西脇千花「スカルラッティのソナタ集」
スカルラッティのソナタには、いくつかのアプローチがある。例えば、ポゴレリチは純粋な音の運動として、よくあれでミスタッチをしないものだと感嘆するほどの浅い打鍵で軽い音を超高速で弾ききる。また、ホロヴィッツはシンプルな曲調に手練手管を尽くして多彩な音色とニュアンスで極彩色の世界を開陳してみせる。シフは旋律と装飾の区分を取り払い全体を音の遊びとしようしたが、逆に装飾が旋律の意味を負わせられる結果になり、ロマンチックな重苦しい演奏になっていた。
そして、この人のは、そのどれとも違う独自の世界を見せてくれた。どこが違うのかというと、かつて吉田秀和がハイドンと比べてモーツァルトの音楽を、たった一つのものを加えたことによって音楽そのものの概念を以前とはまったく違うものに変えてしまった、というようなことを書いていた、そのたった一つのことのようなものだ。
その典型的な例として最後に入っているK27のニ短調のソナタを聴いてほしい。そっと囁き声のような弱音で始まる、問いかけるような短いフレーズがあって、これに応えるように、これまた短いテーマが出てきて繰り返すとここから一段音が高まり経過句のようなパッセージで音楽が奔り出す。このときの左手のアクセントがきいていて“思い”のようなものを感じさせるのが、ここは長くはつづけず、最初からのパターンの簡単な繰り返しになるが、すでに音楽が奔り出しているので、最初より少し勢いがついて、そしてまた、件のパッセージが出てくると、このパッセージが最初のときはワン・フレーズだったのが、繰り返しなる。その繰り返しのたびに微妙にニュアンスが変わるのだが、ここで単にパッセージの繰り返しというのではなく、この繰り返し全体を大きなまとまりとして捉えて、その中で大きなヤマを作っていて、全体として深いブレスが息づいているように聴こえてくるのだ。それは、まるでモーツァルトが第8番のイ短調の悲痛なソナタの第1楽章でテーマの提示の後で慟哭するような息の長いパッセージを連想させる。そして、また最初の問いかけに戻って繰り返すと、最初はそっと囁くように始まったのが、繰り返すたびに音楽が奔り、声も大きくなってくる。このような繰り返しによる盛り上がりは、ブルックナーの交響曲のあのクライマックスを想わせる。この人のスカルラッティからは、たった3分程度の演奏から、壮大なドラマが広がるようなのだ。といっても、声高には決してならず、飾り気のないながら一音一音をいつくしむように弾いている丁寧な演奏なのだが、フレーズの捉え方の深さというのか、この人の持っている本質的なスケールの大きさが表れているように思う。主として伴奏を多く努めているようで、この人のソロの録音は、これ一つだけなのが非常に残念に思う。この人のシューベルトを聴いてみたいと思う。
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