりません。これはいわば現在地と目的地が示された白地図の上に「地図情報」を加える作業に相当します。戦略ストーリーをつくるということは、このように現在地や目的地や地図情報を記した地図の上に、自分たちが進むべき道筋をつけるということです。到達すべき目的地を特定したり、地図情報を細かく書き込むことは、あくまでも下ごしらえであって、戦略ストーリーではありません。ストーリーという道筋を組織のすべての人々が共有し、道筋のついた地図をポケットに入れて、それを見ながら進んでいく。これが私の「戦略を実行する組織」のイメージです。

ストーリーという視点を強調する四つ目の理由は、ストーリーという戦略思考がとりわけ日本企業にとって重要な意味を持っていることにあります。第一に、日本企業は相当に成熟した経営環境に直面しています。経営環境が成熟すればするほど、個別の構成要素のレベルで競争優位を構築するのが困難になります。画期的な新製品、まだ誰も参入していない成長性の高い市場セグメントへの参入、この種の差別化は目立ちます。しかし、成熟した環境の下では、こうした派手な差別化の要素は探してもなかなか見つかりません。そこで、ストーリーという一つ上位のレベルに次数を繰り上げた差別化が求められるわけです。第二に、これまでの日本企業が、ポジショニングよりも組織能力に基礎を置いた「体育会的戦略論」に傾斜してきたということがあります。ポジショニングの戦略はそれがもたらす成果との因果関係がより明確なので、どちらかというと「短い話」で済む傾向にあります。一方の能力重視の戦略は、ポジショニングに比べて、成果との因果の距離が遠くなります。トヨタ生産方式は、カンバン方式、自動化によるラインでの問題解決、平準化生産といったさまざまな構成要素のシンセシスであり、能力に軸足を置いた優れた戦略ストーリーの典型例です。能力構築の積み重ねが結局のところトヨタの競争力の実体なのですが、それが能力に基盤を置いているために、個別の取組みと成果との因果関係は相対的に不明確にならざるをえません。能力構築を重視する戦略は、欧米や他のアジア諸国の企業と比較した場合の日本企業の独自性です。今後も日本企業の競争力の源泉として重要であることは間違いありません。ただし、能力の戦略はポジショニングと比べて、時間的にも、因果論理という意味でも、「長い話」を必要とします。ポジショニングは意思決定できても、能力構築は意思決定だけではどうにもなりません。個別の要素がどのようにつながり、相互作用を起こして、成果に繋がるのかというストーリーが意識されていなければ、能力構築から競争優位を引き出すことはできません。第三に、日本企業の組織と人々のモチベーションのあり方です。欧米企業の組織には機能分化の論理が浸透しています。そこで働く人々のコミットメントも自分の機能専門性に向けられているのが普通です。これと比べて、日本企業の組織は提供する価値のありようを切り口に分化し、これが人々のコミットメントの基盤となるという色彩が強いというのが私の考えで、このことを「価値分化」といってもいます。たとえば、日本の会社では、機能としてはマーケティングを担当していても、「私はマーケティングのスペシャリストです」というよりも、「私はオーディオ製品をやっています。オーディオ屋です」というように、その組織が外部の顧客に提供する製品なりサービスなりで自分の仕事や組織での存在理由を定義する傾向が強いように思います。「マーケティング」が「機能」であれば、「オーディオ」という切り口は「価値」を問題にしています。欧米の会社が機能分化の論理で割り切れる組織であるのに対して、もし日本の会社が傾向として機能のインプットよりも価値のアウトプットに人々のアイデンティティがあるような組織になっているとしたら、戦略をつくる立場にあるリーダーのみならず、戦略ストーリーを組織の人々で広く共有することの必要性や効果が日本の会社ではずっと大きくなるはずです。ストーリーという視点が大切になる最後の理由は、いたって単純な話です。何よりも、ストーリーという視点は、戦略をつくる仕事を面白くします。戦略をストーリーとして考え、組み立てるということは、そもそも創造的で、楽しい仕事です。難しい目標設定を与えられ、眉間にしわを寄せた渋い顔で戦略を考え(させられ)ている人が多すぎるように思います。

クララ・ハスキルのピアノ、イーゴリ・マルケヴィチ指揮コンール・ラ・ムルー「モーツァルトのピアノ協奏曲第20番」

吉田秀和の「世界のピアニスト」なんかを読んで、ハスキルというピアニストは、センスがよくて優美で繊細な演奏をするような印象がありました。で、この録音は「レコード芸術」のような雑誌が何年かごとに繰り返す名盤のリストアップで常連になっているので…、ある種の先入観をもって聴きましたが。

吉田秀和や評論家の先生がたと私とでは、耳が違うようですね。このハスキルという人、バリバリ弾ききってます。優美なモーツァルト?全力でキーを叩いてます。伴奏も負けていません。で、モーツァルトでバトルしてます。

とにかく第一楽章のノッケから緊張感ビンビンです。オケが煽ってます。出だしの弦楽器の低音のうごきがくっきりと聞こえて、不気味な何者か(おぞましいもの)が近づいてくる足音のようです。その低音の動きを断ち切るように弦楽のトゥッティが剃刀のような切れ味で、それらがだんだん音量が増してきて、オケのトゥッティで最初のクライマックスは爆発するようです。何か切羽詰った尋常でないものが始まったという感じです。血も涙もない恐ろしさのようなもの、ベートーヴェンの運命交響曲の冒頭(といっても第二主題に救いの兆候があるのですが、ここにはそれもない)そこで一旦音量が減退し、ピアノが入ってきてテーマを歌わせると、転調するように曲調がかわり速度があがり、冒頭の緊張しきったテーマをオケとピアノが競うように演る。ここで、ハスキルのピアノは最初の入りとは打って変わってバリバリに弾きまくりで思いっ切り打鍵してます。優美さとは正反対の尖った音で。それは憑かれたような弾きぶりです。そこから聴こえてくるのは、この曲が後のベートーヴェンでもロマン派で作れなかったデモーニッシユな世界です。モーツァルトだって、他に短調のピアノ協奏曲や交響曲を作っていますが、これほど救いようもないというか、異常な緊張感の高い曲はないと思います。それを、この人たちはそのように演奏している。

だから第二楽章も、有名なメロディが歌われますが、その後の第三楽章の影が近づいてくるのにおびえる時間でしかないように聴こえます。そして、第三楽章で、他のピアノ協奏曲なら舞曲や能天気にロンドで明るく終わるようなことをせず、第一楽章に輪をかけて、しかもスピードアップして競い合うように、まるで奈落に向かってまっしぐらに駆け落ちるように弾いてます。オケと相俟ってあたかも阿鼻叫喚のような。

最後に注意というか希望です。このようにこの曲を聴きたいと思った方は、なるべく安いステレオ装置でボリュームを上げて聴いてください。それか、携帯プレーヤーのような貧弱な再生装置でガンガンボリュームを上げて聴いてみてください。できるだけ尖った音で聴くと、突き刺さってくるような迫力が感じることができます。

2010年9月21日 (火)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略(2)

昨日は、まえがきでしたから、今日から本編に入ります。しかし、本編といっても第一章と第二章は準備段階として基礎的な概念の説明になります。でも、基礎概念の説明からも、少しずつ実例が出てきます。ストーリーとして戦略を考えるという切り口で論考をすすめますが、著者の語り口はストーリー・テリングの要領で、この著作がストーリーとして楽しんでしまうのは、著者の術中にはまったということなのでしょうか。でも、これはこれで心地よいものです。

この著作は章立てに沿って追いかけます。

第1章 戦略は「ストーリー」

著者は、まず「論理」の重要性を説く。実務家が実践の世界で日々直面している課題に対して、どこまで有効かという議論もある。現実の経営者は経営センスとか勘と言われるものは、理屈では十分に説明できない。しかし、経営者は場当たり的に直感的判断を行っているわけではなく、「こういうときにはこうするものだ」というフォームのようなものを持っている。学者のいう「理論」ではないが、その人に特有の思考や判断の基準があるはずだ。「経営は理屈ではない」というのは事実かもしれないが、その場合でも、何が理屈かを分かっていない人は「理屈じゃない」ものが本当のところ何も分かっていないことになり、経営者の勘をどこで有効に武器として使うかも分かっていないことにもなる。その言う意味で「論理」は大切だと説く。その理由として、次の三つの理由をあげる。

     日々走りながら考えていると、視野が狭くなり、視界が固定してしまう

     優れた経営者はアーティストであり、その会社のその事業の文脈に埋め込まれた中で戦略を構想する。これを論理化して汎用的な知識に変換しなければ、その論理を異なった文脈に利用できない

     論理は、日々の現象に比べて、簡単には変わらない。

このように戦略の論理を捉える際に、著者はストーリーという視点を持ち出す。ストーリーとは経営が個々の打ち手を出す、それらがつながり、組み合わさり利益を実現していく、このような個別の打ち手が、齟齬なく連動し、全体としての事業を駆動させている「流れ」とか「動き」というようなものが、戦略の論理であり、これがストーリーとして捉えられる。その後、著者がストーリーという視点を強調する理由を五つあげて、ストーリーとして戦略を捉える場合の特徴を説明している。

     ストーリーという視点の持っているダイナミックな意味合い、つまり、上で説明したような「流れ」や「動き」を静止画でなく動画として捉えることができるという点である。

     様々な原因から現実の企業経営の中で戦略をじっくりと考えにくくなっている状況

     戦略をストーリーつまり「ものがたり」として語ることによって組織内での共有が図りやすくなるという点

     日本企業の経営環境や事業体質にストーリーという思考が合っているという利点

     ストーリーとして戦略を考えるのは面白い

それでは、昨日に続き、著者の語り口を引用で、お楽しみください。上の私はこう読んだ の細かな説明も含まれています。しかし、量が多めになるので、明日と二回に分けることにします。

第1章 戦略は「ストーリー」

ストーリーの競争戦略は、因果論理のシンセシンスという戦略の本質を正面から捉える視点なのです。ストーリーとしての競争戦略は、「違い」と「つながり」という二つの戦略の本質のうち、後者に軸足を置いています。競争戦略は、「誰に」「何を」「どうやって」提供するのかについての企業のさまざまな「打ち手」で構成されています。戦略は競合他社との違いをつくることです。さまざまな打ち手は他社との違いをつくるものではありません。

しかし、個別の違いをバラバラに打ち出すだけでは戦略になりません。それらがつながり、組み合わさり、相互作用する中で、初めて長期利益が実現されます。ストーリーとしての競争戦略は、さまざまな打ち手を互いに結び付け、顧客へのユニークな価値提供とその結果として生まれる利益に向かって駆動していく論理に注目します。つまり、個別の要素について意思決定しアクションをとるだけでなく、そうした要素の間にどのような因果関係や相互作用があるのかを重視する視点です。戦略をストーリーとして語るということは、「個別の要素がなぜ齟齬なく連動し、全体とてなぜ事業を駆動するのか」を説明することです。それはまた、「なぜその事業が競争の中で他社が達成できない価値を生み出すのか」「なぜ利益をもたらす」を説明することであります。個々の打ち手は「静止画」にすぎません。個別の違いが因果論理で縦横につながったとき、戦略は「動画」になります。ストーリーとしての競争戦略は、動画レベルで他社との違いをつくろうという戦略思考です。

ストーリーとしての競争戦略とは、「勝負を決定的に左右するのは戦略の流れである」という思考様式です。普通私たちが戦略というときは、意識しているか無意識かは別にしても、個々の打ち手ではなく、打ち手をつなぐ流れ、勝利に向けたストーリーをイメージしているはずです。戦略をストーリーとして捉える思考は、何も新しい話ではなく、素朴なレベルではごく自然な理解です。個別の要素についての意思決定(たとえば、ある製品の生産を社内でやるか、それを外部企業に任せるか)は、基本的にwhatwhohowwherewhenを確定するということです。こうした個別の打ち手に対して、戦略ストーリーが問題になるのはwhyです。「線」とか「流れ」といっているのは、なぜある点がもう一つの点につながるのか、ある打ち手がなぜ次の打ち手を可能にするのか、という因果論理に注目しています。戦略を一連の流れを持ったストーリーとして考えなくてはならないゆえんです。

ストーリーという視点は、「モデル」や「システム」の戦略論と多くを共有しています。にもかかわらず、ここで改めてストーリーという視点を強調するのには、五つの理由があります。

一つ目の理由は、ストーリーという視点の持っているダイナミックな意味合いです。ビジネスの設計思想とビジネスモデルや、その結果生成するビジネスシステムはどちらかというとビジネス全体のかたちに焦点を当てていたため、全体の流れや動きを捉えにくいというきらいがあります。アーキテクチャにしても、ビジネス全体のレベルに拡張して応用することはできますが、そもそも製品システムの安定的なありように注目した概念です。ストーリーの戦略論とビジネスモデル(システム)の戦略論との違いは、ビジネスモデルが戦略の構成要素の空間的な配置形態に焦点を当てているのに対して、戦略ストーリーは打ち手の時間的展開に注目している、ということです。「ビジネスモデルを図示して下さい」というと、ビジネスに含まれるさまざまなプレイヤーや機能部門の間のカネやモノや情報のやり取りの絵が出てくるのが普通です。これに対して、戦略ストーリーの絵は「こうすると、こうなる。そうなれば、これが可能になる…」という時間展開を含んだ因果論理になります。

個々の打ち手が組み合わさり、連動することによって生まれる戦略の流れや動きの側面については、踏み込んだ議論はあまりされてきませんでした。ビジネスモデルの概念は、確かに全体の「かたち」を捉えるものですが、構成要素の因果論理が巻き起こす「流れ」や「動き」の側面を捉えにくく、静止画的な戦略思考になりがちです。複数の打ち手がかみ合って連動する相互作用の論理、そこから生まれる「動画」としての側面により直接的に光を当てる必要があるいうのが私の意見です。ここであえてストーリーという言葉を持ち出すのは、こうした戦略のダイナミックな本質を強調したいという意図があるからです。

「ダイナミック」というのはあくまでも「動きが見える」ということで、「長期的なことを考える」ということを必ずしも意味するわけではありません。長期か短期かという分類軸は、ここで強調している動画か静止画かという軸とは別のものです。仮に、その戦略がそれほど遠い将来のことを考えていなかったとしても(現実に「遠い将来のこと」は不確実過ぎてそうそう決められないものです)、向こう三年から五年の戦略ストーリーが動画として見えるようなものであれば、それはダイナミズムだということです。

2010年9月20日 (月)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(1)

41wpcn5ck1l  以前に、このプログに書き込みしました『メイド・イン・ジャパンは終わるのか』『国際標準化と事業戦略』『技術力で勝てる日本が、なぜ事業で負けるのか』などは、どちらかといえば製品アーキテクチャという“ものづくり”の側面から日本企業の経営をみるものでした。この著作は、これらより一歩引いて、より鳥瞰的に、企業の経営戦略を見ようというものです。

