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2010年10月

2010年10月31日 (日)

河合忠彦「ホンダの戦略経営」(2)

それでは、分析の結果としてホンダの「新価値創造型」新製品開発モデルの特徴とはどのようなものなのでしょうか。それは、単純化すると次の3点に集約できるでしょう。

     開発リーダーをはじめとするチーム・メンバーの主体性、自律性を最大限重視して、そこに新価値創造的コンセプトのアイディアの源泉を求める。

新価値を実現する上で製品コンセプトが果たした役割が極めて大きかったと言えますが、開発チームに当初に提示される開発要件はきわめてシンプルなもので、リーダーをはじめとしたチームの裁量が大幅に委ねられています。そこで、かれらは統計調査等の客観的な市場分析よりも主観を先行させてコンセプト理念を固めていきます。と言っても客観的側面を全く無視するというのではなく、まず消費者の言動を観察し、自己の価値観にもとづいてその潜在的ニーズを“主観的に”捉え、それにもとづいて基本コンセプトのアイディアを形成する、次いで、そのアイディアに自身の調査や他者の評価などによる“客観的”テストを加えて彫琢していく、というものです。そして、主観重視と密接に関係しているのが、「理念型方法」の採用です。それは、観察した現実からターゲットするユーザー層と彼らが欲するであろうニーズ(価値)の集合をひとつの理念型として明確化し、それを満たす製品機能の集合を、そのどれも欠かさず実現しようとする方法です。そして、これらのコンセプトの基礎にはホンダの得意技への強い信頼や確信があったことです。

     そのようなアイディアはしばしば関連組織との間にコンフリクトを引き起こすが、開発リーダーはさまざまな方法でそれを克服する。

     組織は、①②に貢献するように、できるだけ柔軟に運営し、制約はそれらの行き過ぎをチェックするに止める、より具体的には、新価値創造を重視し、そのためのチャレンジを促進し、少なくともそれに対して寛容な組織文化・風土の醸成・維持に努め、実際のチャレンジが不首尾に終わった場合も寛容な処遇制度を整備する。

開発リーダーはコンセプトのアイディアを自ら創出し、プロジェクトを主導するわけですが、彼らの新製品開発に対するスタンスは、新価値創造が社会に対するホンダの使命であり、それを実現するのがホンダに対する自分の使命であるという使命感であり、それを実行に移すのに必要な何らかの能力を有するということになります。このような使命感や能力を生み出す組織的な仕組みが、分権的で柔軟な組織運営であり、開発リーダーへの大幅な権限委譲であり、革新及びチャレンジ志向の組織文化・風土だと言えます。

2010年10月29日 (金)

松宮秀治「芸術崇拝の思想」(3)

第2章 革命思想としての啓蒙主義

政治の体制で、いわゆる政教分離の大きな契機のひとつと考えられるのが啓蒙主義の思想と言えるでしょう。著者は“啓蒙主義は芸術を解放する。歴史的な表現をすれば過去形として、解放したというべきであろう。解放したというのは何から、どのように解放したということなのか。これ以後の叙述はしばらくこの問題にかかわっていくことになるのであるが、暫定的な結論としていえば、芸術は理念的に「職能」から解放され、自律的な価値を与えられたということである。職能から解放され、自律的な価値を与えられるということは、注文者、保護者、ギルドという同業組合の権力や拘束から解放された自由人として、権力、権威、伝統のみならず、社会的な道徳にも服従の義務を負う必要のない存在になるということである。これを突き詰めていくと「芸術家」とは理念的にはみずから神となって、自己の作品を通じて、歴史と社会がいまだ発見しえなかった新しい価値を創出する「創造者」となることである。”と言います。啓蒙主義は「進歩」という思想を新たに持ち込みました。人間精神が世代をおって力を増し、人間が形成されていく歴史は時代をおって完全な状態移っていくという信念は、今では素直には聞けないものですが、当時としては革命的な意義を持っていたと著者は言います。これは人間から恐怖ーを除き、人間を支配者の地位につけるということだと、アドルノとホルクハイマーは言います。つまり、人間が自己の知的な力で、人間をこれまで支配していた呪術的、神話的、宗教的世界観から自由になって、理性が支配する世界へと人間を解放しようとする思想です。著者は、啓蒙主義が理性を人間の属性とすることによって、人間を神の位置つまり絶対者の位置に据えたとして、その思想的根拠をカントに求めます。カントはドグマや権威を権力から独立させて、与えられた対象の本性を「理性」をもって判断していきます。キリスト教の宗教的世界観の根幹をなす自由・霊魂の不滅、神の存在という三つのイデアは純粋理性では否定も肯定もできませんが、実践理性において道徳と倫理の問題として対象化となってくると著者は分析します。かなり、恣意的な読みかもしれませんが、著者の分析を敷衍すると、これは、三つのドグマを純粋理性により正誤判断しようとしても、人間が誤った判断をしてしまったときの責任をとれない、しかし、実践理性で倫理的な責任の範囲を規定することにより責任の所在を理性で判断できることから、判断の責任の所在をはっきりできるということです。言い換えれば、理性によって人間の行動の判断基準、当為と禁止、権利と義務等を人間が判断できることになると言います。ここに至って、西欧思想が宗教から解放され、専門科学が自律的な存在を主張できる基盤が整ったといいます。私には、そこのところの説明が不十分でよく理解できませんでした。

例えば、政治学では政治全体についての真理を追求することではなく、意見をもつことが必要というように変わってくる。そこから理念としての政治のあるべき姿から、現実の政治に必要なもの、つまり、人間社会の新しいユーピア建設のための設計図をつくるためのものと変容するのです。これは、一種のリセットであり、方法論として始原状態から考え直すということを意識的に行っていました。例えば「無垢なる自然状態」とか「善良な未開人」といったものです。

ここで、前章を思い出していただきたいのですが、芸術の自律性の先駆けとなったヴィンケルマンはギリシャ美術を理想としました。これは、上で述べたことで言えば、まさにリセットのための始原状態とも言えないでしょうか。まさに、芸術理論が政治思想と同一の展開をしているわけです。そして、芸術の分野でリセットした主な対象とは宗教などの権威に基づく伝統的な芸術理論である「自然模倣論」です。単純化していえば「人間の精神は何も創造することができない」というテーゼです。「創造」とは神の御技であって、「芸術」は神の創りたもうた自然の模倣にすぎないというものです。

松宮秀治「芸術崇拝の思想」(2)

1章 芸術の価値とは何か

序章でも述べられましたが、本書で対象としている「芸術」というのは、近代、だいたいここ200年前に西欧でつくられた、ローカルな概念です。そして、これは突然、ポッと出現したものでなく、西欧というローカルに特有ともいえる歴史的な条件のもとに作られたものだということです。これは序章でも述べられていますが、西欧の近代国家で生まれた政治原理である「政教分離」と密接な相関関係にある芸術の自律的価値という思想がベースになっていると言います。この著者は1941年の生まれですから、(世代論で一概に片付けられることではないかもしれませんが)、未だ、芸術というものはありがたいというようなイメージを持っていて、著者には、それに対する愛憎半ばするような感じがあります。そういう、モノサシで、私は、これから読み進めて行きますが、芸術作品の自律的価値というのは、基本的には芸術価値評価は芸術以外のいかなる価値、道徳的価値や宗教的価値、社会的価値によっても左右されるべきでないというものです。ただし、このようなことは、ある程度は価値評価の基準のひとつとして。何ら特殊なものではないと、私は思います、序章の中で私個人のコメントとして書いたことでも、音楽の響きそのものを聴いて欲しいというようなことも、それにあたると思います。だから、もしかしたら、私は、著者の分析している構造に絡め取られていて、そういう偏見から、本書にコメントしているかもしれません。ただ、現実に「芸術」作品に対する評価を単一の基準をそれが絶対的基準として評価するということがありうるのか。批評として文章に残すような場合には、論旨を明確化するため、と言葉というものが独り歩きする傾向にあるので、結果としてそういうものが後世に残ってしまうというようなことは十分考えられますが。ちょっと、最初から言い過ぎたかもしれません。

まさしく文章で、芸術の価値ということを書き残したのが、ヴィンケルマンでした。彼は、古代ギリシャというヨーロッパ文明と文化の源泉を“発見”しました。彼自身は意識していなかったようですが、この中で讃美されている虚飾を排した簡素な美の精神は、絶対主義王政とこれを経済的に支える重商主義の基盤をなす考え方である「奢侈」を正面から否定するものでありました。絶対主義王政の支配システムである「権威」「威信」には政治の視覚化が必要なツールであり、例えば、それは豪華な建物、衣装、儀式、イベントであり、それは「奢侈」ということです。当時は欲望そのものが政治体制維持のためには必要なものとして肯定されてたようですが、その反面多大な費用を要することも真実であり、各国の王室は絶えざる出費過剰により財政難に苦しみ続けたというのが実態のようです。その負担のツケは多くの場合、国民にまわってくるものです。このような時代の矛盾を敏感に感じ取っていたのが若い知識人層であり、ヴィンケルマンの著作は、そういう知識人層に受け容れられていったと考えられます。また、浪費に悩む専制君主のなかでも、「権威」による祝祭政治から、実体的な支配をする官僚政治への移行を志向する方向性に合致するものとしてヴィンケルマンからイメージを与えられた者も少なからずいたようでした。それが、「政教分離」と近代的な芸術との結びつきです。だから、芸術の自律的価値といいながらも、実は政治とは切っても切れない関係にあったと、著者は分析して見せます。

2010年10月28日 (木)

松宮秀治「芸術崇拝の思想」(1)

Art 先日、読んだ「ミュージアムの思想」に続くものでしょう。この人のものを読んでいると、所々興味深い指摘があったりして、飽きさせないサービスが感じられるのですが、なんとなく考えが独り歩きしてしまうような印象を受けてしまいます。クラシック音楽のファンで、ある演奏なり演奏家なりを深い精神性があるとかコメントする人で、どこが、どのような響きがそう感じさせるのか、と聞くと答えられないひとが結構多かったりします。音楽を聴いたうえでそのように感じるのなら、どのようにしてというような分析は難しいけれど、どの部分でそう感じたのか、ぐらいは話せるはずですが。思うに、そういう人は音楽の響きを、実は聴いてはいなかったりして、精神性の高いというような先入観を用意して、演奏が始まった時点で、音楽に耳をふさいで先入観を頭の中で呪文のように繰り返して、自分を納得させているようなイメージがあります。自己陶酔に浸っているわけですね。これと似たような印象をこの著者にも感じました。ただし、随所で脱線するところは楽しい。では、少し中身を見ていきたいと思います。

