クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーブランド管弦楽団「シューマンの交響曲第3番『ライン』」
「ライン」という愛称で呼ばれているこの曲は、ドイツ中央部を縦断する大河ライン川のとうとうたる流れを髣髴とさせる、生き生きとした明るさに満ちた曲として、シューマンの管弦楽曲の中では比較的親しみやすい部類に入るようだ。
しかし、元気はつらつとした第1楽章、牧歌的な農家の舞曲のような第2楽章などに続いて、第4楽章が突然短調に転調して心の闇を覗き込むような深刻な楽章となり、その後最終の第5楽章で、また突然第1~3楽章の第4楽章に比べると脳天気とも言える明るさに何事もなかったかのように戻って終わる。単純に考えると、第4楽章だけ他の楽章とは浮いていて、交響曲として全体の構成などは考えられていないように見える。演奏家によっては、このような第4楽章の突出を目立たぬように、全体に淡々とした演奏をする人もいる。ベートーヴェンやモーツァルトのような古典派の交響曲というイメージからすると、このようなシューマンのこの曲は破格とも言えるもので、交響曲として演奏しようとする人は、交響曲としてのまとまりをつけさせるために苦労していると思う。
解説書の中で例えば「ダビッド同盟舞曲集」で説明されているようなシューマン自身の公言していた2つの側面“フロレスタン”と“オイゼビウス”の二面性が表われた、という説明がつかないわけではない。あるいは、シューマンという人の分裂症の表われという解釈もできるだろう。そこで、第4楽章の突出を際立たせて、いかにも分裂症のシューマンというイメージを抱かさせる演奏をする人もいる。ただし、この場合には、交響曲としてのまとまりは犠牲にせざるをえなくなる。とくに、私のようなクラシック音楽の伝統にどっぷり浸かっているわけでない者にとっては、交響曲はこうあらねばならないというような考えはないため、分裂している作品なら、分裂しているように演奏して、形式に対する先入観のようなものはない。
また、シューマンの交響曲はオーケストレィションに問題があって、彼がピアノの作曲家であることから、ピアノと同じように、オーケストラの各楽器の音色等の違いをあまり考えず、ただ声部を重ねていってしまうので、全体にのっぺりとしたものになってしまう。それで、指揮者によっては編曲を施したり、オーケストラをいじったりして、オーケストラの効果を出そうとしている演奏もある。
で、いろいろ前置きが長くなったが、この演奏である。最初から脇道にそれて恐縮だが、同じ作曲家の第2交響曲の冒頭に一番分かり易く出ていることなのだが、この曲はホルンで奏される“ターンタターン”という狩りのファンファーレが繰り返され、これが基調となって曲全体を構成していくのだけれど、最初に出てくるところで、ホルンに弦楽部で分散和音のような伴奏がつく、これが曲者で、実はホルンの“ターンタターン”というフレーズと弦楽部の分散和音の伴奏のフレーズが合わない。最初はそれぞれが一緒に始まってフレーズの最初が合うのだが、それぞれが繰り返されるにつれて、だんだんズレ始める。それが違和感が次第に広がっていく。そして、全体としてのフレーズが掴みきれず、なんとも不安定な落ち着かない感じになる。ピアノ曲でいうと「クライスレリアーナ」の第1曲や作品111の幻想小曲集の第1曲のような感じだ。
これが小規模なれど第3交響曲の冒頭でもある。弦楽部と管楽器の部分が微妙にズレで落ち着かないのだ。演奏者によっては、ここをズレの無いように収拾をつけてしまう。しかし、この演奏は、その微妙さをストレートに演ってくれる。「ちょっと変だな」という程度でだ。
シューマンのオーケストレィションに問題があると言われていること、さっき話した。この演奏は、とくにその欠点を取り繕おうとはしない。それよりも、むしろ。この曲の冒頭の有名なテーマを一斉に鳴らした、弦楽部が受けてテーマを演り始めると、金管楽器が重なってくる。これが、この演奏では、金管楽器があたかも弦楽部に横槍を入れるかのように入ってくる。これに対して弦楽器は負けじとがなりたてるかのように音量を上げる。楽器が重なるときには、このようなことが繰り返され、段々とエスカレートしていき、なんとも騒がしくなる。それは、生きいきと元気がいいということになるかもしれないが、もっとわざとらしいものに変質している。一種の躁状態をかもし出すのだ。だから、最初に言ったような、大河のとうとうとした流れ、素朴な明るさなどといったものとは程遠い、強迫観念に駆られての狂騒状態に変じるのだ。
こうなると、この曲の構成上のおかしな点、第4楽章の突出は、意味が変ってくる。全体が、そのような狂騒状態の中で、第4楽章はその裏返しなのだ、簡単に言うと躁鬱の鬱状態なのだ。どちらも狂気であることには変わりはなく、単に表われ方が正反対なだけということになる。
というような、この演奏から感じられたことから言うと、シューマンと言う人は、狂気というものをここまで大規模にそして精緻に構成してみせた、ということになる。これは、後のマーラーなどの後期ロマン派の甘美な狂気への憧れなどまで頽廃することもなく、怜悧に狂気そのもの、おそらく心を蝕まれつつありながら、そのような自分を見つめて、そのあり方をそのまま構造として作品に構成させていった凄みというものを感じざるをえない。それこそが、作曲家としてのシューマンの狂気に他ならないと思う。
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