その内容は、ここに書こうとするくらいですから十分なものと思うのですが、それだけでなく、ビジネス書というような枠に留まらず、純粋に読むのが面白いということが特筆に価すると思うのです。最初に目から鱗が落ちるような発見があって、それを読み進めるうちに、豊富な実例とさらなる展開があって、この次はどうなるのだろうと、興味が先へと進んで、あっという間に読み進んでしまう本です。一般の経営書にあるような分かりにくさはなく、経営学の知識がない人でもよく理解できるように書かれています。これは著者が本当によく分かって書いているからでしょう。(当たり前のことにようですが、難しく書かれている本や論文の中には、書いている本人が理解できていないと明らかに分かるのが結構あるように思います。)

これから、私はこのように読んだというのを書きますが、その後で、この著者の語り口が魅力なので、別に引用をピックアップして載せます。これから長くなりますが、お付き合いください。

まえがき

結果として成功したかはともかくとして、戦略として魅力的であるか(著者は感覚的にイケてると言う)、優れた条件とは何かを問うことを目的とする。その優劣を分ける基準として「ストーリー」という視点を取り上げてみせる。例えば戦略のプレゼンテーションには市場環境とかトレンドとか組織体制とかいうような戦略の構成要素が並べられることが多い。構成要素はいわばパーツであり、これらのパーツがかみ合って、全体としてどのような構成となって動いていくのか、というダイナミズムが「ストーリー」ということになる。これを具体的に見ていく。

次においしいところを引用します。

「イケてる」戦略は確かに面白く、もっと聞いてみたくなります。知的興奮を覚えるだけでなく、他人事であるにもかかわらず「その線でやってみようじゃないの!」という気にさせられます。一方で、「イケてない」戦略はからっきし面白くありません。この直感的な優劣は、私の主観的な好き嫌いといえばそれまでなのですが、わりとはっきりした感覚です。戦略の優劣の基準はどこにあるか。優れた条件とは何か。私は自分の感覚を、もっとしっかりした言葉でつかみたいとずっと思ってきました。こうした経験を10年、15年と重ねているうちに、私なりの基準が次第にはっきりとしてきました。それが戦略が「ストーリーになっているか」が見えるか。私がよりどころとして戦略の優劣の基準はここにあります。「ストーリー」と言う視点から、競争戦略と競争優位、その背後にある論理と思考様式、そうしたことごとの本質をじっくりお話ししてみようというのが、この本に込めた私の意図です。この本のメッセージを一言で言えば、優れた戦略とは思わず人ら話したくなるような面白いストーリーだ、ということです。

「戦略」のプレゼンテーションには、「X事業のV字回復戦略」とか「新たなビジネスモデルの創出」とか、元気満々のタイトルがついています。タイトルだけでなく、実にいろいろな要素が盛り込まれています。市場環境やトレンドはどうなっているのか。ターゲット・マーケットとしてのどのセグメントをねらうか。どういう仕様の製品(もしくはサービス)をどういうタイミングでリリースするか。プライシングはどうするか。どういうチャンネルを使うか。どのようにプロモーションするか。どこを自社で行い、どこをアウトソーシングするか。生産拠点はどこに置くか。どういう技術を採用するか。どういう組織体制で実行するのか。業績予測はどのようなものか。実に詳細に検討されています。しかし、これでは「項目ごとのアクションリスト」にすぎません。そうした戦略の構成要素が、どのようにつながって、全体としてどのように動き、その結果、何が起こるのか。戦略全体の「動き」と「流れ」がさっぱりわからないのです。戦略が「静止画」に留まっているといっても良いでしょう。聞いている私が社外の人間で事情に疎いかわかにないのかな、と思うとそうでもなく、社内の人々も、個別のアクションについては議論をするものの、それが全体としてどう動くのかについては、意識してか無意識か、議論の俎上に載せないままやり過ごしてしまいます。本来は「動画」であるはずの戦略が、無味乾燥な静止画の羅列になってしまう。戦略をつくるという仕事が「項目ごとのアクションリスト」を長くしたり細かくすることにすり替わってしまう。「ストーリーがない」「ストリーリーになっていない」とはそういうことです。優れた戦略は、これと正反対のところにあります。戦略を構成する要素が噛み合って、全体としてゴールに向かって動いていくイメージが動画のように見えてくる。全体の動きと流れが生き生きと浮かび上がってくる。これが「ストーリーがある」ということです。

戦略を構成するさまざまな打ち手がストーリーとして自然につながり、流れ、動かなければ、そこには何らかの本質的な矛盾や欠陥があったはずです。後知恵といってしまえばそれまでですが、大きな成功を収め、その成功を持続している企業は、戦略が流れと動きを持ったストーリーとして組み立てられているという点で共通しています。戦略とは、必要に迫られて、難しい顔をしながら仕方なくつくらされるものではなく、誰かに話したくてたまらなくなるような、面白いストーリーであるべきです。昔から「儲け話」というような、戦略とは面白い「お話」をつくるということなのです。

2010年9月19日 (日)

西脇千花「スカルラッティのソナタ集」

Nisi スカルラッティのソナタには、いくつかのアプローチがある。例えば、ポゴレリチは純粋な音の運動として、よくあれでミスタッチをしないものだと感嘆するほどの浅い打鍵で軽い音を超高速で弾ききる。また、ホロヴィッツはシンプルな曲調に手練手管を尽くして多彩な音色とニュアンスで極彩色の世界を開陳してみせる。シフは旋律と装飾の区分を取り払い全体を音の遊びとしようしたが、逆に装飾が旋律の意味を負わせられる結果になり、ロマンチックな重苦しい演奏になっていた。

そして、この人のは、そのどれとも違う独自の世界を見せてくれた。どこが違うのかというと、かつて吉田秀和がハイドンと比べてモーツァルトの音楽を、たった一つのものを加えたことによって音楽そのものの概念を以前とはまったく違うものに変えてしまった、というようなことを書いていた、そのたった一つのことのようなものだ。

その典型的な例として最後に入っているK27のニ短調のソナタを聴いてほしい。そっと囁き声のような弱音で始まる、問いかけるような短いフレーズがあって、これに応えるように、これまた短いテーマが出てきて繰り返すとここから一段音が高まり経過句のようなパッセージで音楽が奔り出す。このときの左手のアクセントがきいていて“思い”のようなものを感じさせるのが、ここは長くはつづけず、最初からのパターンの簡単な繰り返しになるが、すでに音楽が奔り出しているので、最初より少し勢いがついて、そしてまた、件のパッセージが出てくると、このパッセージが最初のときはワン・フレーズだったのが、繰り返しなる。その繰り返しのたびに微妙にニュアンスが変わるのだが、ここで単にパッセージの繰り返しというのではなく、この繰り返し全体を大きなまとまりとして捉えて、その中で大きなヤマを作っていて、全体として深いブレスが息づいているように聴こえてくるのだ。それは、まるでモーツァルトが第8番のイ短調の悲痛なソナタの第1楽章でテーマの提示の後で慟哭するような息の長いパッセージを連想させる。そして、また最初の問いかけに戻って繰り返すと、最初はそっと囁くように始まったのが、繰り返すたびに音楽が奔り、声も大きくなってくる。このような繰り返しによる盛り上がりは、ブルックナーの交響曲のあのクライマックスを想わせる。この人のスカルラッティからは、たった3分程度の演奏から、壮大なドラマが広がるようなのだ。といっても、声高には決してならず、飾り気のないながら一音一音をいつくしむように弾いている丁寧な演奏なのだが、フレーズの捉え方の深さというのか、この人の持っている本質的なスケールの大きさが表れているように思う。主として伴奏を多く努めているようで、この人のソロの録音は、これ一つだけなのが非常に残念に思う。この人のシューベルトを聴いてみたいと思う。

2010年9月18日 (土)

あるIR担当者の雑感(3)

私の勤めている会社は3月決算なので、IR担当者としては第2四半期の決算説明の準備を進めています。とくに、私の会社は6ヶ月ごとに説明会を行うため、第2四半期は事業年度の前半部分の説明をまとめることになります。3月決算ならば、第2四半期は7~9月の3ヶ月間の決算だから、未だ期間中ではないかと思われるかもしれません。たしかに、9月末で締めて決算数値が出てくるのは、10月も後半になってからで、細かなことはその後ではないと分かりません。しかし、売上やおおよその利益見込みは営業や経理の現場で積み上げを行っているので、大体の傾向は掴めることができます。

そして、私個人に限ったことかもしれませんが、今ごろから始めていかないと、間に合わないのです。理由のひとつは、仕事が遅いこともあります。が、その大きな理由として、幹となるようなストーリーを考えるのに時間がかかるためです。このストーリー(と便宜的に私は言っているのですが)というものについては、他の会社では、似たようなことをやっているのか分からず、IRのことを指導するような書籍や雑誌にも書いていないので、何ともいえないのですが、私が、この仕事を続けているうちに、自然と自分で必要と思うようになり、というよりも、無意識のうちにやっていたという方が近いかもしれません、いまでは、説明会の準備やその資料を作成するとき、また、決算短信や有価証券報告書を作成するとき、あるいは、株主総会の招集通知や株主通信を作成するときに、一番大切なプロセスになっているようです。

そのストーリーというのを一言で説明するのは難しいのですが、簡単に言うと説明会の流れのようなものです。といっても式次第ではなくて、今回の第2四半期の決算説明会の場合ならば、第2四半期の業績について、会社はどう捉えているのか、例えば、今期、何をやろうとして、それは結果として、あるいは途中経過として、会社としてはどう評価するのか、その理由はどうしてか、これを踏まえて、今期の後半で、これをどうしようと考えるのか、また、このことから別な施策を考えたり、方針を転換したりするのか、というようなことを幹としてかためていく作業です。これだけを単に考えるなら、ぱっと数字を見てできないこともないのですが、個々の営業や技術開発の施策はこの幹から派生する枝葉のようなものですから、その関連性と、個々の施策というそれぞれの枝葉の絡み合いを幹との関連性との兼ねあいで、これらを一本の流れに収斂させて行くことです。さらに、これらは単なる事実としてでなく、会社が捉えた事実として評価を加えながら行います。要するに、この期間中、我々はなにをやってきたと考えるのかということです。その結果、説明会では、出席する投資家やアナリストに、どのような説明するか(当然、説明しない部分も含めて)ということを考えるのです。この時に、説明会に出席する投資家やアナリストは、私のような企業の内部のいる人間とは異なる視点で企業を見ますから、彼らの視点からはどのように映るかということや、彼らの立場で、とくに今期の私の会社に対して知りたいと思うことは何か、また、彼らが私の会社に投資している場合、投資リターンの点からどう評価しようとするかを考慮します。そのため、説明会で説明する会社業績への会社の評価や今後の会社がどうなっていくかに関して、社外の声がある程度は反映することになります。むしろ、私見では、これこそがIR、説明会をすることによる効果と思うので、これは絶対に欠かせません。また、これも私見ですが、出席する投資かもアナリストもプロですから、やっていれば、必ず気がつくはずです。(1度出席した程度では分からないこともあるでしょうが、2回出席すれば、必ず分かると思います。もし、分からないようなら、その人はプロのレベルではない人でしょう)これができると、決算数字が出てきた時点で、ストーリーの検証をおこない、細部の修正を行います。経営陣は、このストーリーに対して、決算数値が出るまでは検討するのに慎重になりますが、決算数値が出た時点で、出来上がっていないと経営陣に検討してもらうこともできません。ということは、後追いですが、決算数値が出た時点で、新たにストーリーを作ろうとしても、時間的な余裕はないため、実際のところ、叩き台として提示したストーリーに対しては細部の微調整はあるものの、本筋は通ることになります。当然、それ以前に経営陣の考えはウォッチしているので、経営陣の考えからかけ離れたものは作りませんが。この時点で、例えば、ストーリーの中にある営業のとった施策がストーリーからの視点で見ると、これまでの評価が変わって新たな可能性を経営陣が見出したり、というようなこともあります。IRの仕事を公報というような日本語にしてしまうと、PRの親戚のように思われて、このようなことがバッサリ抜け落ちてしまうのですが、私見ですが、会社と投資家等の株式市場の関係を良好に続けていくのがIRの目的と思っているので、PRのような一方通行ではなく、双方向の関係になると思います。そのため、会社が良くない状態にあれば、それを粉飾するようなことはできず、本当の姿を伝えることが第一で、反対に、会社のことを良く伝えようとすれば、会社に良くなってもらわなくてはならないのであり、そのために市場関係や外部の情報や意見を経営陣に伝えたり、その視点を反映した評価をするというようなことも含まれると思っています。

いってみれば、IR担当者としては、一番大変かもしれませんが、一番面白い業務を今、始めているところです。

しかし、このようなことは、小さな会社ならではことかもしれず、しかも、経営陣からは絶対に好感は期待できず、出世とかを求める人には、お勧めできない仕事かもしれません。

2010年9月17日 (金)

山本一力「まとい大名」

都心への外出があり、その往復で読んだとはいえ、この程度の厚さの文庫本を1日で読んでしまうのは、読むのが速い方なのか。速読法などという本が店頭に並んでいるところをみると、よほど読むのが遅い人もいて、そのような人から見ると、このようなペースはうらやましいのか?脱線するが、速読法などというのは、本を読むのが嫌いな人のためのものなのだろうと思う。何かのために手段として本を読む人のためか。せっかくの楽しい時間を早く終わらせてしまおうというのだから。さて、山本一力も何作か読んだが、共通しているのは、江戸時代、とくに元禄から享保~文化文政にかけての町人文化の勃興から盛期のころ、とくに下町とりわけ深川を舞台に、町人の生活を舞台として、懸命に仕事をしている人たちのサクセスストーリーをヒロイックに描いているというところか。日々を懸命に働く人々に共感をもって書いているし、チャンバラがあるわけではない。前日に読んだ今野敏とも通じるところがあるかもしれない。遠くは、山本周五郎の声もある。しかし、山本周五郎にあった、ほろ苦さのようなものはない。山本一力の世界には仕事の厳しさとか、人生の厳しさといったものはあるが、江戸町民の身分や貧しい境遇からくる生活の厳しさやそこで長年生活している人々の疲れとか諦めのようなもの、そういう厳しさがあるからこそ日々の些細なことに喜びを見出そうとするけなげさのようなものはない。個人の努力では、どうしてもできないこと、しかも、それが当人には納得できないような理不尽な理由で、ということの連続で、それと毎日苦闘し、あるときは妥協し、あるときは諦め、あるときはとことん追求するといったことを我々だって毎日やっている。今野敏の警察小説には、毎日、うんざりするほどの量の仕事を抱え、疲れ、無力感に苛まれながらも、それでも正義を求める人々が等身大で描かれている。だから共感できる。しかし、山本一力の主人公はスーパーヒーローというのか、卓越した才能で困難を乗り越えていく。チャンバラとかないが、分野を変えたヒロイック・ストーリーのように思う。この作も、伝説的な火消しだった父親を引き継いだ主人公の火消しの棟梁が、父親の亡き後、父親譲りの能力と父を超えた環境とを生かして、立派な棟梁になっていくストーリーといえる。それをファンタジーとして読むのも良い。また、山本の諸作の面白さは脇役の登場人物の振る舞いの面白さと、それが共通の土台として、かれらが、色々なところにちょこちょこ顔を出して、諸作が絡み合いひとつの小宇宙を構成するところにあるといえる。例えば、料亭江戸屋だったり、猪の吉親分だったりというように。ただし、本作では、そのような魅力的な脇役が少ないのと、場面として、そこだけ取り出してハートウォーミングできるところが少ないので、初めて、彼を読む人には、勧められない本だ。