序章 芸術家伝説

本書のテーマを著者は、こう言います。“本書全体のテーマは西欧近代がなぜ芸術崇拝という新しい思想を生み出したのか、また西欧の近代国民国家が政教分離を近代国家の政治原理とするようになったのか、またこの政教分離の思想と芸術の神聖化とはどのようにかかわるかを見ていくことである。”なんか難しそうです。

で、まず序章では導入として、いまのところ芸術家というものに対して我々が一般的に持っている理想的なイメージをハインリッヒ・リッセの『神へり裏切り』という短編を紹介します。これはフランスのある辺鄙な農村でひとりの農夫が道端で一心不乱に絵を書く画家と知り合い、その出来上がった作品を受け取ります。その後、農夫は絵のことをすっかり忘れたころ都会から画商がその絵を探しにきて、買いたいと申し出ます。その語、農夫は妻の勧めもあって、その絵を売ってしまいます。農夫は売却を神への裏切りの思え、魂が抜けたようになって、泥酔のあげく大怪我を負い死んでしまうという話です。ここで描かれている画家は西欧近代の「芸術」の観念の本質的な諸要素を巧みに集約していて、近代の芸術神話の典型と言うことができるといいます。

これが、前近代や非西欧の芸術家伝説の場合なら、このようなものではなく、「才能発見」仮説と「完璧な伎倆」伝説に集約てきます。このような芸術家伝説は社会と芸術が求める価値が一体であったときに、人びとが芸術家を理解する直接的で有効な手段だったと言えます。これに対して『神への裏切り』の“画家はまったく社会から孤立し、旅行者か放浪者のように名も知らぬ村にひとりたどり着き、憑かれたように絵の制作に熱中する。彼は世俗的な芸術家としての成功や、社会的な名声の追求とは完全に無縁である。彼は孤独であり、自己の内なる芸術的信念以外のなにものも関心をもたない。彼が孤独であるというのは、彼に親や兄弟、あるいは妻や子供や友人がいないかということではなく、彼にとってあらゆる世俗的価値が何の意味ももたないゆえに、すべての社会的活動との接点が失われ、社会から孤立した道を歩まねばならないということである。社会的な栄誉や金銭的欲求を超越しているがゆえに、自己の畢生の大作を惜しげもなく農夫に与えてしまう。彼は直感的に自分と農夫か同類であることを認識したのかもしれない。彼は自発的に社会の圏外に出ることを喜び、農夫は受動的に社会の圏外に押し出された存在であること、つまり、両者がともに世俗的な価値の埒外に生きる者同士であることが二人を結びつけたのであろう。二人のこの結びつきが一枚の聖なる絵画を通して、俗世間の俗物どもを表面に浮かび上がらせる。農夫の妻と首都から来た画廊主と絵を買い取る老紳士である。三人はそれぞれ自分の置かれている立場で各自の役割を演じているが、金銭という最も世俗的欲望を象徴しているものでこの絵とかかわっている。世俗社会においてはこの金額が高くなればなるほどこの絵の聖性は高まってくる。後に詳述するように、西洋近代の「芸術」は神格化され「聖性」を帯びたものとなったはずなのに、皮肉にも神格化され聖性を賦与されたがゆえに「聖遺物」崇拝と同じ世俗信仰の体系を創り上げてしまい、世俗社会では芸術がマモンの神、いうなれば拝金主義者たちの守護神の支配下に組み入れられるという逆転現象を招いてしまった。”この意味で、西欧中世のキリスト教世界において最も高価なものは「聖遺物」で、いかなる宝石や貴金属よりも高価でした。近代社会では、これに代わり新たな聖遺物として「芸術」作品が浮上してきます。そして、中世の「聖遺物」がキリスト教という宗教がバックボーンとなって聖性を与えられていたのに対して、近代の「芸術」は国家という栄誉と顕彰のシステムであり、一般には芸術作品は作品自体の芸術的価値によって聖性を自然と手に入れているものと観念的に考えられました。作品を生み出す芸術家は社会とは無関係に芸術の深化に身を投じる、『神への裏切り』の画家のように、のがひとつの理想像となっていたわけです。このような、中世から近代へと時代が代わったことに伴い、宗教が占めていた位置が芸術に移り変わったのは、西欧近代の「政教分離」が関係している、というのが本書のテーマです。

2010年10月27日 (水)

河合忠彦「ホンダの戦略経営」(1)

Honda リーマンショックを一種のシンボルとした金融危機の後、需要の急減はGMの破綻を招くなど自動車業界にも深刻な影響を与えました。日本の自動車メーカーもその波紋から逃れられるわけでもなく、しかし、各メーカーの対する影響は、それぞれ差がありました。トヨタのように売上高やシェアの拡大のために大型車への傾斜を強め、生産設備を急拡大した結果、赤字に転落して大きな過剰生産を抱えるに至ったのに対して、ホンダは黒字を計上していました。

本書では、とくにホンダの新製品開発を「新価値創造型」と位置づけて、トヨタの「完成度向上型」と対比させながら、新製品開発は経営戦略の手段であることから、これを経営に位置づけるものとして「戦略経営」という概念を用いて、トヨタと比較しながらホンダを分析していったものです。

著者の戦略経営の定義はこうです。“戦略的新製品開発も確かに重要だが、企業の存続・成長のためには、新製品開発以外のマーケティングや人的資源管理、ファイナンス等の職能戦略について戦略的である必要があり、しかも、それらはバラバラにではなく、統合的に展開されなくてはならない。このように「環境変化に合わせて(また時に先取りして)適切な“経営戦略”を構築し、その現実に向けて、新製品開発、マーケティング、人的資源管理、ファイナンス等の職能戦略を体系的に展開すること」を本書では「戦略経営」と呼ぶ”

著者は、ホンダの「新価値創造型」の新車開発という特徴を明らかにするため、次のような着眼点に注目します。

着眼点1:ホンダの新価値創造型の開発リーダーは、いかにして“新価値”を探り出し、革新的な製品コンセプトを創り出しているのだろうか。

着眼点2:ホンダの新価値創造型の開発リーダーは、製品コンセプトの形成と実現プロセスで生ずる、価値観の対立を含むさまざまな問題をいかに克服しているのだろうか。

着眼点3:ホンダの新価値創造型の開発リーダーは、新製品開発に対していかなる考え方ないしスタンス(姿勢)を持っているのだろうか。

着眼点4:ホンダには、大企業病化を防ぎ、新価値創造型リーダーシップの発揮に貢献する何らかの“組織的仕組み”があるのだろうか。あるとすれば、それはどのようなものか。

着眼点5:新製品開発は“経営戦略”および“戦略経営”とどのように関係しているのか。

これらの着眼点により、実際にホンダの新製品開発のケースを分析していきます。初代オデッセイ、初代フィット、二代目USオデッセイの実際の開発のプロセスを追い掛け、開発の軌跡から着眼点に従った分析を行い、ホンダの特徴を抽出していきます。

この具体的な分析は、本書をお読みください。楽しいですので、ここでは敢えて触れません。

2010年10月25日 (月)

アンジェラ・ヒューイット「バッハのゴルドベルク変奏曲」

Bach ここまで何枚かのゴルドベルク変奏曲を聴いてきて、それぞれの違いを見つけ、それを特徴として、それぞれの演奏を聴く切り口というもの、アプローチするための視点はそれぞれに違っていました。クラシックとか芸術とかいっても、所詮は代金を取って聴かせるわけだから、それが生活の糧となるわけだから、それは商品です。一昔前ならアートとコマーシャリズムとかいうのが真剣に議論されていた時代もありました。CDというパッケージにしろ、演奏会にしろ、代金を支払うわけですから、それに見合うことは当然要求します。その見合うものというのに、スペックのような客観的な基準はないので類似商品である他の演奏家との差別化がどのように為され、この演奏でしか味わえないものを、どれだけ豊富に提供してくれるか。その辺りがWTP(顧客が払いたいと思う水準)としての質を決めるのではないか。

前置きが長くなりました。なぜ、このような分かりきったことを書いてしまったのかというと、この録音を繰り返し何度も聴いていて、他の演奏と際立って違うところ、特徴、この演奏を聴くための切り口が見つからないでいます。演奏自体は、悪い演奏ではないと思います。いままで聴いてきた演奏できいてきた要素は、それぞれの水準で弾かれています。コンクールなんかでは、とてもいい成績をとるタイプでしょうし、ただしこの演奏はコンクールなんかのレベルではなく、ちゃんと人前でお金を取れる演奏だと思います。聴いていて、切り口が掴めないので、いつの間にか流れてしまっています。残念ですけれど、私には相性の悪い演奏としか言えません。

2010年10月24日 (日)

