「リーマン・ショック・コンフィデンシャル」
あのリーマン・ショックの前後に、当のリーマンをはじめ銀行や当局といったウォール街のエリートたちが右往左往する様を、広範で微に入り細を穿つ取材により掘り起こして、2巻に及びボリュームに、テレビドラマを見ているかのような臨場感で表わしてみせた労作。とにかく、各金融機関のトップや財務省をはじめとした当局のトップたちの献身的ともいえる働きぶりには頭が下がる。リーマン破綻のヤマ場では殆んど躁状態で、傍らでみるものにはどんちゃん騒ぎのようにも映るほど凄まじい。でも、能力のあるエリートたちが、あれだけ精一杯やって、日本の不手際や大恐慌という前例もあって、それでもあんな結果だったのかという懐疑にとらわれる。あれだけのエリートが集まっていながら、皆が目の前の事柄に縛られ、振り回され、その場しのぎの終始していて、例えばポリシーを持ってとか、先を見ようとする人物が誰もいないのか!という思いにも駆られる。
一種の群像劇の様相で、登場人物が多く、しかも場面転換が急なので、注意して読んでいないと、誰が何処の金融機関でどういう状態に置かれているかが分からなくなってくる。巻末に人物リストが付されているが、各金融機関別で作られているため、ある程度予備知識がある人向けで、例えば、ジェイミー・ダイモンを知らない人は、五十音順にリストを作り変えることを進める。
金融危機の構造的な原因やら、ここに登場する人物がどうしてこのような行動に出た(しかできなかった)というような深い突っ込みまでは届かないので、よくも悪しくもルポルタージュの域。で金融危機全体を俯瞰する視点が説明されていないので、エリートたちが、危機のどの時点あるいはどこの位置で動き回っているのかが見えない。その辺りがもの足りない。しかし、この作者が強調したかったのは、最後にジェイミー・ダイモンが引用してみせたルーズベルトのことばに集約されていると思う。
“重要なのは批評家ではない─力ある者がどうつまずいたか、偉業をなしとげた人間がどこでもっとうまくやれたかを指摘する人間ではない。名声は、現に競技場に立つ男のものだ。果敢に闘い、判断を誤って、何度も何度もあと一歩という結末に終わり─なぜなら、まちがいも欠点もない努力など存在しないから─顔はほこりと汗と血にまみれている。しかしその男は、真の熱意、真の献身を知っており、価値ある理念のために全力を尽くす。結果、うまくいけばすぐれた功績という勝利を得る。しかし、万一失敗に終わっても、それは少なくとも雄々しく挑戦したうえでの失敗である。だから彼の立場が、薄情で臆病な、勝利も敗北も知らない者たちと同じになることはありえない。”
彼らはベストを尽くしたのだ。
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