2010年9月15日 (水)

今野敏「膠着」

12205263 古手の中小企業の糊メーカーで、新入社員を中心とした喜劇タッチのサラリーマン小説。この人の警察物もそうなのだが、ストーリーがどうだとかという前に、会社や警察で懸命に働いている人への応援歌のようなところが好きだ。昔の源氏鶏太ではないが、企業小説といってもスーパー経営者が出てきたり、企業サバイバルの戦場が描かれていたりというのではない。出てくるのは、平凡な人たち。平凡といったって、皆、それぞれに悩みを抱え、考え、懸命に生きている。そのような人たちが主人公となって、会社を盛り上げたり、警察では事件を解決したりする。その奮闘のさまが描かれているのがいい。

あるIR担当者の雑感(2)

宮脇俊三の文章(鉄道オタクというような言葉が未だなかった時代に、国鉄全線乗車や最長片道切符などを旅行記にまとめた元編集者。私の友人は鉄道に興味のない人間だが、この人の文章について「何時何分〇〇着というばかり書いてあるのに、なぜか味わいのある旅行エッセイになっている」と好んでいた)の中で、世界各国の鉄道に乗っていると、保線がしっかりしているかいないかや、ダイヤ通りに動いているかいないか等について、国情や経済情勢、文化の違いなどもあり各国で様々だといっていますが、とどのつまり行き着くところは鉄道員がプライドを持っているかにかかっている、と言います。そのためには、鉄道員の社会的ステイタスや報酬、あるいは鉄道が大切にされていたりするというような条件が重く関わってくるのですが。報酬とか出世とかは別にして、人々の生活を守るとか、国の経済の基盤である流通ルートを支えるとかいうような今だったら少し気恥ずかしいようなことを、本気で信じられる地域や時代というものがある、ということだろうと思います。

こんなことを書いたのは、先日、機関投資家への訪問ミーティング(企業の経営者やIR担当者が投資家の許を訪ねて、会社の宣伝や報告をするミーティング)で出合ったあるファンドマネージャー(機関投資家の中で投資や運用を行う)、仮にYさんとしましょうか、のことからなのです。そこは、小さなファンドでYさんはファンドマネージャーであり、そのファンドの代表取締役を兼ねていて、こちらも1人で訪問したので、1対1のインティメートの中で、ひととおり会社の概要や最近の業績、今後の事業計画なんかを説明しているうちに、話はあらぬ方向に脱線し、株式市場、とくに私の会社の上場しているような小さな会社向けの新興市場(ジャスダックとか東証マザース等の市場で東証1部のような大企業向けとは違います)の現状についての話となりました。

Yさんは、いわゆる“失われた20年”の景気低迷期に、新興市場でいわゆるベンチャーと呼ばれるような新しい企業に投資して、その企業の成長するように影で努力を続けてきた人です。ファンドですから、色々な人から資金を集めて、それを元手に投資することになります。以前は海外投資家からの出資があったのが、日本経済の沈滞あるいは衰退の傾向のみならず、全体に経済合理性の働かない日本の株式市場や株主軽視の経営(単に配当を増やすとか株価を上げる努力をするというのではなく、現状に甘んじ保身に努めるような怠惰としか見えない経営者が多かったということです。)を続けても何の咎めもない実態に失望感が広がって、徐々に見放されていった。そのような咎められてもしようがないような企業には、とくに何の咎めもない代わりに、全体としての日本経済の世界での地位がどんどん低下していく。このような実情に対して非常な危機感を抱いていると言います。タテマエとしてたいへん美しいことばですが、Yさんはファンドとして、そこからお金を稼いでいるのであり、きれい事だけでは済まされないはずです。しかし、Yさんは日本の新しい会社に何とか成長して将来の日本経済を支えるような会社になってほしい考えているのは事実であり、そういう成長の結果として金を稼ぎたいというのです。違った角度から言えば、投資なんて海外へ投資すればもっと稼げるはずなのに、あえて沈滞している日本で、しかも起業の勢いも元気がないというような投資に不利な状況で、何とか新興の企業を育てたいと必死になっているのです。そのようなYさんから見れば、私などに一言いいたくなるのは無理もありません。

実際、テレビや新聞ではファンドとか投資などというと金の亡者のような報道がなされますが、実際にファンド・マネージャーと会って話してみると、程度の差こそあれ、Yさんのように真剣に日本企業に頑張ってもらいたい、そのために何とかしたいと、考えている人は多いのです。それは、最初に例としてお話した鉄道員のように報酬や出世とは別な、一種の使命感のようなものが、共通して感じられたのでした。

今の時代、なかなかそういうような人たちとは、探しても出会いにくいような時代になっています。また、仕事の上で、商売だけにとどまらず仕事に対する姿勢だとか実力だとかから、会社員として尊敬できる人と出会える機会は、以前に比べれば減ってきていると思います。しかし、このIRという仕事に携わっていると意外と、そういう出会いに恵まれているような気がします。

もしかしたら、私も、そのような人々にあやかって、少しだけでも誇りを持てるようになれるかもしない、と思い始めたところです。

ちなみに、Yさんとは何度かのやりとりをしましたが、まだ、私の会社には投資してもらっていません。

2010年9月14日 (火)

ラドゥ・ルプー「シューベルトのピアノ・ソナタ第18番」

Lupu まず、虚心坦懐にこの出だしを聴いて欲しい。聞こえるか聞こえないかというような最弱音で、柔らかく、密やかに、何時始まったかもハッキリとは分からないで、いつのまにか漂うような、不定形な和音に包まれているように感じられる。その和音が微妙に転調し、流れるように少しずつ形を変えていく。そこから、時間の経過とともに変形がパターンとなり、メロディとして聴く者が認識できる。それが繰り返されるとリズムが生まれ、舞曲のように世界が広がり、これまでは違った光景が開ける。

これは、後世のマーラーが交響曲第1番の冒頭で、基調をなす持続音を弦楽部が奏でるのを背景に、木管楽器が鳥のさえずりを模したり、トランペットが軍隊のファンファーレを吹いたりというような断片が無秩序に現われては消えていくことを繰り返していくうちに、次第に秩序が生じてきて、メロディの形を整えてきたところで、オーケストラ合奏で第1のテーマを力強く提示する。という、いわばマーラーが最初の交響曲で自らの音楽体験を託すような形で、自分にとって音楽とはこう生まれるのだというマニュフェストを宣言したようなもの(ちなみに、このような捉え方に最も親しみ易い演奏として、ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の録音を真っ先に思い起こす)。不定形の音がだんだん音楽としての形を成してくるところは、両者の似ているところだ。しかし、マーラーで出現してくる音は、彼の個人的な体験が素のまま現われたかのような、鳥の声を模していたりして具体性が強い。言わば絵画的。これに対して、シューベルトの、この曲は具体的な風景を連想させる要素はない。オーケストラ曲とピアノ曲とでは、楽器の音色の違いによる多彩さがない分、ピアノ曲であるシューベルトの方が一見の多彩さで劣る。

しかし、よく聴いて欲しい。ルプーというピアニスト。弱音の美しさとタッチの多彩さで、徹底的に弱音で貫かれると耳を澄まして聴き、そこで注意力が高まったときに、多彩なタッチから繰り出される、豊富なニュアンスから感じられる陰影の深さ。そこで、いつの間にか曲調が変わってくるような、普通のピアノソナタにはないような形式感を欠いたようにも思われる即興性により、その時その時の美しさとかに刹那的に酔いしれて、気がついたら、曲が終わっているような演奏といえる。

妹尾堅一郎「技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか」(3)

イノベーション(モデル創新)による新価値の創出・普及・定着について、インテルやアップルが「勝ち組」の方程式であることが判明した。これらは、従来の「技術で勝てば、事業で勝てる」というモデルとは大きく異なる。そこで言えるのは、現在ではイノベーションモデルが従来のものと全く変ってしまったということ。つまり、従来の「インベンション(発明)=イノベーション(新価値の創出)」というモデルはすでに過去のものになり、「イノベーション=発明×普及定着」となった。これは「イノベーションモデル自体がイノベートされた」ということを意味する。別の角度から見れば、「技術力が必要十分条件の時代」が去って、「技術力は必要条件であるが、他に十分条件となるものが現われた」ということだ。

典型的な日本の負けパターンを時系列的に描くと、

     画期的な発明を基に画期的製品をつくり上げ、市場に導入する。

     市場導入期には圧倒的な力を見せて100%近いシェアを誇る。

     しかし、しばらくすると新興諸国が追いつき始め、市場が拡大すると共に逆にシェアを落としていく。つまり、製品が成長期に入るととたんにダメになる。

本来、ものづくりによって生まれる製品は、その作り方の特徴によってインテグラル型とモジュラー型とに分けられ、この特徴を製品アーキテクチャーと呼んでいる。日本の製造業が得意なのはインテグラル型であるが、モジュラー型が席巻しつつある。

また、「インテグラルとモジュラー」と共に重要なのは、「クローズとオープン」あるすは「独自技術と標準」である。合わせて、通常これらの組み合わせパターンは「独自技術のクローズによるブラックボックス化」と「技術の標準化によるオープン化」といったものとなる。

ある技術とそれに基づく新製品によってイノベーションを進めようとした場合、次の四つのステップが考えられる。

     その技術の標準化(スタンダーダイゼーション)を進める。

     その標準を公開しつつ「プラットフォーム(共通の枠組み、土台)」とする。

     そのプラットフォームに則った上で各社が独自技術を競い合って差別化を図る。

     結果として同一方向へ市場の活性化を導くことによってイノベーションを起こそうとする。

上で言う「技術の標準化によるオープン化」はこの①及び②の段階にあたるが、技術(特許)をオープン(公開)すれば市場全体が拡大する」ということが要諦だ。このことを裏返して言えば「技術をオープンしないとシェアがとれない」だが、それだけではない「技術をオープンしないと、そもそも市場が立ち上がらす、その結果、その商品のカテゴリー自体が消滅してしまうリスクもある」ということになる。

具体的にいえば、企業がすばらしい技術(製品)を開発した場合、それを自社だけで普及を図ろうとするとどうなるかを検討し、自分たちだけで市場の伸び率をドライブできるのか、つまり、インベンションをイノベーションにつなげるためにはディフュージョンというプロセスを完全に組み入れる必要があるということだ。

このような技術のオープン化によって仲間(イノベーション共闘)を得ることができ、その結果普及した商品は人々に使いつづけられるようになる。すなわち、少なくともある時期は「囲い込まれる」ことになる。この際に、基幹部品しっかり押えれば、周辺隣接関連他社を囲い込むことができる。普及を他社に任せれば、全体としてはエンドユーザーを効率的に囲い込むことができる。この囲い込みのときに与力となるのが「サードパーティー(関連商品を製造する第三者)」である。

その一方で、商品を開発した企業自体は、商品そのものの内側を独自技術でがっちり固め、外側はインターオペラビリティ(相互接続性)を担保した規格を整備し、それを標準として公開し、他社の利用を呼びかけるようにする。それによって関連周辺機器が整備され、商品システムが一群となって市場に普及することになる。

この場合は、一社で試みるよりも、はるかに商品の市場の立ち上がりは急激に加速される。別の角度から言えば、製品自体の市場全体と、そこに市場シェアの関係を根底から考え直す契機になろう。

上記の段階に対して、角度を変えて見る。ます、インベンションにおける協業について、技術の研究開発段階における協業は、①製品ライフサイクルの加速化への対応  ②技術の高度化・複雑化への対応 ③市場不透明によるリスク急増への対応、という点で有利とされている。ただし、このようなメリットだけではなく、当然デメリットを吟味する必要がある。すなわち、独自技術の扱いが極めて難しくなり、知的財産の件でのトラブルを招くおそれがある。そして、最も重要なことは、製品を念頭に置いたとき、どこが、その製品特性における「急所」つまり主導権を握るのかである。もし、それが既に他社に取られているならば、協業しつつ、どこで自社に有利な状況をつくれるか、例えば、どこで「関所」技術を開発できるかである。

また、製品の開発段階で製品やサービスに研究開発された技術の実装の実装が為され、その後にその製品やサービスを普及させる段階に入るが、ここの段階の乖離が「死の谷」といわれ、製品はできたけれど市場に受け入れられないことが起きていた。しかし、これを分業により一気に短縮し、「死の谷」を容易に乗り越えが可能となる。分業の効果的活用により、2つの側面で加速される。第1に、完成品の部品をすべて自前で整えない。つまり、自社の製品を基幹部品のみに特化し、これにつながるようにインターフェイスのプロトコルを標準化して公開することにより、この仕様に従う他の部品メーカーが力を貸してくれる。第2に、自社の基幹部品ができるだけ完成品に使われる工夫を行う。例えば、マザーボードのような中間財を作成し、そのノウハウや知財を他に提供することにより、力を貸してくれる企業が自然と増える。

このような分業で、ほとんどの場合に欧米企業が基本的な急所を押え、かつイノベーションの全体のシナリオを描く。そして新興諸国が格安の製品に仕立て上げている。得意なフェイズが異なる者同士がうまく組み合わされば、市場は一気に立ち上がりやすくなるわけ。

この後、著者の専門分野である知財マネジメントの説明と、まとめ、そして処方箋としての今後へと議論は続く。まとめは繰り返しになるし、今後どうするかはこの本の一番の眼目だから、興味のある人は直接お読みください。

著書も言っていたが、欧米企業と新興国企業の関係は、かつての宗主国と植民地の関係に似ている。欧米の文化の特徴かもしれない。たしか、文化論的視点からそのような特異性、例えば、中国にしろローマ帝国にしろ植民地は本国の隣地から徐々に領土を広げるものだが、近代ヨーロッパは飛び地のように植民地を作った。「ミュージアムの思想」でこのことを詳しく論じている。

2010年9月13日 (月)

妹尾堅一郎「技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか」(2)

さきに見たとおり、インプルーブメントを軸にした生産性向上より、イノベーションによる進価値の創出・定着の方が圧倒的に競争力強化になることが分かる。そこで、日本で想定されているイノベーションモデルの基本形である「知的創造サイクル」の紹介に進むが、そこをパスして、“負けている日本”に対して圧倒的に勝っているインテルとアップルのイノベーションを検討する。

インテルは、それまではインテグラル型製品(部品間の相互調整を綿密に行うことによって創り上げる、擦り合わせ型製品)だったパソコンを、基幹部品であるMPUの急所技術を開発して、それを起点にモジュラー型製品(部品を相互につなぐだけで済む組み立て型製品)に変えてしまった。しかも、そのMPUを取り付けたマザーボードという「中間財」を創り、それによってパソコンの組み立てを一気に簡略化した。そして、その製作ノウハウを台湾メーカーに渡して、廉価なマザーボードを製作させ世界中に普及させた。つまり、オープン化によって、新興国を活用してディフュージョンを一気に加速する新しいイノベーションモデルを形成した。そのプロセスの概要は次のよう

