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2010年9月11日 (土)

セルジゥ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー「ブルックナーの交響曲第5番」

Photo この演奏の魅力が一番出ているのは、第2楽章にある。最初から聴いてほしい。オーボエがフラフラしたようなフレーズを、この楽器独特のもの悲しいような音色で奏するけれど、この不安定さは何処から来るのか。これはオーボエと伴奏をつとめる弦楽部のピチカートとのズレにある。以前、シューマンの交響曲第2番のところでも書いたけれど、それぞれのフレーズの長さが違うので、繰り返すうちに徐々にズレてくるのだ。シューマン以降のロマン派は不安定さとかこころの揺れ動くさまなんかを表わす際に、これを技巧として用いた。シューマンのような自らの狂気が形式として出てきてしまったようなあからさまなものではないが。ブルックナーも、ここで慎ましく使っている。指揮者によっては、ここを揃えて弾かせてしまっているケースもあるが、これからの展開が、いわば、ブルックナーの個性とも言うべき、各声部が各々でバラバラのような動きが、全体として聴くとまとまった節回しのように聞こえてしまうというものの、前振りのようだとすると、チェリビダッケのようにズレたか、揃っているか、何ともいえないような微妙なところで演ってほしい。このあと、弦楽部のフレーズの後で、クラリネットと弦楽部との掛け合いが、冒頭の記憶が残っていると、揃っているか否か微妙に聞こえてくる。このようなことから、この楽章がどこか不安定で儚げであるような雰囲気が漂ってくるように錯覚してしまうのだ。ただし、このようなことを、オーケストラに演らせることができるということと、演らせた結果が、演っているオーケストラが下手に聞こえないというのは、チェリビダッケという指揮者の力量を示しているといえる。

また、この楽章では弦楽器が力強く旋律的な動きを推し進め、その一方でオーボエやクラリネットがしっとりと歌うことで推進する動きに水を差すような働きを担わせて、言わば二項対立の要素で全体を構成し、二つの動きが鬩ぎ合いながら劇的な緊張感を高めてクライマックスの盛り上がりにもっていくというような力強い演奏をする指揮者がいる。例えば、オットー・クレンペラーがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したものがそうで、クライマックスに向けての弦楽部による旋律的な動きは推進力に溢れ力強さそのものを聴くものに感じさせる。これが繰り返す度に力強さを増していく、劇的な緊張感の高い演奏となっている。

これに対して、チェリビダッケの指揮は対立的な要素をあまり強調しないで、その代わりに旋律には、フワフワした不安定な浮遊感や歌が溢れかえる。クレンペラーの演奏では、弦楽部がマスとして分厚い塊のようになって旋律的な動きを推し進めるのに対して、チェリビダッケの各声部の動きが独立したように動き回る。そこでは、中低音部のバスやチェロ、そしてヴィオラが持続音のように並行するよう動き続け、それぞれの声部がパイプオルガンの持続音のように分厚く透けるように聞こえてくる。それらの動きをベースにヴァイオリンが、ときにヴィオラも加わり、各々が時には接近し離れる動きを展開する。バラバラに動いているようで、全体としては旋律のように聞こえてくる。そして、それらの各動きが、歌に満ちている。このような弦楽部の動きが少し引き加減になると、その穴を埋めるように管楽器が入り込んでくる。クレンペラーの演奏が、弦楽部による力強い旋律の動きと木管楽器の動きが対立的に扱われるのに対して、チェリビダッケの場合には連続性が前面に出てくる。その代わりに、弦楽器と木管楽器の音色の違いが歌と音色の多彩さ、各声部が絡み合う複雑な動きが、鮮やかに聴き取れる。そこでのクライマックスは力強さよりも、透けるような各部の動きが融合するとともに、音色が変化し溶け合っていくようなクライマックスになる。そこで受ける全体的な印象は、クレンペラーの推進力漲るダイナミックな力強さとは違って、スタティックながら各部の複雑な動きと溢れる歌による、耽美で陶酔的な世界だ。全体のトーンとしては弱音が主なのだが、ヴォリュームを大きくして、陶酔的な世界に溺れ、時間を忘れのもいいと思う。おそらく、チェリビダッケの中でも、随一の録音ではないだろうか。

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