藤原由紀乃「バッハのゴルドベルク変奏曲」

Yukono なんと90分近くかかってしまう長時間録音です。CDでは1枚に納まりきれず2枚組になってしまっています。繰り返しを全部するかしないかで、たしかに演奏時間は違ってくるので一概に長さは云々できませんが、それにしても長い。しかし、実際に演奏を聴いてみると、演奏時間が長いからと極端に遅いテンポで弾いているかというと、そんな感じには聞こえません。聴いていて気がついたのは、グールドの新盤とつくり方というのか全体の構成のしかたというのか、がよく似ているということです。とは言っても、聴こえてくる音楽は全くの別物になってしまってします。いままで、ゴルドベルグ変奏曲の色々な録音の印象をここに投稿してきましたが、ケンプの演奏を除いて、どの演奏もグレン・グールドの録音を意識せざるを得ないというのか、意識的にも無意識にもどこかで、グールドの録音を前提にして、そこからどのように距離を置くかという位置づけで演奏が成り立たせているように感じられるのでしたが、この人のは、それを感じさせられませんでした。アリアのフレージングとか各変奏のつながりというようなことが、グールドの新盤の録音によく似ている。しかし、意識してというのではなくて、結果的に似てしまったというような感じです。それは、グールドの演奏の基本線となっている二項対立の要素が藤原さんの演奏には希薄であったことが何よりも証拠のように思えます。例えば、強弱の強烈な対比や変奏ごとのテンポの対比のようなものが藤原さんの演奏では強調されていません。なによりも、藤原さんの特徴的な点として感じられたのは、ひとつひとつの音の存在感という点です。すべての音が立っているという印象です。どんなに早いパッセージでもひとつひとつの音が明確でタッチも全部揃っていました。多彩な音色とか豊かなニュアンスで陰影を出すというようなことはなくて、ひとつひとつの音がキッチリしていて、明確で、存在感を強く主張している演奏でした。だから、遅めのこの録音のテンポくらいでないと、それぞれの音が聴き取れない。これ以上速いと流して聞いてしまうおそれがあるので、この演奏でも遅いと感じる余裕はありませんでした。グールドの場合は、ひとつひとつの音は全体の演奏を構成するための要素のような扱いです。例えば第5変奏ではグールドでは名技的というのか超高速で弾ききってしまいますが、藤原さんのはグールドに比べると遅くて、朴訥ともゴツコヅしたとも言えるような行き方をしますが、ここでは変奏ということがはっきり分かるし、声部の掛け合いが明確に浮き上がってきます。だから、藤原さんはグールドとは出発点が全く違うところにいると思います。藤原さんの演奏は、音色とかタッチとか装飾とかいうような変化には乏しいのですが、それが単調になるかというと、聴く人のスタンスにもよりますが、これほど明確でしっかりとした存在感のある音でガッチリと構成された演奏では、この曲の複雑さが他のどのピアニストの演奏よりも強く感じさせられます。この複雑な構成を追い掛ける楽しさに溢れています。

2010年10月23日 (土)

アンドラーシュ・シフ「バッハのゴルドベルク変奏曲」

Siff アンドラーシュ・シフの演奏するバッハは流麗で歌うというイメージがありましたが、冒頭のアリアはグールドの新盤よりも早いテンポで弾かれたのは少し意外な感じがしました。基本的には右手の旋律線を浮き上がられる演奏ですが、グールドのように演奏流れに時々タメをつくって、タメては流すというような小規模な停滞と疾走を繰り返して音楽の流れに独特のメリハリと活気を作り出しているのに対して、シフの場合には割合音楽の流れは淡々としていて、サラッと流れるような感じがしました。流麗というのではなくて、なんとなく流されてしまう、悪くすると単なる聞き流しに陥ってしまいそうなところがあります。しかし、よく聴いてみると仕掛けというのか、色々な工夫が散りばめてあるようで、知的な楽しみを与えてくれるところもあるようです。たとえば、アリアの繰り返しは各ピアニストも各々工夫するところですが、シフは装飾を色々といじっているようです。ただし、グールドのようにチェンバロ的な響きに近づける要素として装飾を使うのではなくて、繰り返しのバリエーションとしてという性格のものだと思います。シフの装飾はピアノの響きを生かしたものとなっていて、ロマン派の変奏曲のようにも聞こえます。そのせいか、私には、少しうるさく感じられるところもないわけではありません。また、低音の対旋律の所々で意識的にアクセントを強調して、他のピアニストとは違うフレージングをしているように聞こえ、シフの演奏でしか聞こえてこないようなメロディが聞こえてくるケースもあり、こういうところは知的な面白さというのか、一種の遊びの楽しさがあります。ただし、この人はリズムが平坦というのか、色々とテンポを変えたりして工夫を凝らしているようなのですが、全体の流れが単調になりがちで、活気がないというのか、生き生きとした推進力のようなものが薄いので、スタティックな感は否めないで、時折、リズムに装飾的な工夫をしていると躍動感を伴わないためか、もたつくというのか、帳尻合わせをしているような感じになるのが、残念なところです。

2010年10月22日 (金)

私はブルックナーをこう聴いている(2)~視点

2.視点

まず、これからブルックナーの音楽について独断と偏見から考えていく前に、お断りしておきたいことがあります。これから考えていくことは、ブルックナーによって生み出された作品の実際の音楽の動きや響きに何が具体的に聴きとれるか、そしてそこで聴かれたイメージが、聴いた私の感覚をどのように刺戟するかということです。つまり、現実の聴体験として行いうる限りのブルックナーの音楽についてお話ししていこうということです。だから、ここで追い掛ける対象は、あくまでも現実に聞こえてくる音です。例えば、ブルックナーという作曲家の伝記的な人物像には、私には、全く興味がありません。敢えて言うならば、現実の聴体験に神話を持ち込むものとして、音楽を聴く上で邪魔なものでしかありません。また、ブルックナーをめぐって様々な書物やらCD解説やらが洪水のように数多く出回っているようです。これらには、ブルックナーの音楽についての私自身の言葉を組織していくうえでの刺戟となったものもあり、それらについては部分を批判的に引用していくことになるかもしれません。しかし、これらは私がブルックナーの音楽を現実に聴くことについて何の扶けともなりませんでした。音楽というのを何々の視点により価値付けられ、関係付けられ体系として捉える私には、視点が曖昧なままアプリオリな公理のように音楽を語ると、音楽の生き生きとした生命が死んでしまって化石になってしまうように思われるのです。

さて、これまで現実のとか具体的にとか言ってきたわけですが、未だ何一つ具体的にどうということを述べていません。これでは、「偉そうなことを言うが言行不一致ではないか」と叱られてしまいそうです。そこでまず、ブルックナーの交響曲を聴くというときに、多くのファンを魅了しているものに緩徐楽章があるのは、誰しも依存のないことだろうと思います。そこで、とりあえず例として、交響曲第6番の第2楽章を聴いてみることにしましょう。

最初にチェロによる低音から始まり、一拍おいてヴァイオリンがかぶさるようにレガートで旋律を演奏します。この最初のところで、チェロによる第1音から一拍後のヴァイオリンへと、まるでひと連なりのように、私には聞こえてしまいます。最初の音と続く音の音色が急変するので、聴く私は驚かされます。また、この後、チェロとヴァイオリンは各々のパートを続けるので、第1音から双方向に流れが枝分かれしていくようにも聴くことができます。ヴァイオリンの旋律が一節奏し終わると、繰り返しでもう一度弾かれます。そして、その上でオーボエが弦楽四重奏の第1ヴァイオリンが弾くカデンツァのような演奏をします。カデンツァのような、というのはオーボエの旋律に即興性が感じられるからです。まず2つの音による下降フレーズ。次に倍近くにフレーズが伸び、更にその倍と段々とフレーズが伸びていきます。最初の2つの音が繰り返される度に、続く音が加えられ、段々とひとまとまりの旋律がかたちづくられていくのを、聴く者は同時体験できるというわけです。4回目はもう一本オーボエが重ねられ、この後、このひとくさりが反復されます。反復はもう一度で、今度は2本のオーボエで演奏されます。そして、オーケストラ全体でこの節が強く反復される小さなクライマックスとなり、ホルンと木管楽器の掛け合いによるつなぎを経て、弦楽部による新たな旋律が開始します。“あかるいホ長調で、ヴァイオリンとチェロが対位法的に第2主題を示しだす。”と解説されている旋律です。譜面で言うと2小節程度の短い完結した動機を、最初はチェロ、そのチェロでの一節が終わらないうちにヴァイオリンが追い掛けます。二つのパートが掛け合いをするように演奏されると、お互いが休止を埋め合うようで、更にその隙間を第2ヴァイオリンが時には寄り添うように時には装飾的に埋めて行きます。それで、聴いている方では、これらの動きが一連の旋律のようにも聴き取ることもできるのではないでしょうか。

この時、ひとつひとつの動機或いは旋律は、そのものとして、ひとつひとつの動機或いは旋律として在りながら、同時に相隣する動機或いは旋律と掛け合いをしたり連なることで、そのものとしてとは異質の旋律となるのです。聴く私にとって、このことは曲の印象ら変化や運動を与える契機となります。私がブルックナーの音楽を解説書等の科学法則のような抽象的もの言いを避けているのは、解説書等のもの言いが、このような変化や運動に触知するのを妨げてしまうからです。解説書では、ひとつひとつの動機或いは旋律は、あくまで、ひとつひとつの動機或いは旋律それ自体でしかありません。ひとつひとつの動機或いは旋律それ自体は、美しかったり、明るかったり、悲しかったりと感じることはあるかもしれません。しかし、これは何もブルックナーの音楽に限ったことではなく、音楽を聴く感性を揺さ振るようなことはありません。また、単に、この旋律が美しいと言うだけなら解説書風のもの言いに独り言を加味しただけに過ぎません。こういう言い方では、その旋律を美しいとは思わないという異質な聴き手との共存が難しいのではないかと思うのです。それが同時に、異質な旋律となっても聞こえてくることで、私の耳は動揺するのです。ブルックナーを聴くということは、このような同時に共存している二つのものを触知することもあるのです。同時に共存しあうその二つのものが、三つ、四つと複数化されてゆくとき、そこには豊かな音楽的空間が形成されるはずです。そこでは、様々な視点によって形成される音の意味が単一な音楽のかたちに還元されるのを妨げていると考えられます。つまり、ブルックナーの音楽は、このような点からも解説を嫌うのです。このような多様な音の意味の共存の中に、ブルックナーの音楽の開放的な自由闊達さを見出します。ブルックナーの音楽を愛しいと思うのは、何よりもまず、この自由さを愛することに他ならないのです。以下、このような視点で、交響曲第3番を聴いていきたいと思います。

2010年10月20日 (水)

ハーバード・ビジネススクール「ケース・スタディ 日本企業事例集」

ハーバード・ビジネススクールのケース・メソッドで日本企業が取り上げられた事例をまとめたもの。たぶん、議論をするときの材料として使ったものではないか。取り上げられているのは