第一段階:急所技術の開発による基幹部品化

インテルは、まず、パソコンにとって最も重要な中央演算装置(MPU)の中で、演算機能と外部機能をつなぐPCIバスを徹底的に開発し、この内部技術を完全なブラックボックスに閉じ込めた。その一方で、外部との接続部分のインターフェイスについては、プロトコルを規格化して、さらにそれを国際標準として他社に公開(オープン)した。つまり「内インテグラル、外モジュラー」あるいは「内プロプラ、外スタンダード」「内クローズ、外オープン」と呼ばれる構造を完成させた。その結果、隣接・周辺・関連部品メーカー等はその標準規格に則って、関連部品を開発するようになった。これにより、インテル標準に従う企業が増加し、インテルのMPUを前提条件にして完成品が設計される基盤を整えていった。

しかも、一旦その標準を採用した以上は、そこから抜け出るのことは難しい。また外部からは内部のブラックボックス化したテクノロジーに踏み入ることはできない。なんとか代替技術を開発しようとしても、内部のテクノロジーを常に更新してしまえば、すぐに追いつくことは難しくなる。そこで、常に内部技術が先行して、それが外部の技術開発を制約するようになる。つまり、内部から外部コントロールするといった構造が完成することになる。

第二段階:基幹部品を組み込んだ、普及「中間システム」の生産

MPUができただけでは、すぐにパソコンの製作が簡単にできるわけではない。そこで、インテルは、次にそのMPUを組み込むマザーボードという「中間システム」を製作ノウハウを開発した。このマザーボードがあればパソコンを組み立てるのが飛躍的に容易になる。しかし、インテルは、これを以って完成品メーカーにシフトすることなく(米国内でマザーボード生産することによるコスト減には限界があった)、台湾のメーカーにノウハウを提供した。技術力を欠いた台湾メーカーはこれに飛び付き、マザーボードが安価に大量生産された。この措置により、インテルは自らの基幹部品を“モジュラー部品”として仕立て、それを広く普及する素地を形成させた。

第三段階:国際イノベーション共闘によるディフュージョン(普及)の分業化

この安価なマザーボードの普及により、パソコン市場は急速に拡大した。先進諸国におけるパソコン価格は一気に下がり、新興諸国にもパソコンが普及した。この一気に拡大した市場から得られる収益はすべてインテルに還流することになった。この際、インテルがイニシアチブを取っているが、インテルと台湾メーカーはウィンウィンの関係であり、事実、台湾メーカーはこのお陰で技術を得ることができ、その結果日本のメーカーが壊滅状態に追いやられた。

このプロセスからは次の三つのことが分かる。第一に、「市場の拡大」と「収益の確保」の両者が同時に達成され、それが、意図的なシナリオに基づく分業によって為されたということ。第二に、その基本シナリオは、インテルが描き、台湾メーカーがそのシナリオに呼応したこと。第三に、「三位一体」の事業経営が為されている。すなわち、一つ目は研究開発における急所技術の見極めとその開発。二つ目はそれをどこまで独自技術としてブラックボックスに閉じ込め、どこから標準化してオープン化するかという知財マネジメント。三つ目は、それらによって一方で市場拡大、他方で収益確保を両立するビジネスモデルの構築。

アップルは、インテルのような「基幹部品主導型」ではなく、「完成品主導型」モデルで、その圧倒的な強さの要因としては、「アップル」というブランドの強さとアイディアとコンセプトの斬新さ、時代の最先端を走るデザインや使い易さ等、基本コンセプトと設計思想そのものといえる。しかも、アップルの製品のほとんどは外部委託で作られている。その強さの秘密として重要なポイントが二つある。第一は、上位レイヤーの工夫、すなわち「モノとサービス」の相乗効果である。<iPod>は<iTunes>との組み合わせ相乗効果が出るような仕掛けになっている。著作権の領域まで踏み込んだ知財マネジメントを仕掛け、サービスビジネスに進出して、それと<iPod>本体という“モノ”との相乗効果を創ったと言える。その結果、モノとサービスが相互に関係しあい、モノが売れればサービスが伸び、サービスが伸びればモノが売れるという「相乗効果」をもたらす仕組みをつくった。そして、第二には、下位レイヤーの巧みな工夫がある。例えば<iPhone>のOSを前提に、それに載るソフトウェアの開発キットの無料配布を行い、多様な技術情報を公開した。ソフトが充実させることで、<iPhone>を使う価値が高まる。つまり、サードパーティの活用である。これにも、広義のオープン戦略と呼べるだろう。

これらのモデルから学べることとして、インテルからは「うまいこと基幹部品主導型のビジネスモデルを構築できれば、その基幹部品を通じて完成品市場をコントロールできる」ということで、要は、自分たちの創っている製品を単なる下請部材、納入部材と考えるか、あるいはそれらを主導的基幹部品になりうるものと吟味し直してみるか、それが完成品自体をモジュラー型に仕立て直しができる「急所」と位置付けられるか、そして重要なことは、急所技術があるかどうかという議論ではなく、製品のアーキテクチャーを自社の部品や材料が急所となるように仕立て直しうるかの議論であるということ。

他方、アップルからは、明らかに斬新で魅力的なコンセプトがあれば、画期的製品を作れるということだ。そのためには、完成品のコンセプトを起点に先導するためにはどうすべきか、ものづくりとサービスの相乗効果を図るにはどうしたらよいかという議論である。

2010年9月12日 (日)

あるIR担当者の雑感(1)

IRという業務は、先日も書いたように、投資家や株主というような、いわば企業の経営組織の外側にいる人に、過去の企業の業績や将来への経営の計画について理解を得て、そのためのプロセスで出資というか投資をする人の意見を聞いたり、質問に答えたりと、コミュニケイションを促進させるのが主な目的です。会社の業績については公式には、毎期に決算を行っているので、決算書をみれば一目瞭然(株式を公開している企業ならば、有価証券報告書を金融庁に提出して、公開されているし、決算短信は証券取引所で公開されている、また、会社四季報や企業のホームページなどでも見ることができる)という意見もあり、実際そうなのですが。実際の企業の経営はそれだけに終わらないという面もあります。例えば、“会社は、これから、このようにしていきたい”とか“このような決算結果となったのは、会社はこういう状況のなかである戦略をとって、そのためにこのような企業努力をしてきたためだ”ということは決算数字からは読み取れないのです。しかし、このようなことを説明できるのは、経営者(通常は社長やCEO)なのです。米国の公開企業の年次報告書では、「株主への手紙」という項目があってCEOが直接ペンを執って今期の経営はこうだったとか、これからはこうする考えだ、というようなことを自分の言葉で率直に語っています。最近では、JPモルガンのCEOであるジェイミー・ダイモンは約55ページにも及ぶ長大な「株主への手紙」を執筆し、そのなかで自らの経営方針や金融機関を取り巻く情勢(この中には、リーマン・ショックをはじめとした金融危機への反省も含めて)の捉え方、そして米国政府の経済政策への意見まで率直に語られています。これはJPモルガンの日本法人のホームページに日本語訳が掲載されていますhttp://www.jpmorgan.co.jp/about/financial_data/pdf/2009_annual_report_j.pdf

この他にも、かつてGEのCEOであったジャック・ウェルチが執筆した「株主の手紙」は抄訳が出版されていますし、バーシャ・ハサウェイのウォーレン・バフェットの「株主の手紙」は個人的に邦訳してホームページに掲載する人もいます。これらは特別な例で、読んでいても面白いし、企業のことや彼らがどのように考えで経営しようとしているかが、よく分かる。

しかし、日本では、このような例は聞いたことがありません。多分、無いでしょう。アメリカのやり方が100%いいというつもりは、ありませんが、政府や経済団体や証券取引所がコーポレートガバナンスなんかの議論をするときに、このようなことは一切触れられないのは、不思議でならないという思いはあります。

では、現在の日本では、このような説明は為されていないのかというと、行われています。それがIRです。大企業では、専門の部署があって、そこで米国の「株主への手紙」に相当するような説明を行っています。それは、投資家向けの説明会を開いたり、アニュアルレポートという報告書を企業独自に作成したり、公的な報告として有価証券報告書や決算短信にもそのような説明のページがあります。また、株主に対しては、各企業で「事業報告書」とか「株主通信」というようなタイトルの報告書を定期的に作成しています。

しかし、私の個人的な感想で言うと、米国の経営者の「株主への手紙」に比べると、概して迫力に欠け、面白くありません。冷静で客観的ではあるのですが、どこか他人事のような気配が感じられるのと、大企業に多いのですが、細かな記述は書かれているのですが、それらをまとめて企業としてどうしようとしているのかという見地で見ると、細かな項目を単に並列しているだけで、何をやりたいのか分からないのです。

私自身、実際に、自分の属している企業の、このような説明を作成しているので、他の企業の担当者を悪し様に罵ることはできないのですが、毎期、このようなことをやりながら、限界を感じています。実際に経営を行っているわけではないので、経営者のような迫力はないのは、当然なのですが、少しでも、それに近いものができないか、と。

それで、その代わりに、企業経営を外部から分析している人たちの著作を見て、参考にしているわけです。投資家やアナリストというような人たちも企業を外部から見ている人たちなので、そういう人たちの視点や言葉を理解して、かれらの視点や言葉で、企業の説明をすれば、理解が進みやすいだろう。その点では、経営者にない、担当者の勝っている点だろうという訳です。その意味で、経営学や企業分析の著作を読むことが多くなりました。その際の読書メモを兼ねて、このプログをやっているので、毎日の記事で一見要約ともとれるような内容ですが、これまで述べた私自身の解釈です。だから、人によっては著作の内容とは違うということになる可能性があることに注意してください。そして、書き方は読書メモの延長でやっているので、素っ気無く、親しみにくいかもしれません。

そして、このところ、ここで取り上げている著作を読んでいて、具体的には、メーカーの研究開発という分野に対しては、今まで、私の思っていたものよりも、ずっと広い範囲で考えられていたことを実感させられたのが大きなことでした。研究開発とは、製品を開発することだと思っていましたが、その後の製品の普及まで含めて、さらにその後の知的財産の管理まで考えると、単なる研究開発部門の担当業務というだけにとどまらず、経営の一環として捉えざるを得ないと認識を新たにしました。翻って、自分の会社の研究開発に対して、そのような視点で見てきたかというと、それはなく、当然、外部の人たちに対しても、そのような説明を求める人がいたとしても、その人の意図することは理解できなかったかもしれません。具体的には、有価証券報告書にはズバリ「研究開発」を説明するページがあり、その書き方も、これから考え直していくかもしれません。

それ以前に、このような視点で自分の会社を見直してみること(実は、これが凄く大変なことなんですが)から始めなくてはなりません。

2010年9月11日 (土)

セルジゥ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー「ブルックナーの交響曲第5番」

Photo この演奏の魅力が一番出ているのは、第2楽章にある。最初から聴いてほしい。オーボエがフラフラしたようなフレーズを、この楽器独特のもの悲しいような音色で奏するけれど、この不安定さは何処から来るのか。これはオーボエと伴奏をつとめる弦楽部のピチカートとのズレにある。以前、シューマンの交響曲第2番のところでも書いたけれど、それぞれのフレーズの長さが違うので、繰り返すうちに徐々にズレてくるのだ。シューマン以降のロマン派は不安定さとかこころの揺れ動くさまなんかを表わす際に、これを技巧として用いた。シューマンのような自らの狂気が形式として出てきてしまったようなあからさまなものではないが。ブルックナーも、ここで慎ましく使っている。指揮者によっては、ここを揃えて弾かせてしまっているケースもあるが、これからの展開が、いわば、ブルックナーの個性とも言うべき、各声部が各々でバラバラのような動きが、全体として聴くとまとまった節回しのように聞こえてしまうというものの、前振りのようだとすると、チェリビダッケのようにズレたか、揃っているか、何ともいえないような微妙なところで演ってほしい。このあと、弦楽部のフレーズの後で、クラリネットと弦楽部との掛け合いが、冒頭の記憶が残っていると、揃っているか否か微妙に聞こえてくる。このようなことから、この楽章がどこか不安定で儚げであるような雰囲気が漂ってくるように錯覚してしまうのだ。ただし、このようなことを、オーケストラに演らせることができるということと、演らせた結果が、演っているオーケストラが下手に聞こえないというのは、チェリビダッケという指揮者の力量を示しているといえる。

また、この楽章では弦楽器が力強く旋律的な動きを推し進め、その一方でオーボエやクラリネットがしっとりと歌うことで推進する動きに水を差すような働きを担わせて、言わば二項対立の要素で全体を構成し、二つの動きが鬩ぎ合いながら劇的な緊張感を高めてクライマックスの盛り上がりにもっていくというような力強い演奏をする指揮者がいる。例えば、オットー・クレンペラーがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したものがそうで、クライマックスに向けての弦楽部による旋律的な動きは推進力に溢れ力強さそのものを聴くものに感じさせる。これが繰り返す度に力強さを増していく、劇的な緊張感の高い演奏となっている。

これに対して、チェリビダッケの指揮は対立的な要素をあまり強調しないで、その代わりに旋律には、フワフワした不安定な浮遊感や歌が溢れかえる。クレンペラーの演奏では、弦楽部がマスとして分厚い塊のようになって旋律的な動きを推し進めるのに対して、チェリビダッケの各声部の動きが独立したように動き回る。そこでは、中低音部のバスやチェロ、そしてヴィオラが持続音のように並行するよう動き続け、それぞれの声部がパイプオルガンの持続音のように分厚く透けるように聞こえてくる。それらの動きをベースにヴァイオリンが、ときにヴィオラも加わり、各々が時には接近し離れる動きを展開する。バラバラに動いているようで、全体としては旋律のように聞こえてくる。そして、それらの各動きが、歌に満ちている。このような弦楽部の動きが少し引き加減になると、その穴を埋めるように管楽器が入り込んでくる。クレンペラーの演奏が、弦楽部による力強い旋律の動きと木管楽器の動きが対立的に扱われるのに対して、チェリビダッケの場合には連続性が前面に出てくる。その代わりに、弦楽器と木管楽器の音色の違いが歌と音色の多彩さ、各声部が絡み合う複雑な動きが、鮮やかに聴き取れる。そこでのクライマックスは力強さよりも、透けるような各部の動きが融合するとともに、音色が変化し溶け合っていくようなクライマックスになる。そこで受ける全体的な印象は、クレンペラーの推進力漲るダイナミックな力強さとは違って、スタティックながら各部の複雑な動きと溢れる歌による、耽美で陶酔的な世界だ。全体のトーンとしては弱音が主なのだが、ヴォリュームを大きくして、陶酔的な世界に溺れ、時間を忘れのもいいと思う。おそらく、チェリビダッケの中でも、随一の録音ではないだろうか。

妹尾堅一郎「技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか」(1)

