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2010年9月14日 (火)

ラドゥ・ルプー「シューベルトのピアノ・ソナタ第18番」

Lupu まず、虚心坦懐にこの出だしを聴いて欲しい。聞こえるか聞こえないかというような最弱音で、柔らかく、密やかに、何時始まったかもハッキリとは分からないで、いつのまにか漂うような、不定形な和音に包まれているように感じられる。その和音が微妙に転調し、流れるように少しずつ形を変えていく。そこから、時間の経過とともに変形がパターンとなり、メロディとして聴く者が認識できる。それが繰り返されるとリズムが生まれ、舞曲のように世界が広がり、これまでは違った光景が開ける。

これは、後世のマーラーが交響曲第1番の冒頭で、基調をなす持続音を弦楽部が奏でるのを背景に、木管楽器が鳥のさえずりを模したり、トランペットが軍隊のファンファーレを吹いたりというような断片が無秩序に現われては消えていくことを繰り返していくうちに、次第に秩序が生じてきて、メロディの形を整えてきたところで、オーケストラ合奏で第1のテーマを力強く提示する。という、いわばマーラーが最初の交響曲で自らの音楽体験を託すような形で、自分にとって音楽とはこう生まれるのだというマニュフェストを宣言したようなもの(ちなみに、このような捉え方に最も親しみ易い演奏として、ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の録音を真っ先に思い起こす)。不定形の音がだんだん音楽としての形を成してくるところは、両者の似ているところだ。しかし、マーラーで出現してくる音は、彼の個人的な体験が素のまま現われたかのような、鳥の声を模していたりして具体性が強い。言わば絵画的。これに対して、シューベルトの、この曲は具体的な風景を連想させる要素はない。オーケストラ曲とピアノ曲とでは、楽器の音色の違いによる多彩さがない分、ピアノ曲であるシューベルトの方が一見の多彩さで劣る。

しかし、よく聴いて欲しい。ルプーというピアニスト。弱音の美しさとタッチの多彩さで、徹底的に弱音で貫かれると耳を澄まして聴き、そこで注意力が高まったときに、多彩なタッチから繰り出される、豊富なニュアンスから感じられる陰影の深さ。そこで、いつの間にか曲調が変わってくるような、普通のピアノソナタにはないような形式感を欠いたようにも思われる即興性により、その時その時の美しさとかに刹那的に酔いしれて、気がついたら、曲が終わっているような演奏といえる。

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