無料ブログはココログ

« クララ・ハスキルのピアノ、イーゴリ・マルケヴィチ指揮コンール・ラ・ムルー「モーツァルトのピアノ協奏曲第20番」 | トップページ | 楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(4) »

2010年9月22日 (水)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(3)

昨日の続きです。

ストーリーという視点を強調する二つの目の理由は、このところ特にその傾向が強まっていると思うのですが、現実の企業経営の中で、戦略ストーリーをじっくりと考え、語り合うことが希薄になっているのではないかという懸念です。従来の戦略論には「動画」の視点が希薄でした。戦略のあるべき姿が動画であるにもかかわらず、その論理を捉えるはずの戦略「論」はやたらと静止画的な話に偏向していたように思います。しかも、戦略論の「静止画症候群」は、このことよりいっそう顕著になっているのではないか、というのが私の問題意識です。素朴に考えれば、そもそもあらゆる戦略は面白い「お話」であるべきですが、これまでも強調してきたように、ストーリーということになると、whatwhenhow muchだけでなく、whyが話の中心になります。ところが、やっかいなことに、whatwhenに比べて、whyに対する説明はどうしても話が長くなります。しかも、whyの線は一本ではありません。複数の打ち手があれば、前後左右に一手を結びつける線は広がっていきます。特定の文脈に依存した因果論理のシンセシスである以上、戦略はワンフレーズでは語れません。ある程度「長い話」にならざるをえません。ところが、それを論理化するはずの戦略論はやたらと「短い話」に終始しているのが現状です。その典型がテンプレート戦略論やベストプラクティス戦略論です。こうした短い話が横行するのも、もとをただせば戦略論のユーザーのニーズがあるからです。なぜ、ユーザーは静止画的な短い話を好むのでしょうか。思いつくままに理由を挙げてみましょう。第一に、とにかく忙しい。戦略ストーリーを突き詰めて考えるゆとりがない。そういう人にとっては、テンプレートやベストプラクティスがあれば、手っ取り早く「戦略をつくっている気分」になれます。第二に、テンプレート戦略論やベストプラクティス戦略論の主たるユーザーは、実際のところ経営者というよりも経営企画部門などの「戦略スタッフ」であることが多い。彼らの仕事は戦略構想そのものでなく、戦略を構想する人(経営者や事業部門長などのジェネラル・マネージャー)が必要とする情報の整理や分析です。そもそもシンセシスの任にない人々であれば、手っ取り早いアナリシスのためのテンプレートを好むのは自然な成り行きです。第三に、「プロフェッショナル経営者」という幻想です。もちろん、真の意味での経営技量なりシンセシスに優れた経営者は存在します。しかし、ここでいうカギカッコつきの「プロフェッショナル経営者」というのは、戦略があたかも標準的なスキルセットであると誤解している人々のことを指しています。「経営者の戦略スタッフ化」といってよいでしょう。こうした人々にとってテンプレートやベストプラクティスは過度に心地よく響きます。第四に、コンサルタントによるマーケティングの影響があります。コンサルタントが戦略論や本や論文で供給するのは、それが往々にして本業のマーケティングにとって有効だからです。第五に、静止画的な短い話は、コミュニケーションが簡単だということがあります。ビジネスはある意味で「長い話」を嫌うものです。厳しい競争にさらされているほど、素早く分かり易い「ソリューション」が求められるようになり、長い話を突き詰めて考え、話し合い、共有するゆとりがなくなります。情報技術の進展は入手可能な情報の量を飛躍的に増大させました。しかし、ここで忘れてはならないのは、「情報の豊かさは注意の貧困をもたらす」というトレードエフです。戦略ストーリーを支えている因果論理は、「情報」よりも「注意」の産物です。大量の情報が飛び交うほど、因果論理にについての注意は希薄になります。逆にいえば、因果論理を捨象した「静止画」であるほど情報技術で扱い易く、したがってコミュニケーションしやすく、また共有しやすくなります。「共有したつもりになりやすい」といったほうがいいでしょう。第六に、近年のマクロ環境の変化があります。グローバル化、投資家からの圧力の高まり、こうしたこのところのマクロな経営環境の変化は、とりわけ長い話を嫌がる傾向を加速させているように思います。グローバル化が進むと、言語や文化的な背景が違う社内外の利害関係者と意思を共有しなければなりません。そうした文脈で長い話を持ち出すのは、自然と気が引けるものです。こうしたいくつもの圧力は、戦略論を「短い話」へと押込めてしまい、シンセシスとしての戦略構想がよって立つ因果論理から実務家の目をそらしがちです。「長い話」としての戦略論を取り戻す必要がある、そして、そこにこそストーリーの戦略論の役割と貢献があるというのが私の考えです。