松下電器産業:機器と変革(2000年の中村邦夫氏の改革)

日産自動車:再生への挑戦(カルロス・ゴーン氏によるリバイバル・プラン)

富士フィルム:第2の創業(写真フィルムからの脱却の過程)

資生堂:中国市場への参入

コマツ:グローバル化の取り組み

NTTドコモ:モバイルFeiliCa

楽天:Eコマース事業の創造

旭硝子:EVAの導入

プロダクション・アイジ―:アニメというビジネス

日本の企業家:稲盛和夫

の10件。読んでみましたが、議論の材料というのか、教官が執筆してようですが、著作として読者に読ませようというよりも、

ビジネス・スクールで教材として使うことを目的として書かれているように思いました。

端的にいえば、中途半端です。商品として出来上がっていません。これを完成品として提示できるような代物とはとうてい思えません。ここで書かれているのは、新聞や雑誌に発表されたような実務家ならだいたい常識として知っている程度の情報に多少のプラスアルファが加えられた程度のものに過ぎません。仮に、題材がその程度でも情報をある斬り口で整理して、隠されたことに気がつくというようなこともないです。情報が時系列に並べられている。そこに並べる意図も感じられない。

つまり、ここで並べた基礎的な情報を基に、ビジネス・スクールの学生なら自分なりに情報を集めて予習して、本番の議論に臨めということではないか、と思います。内容はその程度です。

そういう学生でない人をも対象に出版して、金を出させて買ってもらおうとするならば、せめて、ある程度の議論を経た後で、整理された分析の結果でも、経過段階くらいは反映させてほしい。そう思いました。

ただひとつ役に立ったとすれば、私の仕事の関係から、勤めている会社の企業紹介や業績の紹介を業務で行っていますが、このような書き方はやってはいけないという反面教師としては、とても有意義だった、と言っておきましよう。

もし仮に、この程度がスタディの結果だったとしたら、バカですね。この程度で経営者になった人の下では絶対に働きたくないと思います。

熊谷晋一郎「リハビリの夜」(2)

著者は、健常者のモデルと等身大モデルのギャップの大きさを克服するため、幼い頃からリハビリに励むことを強制されます。リハビリではリハビリする側をトレイナー、リハビリされる側をトレイニーという二つの立場にわけますが、著者は、この両社の関係を三つのパターンに分類します。まず、最初にストレッチでトレイニーの体をほぐすときには、互いの動きを《ほどきつつ拾い合う関係》にあると言います。トレイナーの大きな手が、なかば強引に、しかし丁寧にトレイニーの動きを拾いながらゆっくりと硬く強張った体を弛緩させ、トレイニーの体は徐々にその手に馴染んでいく。それはトレイナーの手の動きを追尾し、自らを重ね合わせる、この時「触れられる側」と「触れる側」は往復運動のように役割を相互に交替し、どちらがどちらか分からなくなるような相互交流が成される。

そして、トレイナーの指示によって健常者の動きをなぞるような指導が始まり、この時、トレイナーとトレイニーとの融合から、両者に距離が生じ、トレイニーはまなざされるという、運動目標をめぐって《まなざし/まなさせされる関係》になると言います。健常の動きに近い動きを実行するように仕向けられるのですが、運動目標を与えられると、焦りで「身体内協応構造」を強めてしまい、体を硬直させてしまう結果に陥ってしまうことなると著者は言います。このとき、トレイニーの体はトレイナーに監視され、努力の仕方や注意の向け方のような内面までも介入されるような事態になると言います。このとき著者は、焦って高ぶる自身が自壊するように、身体内協応構造がほどけて、体がぐにゃりとなってしまうと言います。

この後、トレイナーは思い通りに動かないトレイニーの体にストレッチを施し、まるで粘土細工をするように物理的な介入をする、著者の体が発する信号を拾わずに介入される《加害/被害関係》に移行します。同じストレッチでも、《ほどきつつ拾い合う関係》の場合のように、互いが相手の体に入り込み合い、まなざしを二人が共有するような関係はなく、トレイニーは体のパーツが切り離され統一感が失われ、トレイナーに奪われたような感覚、意識が体を他人のように見ている状態になってしまうといいます。

著者はこう振り返ります。“私が長年受けてきたリハビリでは、まず「健常な動き」を手にするという規範的な運動目標が立てられ、トレイナーはトレイニーの動きがその目標に沿っているかどうかを、一方的にまなざし続けた。そして、私の動きを監視するようなトレイナーのまなざしを、私自身も内面化していくことになった。こういった規範的な運動目標のもと、《まなざし/まなざされる関係》に身を置くことで、私の体の緊張はだんだんと強まっていった。そしてその緊張によって、私の繰り出す動きはかえって当初の運動目標から外れていくばかりだった。自分の動きが運動目標から外れつつあるということを感受した私の中には焦りの感情が生じ、その焦りはますます私の体の緊張を強めることになっていく。「健常な動き」という運動目標のもと、緊張と焦りが悪循環していくこのようなプロセスは、私の動きを「健常な動き」から遠ざけていくだけではなかった。悪循環がピークに達すると、閃光のような刺激とともに焦りとこわばりは自壊し、痙攣となってがくがくと放出されていくことを私は知ったのである。そしてその自壊には、強烈な快楽があるということも。こうしてリハビリは、私に「健常な動き」を刷り込むかわりに、「敗北の官能」を胚胎させた。おそらく問題は、最初に「健常な動き」という運動目標を立ててしまったところにあったのだと思う。あらかじめ設定された運動目標にわが身を近づけていくというアプローチ自体が、私にとっては最初から限界を抱えていたのだ。私が「私の動き」と呼べるものを手にするためには、何か根本的に、構え方を変えていく必要がある。”

そして、著者は大学進学を機に一人暮らしを始めます。しかし、一人となった途端にトイレで立ち上がることができず、著者の言で“トイレに拒絶”されてしまいます。著者は、トイレの改装をやってもらいます。これに対して、著者は、“改装によって姿を変えたトイレに触発されるように、私の体も変わる”といい、トイレに合わせて自分の身体内協応構造を組み直しを行います。著者は、このようなことをトイレだけでなくシャワー、玄関、ベッドと広げていくことにつれて、それまでぼんやりとしていた私の身体の輪郭、「等身大の内部モデル」が徐々にくっきりしてきます。著者にとっては手本のないところからオリジナルな分節化を立ち上げたと言います。これは、例えばトイレを容易に使いこなせる人たちとは、かなり異なる分節化となりました。著者は、このような関係は内部に閉じたものではなく、外界へ開かれたものなので「身体外協応構造」と呼びます。

そして、人と人との間にも同じようなことが言えます。「こけが普通の動き」という運動規範は本来、人とモノ、人と人のあいだに効率よく身体外協応構造を成り立たせるための工夫にすぎない、著者は言います。ということは、私が同化的に自らの動きを周囲のモノや人に合わせるだけでなく、周囲のモノや人が私の動きに合わせて変わるという双方向性の歩み寄りがあってもよいはず。そういう面では、一人暮らしによってぽんと放り出された世界の中で私が周囲と交渉し、オリジナルな運動規範を立ち上げていく過程だったと言えます。

このあと、もっと具体的な議論が進み、その中で現象学でしばしばとりあげられる“まなざし”の分析を進めるなど、非常に興味深い議論が展開されます。しかし、それは、現物を手にとって読むことにより、堪能してほしい思います。

しかし、著者が周囲とのオリジナルな関係をつくりあげ、それをベースに自らの身体をチューニング(再構成)させていくプロセスは、とくに脳内のバーチャルリアリティともいうべき内部モデルを、健常者による規範として既成のものを、オリジナル・モデルに変換させていく、これを実際に検証させていくのは、今、私自身が、意識化されていない暗黙の領域にある企業の自己認識にはっきり言葉を与えようとしているので、かたちこそ違え、他人事とは思えませんでした。(著者は同列に比べられないと怒るかもしれません)

2010年10月19日 (火)

熊谷晋一郎「リハビリの夜」(1)

517qwq2jfgl 脳性まひによって身体に障害をもった著者が健常者に囲まれ、一種のマジョリティとして生きていく中で、それゆえに身体を中心としたあり方に問いかけを行ったもの。リハビリという健常者の世界に自らの身体を適応を強制させられるから、身体のあり方とは何かということを、身をもって問うたもの。著者自身は意識していないかもしれないが、メルロ=ポンティの現象学的なアプローチに近づいていくのがとても興味深い。

これを読んでいる、この私自身が、卑小かもしれませんが、ちょうど、仕事の上で、何をしているのか、我々は何なのか、という問いに向き合おうとしていので、状況は全然違うのでしょうが、意識として他人事ではないと、読みました。私的には、「ストーリーとしての競争戦略」と遠く呼応しているように捉えています。

それでは、著者の議論(といっても、エッセイのかたちを取っているので、論文のように整然としているわけではありません)を追いかけてみましょう。

まず、これからの前提として最新の脳科学の研究の知見に基づいて、運動の構造の議論を説明します。このあたりは学説の説明のようで慣れない人には近寄り難さを感じさせるかもしれません。私たちが身体を動かすプロセスは、「まず自由な精神が、これから行おうとする運動についての意思を立ち上げ、その意思に従って脳が作動して、体を動かす」といった一般イメージとは異なり、まず、脳内の無意識の領域で運動プログラムが作成され、その情報に従い意思が立ち上げられ、感覚フィードバックなどのシュミレーションにより、実際に動いたように感じ、どの筋肉どの程度の力を入れればいいかの計算の後に筋肉に指令が送られる。この後、実際に動いた情報が全身からフィードバックされ内部モデルが修正されるというものだそうです。つまり、私たちは実際に体を動かすよりも前に、自分の体の動きを感じているということになります。この私たちが感じている「私の体が動いている感じ」というのは、実際に動いた体からのフィードバック情報によるものではなくて、脳内のシミュレーションの結果を、実際の運動の結果として錯覚しているに過ぎないことになります。このように、私たちは脳内の中のシミュレーションが計算によって生み出すバーチャルリアリティの中で、自らの意思や、運動や、世界の変化を体験していることになります。これは、後で著者が自らの体験から実感することでもあり、瑣末な議論に感じられるかもしれませんが、よく押えておく必要があります。ところが、著者の場合は、健常者と等身大の2種類の内部モデルがあり、両方とも未完成なままであったため、モデルと実際のギャップが大きく、脳がパニックを起こして緊張状態となり、焦りとこわばりで体を思い通り動かせなくなるのです。