9784478009260_1l  私は、小さな産業機械メーカーで事務関係の仕事をしているサラリーマンです。小さな会社なので、大会社なら一つの部署となるような仕事を一人で掛け持ちで担当しています。その中にIRという投資家や株主に対して会社のことを紹介したり報告する仕事をしています。会社の業績だの、会社の経営がこれからどのようにしていくかを、初めての人にも理解してもらうわけです。このプログでは会社への行き帰りの通勤電車の中で、聴いた音楽あるいは読んだ本のことを書いていますが、仕事のためもあるので、ビジネス本も読んでいるわけです。

とくに、私の勤めているのはメーカーなので、この本や「国際標準化と事業戦略」のような本は切実ではあります。

ここ数年、日本の製造業は、とくにエレクトロニクス産業で海外企業の後塵を拝している。これは、日本企業が「技術で勝って、事業で負ける」パターンに陥ってしまったためと考えられる。では、技術だけでは勝てない時代に、事業で勝つには次の3つの要素が三位一体となって適切に行われると考える。

(ア)製品特徴(アーキテクチャー)に応じた急所技術の見極めとその研究開発

(イ)  どこまでを独自技術としてブラックボックス化したり、あるいは特許をとったり、さらにはどこから標準化してオープンに周囲に使わせるかという知財マネジメント

(ウ)  それらを前提にして、一方で「市場拡大」、他方で「収益確保」とを両立させる、あるいは独自技術の開発(インベンション)と、それを中間財などを介した国際斜形分業によって普及する(ディフュージョン)という市場浸透を図るビジネスモデル構築

まず、概念の話で遠回りかもしれないが、「成長」と「発展」の違いから話を進める。「成長」とは、既存モデルの量的拡大のことである。この成長を進めさせるには、「インプルーブメント(改善)」による生産性の向上が不可欠であるモデルを洗練して磨き上げれば、より効能性も効率性も高まり、持続的成長を促す。これに対して「発展」とは、既存モデルとは全く異なる新規モデルへの不連続的移行のことである。これを別の角度からみれば「イノベーション」とも呼べる。イノベーションとは、画期的な新規モデルの創出と普及・定着のことである。

日本企業は従来モデルの磨き上げで世界に冠たる品質とコストを実現した。これが“競争力”の源であった。一方、日本とのモデルの練磨競争で負けた米国は、80年代から準備を始め、90年代に「モデル練磨という競争力モデル」を前提に戦うこと捨てて、「モデル自体を変える」戦略に出た。90年代の日本が負け続けたのは、このモデル変革を真剣に受け止められなかったからに他ならない。日本が、当面の経済不況を脱するための緊急避難的な対策はともかく、中長期的には、“成長のための成長”を捨てて“成長のための発展”を真剣に検討すべきだ。このためのイノベーション七原則が次のもの。

(1) 従来モデルの改善をいくら突き進めても、イノベーションは起こらない

(2) イノベーションは従来モデルを駆逐し、その生産性向上努力を無にする

(3) システム的な階層構造上、常に上位モデルのイノベーションが競争優位に立つ

(4) 下位レベルのモデル磨きは、上位のモデル磨きにとどまる場合が普通だが、ときに上位モデル創新となる場合もある

(5) プロダクトイノベーションのほうがプロセスイノベーションより強い

(6) 同種モデル間の競争はインプルーブメント、異種間の競争はイノベーション

(7) 成長と発展、イノベーションとインプルーブメントは「スパイラルな関係」

企業経営の失敗の多くが、従来モデルの磨き上げか、新規モデルへの移行か、その判断を誤った場合であると言える。ただし、世界の産業においては、従来モデルの練磨で勝つ競争力モデルから、新規モデルへの移行によって勝つ競争力モデルへと移行しつつある。競争力モデル自体が大きく変った。日本の経営者は、この競争力モデルの変化を、まず認識すべきだ。

2010年9月 9日 (木)

小川紘一「国際標準化と事業戦略」(6)

これに対して、欧米諸国の企業は国際標準によってオープン化しやすい産業で新たな勝ちバターンを1990年代に完成させていた。これを支えたのが大量普及と圧倒的な市場支配力を同時に実現させる仕組み作りとしてのビジネスモデルであり、国際分業の特定セグメントで知的財産を独占化しながらグローバルなオープン環境を支配する、というモデルである。

オープン環境の分業型構造では、自社の知財で独占できる領域を選んで集中し、そして独占し、オープン環境に点在する領域を支配する。例えば、インテルのパソコン用技術モジュールやマイクロソフトのWindows OSなどに見る技術モジュールなどは、いずれもオープン環境にスペクトル分散するサプライチェーンの特定領域であり、その内部技術は完全にブラック・ボックス化され、外部に公開されない。そしてブラック・ボックスに封じ込められた付加価値が、必ず自ら主導する技術イノベーションと知財マネージメントとの連携によって維持されていたのである。たえオープン化を標榜する経営環境であっても、選択・集中で独占できた領域の中でなら、古典的なリニアー・モデル、中央研究所方式、垂直統合型などの経済合理性が明らかに機能していた。

パソコンや携帯電話システムがオープン環境で標準化されれば、グローバル市場で巨大なサプライチェーンが生まれる。ここで特定の企業はもとより特定の国がすべての特許を独占するのは不可能である。しかしながらサプライチェーンの特定領域の内部を観察すると、そこでは明らかに知財が独占されていたのであり、クロス・ライセンスが支配する知財環境ではなかった。新たな知財マネージメントが創造されていたのである。それは、特許の数でも質でもなく、特許と技術力だけでも決してなく、公的に守られた特許権よりはるかに強力な個別企業同志の契約によって特許と技術力の作用が一段と強化されていた。その上でさらにネットワーク外部性などを組み合わせた複合的な知財マネージメントが、新たな知財マネージメントの中核になっていった。

このようなネットワーク外部性などを組み合わせた複合的な知財マネージメントが取引コスト・ゼロに近いオープンなグローバル市場を支配していたのである。これが現在の欧米の国際標準化に見る知財マネージメントの真髄であるが、日本でこの事実を前面に出して論じられることはほとんどなかったように思う。

ここから本書は各分野における事例、モデルを検証していく、そこから今後の日本企業への提言を考えていくが、ここが本書の狙いとするところであるので、ここでは記すことなく、興味ある方は一読を薦めたい。

おまけ…、最後に著者は言う。1980~1990年代の欧米諸国が強行した構造転換政策の背景には、失業率の増大やひどいインフレによる長期の経済低迷があり、塗炭の苦しみのなかで生み出されたものだ。一方、日本企業はというと、1970~1980年代に日の出の勢いでグローバル市場を席巻し、その余韻が1990年代の前半まで続き、このトレンドの乗り遅れた。また、既存の成功体験を持ち企業の組織能力を変えることは並大抵のことではなく、1980年代の欧米でも変化に対応しながら飛躍したのは新興の企業群であって、伝統的な企業ではなかった。日本にはベンチャー企業が少ない。

さらなる懸念材料として、デジタル技術/ソフトウェア技術の飛躍的な発展と国際標準化の重畳によって、類似の経営環境が多くの産業領域へ拡大しつつあるという事実である。オープン環境で国際分業が進展すると、基幹部品のサプライヤーが勝手に完成品側のアーキテクチャーをコントロールできる。したがって競争ルールが一変する。とくに電気自動車で国際標準化が進めば、これまでエレクトロニクス産業で到来したように経済環境となってしまう可能性が高く、日本企業の伝統的な企業制度では対応が困難になると考えざるを得ない。

我々は国際標準化がオープンなグローバル市場に生み出す比較優位の国際分業の中で、日本企業が持つ本質的な得意技を核にした新たな標準化ビジネスモデルや知財マネージメントを自らの手で生み出さなければならない。

と。

しかし、これは学者さんではなく、われわれ、企業の現場で働く人間が、それぞれの現場で苦闘しつつ、それぞれのケースで作っていくべきものだろう。欧米のインテルやマイクロソフトのような今では成功した企業も、当初は追い詰められて已む無くだったりして、作り出してきたのではないか…

この先に関連することは、方向性は多少ズレるものの、楠木建「ストーリーとしての事業戦略」にもヒントがあるように思える。

いつかは、触れたいと思う。

小川紘一「国際標準化と事業戦略」(5)

国際標準化の進展に伴い知財マネージメントのあり方も変容する。伝統的なクロスライセンス政策は、技術/ノウハウの伝播をコントロールできるという条件で成立していたが、特許の量が企業収益に貢献し難くなり、そして知財マネージメントのあり方が本質的に変ったのは、国際標準化や比較優位の国際分業が興隆して技術伝播をコントロールできなくなってからである。

1990年代以降、デジタル化とオープン標準化が結び付いて技術体系の伝播スピードが10~30倍も速くなるエレクトロニクス産業で国際的な分業構造が生まれ、ベンチャー企業群や新興諸国の企業が興隆する。ここからクロス・ライセンスがフルセット統合型企業の持つ弱点を顕在化させることになった。

我々が日常目にするデジタル型のエレクトロニクス産業では、製品を構成する必須特許の数百から数千に及ぶ。したがってたとえ統合型の大規模企業であっても1社で生み出す特許が全体の20%を超えるのは稀である。また製品を構成する必須特許の合計が、コストとして最大でも工場出荷価格の10%以下に抑えられているのなら、研究開発投資が生み出す特許は、どんなに頑張ってもトータルなビジネス・コストの数%を節約するだけに過ぎない。これが技術が伝播しやすい製品のクロス・ライセンスによって生まれる経営環境である。たとえ数十年にわたる研究開発の成果として多数の特許を生み出しても、わずか数%のコスト・ダウン効果でしかなくなった。特許の数の力が急速に弱体化してしまい、そして特許の質さえも数の中に埋没してビジネス上の効力を発揮させることが困難になった。技術とは調達するものであって自ら開発するものではないという考え方が新興諸国企業から出てきた背景は、このような経営環境が生まれていたのである。

これまで研究開発投資の成否や効率を論じる場合、大量普及する製品が開発できたか否か、そしていかに多くの特許を取得したかに焦点を当てることが多かった。しかしながら、国際標準化が比較優位のオープン国際分業を作り出し、ここにクロス・ライセンスやパテント・プール方式が取り込まれると、研究開発が生み出す特許の数や質を企業の競争力に寄与させることが極めて困難になった。グローバル市場に大量普及しても、特許が数%のコストダウン効果でしかないので、特許の数が競争力に直結しなくなったのである。

一般に日本の大手企業は統合型であって数多くの製品を自らの手で生み出す力を持っているので、数多くの特許を出願する。したがってクロス・ライセンスになってもトータルなビジネス・コストに占めるロイヤリティーの支払い(ここでは知財コストと表現)が相対的に小さい。しかしながらトータル・コストに占める売上高間接費率が非常に大きいので、非常に高い粗利益率を確保できる販売価格にしないとビジネスを継続できない。一方、新興国の企業は、研究開発投資が非常に少ないので知財コストが非常に大きいものの、通常は業界のルールとして最悪でも工場出荷価格の約10%程度(通常は3~5%)が常識となっているのなら、他のコストを小さくすることによって、グローバル市場のトータル・ビジネス・コストで優位に立てる.国際標準化された製品がグローバル市場で大量普及するタイミングから日本企業が退場を繰り返すのは、トータルなビジネス・コストで新興国企業に勝てなくなるためだったのである。さらに、新興諸国の企業は、ビジネス・コスト構造の中でさらにコスト競争を強化するために、製品がコモディティー化するタイミングで市場参入する。さらにはサプライチェーンを駆使して在庫リスクを大幅に減らし、またどの市場(ユーザー層)へ売るかによって品質さえも自由自在に決める.彼らにとって品質とは工場が決めるのではなく、ユーザーがきめるものなのである。また、研究開発投資がわずか数%のコスト・ダウン効果でしかないのなら、基礎研究ではなくブランド力の向上に資金を集中させる。ブランド力があれば価格を維持できて高い利益率に直結し、相対的にコスト競争力が強化されるためである。

この項、つづく

2010年9月 8日 (水)

クリスティアン・ツィンメルマン「ブラームスのピアノ協奏曲第2番」

Piano2 ブラームスのピアノ協奏曲第2番は、一名をピアノ付きの交響曲といって管弦楽が主体の曲らしい。しかし、この演奏を聴いてみて、そのようなことを感じるだろうか。それほど、この演奏でのピアニストはバリバリ弾きまくっていて、管弦楽より目立ちまくっている。しかも、弾いているピアニストは今では、完璧主義の大家になっているクリスティアン・ツィンメルマンなのだ。

まず、冒頭でホルンの角笛のような響きに乗って悠揚とピアノが入ってくるが、そのあとオーケストラの合奏が続き、改めてピアノがソロで入ってくると、テンポがぐっと速くなり、オーケストラをバックにバリバリと弾き出す。そこで特徴的なのは、左手で弾かれるバスの動きだ。他のピアニストでは隠れていた上昇音形が独立したかたちで繰り返しあらわれると、前のめりのリズムが強調されて、他の演奏に無い推進力を生み出しています。

これが第2楽章に入ると、さらに他の演奏に無い個性を際立たせる。入りのフレーズの速さは特筆もの。オクターブの連続で、ブラームスらしい細部のこだわりがあるので速く弾くのは難しいのだろうけれど、これにはオーケストラも振り回される感じで、ブラームス特有の重厚な響きでは速く動き回れないようで、ピアノについていけないかのようだ。この楽章は冒頭の弾きにくそうなテーマが繰り返し出てきて、オーケストラの重厚な響きに対抗するように音量が求められるためか、彼以外のピアニストは速く弾くことはしないで、じっくり弾こうとしている。その辺のためからか重厚な曲というイメージが出てくるのだろうか。そして、ここでも左手によるバスの音形が目立つ。これは他のピアニストからは絶対に聞こえてこない。辛うじて、この演奏で左手のフレーズの存在に気付いて、他のピアニストの演奏でも、それを探していてはじめて分かるという程度だ。第1~第2楽章を聴く限りでは、ピアニスティックに輝かしいという点で抜きん出ている。この演奏を聴くと、この曲はリストなどにも劣らないヴィルトゥジティに溢れた協奏曲であることが分かる。

しかし、第3楽章に入ると、あのチェロがいかにもブラームスという感じの渋い旋律をひいているとピアノはバックに周り、伴奏をつとめるが、そのあたりやチェロとの掛け合いなどは、味わいが足りない。第1、第2楽章のバリバリのストレート一本勝負で、柔らかなタッチとかちょっとしたルバートのような小技が効いていないので、うまく噛み合っていない。そこで、落ちるのが残念。

このCD、実は、発売になるまでの時間がかかって、録り直しを何度も行ったとか、ミキシング時にかなり操作を加えたとか、ファンの間では噂が囁かれたらしいが、これだけ一貫して、美点と欠点がはっきりとしているような録音というのは、とても珍しい。噂のように何度も録音に手を加えると、目前の欠点が修正されるが、出来上がってみれば可も無く不可も無いような凡庸な結果になるのが落ちだが、これは尖がった演奏として残っている。

小川紘一「国際標準化と事業戦略」(4)