戦略とスーリーとして語り、組織で共有するということは、戦略の実効性を大きく左右します。これがストーリーという視点にこだわる三つ目の理由です。戦略の実行を担う人々は、具体的な仕事としては特定の機能や部門を担当しています。しかし、戦略ストーリーはあくまでもシンセシスです。相互に独立した要素へと完全に分解することはできません。アナリシスでは割り切れないのです。自分の仕事がストーリーの中でどこを担当しており、他の人々の仕事とどのようにかみ合って、成果とどのようにつながっているのか、そうしたストーリー全体についての実感がなければ、戦略の実行にコミットできません。戦略ストーリーをつくる立場にいるリーダーだけでなく、ミドルマネジメント以下の多くの人々も、仕事に向かって突き動かされるような面白いストーリーを強く求めているはずです。ストーリーの面白さは、戦略の実行にかかわる社内の人々を突き動かす最上のエンジンになります。数字で綴られた静止画の羅列に突き動かされる人がいるでしょうか。素晴らしい経営理念やビジョンや価値観を掲げる会社はたくさんあるのですが、具体的な戦略の段になって出てくるのが無味乾燥な静止画のリストであれば、せっかくのビジョンも「床の間の掛け軸」になってしまいます。ストーリーをつくる前に、下ごしらえというか、基本的な材料は一通り揃えなければなりません。当然、現状を分析して、われわれは今どこにいるのかを知らなければなりませんし、到達すべき地点、あるべき姿としての目標を設定しなければなりません。競争環境とか市場環境、利用可能な経営資源とその制約条件もある程度までわかっていなくてはなりません。これはいわば現在地と目的地が示された白地図の上に「地図情報」を加える作業に相当します。戦略ストーリーをつくるということは、このように現在地や目的地や地図情報を記した地図の上に、自分たちが進むべき道筋をつけるということです。到達すべき目的地を特定したり、地図情報を細かく書き込むことは、あくまでも下ごしらえであって、戦略ストーリーではありません。ストーリーという道筋を組織のすべての人々が共有し、道筋のついた地図をポケットに入れて、それを見ながら進んでいく。これが私の「戦略を実行する組織」のイメージです。

ストーリーという視点を強調する四つ目の理由は、ストーリーという戦略思考がとりわけ日本企業にとって重要な意味を持っていることにあります。第一に、日本企業は相当に成熟した経営環境に直面しています。経営環境が成熟すればするほど、個別の構成要素のレベルで競争優位を構築するのが困難になります。画期的な新製品、まだ誰も参入していない成長性の高い市場セグメントへの参入、この種の差別化は目立ちます。しかし、成熟した環境の下では、こうした派手な差別化の要素は探してもなかなか見つかりません。そこで、ストーリーという一つ上位のレベルに次数を繰り上げた差別化が求められるわけです。第二に、これまでの日本企業が、ポジショニングよりも組織能力に基礎を置いた「体育会的戦略論」に傾斜してきたということがあります。ポジショニングの戦略はそれがもたらす成果との因果関係がより明確なので、どちらかというと「短い話」で済む傾向にあります。一方の能力重視の戦略は、ポジショニングに比べて、成果との因果の距離が遠くなります。トヨタ生産方式は、カンバン方式、自動化によるラインでの問題解決、平準化生産といったさまざまな構成要素のシンセシスであり、能力に軸足を置いた優れた戦略ストーリーの典型例です。能力構築の積み重ねが結局のところトヨタの競争力の実体なのですが、それが能力に基盤を置いているために、個別の取組みと成果との因果関係は相対的に不明確にならざるをえません。能力構築を重視する戦略は、欧米や他のアジア諸国の企業と比較した場合の日本企業の独自性です。今後も日本企業の競争力の源泉として重要であることは間違いありません。ただし、能力の戦略はポジショニングと比べて、時間的にも、因果論理という意味でも、「長い話」を必要とします。ポジショニングは意思決定できても、能力構築は意思決定だけではどうにもなりません。個別の要素がどのようにつながり、相互作用を起こして、成果に繋がるのかというストーリーが意識されていなければ、能力構築から競争優位を引き出すことはできません。第三に、日本企業の組織と人々のモチベーションのあり方です。欧米企業の組織には機能分化の論理が浸透しています。そこで働く人々のコミットメントも自分の機能専門性に向けられているのが普通です。これと比べて、日本企業の組織は提供する価値のありようを切り口に分化し、これが人々のコミットメントの基盤となるという色彩が強いというのが私の考えで、このことを「価値分化」といってもいます。たとえば、日本の会社では、機能としてはマーケティングを担当していても、「私はマーケティングのスペシャリストです」というよりも、「私はオーディオ製品をやっています。オーディオ屋です」というように、その組織が外部の顧客に提供する製品なりサービスなりで自分の仕事や組織での存在理由を定義する傾向が強いように思います。「マーケティング」が「機能」であれば、「オーディオ」という切り口は「価値」を問題にしています。欧米の会社が機能分化の論理で割り切れる組織であるのに対して、もし日本の会社が傾向として機能のインプットよりも価値のアウトプットに人々のアイデンティティがあるような組織になっているとしたら、戦略をつくる立場にあるリーダーのみならず、戦略ストーリーを組織の人々で広く共有することの必要性や効果が日本の会社ではずっと大きくなるはずです。ストーリーという視点が大切になる最後の理由は、いたって単純な話です。何よりも、ストーリーという視点は、戦略をつくる仕事を面白くします。戦略をストーリーとして考え、組み立てるということは、そもそも創造的で、楽しい仕事です。難しい目標設定を与えられ、眉間にしわを寄せた渋い顔で戦略を考え(させられ)ている人が多すぎるように思います。

« クララ・ハスキルのピアノ、イーゴリ・マルケヴィチ指揮コンール・ラ・ムルー「モーツァルトのピアノ協奏曲第20番」 | トップページ | 楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(4) »

ビジネス関係読書メモ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(3):

« クララ・ハスキルのピアノ、イーゴリ・マルケヴィチ指揮コンール・ラ・ムルー「モーツァルトのピアノ協奏曲第20番」 | トップページ | 楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(4) »