著者は、また、この緊張について、もう1歩踏み込んで「身体内協応構造」ということを説明します。普通、人は歩いたり、走ったりといったパターン化された運動に対しては、個々の筋肉や関節に注意を張りめぐらせた意識的な制御を行わず、意識からの指令を待たずに、各筋肉が相互に緩やかなつながりを持ちながら拘束しあって協働する「横の連携」があるといいます。このような、各筋肉同士がある程度自発的に、互いの緊張具合を拘束し合うような連携を持つことで、「歩け」というようにたった一つの指示で、たくさんの筋肉が一斉に強調的な動きをすることが「身体内協応構造」です。著者の場合は、この「身体内協応構造」が過剰で、個々の筋肉の緊張具合が分節されず、健常者の場合は部分的な緊張で済むものが、著者の場合には全身に及ぶと言います。別の言葉いえば、著者の場合には、各部分の連携に「あそび」の部分がないとも言えます。これは、健常者にも一部あてはまることで、全身の緊張が行き過ぎると、「伸び」をすることで緊張を逃がしてやり、「あそび」の余地を与えてあげると体が効率的に動かせるといいます。

著者は、このように健常者と同じようなモデルをスムーズに作れないことから、周囲の人々が動いている様子をじっと見て記憶し、それらの視覚イメージを自分の筋肉の運動情報へと変換することで、歩くときの筋肉の躍動を追体験するということを意識域に行ってきたといいます。

2010年10月18日 (月)

私はブルックナーをこう聴いている(1)~問いかけ

このブログを、お読みになった方でマイリストの最近読んだ本に目が行く方は、ほとんどいらっしゃらないのではないかと思いますが。今、そこに挙げてある、ある人の著作を若いころに大好きで、難解で、韜晦している文体に格闘していました。そのうちに、文体をなぞるうちに、思考の様式のようなものまでなぞっているようなことが、ありました。

もし、私が誰に熱中していたが分かった方は、この後に続く文章を読まれると、「パクったな!」とおもわれるでしょう。これは、私が感じたか、あの人をなぞっている私が感じたか、見分けがつかなくなっている、と思います。以下、断続的な連載のような感じで、ポツリポツリと続けて行くつもりです。読みにくいかもしれませんが。

1.問いかけ

例えば、クラシック・ファンで特にブルックナーの交響曲を好んでいるような方々に、「ブルックナーを知っていますか?」と少々野暮な質問をした時に、誰もが「勿論。」と当然のように答えることだろうと思います。そうです。誰もがブルックナーを知っていると言っても過言ではありません。ある種のオーケストラの響き、ある種の節回し、またある種のリズムの動きやそれらが渾然一体となったものに触れて、思わず、「ブルックナー!」と呟かずにはいられなくなる。そんな経験はブルックナーの愛好者の方なら誰にでも憶えのあることではないでしょうか。また、そんな気軽な断定は、たえずブルックナーを意識しているわけではない聴き手さえをも、容易に納得させてしまうものです。私も参加しているのですが、例えば演奏会の後喫茶店や酒場での会話で愛好者の方々は誰もが「ブルックナー!」の呟きを内に隠し持っているのではないでしょうか。そんな無言の呟きを暗黙のうちに共有しうるのが、ブルックナーの愛好者たるものが享受できる特権のようなものかもしれません。さらに、「ブルックナー!」の呟きに、いくつかの形容詞が冠せられることになるのです。「ブルックナーを知っていますか?」の問いに、「深遠な」とか、「素朴な」とか、「孤高の」とか、「広大な」とかいうようら形容詞が加えられて返ってくることになるのでしょう。それでは、「ブルックナー!」の呟きの中身はどうなのでしょうか。ちょっと抽象的すぎるかもしれませんね。それでは、「ブルックナー!」という呟きが出てくるのを、実際の演奏なり録音されたCDからなりに即して具体的に教えてほしい。「どんなところが、どんな風だと、その呟きが生まれ出てくるのでしょうか?」と問われたら、どのような答えが返ってくるのでしょうか。私の知る限りそのことについて話されたのを聞いたことがありません。

思うに、「ブルックナー!」という呟きは、音楽を聴く耳が音楽の響きを抹殺した後ではじめて可能となる音楽とは無関係の呟きと言えないでしょうか。このようなことを申せば言い過ぎとの反感を買ってしまうことを承知で、私にとっては、ブルックナーの音楽を現実に聴きつつある瞬間、「ブルックナー!」などと暢気に呟いていることなどできないのです。というのも、ブルックナーの音楽の響きのどこをとっても、お定まりの形容詞を冠した「ブルックナー!」の呟き(この場合の呟きと形容詞は同格でしょうか)に適したものに決して似ているとは思えないからです。にもかかわらず、ブルックナーの音楽をきき「ブルックナー!」と呟いているだけなのを以って、「ブルックナーを知っている。」と答え得るのは、自分の耳で音楽の響きを聴くことを回避しているからではないでしょうか。このようなことは、現実に聴いているはずの音楽の響きを抹殺しながら、「ブルックナー!」の呟きという現実とはかけ離れた神話と戯れているように思えてなりません。ブルックナーの愛好者なら誰もが暗黙のうちに共有している神話に、現実のブルックナーの音楽の響きを従属させているかぎり、葛藤や気まずい沈黙に襲われることはなく、安心していられます。きくことによって、きいている自分の耳はいかなる変化を蒙る気遣いもありません。神話は無傷で温存されるわけです。ここでは、こうした両者のずれに身を置きつつ、ブルックナーの音楽を聴いていきたいと思います。

とは言うものの、私は、いま、現実に、ブルックナーの音楽を聴いているわけではありません。だから、どちらかといえば、神話の側に立ってブルックナーの音楽について考えようとしているわけです。にもかかわらず、できることなら、可能なかぎりずれの中に身を置いて考えを進めたいと思います。というのも、現実に音楽の響きを聴きつつある瞬間に、ブルックナーの音楽は、私の耳に、たえず変容せよと語りかけてくるかのように、様々に違って聞こえてくるからです。いつも同じように聴いていては、その都度の響きを聴きそこなうことになってしまう、私にとっては残酷とも呼ぶべき運動がそこにはあるのです。ブルックナーの音楽は、それを聴く私の耳に、普段の緊張を強いずにはいられません。それを聴いている限り、神話の中に快くとどまっているわけにはいかないのです。(それこそが、お前にとっての神話と言えないかという批判は尤もなことだと甘受いたします。しかし、だからこそ上で断っているはずです。)音楽を楽しむことを、英語ではplayという単語を用います。つまり、遊びです。遊びには、元々筋書きなどありません。ブルックナーの音楽の響き聴くということは、音楽という遊びそのものであるように思うからです。

 

松宮秀治「ミュージアムの思想」(7)

4.保存の思想・排除の思想

新しい「芸術」の思想に裏打ちされた「美術館」は芸術の殿堂として、それに値する作品を選別することになります。ところが、ヴィンケルマンの次の世代となるヘルダー等のロマン派はこの「選別」を逆転させてしまいます。この逆転とは、美術館に収めるべき作品の選別でなく、そこに入館するひとを「選別」せよという、いうならば「俗物」排除論である。当時のドイツの政治的状況下では、彼らの期待した「美術館」とは、君主を「啓蒙」し、その恩恵に浴すというものであって、ルーブル美術館のような一足飛びの革命型のものでなかった、著者は言います。

そこで、ルーブル美術館に話題が移ります。いまのルーブル美術館はフランス革命の中化から生まれてきたものなのです。フランス革命のプロセスはブルボン王朝によるアンシャンレジームの政治的枠組みを破壊し、新しい政治的権威、政治文化を構築していく過程といえます。その新しい中心が「国民」であり、政治文化が「国民の歴史」だったと著者はいいます。つまり、“「国民」とは、まさしくフランス革命が創出した政治的産物であって、それまでのヨーロッパのいかなる政治伝統も知らなかったものである。「国民」を創出するとは、王政の政治伝統の中で「臣民」と位置づけられていたものを新たな政治文化の枠組みの中で「主権者」として、教会の政治文化の枠組みの中で「信徒」として位置づけられていたものを「自由民」として再鋳造していくことである。”具体的に政治的制度の面では、憲法、議会、司法、選挙、貨幣、度量衡などの新制度の導入になり、文化的には同一の政治言語、儀式、図像などを通じて新しい「伝統」を創出していくことつまり「国民の歴史」を新たに打ち立てていくことになります。この新しい伝統の創出とは、新しい象徴体系の創出であるが、フランス革命ほど徹底して、この象徴的枠組みの形成に熱意を示した時代や国民は他になかったといえる。それはフランス革命が、「芸術」を教化的な機能として社会化する政治手手法に最も敏感であったことに原因があり、これは政治手法として、アンシャンレジームのとった視覚の政治化と同種のものです。その大きな違いは次の点にあると言えます。“それは絶対主義王政が「宮廷祝祭」と「クンストカンマー」「ヴァンダーカンマー」によって、王権の神話的な権威創出していったのに対して、フランス革命は「革命祭典」と「ミュージアム」によって、王権の神話的な権威を破壊し、新しい「国民の歴史」の神話を創出したということである。現在では「一国史」のナショナリズムのイデオロギー性は十分に自覚されているのであるが、フランス革命のミュージアムの思想と政策が、ナショナリズム思想だけでなく、帝国主義的な思想も同時に発展させていることにも注意がはらわれなくてはならない。”