これまででも国際標準化が作り出す新たな経営環境に対して垂直統合型の組織能力が適応困難になり、市場撤退の道を歩むことになるプロセスを分析してきた。したがって、国際標準化によって加速するオープン分離型の産業構造と日本企業が持つ伝統的な組織能力とり乖離をまず認識し、その上で日本企業の得意技を生かす標準化ビジネスモデルや知財マネージメントを創り出す必要がある。

オープン環境の国際標準化とは、分業化をグローバル市場へ拡大する仕組み作りであり、それぞれのセグメントの相互インターフェイスや結合公差をオープン化する行為であり、これによって巨大なサプライチェーンと国際的な分業構造が生まれる。したがって、もし企業のビジネスモデルを離れて国際標準化に参加すると、無防備で牧歌的なオープン標準化になりやすく、フルセット垂直統合型の組織能力が生み出す技術イノベーションの成果が一瞬にして流出する。

オープン環境の国際標準化が持つ基本的な作用は、グローバル経済の視点で以下のように整理することができる。

     オープン環境の国際標準化は、新しい付加価値を生み出す共創の場とこの付加価値をめぐる競争の場との二重構造を作り、グローバル市場に巨大な経済活動を創出する。

     製品アーキテクチャーが国際標準化によってオープン・モジュラー型へ転換し、産業構造が巨大なサプライチェーンに分解される。したがって、技術の全体系を持たずに特定セグメントに集中するベンチャー企業群が大きなヒジネス・チャンスを掴むことができる。この意味で国の国際標準化政策は、ベンチャー企業育成や小規模企業の競争力強化と連動することが強く期待される。

     特にデジタル型の製品では、モジュラー化が究極まで進展することで部品の結合公差が無限大に近づき、国際標準化がこの公差をグローバル市場でオープン化するので、取引コストの極めて低い市場が生まれる。技術蓄積の低いNIESやBRICS企業などが、最先端の製品でグローバル市場へ参入することが可能になって製品コストが急激に下がり、10~50倍も大きなグローバル市場が瞬時に興隆する。

     国際標準化によって、技術伝播スピードが極端に異なるモジュラー型と摺り合せ型のアーキテクチャーがグローバル市場のオープン・サプライチェーンの中で共存し、比較優位の国際分業が進展する。

     国(企業)がそれぞれ得意とするセグメントを選んで集中するようになり、先進工業国と開発途上国との間に、自国(自社)と他国(他社)の付加価値を、ともに拡大する比較優位の国際貿易が広がる。

     もしそれが国の社会インフラを支える公共財であれば、基準の統一や測定法の統一を国際標準に合致させることで、低コスト・高効率の社会がグローバル経済を活性化させる。

以上は、いわゆるマクロ的な視点からのものである。これに対して、グローバル市場の最前線に陣取る企業人と同じ目線のいわゆるミクロの視点からでは以下のように整理することができる。この組み合わせによって標準モデルを構成できる。

     技術伝播スピード/着床スピードが際立って速いオープンなモジュラー型が低コスト・大量普及を担い、伝播/着床スピードが非常に遅いブラック・ボックス型の擦り合わせ技術が利益の源泉ーを構築する。

     これが擦り合わせ型の技術体系をもつ製品/システムであれば、外部仕様/インターフェースのオープン化によって、普及速度の速い技術モジュールへ転換させることができる。外部仕様/インターフェースのオープン化は、擦り合わせ型ブラック・ボックス領域をさらに強力に保護する上で大きな役割を担う。

     これがモジュラー型の技術体系を持つ製品/システムであれば、技術体系のすべてではなく、グローバル市場に生まれるオープン型のサプライチェーンの特定セグメントだけを選び、ここに自社の付加価値を集中カプセルさせたブラック・ボックス領域を構築すれば、付加価値がモジュール型の完成品を担う企業によってグローバル市場へ運ばれる。

     ブラック・ボックス領域と同等以上にオープン標準化する領域にも多くの知的財産を刷り込ませ、これを誰にも自由に使わせるという取引コスト・ゼロの環境を提供すれば、多くのパートナー企業を自社(国)主導の国際標準の土俵へ引き込むことができる。

     誰にも自由に使わせる領域の知財権(差止請求権)を決して放棄することなく堅持し、知財権とテクノロジー・イノベーションによって技術の進化を独占すれば、国際標準によって興隆する巨大なグローバル市場で圧倒的な影響力を保持・拡大できる。

     上記①~⑤を年頭に国際標準化を主導できるなら、完全にオープン化して大量普及を担わせるレイヤー(標準化レイヤー)、自社の知財を刷り込ませて技術進化を独占するレイヤー、そして自社の付加価値を集中させる特定セグメント(標準化させないレイヤー)を、ビジネスモデルとして事前に設計することが可能になる。

     上記⑥の事前設計なくして大量普及と高収益の同時実現に向けた第一歩を踏み出すことはできない。もし事前設計をすることなく国際標準化へ参加したり、あるいは後追いで国際標準化に参加すると、価格競争と技術開発競争の同時進行という不毛のビジネスに追い込まれる。

これら7つの現象を指標にして、4つの標準化モデルの累計を分類する。その中で、標準化ビジネスモデルを日本企業の得意技を生かせる日本型のモデルへ進化させて行くことを求めてである。

(1)標準化第1ビジネスモデル

第1モデルが持つ最大の特徴は、ブラック・ボックス領域の外部インターフェースとしての機能/性能、特性/寿命、仕様環境条件、試験条件、物理的形状/配線、電気的仕様/論理仕様などを、標準化によって完全オープンする点にある。当然のことながらブラック・ボックス領域の内部は決して標準化(オープン化)しない。この意味で標準化第1モデルとは、自社の技術革新をブラック・ボックス領域に集中させ、この成果をオープン・インターフェースを介して大量普及させる仕掛け作りと定義できる。このブラック・ボックス領域は摺り合せ型のアーキテクチャーで統合型の組織能力を持っている日本企業にも、これを活用できる。例えば、電子部品や材料関係といった天然要塞のようなブラック・ボックスであり、海外企業の知財マネージメントなどのソフト・パワーの人口要塞のケースもある。

(2)標準化第2ビジネスモデル

第2モデルは、ブラック・ボックス領域のイノベーション成果をオープンなグローバル市場へ大量普及させると言う点では第1モデルと同じだが、大きく異なる点は、完全ブラック・ボックス領域とオープン領域の間で双方をつなぐために中間領域を設けることである。中間領域は、まず第1にブラック・ボックス領域の付加価値をさらに拡大する機能を持ち、第2にブラック・ボックス領域からオープン環境をコントロールする機能を持っている。この2つの機能を内部に封じ込めた中間領域をオープン・モジュラー環境へFull-Turn-Key-Solutionとして大量に流通させるのが、標準化第2モデルの真髄である。

このモデルをオープン環境・モジュラー型市場に陣取るキャッチアップ型企業の視点で見れば、単に取引コストが下がるだけでは決してない。技術蓄積のない新興諸国の企業にとって、巨大なグローバル市場へ参入するビジネス・チャンスが第2標準化モデルによって到来するのである。ここからほぼ理想的な比較優位な国際分業が生まれ、比較優位の国際貿易もこれを起点にして飛躍的に拡大する。一方、第2モデルの仕掛けを作る企業の視点から見れば、Full-Turn-Key-Solution型のプラットフォームを中間領域で構築することによってはじめて、自社(自国)の付加価値領域を大量に、しかも非常に低い取引コストでグローバル市場へ普及させることが可能になる。完成品の低コスト組立を担う新興諸国の比較優位が、ブラック・ボックス型の付加価値を巨大市場へ大量普及させてくれるからである。もし、ここでブラック・ボックス領域の技術進化を独占することができれば、標準化第2モデルによってグローバル市場の完全支配さえ可能になる。これを背後で支えるのが知財マネージメントであるという意味で、特に第2モデルでは、技術開発と同等以上に知財マネージメントが競争力の維持・拡大に重要な役割を担うようになった。このような特徴を持つ第2モデルは、1990年代の中期にアメリカ企業によって生み出された完全勝利モデルであり、日本のエレクトロニクス産業の多くがこのモデルの登場によって、グローバル市場から撤退する道を歩み始めたと言える。

(3)標準化第3ビジネスモデル

第3モデルは調達市場を完全オープン化するもので、第1モデルや第2モデルと大きく異なる点は、グローバル市場で圧倒的な支配力を持つ企業が、部品や材料を低コストで安定に調達するための経営ツールとして第3モデルを活用する点にある。

しかしながらこの調達型の標準化を、調達される側から見るとまったく別の風景となる。たとえば、欧米企業による調達型の標準化ビジネスモデルによって日本企業が得意とする摺り合わせ型の製品や技術体系が何度か危機に瀕したのも事実であった。一般に摺り合わせ型の特徴は、これを構成する材料等の相互依存性が非常に強いと言う点にある。したがって内部構造や製造プロセスの細部がオープン化されることはない。しかしながら低コスト調達のため、あるいは独占する日本企業のシェアをキャッチアップ型の国や企業が切り崩す手段として、IECなどの国際標準化機関を介しながら標準化によって内部構造をオープン化しようとするのである。

(4)標準化第4ビジネスモデル

第4モデルが持つ基本的な作用それ自身は、第3モデルとほとんど同じである。第3モデルと大きく異なる点は、特定の国や企業や個人の利益のためでなく、誰でも参加できるオープンな“共創の場”をつくることだけを目的とする点にある。

ここから、このモデルを用いて、具体的なケース、パソコン、ネットワーク、デジタル携帯電話、デジタルカメラ、DVD、メモリーカード、太陽光発電などの標準化モデルを見ていくが、ここが本書の真骨頂だと思う。゛あるから、こことは興味のある人は読んで下さい。

この項、つづく

2010年9月 7日 (火)

クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーブランド管弦楽団「シューマンの交響曲第3番『ライン』」

540 「ライン」という愛称で呼ばれているこの曲は、ドイツ中央部を縦断する大河ライン川のとうとうたる流れを髣髴とさせる、生き生きとした明るさに満ちた曲として、シューマンの管弦楽曲の中では比較的親しみやすい部類に入るようだ。

しかし、元気はつらつとした第1楽章、牧歌的な農家の舞曲のような第2楽章などに続いて、第4楽章が突然短調に転調して心の闇を覗き込むような深刻な楽章となり、その後最終の第5楽章で、また突然第1~3楽章の第4楽章に比べると脳天気とも言える明るさに何事もなかったかのように戻って終わる。単純に考えると、第4楽章だけ他の楽章とは浮いていて、交響曲として全体の構成などは考えられていないように見える。演奏家によっては、このような第4楽章の突出を目立たぬように、全体に淡々とした演奏をする人もいる。ベートーヴェンやモーツァルトのような古典派の交響曲というイメージからすると、このようなシューマンのこの曲は破格とも言えるもので、交響曲として演奏しようとする人は、交響曲としてのまとまりをつけさせるために苦労していると思う。

解説書の中で例えば「ダビッド同盟舞曲集」で説明されているようなシューマン自身の公言していた2つの側面“フロレスタン”と“オイゼビウス”の二面性が表われた、という説明がつかないわけではない。あるいは、シューマンという人の分裂症の表われという解釈もできるだろう。そこで、第4楽章の突出を際立たせて、いかにも分裂症のシューマンというイメージを抱かさせる演奏をする人もいる。ただし、この場合には、交響曲としてのまとまりは犠牲にせざるをえなくなる。とくに、私のようなクラシック音楽の伝統にどっぷり浸かっているわけでない者にとっては、交響曲はこうあらねばならないというような考えはないため、分裂している作品なら、分裂しているように演奏して、形式に対する先入観のようなものはない。

また、シューマンの交響曲はオーケストレィションに問題があって、彼がピアノの作曲家であることから、ピアノと同じように、オーケストラの各楽器の音色等の違いをあまり考えず、ただ声部を重ねていってしまうので、全体にのっぺりとしたものになってしまう。それで、指揮者によっては編曲を施したり、オーケストラをいじったりして、オーケストラの効果を出そうとしている演奏もある。

で、いろいろ前置きが長くなったが、この演奏である。最初から脇道にそれて恐縮だが、同じ作曲家の第2交響曲の冒頭に一番分かり易く出ていることなのだが、この曲はホルンで奏される“ターンタターン”という狩りのファンファーレが繰り返され、これが基調となって曲全体を構成していくのだけれど、最初に出てくるところで、ホルンに弦楽部で分散和音のような伴奏がつく、これが曲者で、実はホルンの“ターンタターン”というフレーズと弦楽部の分散和音の伴奏のフレーズが合わない。最初はそれぞれが一緒に始まってフレーズの最初が合うのだが、それぞれが繰り返されるにつれて、だんだんズレ始める。それが違和感が次第に広がっていく。そして、全体としてのフレーズが掴みきれず、なんとも不安定な落ち着かない感じになる。ピアノ曲でいうと「クライスレリアーナ」の第1曲や作品111の幻想小曲集の第1曲のような感じだ。

これが小規模なれど第3交響曲の冒頭でもある。弦楽部と管楽器の部分が微妙にズレで落ち着かないのだ。演奏者によっては、ここをズレの無いように収拾をつけてしまう。しかし、この演奏は、その微妙さをストレートに演ってくれる。「ちょっと変だな」という程度でだ。

シューマンのオーケストレィションに問題があると言われていること、さっき話した。この演奏は、とくにその欠点を取り繕おうとはしない。それよりも、むしろ。この曲の冒頭の有名なテーマを一斉に鳴らした、弦楽部が受けてテーマを演り始めると、金管楽器が重なってくる。これが、この演奏では、金管楽器があたかも弦楽部に横槍を入れるかのように入ってくる。これに対して弦楽器は負けじとがなりたてるかのように音量を上げる。楽器が重なるときには、このようなことが繰り返され、段々とエスカレートしていき、なんとも騒がしくなる。それは、生きいきと元気がいいということになるかもしれないが、もっとわざとらしいものに変質している。一種の躁状態をかもし出すのだ。だから、最初に言ったような、大河のとうとうとした流れ、素朴な明るさなどといったものとは程遠い、強迫観念に駆られての狂騒状態に変じるのだ。

こうなると、この曲の構成上のおかしな点、第4楽章の突出は、意味が変ってくる。全体が、そのような狂騒状態の中で、第4楽章はその裏返しなのだ、簡単に言うと躁鬱の鬱状態なのだ。どちらも狂気であることには変わりはなく、単に表われ方が正反対なだけということになる。

というような、この演奏から感じられたことから言うと、シューマンと言う人は、狂気というものをここまで大規模にそして精緻に構成してみせた、ということになる。これは、後のマーラーなどの後期ロマン派の甘美な狂気への憧れなどまで頽廃することもなく、怜悧に狂気そのもの、おそらく心を蝕まれつつありながら、そのような自分を見つめて、そのあり方をそのまま構造として作品に構成させていった凄みというものを感じざるをえない。それこそが、作曲家としてのシューマンの狂気に他ならないと思う。

マリア・ジョアオ・ピリス「モーツァルトのピアノ・ソナタ第11番」

Pris_2 以前は、クラシック音楽好きの友人とブラインドテストをよくやった。音楽は感性で聴くべきとかいう人がいるけれど、特にクラシック音楽の場合、誰が演奏しているとか、伝記的な事実である事情のもとで演奏されたとかいうような、言葉の情報から一種の先入観を作って音楽を聴いている。たぶん、こっちのほうが日常的だ。人間の感覚とは、もともとそういうところがある。そこで、あらかじめ何を聴くかを伏せたうえでCDをかけて、その演奏の印象を語るという遊びだ。演奏者を当てるクイズにしてもいい。それで、その異様さに気がついたのだった。

モーツァルトのトルコ行進曲はポピュラーな名曲として、耳にしたことのある人も多いと思う。マリア・ジョアオ・ピリスが1970年に録音したモーツァルトのピアノ・ソナタ第10番の第3楽章。有名なトルコ行進曲。後年、1990年に再録音しているが、その時の演奏時間は役3分半、それを、このときは約5分半と2分ちかく遅く弾いている。他のピアニストも、おおむね3分半前後で弾いているので、いかにテンポが遅いかが分かるだろう。テンポが異常に遅いと、行進曲というような感じはしなくなる。しかも、若いピリスは淡々と弾いていく。他のピアニストは軽快なテンポで疾走し、いくつかの盛り上がりの場で高揚した気分にもって行き、最後に大団円というかたちで盛り上がりの中で壮快に終わる。しかし、ピリスは淡々として強弱を抑制する。盛り上げることをしない。それを、意図的に抑えているのが分かるような弾き方をしているから、じっと盛り上がりを抑えているようにかんじるため、いつか爆発させるのではないだろうかという期待を抱かせられるのだが、最後まで、それは裏切られる。しかも、異常に遅いテンポで弾かれるのを追いかけていくうちに、だんだん重苦しさがつのってくる。

これは、ピリスが感じたモーツァルトなのかもしれないが、一般に軽快な名曲と思われているこの曲に、このような重苦しい要素もあるという特異な演奏だと思う。

2010年9月 6日 (月)

小川紘一「国際標準化と事業戦略」(3)

国際標準化とは、取引コストが極めて低い“規模の経済”をグローバルな広い範囲に拡大することと同義語である。とくにデジタル型の製品であれば規格の範囲内で交差がほぼ無限大に広がる意味で、取引コストはゼロに近い状態になり、規模の経済が瞬時にグローバル市場に拡大する。そこでは、水平分業化の方が規模の経済を遥かに大きく享受する。したがって、すべてを内部に取り込むフルセット垂直統合型の経済合理性が崩壊する。

しかしながら、現在、垂直統合型のすべての日本企業が競争力を失ったわけではない。内部構造が擦り合わせ型の基幹部品や材料は、依然として圧倒的な競争力を維持している。製品の内部アーキテクチャーが擦り合わせ型を維持する基幹部品や材料であれば、それ自身がオープンな国際分業型へ転換することなく、それ自身の取引コストをすべて内部の付加価値として取り込むことができるためである。

例えば、製品アーキテクチャーがモジュール型に転換したCDROM装置やDVDを担っているのは、新興諸国である。しかし、その中で技術ノウハウが内部にブラックボックスとして封じ込められている光ピックアップやマイクロ化学部品などは、擦り合わせ型のアーキテクチャーを維持できているものは、現在でも例外なく光ディスク技術の全体系を持つ製造大国の日本だけが担っている。

つまり、製品アーキテクチャーがモジュラー型へ転換すると、日本企業からみた付加価値が完成品から基幹部品にシフトしたと考えられる。新興国の企業が日本の比較優位を反映させた基幹部品を使って完成品市場に参入するようになったという意味で、日本の擦り合わせ型技術体系が新興国の企業群によって大量にグローバル市場に運ばれるようになったのである。

そこでは、最先端の擦り合わせ型基幹部品がCDOM装置やDVDなどの生産に大きなシェアを占めるという、ソリューションとしてのプラットフォームに転換されたと言う意味で、日本企業に対する巨大な需要がオープン標準化によって生まれたという、比較優位の国際貿易環境が生まれたのである。

ここから明らかになった第1の点は、日本企業の技術が擦り合わせ型・匠の技のまま放置されれば何時までたっても普及しない、あるいは擦り合わせ型技術は伝播し難いという事実である。第2の点は、擦り合わせ型技術を核にプラットフォームが形成され、その外部インターフェース(ここでは形状、サイズ、機能、性能など)がデファクト規格になってTurn-Key-Solution型へ転換されたときはじめて、モジュラー型の完成品に組み込まれて大量普及する、という事実である。そして第3の点は、Turn-Key-Solution型のプラットフォームを使ってモジュラー型の完成品を組みたて、これをグローバル市場へ供給するのは、技術蓄積の少ない新興国の企業群であった。

統合型の経営思想を持ったままで国際標準化を推進する日本企業がグローバル市場で競争力を発揮できないのは、モジュラー型に転換した製品セグメントだけであり、擦り合わせ型を維持できるセグメントでは圧倒的な競争力を持つ。よって、比較優位の国際分業を年頭に置き、大量普及がはじまるビジネスモデルさえ構築できれば、国際標準化が生み出す10~50倍の巨大市場で大量普及と高収益を同時に実現できる。これを担うのが標準化ビジネスであり、標準化知財マネージメントであったのである。

この項、つづく。

アンドラーシュ・シフ「バッハのパルティータ

Shiff アンドラーシュ・シフというピアニストの実演を聴いたのは20年も前になる。このCDの録音は、それより前になるが、CDで聴くのと、ピアノの音があまりに違うので驚いた記憶がある。録音の音は残響が豊か過ぎてピアノの音の芯が隠れてフワフワな感じだった。しかし、実際に聴いた音はデッドで輪郭のはっきりした音だったような気がする。

とはいえ、CDで録音されたものは、それはそれでひとつの作品(商品)として聴いているので、この音で、演奏が録音されたのは、それなりの理由があるはずで、その意図が明らかであれば、それはそれで尊重すべきことと思う。

さて、この録音で感じられる演奏の特徴はシフというピアニストの装飾の捉え方だ。バッハの時代には、現在のようなピアノという楽器はなかった。鍵盤楽器でピアノに近いものとしてはクラヴィコードとかチェンバロというような楽器が主流だったらしい。それらとピアノとの大きな違いは、それらがピアノのような豊穣な響きを持っていなかったことだ。ピアノもそうだが、鍵盤楽器は弦をはじくか、叩くかして音をだすので、その音は単発的になる。弦楽器や管楽器のような連続した音は出せない。だから、メロディを弾いても音の連続で歌わせるようなことはできない。それでもピアノは音の残響が豊かなため、前の音の残響が残るうちに次の音を響かすことにより、あたかも音が続いているかのように響かすことができる。しかし、チェンバロのような弦を引っ掛けて音を出す、しかも残響をあまり響かせられない楽器では、それができない。そこで、ピアノならば残響で響かすようなところで、より多くの数の音を出すことでその穴を埋めようとする。その埋め方が装飾音という手法をとることになる。だから、バッハの鍵盤楽器のための曲をピアノで弾こうとするとき、このようなピアノとチェンバロとの基本的な音の出方の違いがあるため、これをピアノでそのまま弾くことについては、難しい点がある。

例えば、グレン・グールドはピアノの残響を抑えてピッチカートでひとつひとつの音を軽快に、そして独立性を持たせて、あたかもチェンバロで弾いているかのような弾き方をする。

ここで、シフの特徴に戻る。このバッハのパルティータも、チェンバロで弾かれることを前提にして装飾音が沢山ある。それを例えば、グレン・グールドが弾くようにチェンバロのようにピアノを弾くようなことをしない。シフはピアノの豊穣な響きをもって弾く。それでは響かない穴を埋めるための装飾は必要ないのではないか、と思うかもしれない。実際、グレン・グールドはメインとなるメロディの部分と響かない穴を埋めるための装飾の部分をはっきり分けて弾く。メロディの部分を際立たせて、装飾の部分をメロディの部分に従属させる。このような役割分担をはっきりさせる。これに対して、シフはこのような主従の明確な区分をしない。メロディと装飾の区別をシフはしない。そうすると、どうなるのか。演奏全体が装飾的なものとなるのだ。そのとき、CDで録音された芯のないフワフワした軽快な音が意味を持ってくるのだ。芯のある音で弾かれれば音の形であるメロディが重要になるのだが、軽快でフワフワした音でパラパラと細かな音が装飾ともメロディともとられず動きまわる。これが、シフのパルティータの醍醐味といえる。元来が舞曲の集まりであるパルティータでは、メロディを聴き込むというよりは、細かな音が軽快に動くことで生み出される複雑なリズムが演奏に軽快な躍動感を与えている。さらに、全部が装飾的に演奏されることで、聴く者がメロディやリズムを自由に捕らえられるという闊達さを生み出している。演奏のどの部分がメロディの主部でどの部分が装飾なのかは聴く人が自由に解釈できるというわけ。

また、さらに、ここからがシフの真骨頂であるが、ここで様々な工夫をこらす。その典型的な例が、第1番の終曲のジーグ。くるくると回るように音形を繰り返していくリズミカルな小曲だが、二つの音が上下の動きを繰り返すのだが、まるで左手と右手が交互に掛け合いをするかのように、アクセントの動きをずらしたり、タッチを変えてみせたりして効果を多種多様に聴かせることによって、単純な繰り返しがポリフォニックにすら聴こえるし、リズムが単純に拍子を刻むのではなく、生き生きと動きまわる様に聴こえてくる。このような軽快な生き生きとしたところがシフのパルティータの最大の魅力ではないだろうか。

ただし、シフのこのようなアプローチには向き不向きがある。このバッハのパルティータは成功した事例だけれど、反対にスカルラッティのソナタ集では、装飾音とメロディの区別がないことが、逆に装飾音がメロディの片棒をかつがされることになり、本来なら軽快であるべきはずの装飾音にメロディのような意味づけが為されることになり、重苦しくなってしまって、スカルラッティのソナタの魅力であるダイナミックな動きが止まってしまっていた。

2010年9月 5日 (日)

小川紘一「国際標準化と事業戦略」(2)

国際標準化とは多くの国の人人々が低コストで自由に自由に利用できるようにすることを目的としている。デジタルとは誰でも簡単にコピーすることを意味する。また、デジタル技術の介在とは製品のアーキテクチャーが瞬時にモジュールに転換することを意味し、技術蓄積の少ない新興諸国企業であっても短期間で市場参入が可能になる。いわゆる取引コストの非常に低い市場が、国際標準化とデジタル化の重畳によって21世紀のグローバル市場に出現した。これは1980年代には全く想像できなかった10~50倍の巨大市場が国際標準化によって瞬時に生まれることになった。本書は、これをパソコン、デジタルカメラ、DVD、携帯電話で実証してみせる。

例えば、デジタルカメラは銀塩フィルム・カメラが70年以上の歳月をかけて作った市場を、わずか7年で追い越してしまったのは、国際標準化の作用であるという。そのプロセスは、もともと、製品開発や設計とは、個別の要素技術を製造システム1つひとつの工程に分散カプセルする一連の行為であるが、同時に複雑に絡み合った技術の相互依存性を排除して基幹部品相互の結合公差を拡大させ、技術モジュール(部品や材料)の単純組み合わせだけで完成品(セット)を量産できるにする一連の行為と言える。相互依存性を可能な限り少なくする技術の開発によって、組立工程のそれぞれが守るべき製造公差が決められる。たとえ複雑な製造工程であっても決められた公差さえ守れば他の工程のことを全く考える必要はなくなるという意味で、オープン化が可能になる。工程操作に必要な擦り合わせノウハウが製造公差として実現されれば、複雑な製造工程が公差の範囲で組み合わせ型となるためである。

銀塩フィルム・カメラのようなアナログ型の製品なら公差を広く取れないので熟練の工員が必要となる。一般にこの公差は企業の内部に封じ込められた社内規格であり、たとえばノウハウが擦り込まれた作業手順書などとなって厳格に企業内で管理され、決して公開されることはない。一方、国際標準化とは、製品を校正する基幹部品インターフェイスとその結合公差をすべてグローバル市場へオープン化することである。公差が非常に狭いアナログ型なら、たとえオープン化されても強力な生産技術部門と熟練の作業員が必須であると言う意味で、設計者が同じ場所にいて自由に情報共有のできる垂直統合型の企業だけが、歩留まりよく低コストで量産できた。このケースで日本企業が圧倒的に強かったのである。

一方、デジタルカメラ、カメラつき携帯電話やDVDなどのデジタル型の製品なら技術モジュール相互の結合公差が非常に広いので、公差が国際標準化によってオープン化されるのであれば、熟練の工員を全く必要とせずに誰でも完成品のビジネスに参加することができる。これが設計と製造の分離であり、フルセット垂直統合型か経済合理性を失う。グローバル市場に巨大な分業構造としてのオープン・サプライ・チェーンが生まれる背景がここにあった。

このように国際標準化が進めば、それぞれの部品で設計情報の擦り合わせ調整コストや製造コスト、調達コストなどがすべて劇的に下がる。これに伴い低価格の製品が大量に市場に供給されることにより、新興国を中心に新たな市場が開拓され、市場規模が10~50倍に広がる。そうなると、水平分業化の方が規模の経済の恩恵を遥かに大きく享受する。しかも、国際標準化の時代を象徴するパテント・プールやクロス・ライセンスが特許の持つ力を非常に弱める知財環境を生み出したと言う意味で、国際標準化は取引コストが極めて低い規模の経済をグローバルな巨大市場へ拡大するのと同義語となった。

もしも、この場合でもフルセット垂直統合型をとるのであれば、規模の経済が社内だけに留まるのでコストが相対的に高くなって価格競争に勝てない。その上でさらに内部調達コストとしてのオーバーヘッドが相対的に大きくなって高コスト構造から逃れられないので、ここからフルセット垂直統合型の企業形態が経済合理性を失う。圧倒的な技術力を持って国際標準化を主導しても大量普及のステージになると日本企業が勝てない理由がここにあったのである。

この項、つづく。

2010年9月 4日 (土)

小川紘一「国際標準化と事業戦略」(1)

Ogawa 「メイド・イン・ジャパンは終わるのか」と関連する内容として読んだ。とくに、設計や生産技術に関して「メイド…」の各論として読みことができると思う。

まず、メーカーの製品開発の経営戦略について、潜在的なニーズを引き出して新たな需要を切り開く新商品を開発すれば、すなわち売れる商品を開発できて大量普及すれば必ず企業収益に貢献するということが暗黙の前提としてあった。そして、これが、かつての日本のメーカーの強みであったが、これが変容して、日本の強みが薄くなってきているという議論である。

ここ15年くらいの間で、例えばDVDは基本技術や製品開発、市場開拓、国際標準化もすべて日本企業が主導し、必須特許の90%を押えながら、現在は、DVD装置やディスク媒体の製造では韓国、台湾、中国企業が市場を支配し、日本企業の多くは撤退に追い込まれてしまった。