さて、このような中でルーブル美術館はルノワールという人物を中心に革命のミュージアムとして成立するわけです。ここでの歴史的記念物の蒐集は、「文化財」という新しい思想の出発点をなすもので、さらに「保存」という思想の出発点にもなったと筆者はいいます。少し前のドイツの芸術思想に基づくコレクションでの保存は、対象その物の価値よりも主観的な「教養財」としての価値と一種のエリート主義からきて俗物を排除するものでありました。これに対して、フランス革命の結果をふまえた文化財は、「国民」化されたものなら誰もが、そこに自己のアイデンティティを発見しうるような象徴的財となり、またその象徴的枠組み自体が「国民」を形成していくための「客観的」で具体的なものになっていくものでした。つまり、「文化財」とは、観念ではなく、具体的なものによって、ある一定範囲の人間のアイデンティティの確認を保証するものとして、必要期間「保存」されることが第一命題となる「もの」なのです。このような文化財が自律的価値をもってくると、文化財と芸術との区分が困難となり、さらに「文化遺産」「芸術遺産」および「自然遺産」もすべてミュージアムという思想の文脈に取り込まれていくことになるのです。

この後、最終章で結論が語られていますが。例によって、実際に読んでください、ということになるわけです。ただ、この本は読んでいて予断のように挟まれているところが、とても面白いのですが、本筋の結論はついていけないほど、往ってしまっているとかんじられるところがあります。

2010年10月17日 (日)

ピーター・ゼルキン「バッハのゴルドベルク変奏曲」

Peter グレン・グールドの演奏を一言でいうと、バッハの曲の構造が透けて見えるように、ピアノの音色やタッチの多彩さを抑えて、チェンバロを模したスタカートと強弱を駆使して、いうならば黒白のモノクロームのように世界を作り上げていると言えます。これと比較してみると、ピーター・ゼルキンの演奏の特徴がよく分かります。一言でいうと、グールドが白と黒のはっきりした対比の世界であるのに対して、彼は白と黒の中間のグレーの濃淡のグラディエーションの世界と言えます。

例えば、冒頭のアリアの演奏。彼は、演奏の途中で時々に右手と左手のバランスを変えてみせます。グールドの演奏では対等に対位法的な二声の線がはっきりと聞こえてきますが、ゼルキンは対位法の構造が崩れない範囲内で、時々に右手あるいは左手の旋律が時々にスポットライトを当てられるかのように際立たせられて、こんないいメロディがあったのか、というような美しい音楽との出会いが幾度も体験できます。このような特徴は、とくにゆっくりとしたテンポの変奏部分ではグールドの演奏にない顕著な魅力があります。

また、何度もここか、というくらい執拗に見えるかもしれませんが、アリアから第一へ移るときにグールドのような鮮やかな転換はありませんが、陰影の豊かさが演奏に奥行きを与えています。そのため、グールドの世界が外に向かって広がりを感じさせてくるのに対して、逆の方向で惹き込まれるような深みを感じさせられるのです。

同じCDで、一緒に録音されているイタリア協奏曲の第2楽章の惹き込まれるような印象も特徴的です。

松宮秀治「ミュージアムの思想」(6)

3.「芸術」の誕生

この節では、近代の代表的な「聖遺物」である「芸術」という概念がつくられるプロセスについて議論が展開されます。

著者は、近代西欧の「芸術」概念のエポックメイキングとなったのは、ヴィンケルマンの『ギリシャ美術模倣論』『古代美術史』を著したことだと言います。彼こそが、「芸術」は宗教や政治といったあらゆる外部からの干渉を排し、ただ芸術家の内面の要求にのみ従うべきだというという、私たちにとってはお馴染み芸術の概念を最初に提唱した人なのです。彼は、遅れて来た古典主義者とでもいうべき人で、その専門であるギリシャ美術に「芸術」の理想を見出していました。しかし、ここでのギリシャ美術には遅れて近代に突入したドイツ人としてのバイアスがかかっていたと言えます。例えば、彼がギリシャ美術を代表するものだという裸体彫刻に関して言えば、「裸体」とは、従来のヨーロッパの「着衣」像に対立する概念として提出されます。「着衣像」とは地位、身分、富という虚飾のなかで人物を表現するのに対し、裸体像はそれらをすべて排除し、人物をその「人間性」そのものとしてみる表現方法であると彼は考えるわけです。皇帝、教皇、君主たちの像はすでにみてきたようにその権威、権力、威信を象徴する品で身を飾り、また不自然きわまりないポーズで表現されるため、人間の内面性という自然から遠ざかり、「人間性」を失ったものとして描かれる。ヴィンケルマンは、これは芸術が政治や宗教の道具に堕しているため、このような衰退がおこるといい、芸術の解放を唱えます。つまり、美術家が自己の内面の要請だけに忠実であるなら、自己の人間性を発見するだけでなく、表現の対象となる人物の人間性をも発見できるというわけです。これは、単に美術理論にとどまらないと筆者は言います。ヴィンケルマンの主張には、新たな市民社会のイデオロギーから宮廷社会と貴族社会のイデオロギーを批判し、社会変革につながる美術理論の提出という側面もあったと筆者は言います。つまり、それまでの政治の視覚化という絶対主義王政の政治手法は「君主」を頂点とする「秩序の格率」をつくり出すために、「衣装」という装置や「装飾品」という装置を使って、その厳格な序列体系をつくり出してきた政治であり、文化であったからです。これに対抗して、「衣装」や「装飾品」によってつくられた人間価値をいったん白紙還元してみようというのが、ギリシャ彫刻を理想とする「裸体」思想の中心といえます。しかもそれが直接的な政治批判というかたちではなく、絶対主義の政治の視覚化を絵画様式のバロックとロココという様式概念でくくり、その特質を絵画文化に見出し、その絵画文化批判を、古典主義の彫刻文化を対抗的に持ち出すという形をとったのが特徴的です。

美術は宮廷社会の価値観を代弁することをやめ、自ら新しい人間性の理想を提示していく方向に歩み出さなくてはならない。そうすれば、美術品はもはや社会の装飾品たることをやめ、製作者と鑑賞者の双方の人間性を高めあう「教養財」とならなければならない。王侯貴族もこれまでのような権威と威信の道具としての美術品の蒐集をやめ、いっさいの虚飾を捨て、ただ人間性のありようそのものを追及したギリシャ彫刻を蒐集すべきである。というわけです。そして、このような理念のもとでの蒐集品は、新たにそのために準備された神殿に安置され、一種の畏敬の念にも似た気持ちで、魂の安らぎと精神の活性化を求めて対峙されるべきものとならなければならない。それは近代の「芸術」思想を作り出す思想でもあるが、同時に「美術館」という新しい型のミュージアムを創り出す思想でもありました。

2010年10月16日 (土)

イム・ドンヒュク「バッハのゴルドベルク変奏曲」

Hyek この人の演奏の印象は、ショパンのようにバッハを弾いている、というように思いました。例えば、第1変奏。アリアの次に出てくる曲です。(毎回、この第1変装を取り上げていますね。別に意識しているわけではないのですが、結果的に偏愛しているのが、分りました)アリアから変奏の冒頭の節が斬り込むように入ってきて、ひと通り演奏されたあと、その節が繰り返されるときに、この人はタッチを変えて柔らかく演奏されます。これは、まるで、ショパンが切り詰めたような凝縮したような小さな曲で、単純な構造の中で、同じ節を絶対に同じ形のままでは繰り返させないのを想い起こさせます。ショパンの曲をピアニストは、それに沿うように多彩なタッチや音色を駆使して、節を繰り返すときの違わせ方を引き立たせます。このような繰り返しのバリエーションというやり方で、この人は第1変奏を演奏して見せます。グールドの場合は、同じ変奏の中での変化を際立たせるようなことはしません。これは、二人のアプローチの方向性が全く異なっているからと思います。この人の場合には、ゴルドベルク変奏曲の各変奏のひとつひとつ単独に完結してようです。まるで、それはショパンの小曲のようです。だから、ひとつの変奏の中で変化をつけるし、ひとつの変奏のなかで強弱をつけ、時にはうねりを与えます。これに対して、グールドの場合にはゴルドベルク変奏曲の全体の構成が第一で、各変奏はアリアに対しての変奏という関係で、その変奏の順番まで熟慮された末で構成されていると言えます。各変奏はあくまで全体を構成するパーツと言えます。だから、人によってはグールドの新盤は作為が目立つとかあそびがないという印象を持つ人もいます。しかし、グールドの演奏には推進力というか活き活きとしたリズムに支えられているため、息が詰まるようなことにはなっていないと思います。これに対して、この人の場合は、各変奏が独立し、完結した世界をかたちづくっているといえます。しかし、グールドに比べて全体を見渡す視線は薄く、相前後する、変奏のつながりは考慮されているようですが、どこか散漫な印象は拭えません。グールドの演奏を聴いていると、全体がなんとなく記憶に残っていて、演奏にあわせて口すさむことも可能です。しかし、この人の演奏は、そのように覚えてしまうことはできません。だから、あまりそういうことを考えないで、次から次へと表れてくる変奏をその都度楽しむという聴き方をすると、即興性もあるし、楽しいと思います。

松宮秀治「ミュージアムの思想」(5)

2.新しい「自然」の建設

このあたりからレトリック的な色彩(こじつけ?)が強くなってくると思います。しかし、レトリックと言えども魅力ある議論であると言えます。これまではヨーロッパでのミュージアムの成立過程を追いかけてきたが、こんどは今日のミュージアム像を見ようと筆者は言います。ミュージアムにはふたつの側面があると言います。ひとつは、フランシス・ベーコンから発し、初期のブリティッシュ・ミュージアムのような功利主義、科学主義を背景として近代的な進歩を志向する面、もうひとつは、これに対抗するような以前からのクンストカンマーを引き継ぐような権威創出の場である象徴的機能の面です。著者は、以前のクンストカンマーから前者の側面が純化してくるにつれて、後者の側面が意識化されてきたといいます。しかし、両側面の関係は単純な対立関係ではないと言います。このあたりから私の理解が追い掛けられなくなってくるのですが、両者は対立しているようで、互いの存在により補完しているといいます。例えば象徴化機能です。ミュージアムの象徴化機能とは、そこに収蔵されている「もの」が本来有している役割、形式、用途を無視し、超論理的に超越的価値を新たに賦与する機能であると言います。つまり、ミュージアムが収蔵物に新たな意味付けをしていくことで、例えば、輸出陶器の包装紙に使われていた浮世絵が美術館に展示されることで芸術とみなされたようなことでしょうか。このような機能は、もともと宗教が担ってきたもので、近代化とともに政治が宗教から独立する過程で、宗教のもつその機能を内に取り込んだ結果だと言います。(これをさして「政教分離」と著者は言います。)この意味で、ミュージアムで保管されているコレクションはキリスト教がゲルマン民族の土俗信仰を取り込んだときに便宜として利用した近代の「聖遺物」だといいます。

著者は、この「近代」というものには、通常、私たちがイメージするような進歩の観念を伴うものと、この反動とも言うべき(他方では進歩を補完する)保守主義の両方が存在すると言います。この保守主義こそ、宗教に代わって新しい文化価値、歴史価値を生み出し、伝統を作り出していく役割を担うものだと言います。この時、近代の新しさは、これまでの“「文化」という概念のもとに自己の「歴史」の価値を発見しただけでなく、同時に「進歩」という概念と密接に結びついた「未来」という価値を発見した” と著者は言います。

2010年10月15日 (金)

松宮秀治「ミュージアムの思想」(4)

第3章 ミュージアムの思想

第3章で著者は近代に入ってミュージアムの制度化の説明に入って行きます。しかし、ここからの展開はロジックというよりもレトリックに寄っていて、観念をあらわす言葉がひとり歩きしてしまう観があって、先走りすぎと思われるところ(著者の方でもペンが先走って、本人の思考がついていっていないと思われるところ)が何箇所かあり、すじ道をおいかけられる構造にないと思われるので、節ごとに分けることにします。

1.自然の征服

ハプスブルグ家に代表される大陸と、イギリスのミュージアムは異なった展開を果します。それは、観念的な大陸系に比べて、経験主義的、実証主義的な風土によることもありますが、フランシス・ベーコンの果した役割が大きいと考えられます。彼は、クンストカンマーを新しい時代の新しい技術哲学に基づく「科学の分化」によって「使用価値」「効用価値」で再編しようとしました.その結果、ブリティッシュ・ミュージアムはイギリスの産業の発展とともに進行した経済的侵略、いわゆる植民地と歩調を合わせる指向にあったといいます。その典型が植物園です。イギリスは現在でもガーデニングの盛んな国ですが、プラント・ハンターと呼ばれる人たちが世界中から植物を採集してまわり、集められた植物の種を保管する場として植物園が作られたようです。彼らの先駆者として有名なキャプテン・クックやジョゼフ・バンクスたたによる「発見」「探検」「調査」は、「もっと先へ」「より未知なるものを求めて」「より学術的に」というニーズの広がりを背景に進められました。とくに、ヨーロッパから見て、「もっと先」であり「より未知なるもの」の宝庫である南北アメリカ大陸、オーストラリア、ニュージーランドなどはその先住民たちにとっては自分たちの生まれた世界であるにも拘わらず、「新大陸」として「発見」され、このような理不尽な用語が一般化されるのと並行して、科学的な「探検」「調査」が行われていくわけです。その成果として植物園が位置付けられるわけです。当然、「探検」「調査」された未知の「新世界」は植民地としてヨーロッパに「帝国主義」的支配を受けることになります。つまり、近代科学と帝国主義は不可分の関係にあり、その成果として植物園に代表されるコレクションも帝国主義的な侵略と表裏一体にありました。

もともと、蒐集という行為の中には「掘り出し物」、つまり、その物の価値をよく知らない人から安く買い受けて得をするという言葉があるとおり、不等価交換を認める意味合いが含まれている、と著者は言います。これは、ここで述べたような「発見」と同じ目線で見ることができるともいいます。

2010年10月14日 (木)

ウィルヘルム・ケンプ「バッハのゴルドベルク変奏曲」

Kemp まず、冒頭のアリアを聴いてみて下さい。また、昨日と同じようにグールドとの比較になってしまいますが、これが同じ曲かというほどに違って聞こえます。おそらくフレージングとか装飾の付け方とかが違うのでしょうが。でも元々同じ曲だというのが理解できないほどなのです。だから、この演奏の場合には、そもそもグールド比較してどうこうというものでは、ないのかもしれません。で、演奏自体は流麗なレガートを生かして、よく歌うこと!!しかも、楽しげで。リズムはグールドのように鋭角的ではありませんが、推進力はあり、グールドが時に全力疾走で駆け抜けるようなところも、スキップしているような感じです。ちょっと先回りしましたが、アリアは本当にユニークですが(それだけグールドの演奏が刷り込まれているということでしょうか)、第1変奏からは、「何だ、やっぱりゴルドヘルク変奏曲だ」という感じです。ケンプというピアニストの、私にとっての最大の魅力は、左手の伴奏に対して、右手で旋律を浮かび上がらせる際の抜群のバランス感覚なんです。たとえば、シューベルトのピアノソナタの演奏などでは、左手でオーケストラの様々な楽器が多彩な伴奏をしている中で、右手でソプラノ歌手がオーケストラに埋もれず、しかも溶け合うかのような節妙なバランスで聞こえてくるのです。バッハのこの曲でも、基本的には対位法の曲のですが、この人の右手からは、いくつものきれいな旋律、「こんなメロディがあったのか」と思っているうちに消えてしまう、はかなさというのか残らないだけに軽やかでもある。というのがずっと続くのです。スリリングというのとは違いますが。飽きさせない魅力溢れた演奏といえます。ちなみに、ケンプはバッハのオルガン曲などの編曲を入れた録音もありますが、これも大好きです。

松宮秀治「ミュージアムの思想」(3)

第2章 コレクションと帝国理念

前の章に続いて、ヨーロッパの君主たちが封建領主から絶対主義君主へと変容していくにつれて、コレクションの性格も変化していくのを追いかけます。それは、コレクションの制度化だと著者は言います。具体的には、それまでは、行き当たりばったり、手当たり次第という面があったコレクションという行為が、より自覚的になり、コレクションの象徴作用を計画的に、そして体系的に行うようなります。

それは、中世初期に比べて領主から王家にと支配関係が継続するようになり、比較的安定的となったことにより、武力などの物理的な力を行使する権力による支配から、権威による支配に変容していったことに伴うとも言えるでしょう。権威による支配とは、端的に言えば、君主が支配し、民衆が服従という関係を民衆に認めさせてしまうという支配構造のことです。そのためには君主の正統性が保証されている必要があります。古代では宗教的権威と政治的権威が集中し、権力と権威が一致し、神権政治が行われました。しかし、ヨーロッパでは宗教的権威は教皇に政治的権威は君主にと、分かれてしまったため、そして、君主が教皇の権威から離れていくにつれて、あらたな権威を創り上げる必要が生じたのです。さらに、権威主義的な支配構造は、その中に階層的な構造を内包させます。身分とか階級というようにものです。この中に取り込まれた者は、その階層に応じた安定と自由を享受できることから、積極的にその支配構造に参加するようになります。そのような構造を受け入れさせるというように目的が、より明確になり、具体化していくことに伴い、コレクションの制度化と政治のスペクタクル化が進むというわけです。

このような事情に加えて、カール5世が相続による名目上であれ、ヨーロッパの大部分の領土の支配者となってしまった影響があります。これによって君主の権威は、その地域の正統な君主であるということから「世界の支配者」という名目に変わって行きました。コレクションも、これに応じて世界の支配者にふさわしいものとして、従来の歴史の遺物から世界中の物品を蒐集するようになっていきます。いうなれば時間軸に沿って蒐集されていたコレクションが、空間的な広がりの方向も含むようになって行ったわけです。

しかし、古代のローマ帝国や中国、トルコのように近隣を征服して領土を拡大していった「帝国」とは違って、カール5世のは婚姻政策の結果としての名目による「帝国」で一時的なのものでしかなかった。その名目としての「帝国」は、現実の統治を伴わず、象徴あるいは理念としての存在でありました。これは一種のユートピア幻想であると筆者は言います。ユートピア幻想というのは東洋的な桃源郷のような現実逃避ではなく、吉本隆明のいう“共同幻想”のようなある規模以上の集団が共同で共通の理念を形成していく場のことです。これに応じて、コレクションは世界を分類し、カタログ化する方向に向かいました。また、政治の視覚化のひとつのシンボルである皇帝の肖像において、典型的なルードヴィヒ2世(アンチンボルドによって描かれた寓意的な肖像)の肖像には世界の植物をはじめ物品が象徴的に画面に使用されています。この背後には、世界の掌握、支配への理念がありました。これは、ヨーロッパにおいては理念でしたが、後に非ヨーロッパに進出していく際には「文明の帝国主義」「文化の帝国主義」として現実に侵略していくものとなっていきました。

さて、このようなコレクションの空間支配への志向性を理念として推し進めたのが、フランシス・ベーコンであったと著者は言います。言うまでもなく、デカルトとともに宗教と科学の分離を進めた人ですが、彼は、このような動きを背景に功利主義、自然主義的な価値観からクンストカンマーに実用的な実験室や研究室の機能に転化させようとしました。そのため、ブリティッシュ・ミュージアムは図書館を含めて博物館的な性格が強いものとなりました。もとより、クンストカンマーは基本的に祝祭空間でもあり、このような側面はルーブルのような美術館的なものに引き継がれ、クンストカンマーから「博物館」と「美術館」への分化が起こり始めます。

以上が第2章ということになりますが、私にとって興味深い指摘がいくつかありました。文脈とは関係なく、それぞれあげてみますが、

         ヨーロッパの植民地が中国やイスラム帝国のような近隣を武力で侵略していく方式ではなく、一足飛びに遠隔地を一気に獲得するという独自な方式だったこと。また、前者は帝国の支配が終わると以前の状態に戻ってしまうのに、ヨーロッパの植民地は支配が終わっても文化的には欧化されヨーロッパの影響から脱しきれないままでいること。

         例えば、ルネサンスは過去の復興にはなにがしかの復興させるべき過去を神話化したいという要求と願望がイデオロギー的な作用力として働いた、具体的には人文主義活動を通じて、古代を甦らせることによって、宗教改革が結果的に招いてしまった地域主義にキリスト教的な普遍主義とは異なった原理を注入することによって、新しい「帝国」理念の可能性を示したものと再解釈できるのです。芸術とは、権力との共存なくしては存在しえないものだったという指摘です。