このことを、製品アーキテクチャーという枠組みで考えていく。製品アーキテクチャーとは設計思想とも言われ、製品をつくり生産する基本的な考え方のしくみのことである。例えば、モジュラー型の製品アーキテクチャーは、パソコンのように個々の部品が手に入れば誰でも組み立てられ、マイクロ・プロセッサーのような部品を入れ替えると素人でも製品の性能をアップさせることができるものである。これに対して、インテグラル型の製品アーキテクチャーは自動車に代表される。パソコンが部品の組み立てだけでできるのに対して、各部分を全体としての製品にまとめ上げるのに、全体的な調整が必須となる。例えば、燃費を上げようと車体を軽くすると、車重に合わせてサスペンションを変え、エンジンを最適調整し、トランスミッションを再調整しなければ、最適な機能・性能を生み出せない。

B本企業は、この分類で言えばインテグラル型の製品アーキテクチャーで圧倒的な強みを発揮してきた。現在でも、自動車、工作機械、機能化学、電子部品などのようなインテグラル型の製品での日本企業の世界市場シェアは高い。かつてのアナログ型の技術をベースにした開発された製品はインテグラル型の製品アーキテクチャーで作られていた。これが1995年を境に、まず、エレクトロニクス産業で大きな変容を始めた。マイコンとこれを動かすファームウェアの代表されるデジタル技術の介在が技術モジュール相互の結合公差を拡大してモジュラー型へ転換させ、オープン標準化が技術の伝播を加速させた。つまり、アナログ技術でつくられた電気製品は、自動車のように基幹部品の相互依存性が非常に強く、超細密な部品の組み合わせによってはじめて製品機能を歩留まりよく復元できる。このような基幹部品が相互依存性を持つ製品の基幹技術は経験やノウハウの蓄積の少ない新興国では容易に真似のできない市場参入に障壁があった。例えば、組み立て工程のひとつひとつが調整プロセスと検査プロセスの組み合わせによって構成され、これらの工程で使用される治具とこれを使いこなすノウハウは、設計部門や組立部分及び生産技術部門・検査部門が連携しあいながら積み重ねたノウハウの結晶であり、これらに携わる人々も企業の長年にわたる企業内教育で育成した人材である。このような意味で長期にわたるノウハウを組織能力として蓄積した企業であって、はじめて参入できるものであった。

これに対して、モジュラー型になると基幹部品が直接あるいは間接的にコンピュータ(マイコン)のデータ・パスにデジタル結合されており、基幹部品の動作はすべてマイコンを動かすファームウエア・モジュール群によって制御される。そこで、このような製品の組立、設計では、ユーザーの使用環境でファームウエアが自動的に部品相互の擦り合わせ作業作業を行うようになる。したがって、設計とは製品が使用される外部環境に常に最適応答させるためのフィードバック制御ノウハウを、ファームウエアへ集中させる一連の作業になってしまう。言い換えれば、ファームウエアが内蔵されたマイコン/システムLSIと機構部品を揃えて単純組立するだけで、製品を量産できてしまう。こうなると、アナログ技術では必要だった設計・組立・生産技術・検査部門などの擦り合わせノウハウが不要となった。つまり、製品アーキテクチャーがデジタル技術の進展によりモジュラー化すると長期的に蓄積をもたない新興国の企業が大挙して市場に参入することになった。

こうなると、日本企業が長期にわたる研究投資で技術開発しても企業の利益に直接貢献するのは、初期の段階だけに留まり、モジュール化によりグローバル市場で大量普及する段階になると日本企業の競争力は急速に失われる。

日本企業が、このような経過に最も早く直面したのがエレクトロニクス産業であり、21世紀の日本企業を支える多くの製品がモジュラー化する流れは誰にも逆らうことができなくなっている。

この後、つづく

2010年9月 3日 (金)

「リーマン・ショック・コンフィデンシャル」

Photo あのリーマン・ショックの前後に、当のリーマンをはじめ銀行や当局といったウォール街のエリートたちが右往左往する様を、広範で微に入り細を穿つ取材により掘り起こして、2巻に及びボリュームに、テレビドラマを見ているかのような臨場感で表わしてみせた労作。とにかく、各金融機関のトップや財務省をはじめとした当局のトップたちの献身的ともいえる働きぶりには頭が下がる。リーマン破綻のヤマ場では殆んど躁状態で、傍らでみるものにはどんちゃん騒ぎのようにも映るほど凄まじい。でも、能力のあるエリートたちが、あれだけ精一杯やって、日本の不手際や大恐慌という前例もあって、それでもあんな結果だったのかという懐疑にとらわれる。あれだけのエリートが集まっていながら、皆が目の前の事柄に縛られ、振り回され、その場しのぎの終始していて、例えばポリシーを持ってとか、先を見ようとする人物が誰もいないのか!という思いにも駆られる。

一種の群像劇の様相で、登場人物が多く、しかも場面転換が急なので、注意して読んでいないと、誰が何処の金融機関でどういう状態に置かれているかが分からなくなってくる。巻末に人物リストが付されているが、各金融機関別で作られているため、ある程度予備知識がある人向けで、例えば、ジェイミー・ダイモンを知らない人は、五十音順にリストを作り変えることを進める。

金融危機の構造的な原因やら、ここに登場する人物がどうしてこのような行動に出た(しかできなかった)というような深い突っ込みまでは届かないので、よくも悪しくもルポルタージュの域。で金融危機全体を俯瞰する視点が説明されていないので、エリートたちが、危機のどの時点あるいはどこの位置で動き回っているのかが見えない。その辺りがもの足りない。しかし、この作者が強調したかったのは、最後にジェイミー・ダイモンが引用してみせたルーズベルトのことばに集約されていると思う。

“重要なのは批評家ではない─力ある者がどうつまずいたか、偉業をなしとげた人間がどこでもっとうまくやれたかを指摘する人間ではない。名声は、現に競技場に立つ男のものだ。果敢に闘い、判断を誤って、何度も何度もあと一歩という結末に終わり─なぜなら、まちがいも欠点もない努力など存在しないから─顔はほこりと汗と血にまみれている。しかしその男は、真の熱意、真の献身を知っており、価値ある理念のために全力を尽くす。結果、うまくいけばすぐれた功績という勝利を得る。しかし、万一失敗に終わっても、それは少なくとも雄々しく挑戦したうえでの失敗である。だから彼の立場が、薄情で臆病な、勝利も敗北も知らない者たちと同じになることはありえない。”

彼らはベストを尽くしたのだ。

2010年9月 2日 (木)

グレン・グールド「ブラームス間奏曲集」

Gould 右のレコードジャケット(もう死語となっているのだろうけれど、時代としてはLPレコードでこれを聴いた世代は、CDなどと比べて大判のジャケットを見ながら聴いたものだ)が、この演奏の印象を端的に表現している。これは、音楽の内容とジャケットが連動してイメージを補い合うというレコードそのものを独立した作品として成り立たしめている稀有の例だと思う。この画像のセピア色がかったくすんだ中にノスタルジックな感傷が垣間見えて、白皙の若い男性(演奏者であるグレン・グールド本人)が俯きがちに目を落として憂いの表情で佇んでいる。ほんの少し不健康な頽廃の臭いが漂っている。

ブラームス晩年のピアノ小品集からグレン・グールドがとくに選んだ曲を作品番号によらず、並べて聴かせる。実は、ブラームスという作曲家の作品は交響曲や協奏曲、室内楽、歌曲、そしてピアノ曲と多岐に亘っているが、がっちりと作られていて、クソ真面目、いかにも教養あるクラシック音楽というような第一印象を受け易い。だから、ポピュラー名曲には恵まれていないが、真面目なクラシックファン(以前はゴリゴリのドイツ音楽マニアで高級な音楽とか言い出す御仁)の支持が高かった。そのブラームスが、伝記的には、晩年近く、ほとんどの作品を作り尽くし創作力の衰えを自覚しながら、老境の寂寥感の中で、コツコツとつくった曲集ということになる。トーマス・マンの「ベニスに死す」のモデルが晩年のブラームスと言われているが、まさにそのような条件のなかで、もはや他人のためでなく自分のことを綴るようにつくった曲だといわれている。

その特徴として、規模が小さく、曲が短く、声部も少なく、ブラームスにしてはメロディがむき出しでシンプルに作られているとかCDの解説などには書かれている。

で、実際に聴いてみる。最初の曲、変ホ長調作品117-1。のっけから右手でメロディが弾かれる、どちらかと言うと素朴な感じだ。音の数が少なく、どこかたどたどしい感じがする。これを左手の和音だけで伴奏しているというきわめて単純な曲。これをグールドを極めてゆっくりと弾く。思いっ切りレガートをかけて。そして、左手の和音の音を少しずらして弾く。沢山ずらすと分散和音(いわゆるアルペジオだ)になってしまうが、そこまでは派手にやらない。そうすると、和音の中の音が分けて聞こえる。通常は和音で溶け合って聞こえない音が聞こえてくる。そこで聞こえてくる音は、実はブラームスはコード進行が独特で3つの音で構成される和音の進行で、3つの音のうち上と下の音を動かさずに真中の音だけを動かすことをよくやる。それはなぜか。上と下の音が同じ高さで弾かれると和音が変ったことがはっきり分からない。しかし、真中の音が変っているので、微妙に変ったか変らないか分からないように聞こえる。その微妙な感じがする効果をブラームスはよく、隠し味のように使う。これは、ロマンチックと言われるような心の微妙な移ろいを音楽でも表現するできるように考えたもののようだ。それが、グールドの演奏では露わになって浮き上がる。何かブラームスの内心を覗き込みかのようなのだが、それがジャケット写真に映るピアニストの若さ故なのだろう。それは、ブラームスが表現者としての止むに止まれぬ表現衝動を、細心の技法を駆使して隠してきたのを白日に曝すわけだ。そこには隠されたものを暴露するタブーに触れるような背徳の味もある。

そして、さらに、和音を崩すことによって、他のピアニストはきっちり和音を弾いているので比べて欲しいが、和音が演奏のリズムを形成し、シンプルな曲ではあるけれど、キッチリつくってある堅牢な感じを形作っている。さすが、ブラームス、小品といえど手を抜かず、真面目なクラシック作品だというわけだ。しかし、グールドは和音を崩す。これによって、さっき言ったように隠された内心の動きを明らかにする。そして、さらに、和音により刻まれるリズムが崩れだす。するとどうだろう。真面目で堅牢だった曲のつくりが崩れだす。そう、聴く者に崩壊感覚を与えるのだ。隠された内心が明らかにされ、曲が崩壊しだす。逆算すると、ブラームスの表現者としての衝動は実は曲という枠組みの中に押えきれないほど強烈で、それを無理やり押さえ込むため堅牢な形式で固めたのではないかと思えてくる。シューマンやシューベルトといった他のロマン派がそうだったようにブラームスも自らのうちにデーモンを抱え込んで、それに振り回されていたのではないか。ご存知ないかもしれないが、彼らの音楽には交響曲とかいうような形式に収まりきれない過剰さがある。ブラームスにも、実はそれがあった。それも、死を間近に控えた時に。それが、グールドのたった数分の演奏で表われてくるのだ。そう、崩壊感覚が作曲家の心の鎧を崩壊させていくようなのだ。それは、一面では甘美であり、一面ではいけないこと。最初に戻るが、それがジャケットの写真のどこか感傷的で退廃的な感じに通じている。

2010年9月 1日 (水)

イーヴォ・ポゴレリチ「ショパン・リサイタル」

Chopin_2 何十年も前の若いころのポゴレリチの実演をサントリーホールで聴いたことがある。手垢のついた言葉になってしまったが、衝撃的だった。息を呑むというか、知らず知らずのうちに、一音たりとも聴き逃すまいというような異様な緊張感にホール全体が包まれてしまって、曲がピアニッシモで消え入るように終わっても、しばらくの間、客席の緊張感が解かれず、誰かがプログラムを落とした“バサッ!”という物音が静寂のホールに響き渡り、その音で漸く我に返り、気がついたように拍手が散発的に起こる。というようなコンサートでした。そのとき弾かれたようなピアノの響きはCDの録音には収まりきれない。

比較的、実演の響きを彷彿とさせるもののひとつが、この録音。

例えば、最初の曲、第2番のピアノ・ソナタ、いわゆる葬送行進曲つきのソナタ。冒頭の和音から始まるところ。他のピアニストなら一気呵成にバァーン!と鍵盤を強打するのだが、彼は和音がひとつひとつの音に分解されたように弾く。いくつかの鍵盤を一気に弾くと複数の鍵盤の音が混ざり合ってハーモニーを作り出すのだが、この冒頭を彼はその和音のひとつひとつが分かるように弾く。そして、その後の展開で、それぞれの音が別々の音色、ニュアンスで別々に響いていくように聞かせる。それは、あたかも線香花火が一つの火の玉から四方八方に様々なかたちの花火の火花が枝葉のように広がる様を思わせる。実は、一緒に弾けば交じり合ってしまうようなものを、別々に響くように弾くというのは大変難しいことなのだ。そのためには、ひとつひとつの音の響きを完璧にコントロールしなければならない。そのあと、タタン、タタン、という節のテーマが出てくる。実は、このテーマは2つの音で構成されているため、メロディとしてなかなか歌わせにくい。それで、多くのピアニストは何とか歌わせようと音がつながるように工夫をこらすのだが、彼は即物的に弾いてしまう。聴く人は節が歌わないので、感情移入とかがしにくく、宙ぶらりんにされてしまうのだが…。実は、これは、このソナタの終楽章の不定形の通常のメロディの形を為さない音の連続としか言いようのない短い楽章に、遥かにつながっている、というのを彼の演奏で初めて分かったのだが…、ということは、葬送行進曲で有名なこの曲の底流には一般的に感情移入を拒むようなメロディともいえないような音の繋がりがベースとなっていることになる。この意味不明な2つの音のつながりを、ひとつひとつの音があたかも繋がりを欠いたかのように、それぞれの音を独立の存在のように、そして、それぞれの響きを多彩のバリエィションをかけて弾く。そして、以降、このテーマが繰り返されるたびに、絶対に同じ響きでは繰り返さない。そうなると、この演奏を聴く者は、後から後から繰り返されるテーマの響きに耳を澄ますことなしにはいられなくなる。2音という数少ない音で構成されているから、一音たりとも聴き逃せない、と我知らず集中を高めざるをえない。この曲は30分弱の長さだけれど、このような緊張感をもって、30分も付き合わされることになるのだ。いや、彼の演奏にはまってしまうと、これほど魅き込まれるような演奏はないということになってしまう。

典型的な例は、夜想曲op55-2の演奏で、極端に遅いテンポで弾かれるノクターンだが、他のピアニストのようにメロディを情緒纏綿と歌わせることはしない。しかし、このテンポでなければ、この曲が対位法てきな構造をしていることや、さらに独立した音の響きを耳が追いかけられない。そして、最後に、メロディとはいえない、単独の音が同じ高さで5音弾かれるのを聴いてほしい。そこで弾かれる5つの音の異なった響きにポゴレリチのショパンの魅力が集約されている。

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