2010年10月13日 (水)

シモーヌ・ディナースタイン「バッハのゴルドベルク変奏曲」

Dinner 一回、道草を食いましたが、また、ゴルドベルク変奏曲に戻ります。飽きずお付き合い下されば、幸いです。

最初のアリアのテンポは、グレン・グールドの新盤に近く、装飾の付け方などもよく似ている気がする。しかし、グールドのときに感じた“長い”という感じはしないで(これは、あくまでも私の感覚の上でのことなので、正確に時間を量ったりしたことではないです)す。アリアを聴く限りで、この人とグールドの違いとして感じられるのは(絶対グールドの演奏を参考にしているに違いないはずだと思いますが)、ピアノの特性を生かした音色の変化を活用していることと、右手での旋律の強調ということでしょうか。この人は、グールドにも増して声部の整理がすっきりしているので、右手による旋律を浮き上がらせながらも、対位法的な線の絡みもはっきりと分かるように演奏してくれます。

そして、グールドとの違いは次の第1変奏に入るとよく聴き取れます。グールドの時に書きましたように、私の個人的な好みですがアリアから第1変奏に入るときの衝撃が特徴と思っています。この人は第1変奏のテンポはグールドと同じような取り方をしていますが、グールドのような強烈な強弱を与えて、変奏に入るときの衝撃を強調するようなことはしません。むしろ、強弱を抑えて滑らかに次の変奏に移行するような行き方をとっています。ただし、テンポはかなり変化していたり、音色やタッチを変えていたりするので、聴いていて退屈することはありません。グールドの場合は、次の変奏に代わるたびに「来た!来た!」とワクワクするようなところがありますが、この人のは、いつの間にか次の変奏に移行し、中身が変わってきたことに後で気づくのが楽しい、というようなところがあります。

そして、終始、右手での旋律線が浮き上がり、流れているので、これを追いかけていると、しぜんと周囲の対旋律や装飾が次から次へと現われては消えていくような、列車に乗っていて車窓に景色が現われては消えるのを、名残惜しげに眺めているような感覚でしょうか。

指回りは達者なようで、早いパッセージも破綻なく意外とテンポを緩めることなく弾いているので、79分という長い割りには弛緩した印象もなく、長さを感じさせません。

さて、ここまで書いていて、やはり、と思いましたが、グールドと比較してしまうのですね。どうしても、私にはグレン・グールドの新盤が基準となってしまっているようです。

松宮秀治「ミュージアムの思想」(2)

第1章 コレクションの制度化

さて、さっそくコレクションです。著者は、ミュージアムに先立つものとして、16~17世紀の皇帝王侯たちのコレクション「クンストカンマー」とミュージアムには連続性が見られるといいます。それについては議論がありますが、まずは、なぜクンストカンマーなるものが始まったかを考えていきます。

西欧の王侯たちの起源は中世まで遡ることができます。中世初期には王権の正統性は教皇に保障されていました。そのため、絶えず教皇からの介入を受けていたため、王権の教皇からの独立が求められていきました。著者は触れていませんが、中世以降のヨーロッパは統一的な帝国というものが出現しませんでした。古代には、ローマ帝国によるパクスロマーナによる統一的な支配がありました。そしてローマ教会はそのローマ帝国の皇帝の庇護の下で、ヨーロッパ世界で普遍宗教であったわけです。しかし、ローマ帝国によるヨーロッパの支配は終焉を迎え、中世は諸侯の林立した、バラバラな地域支配の時代となりました。しかし、キリスト教会はローマ帝国の庇護を離れてヨーロッパ世界に広がっていました。そこで、キリスト教会によるヨーロッパ全体への精神的な支配と諸侯による地域ごとの政治的支配の二元的な支配体制が出現したわけです。形式的には、諸侯はヨーロッパ全体を精神的に、諸侯が現われる以前から支配していた教会から認められることにより、諸侯は王としての正統性を得ていたわけです。神聖ローマ帝国という中世の歴史に現われる「帝国」はそういう諸侯の集まりだったといえます。ここで神聖ローマ帝国と古代のローマ帝国とは実体が全く違います。神聖ローマ帝国の「帝国」は古代ローマのような実体的支配はなく、教会による精神的な支配に裏打ちされたものだったのです。だから、ここでの「帝国」は理念のようなものだったと言えます。実体としての支配は、神聖ローマ皇帝は選帝侯による選挙で決められ、実際には選帝侯たち相互の牽制により、名目的な皇帝の域を出ない弱小で影響力の少ない領主が選ばれていたとうわけです。そこで、選ばれていたのがハプスブルク家の君主でした。したがって、彼らは実体的に支配をする実力は持ち合わすことができず、皇帝としての地位は安定なものだったと考えられます。そこで、彼らは、プロパガンダにより人々の意識を変化させるためプロパガンダに力を注ぎます。その際、「帝国」としての理念が持ち出され、皇帝像による視覚的イメージを広げたり、祝祭により皇帝の権威を宣伝したりするわけです。いわば「政治の視覚化」です。その際の皇帝のイメージは、中世初期の領主たちがキリスト教のために“戦う”というイメージから、“戦わない王”を経て“文芸を愛する王”へと変容していきます。強大な武力をもたず、いわば理念の「帝国」の支配者である皇帝には観念上の支配者、“戦わない”というイメージが当てはまります。一方で、弱小なハプスプルグ家にとって財力を高め、力をつけていくためには、有力な家門との婚姻が最も有効な手段だったといえます。そのためにも、家系を捏造し、この捏造された家系の裏付けとなるための歴史物を主としたコレクションを盛んに進めました。

そして、カール5世のときに、度重なる婚姻政策の結果、ヨーロッパの各君主の財産を相続したことにより、イギリス、フランスを除いた大半の領土を所有することとなりました。それまで観念にすぎなかった「帝国」が出現してしまったというわけです。そこで、「帝国」の理念が変容しはじめます。それまで、有力ではあるが地域の君主であったフランスやイギリスが、王権の権力基盤や経済の伸長というような実体的な力を蓄えるだけでなく、王権の権威を高めるというようなハプスブルグ家の君主と同じような政策を取り始めます。このことにより、かれらは封建領主から絶対主義的君主への変容を始めることになります。一方、当のハプスブルグ家の方でも、王権の正当な継承者から世界の支配者へと求めるイメージが変容していきます。これに伴って、コレクションの内容が歴史的物品蒐集から全世界の自然物、人工物の蒐集へと対象を広げ、より攻撃的に「帝国主義」的になっていくのです。

話は変わって、著者はコレクションには根底に「攻撃性」「破壊性」があると言います。元来、蒐集という行為には、一種の狂気を含んだものであり、欲望、快楽、制服、支配の情熱を内包していると言います。これを制度化して社会化していったのがミュージアムという制度なのだといいます。とりわけ、蒐集を社会化してコレクション化することにより大きな威力を発するのは、単にものを集める行為から、ものに意味を与える行為となる。いいかえれば新しい象徴体系の構築、新しい神話の創出につながるのです。

以上が第1章ということになりますが、ここまでなら、日本にも同じようなことがあったのではないか、思ってしまいます。例えば、南北朝時代の後醍醐天皇は財力、武力よりも権威に頼ったのではなかったのか、その成果として北畠親房の神皇正統記が生まれたのではなかったのか。そして、戦国を終わらせ全国を統一した豊臣秀吉の政治行為のスペクタクル化といもいうべき北野の大茶会や大規模な建築工事などは、ほとんど同じようなものではないかと思う。ヨーロッパに特有なのかというと少しだけ、茶々を入れたくなります。

2010年10月12日 (火)

ジャックス「ジャックスの世界」

Jacks かつて、ロックという音楽に前衛とかアバンギャルドという言葉が結びついていた時代がありました。それは、この音楽に関わる人たちの共同幻想にすぎなかったと言われれば、それまでですが。おそらく、私が、そういうことについて、もっとも強く思い起こすのは、これでしょう。このバンドが、そういう風潮とは距離をおいていた、ということも含めて。

日本語でロックをするということが、真剣に議論の対象となっていた当時、1960年代終わりから70年代の初め、様々な試行錯誤が敢行されました。しかし、これほどユニークなバンドは後にも先にも、なかったのではないか、と思います。

例えば「マリアンヌ」という曲では、呪文のようなボーカルが歌うというよりも詩の朗読に近い、バックでベース、ドラムがリズムを刻むということとは全く無関係に、フリーに思い思いにソロを即興で演っています。それが、まったく合っているという思えない。リードギターは、ちょこ、ちょこ、と斬り込むようにソロ・フレーズを入れている、そのフレーズがまことにユニーク。じゃあ、リズムがとれないのか、というとボーカルがリズム・ギターをやっていて、それが唯一のリズム。というよりも、生ギターの弾き語りに3人のバックが伴奏ということを全く考えず後ろでプレイしているという感じ。アナーキーというのか、それが実は歌われている詩の世界と通底しているようにも思われてくる。ボーカルを含め4人がハイテンションで暴れまくる。

また、代表曲である「からっぽの世界」でもメロディがあるのか、ないのかわからないようなボーカルで、エコー効かせすぎで何を弾いているのかよく分らないようなリードギターに、ドビュッシーの「牧神の午後の前奏曲」の冒頭のようなフラフラした感じのフルートが終始絡みつく、「マリアンヌ」が動なら「からっぽの世界」は静なのだけれど、摩訶不思議で、詩の世界も、取りようによっては自分の内面の深層に深く潜るようなところもある。

また、一聴では、ふつうのラブ・ソングの「時計をとめて」は実は近親相姦を歌っていたりする。

バンドは、この後1枚のアルバムを出して解散してしまうが、ボーカルである早川義夫は、その後ソロアルバム「かっこわるいことは、なんてかっこいいのだろう」を出している。ピアノ弾き語りのシンプルな曲ばかりだけれど、尋常でない。

たぶん、この人たちの音楽は10人が聴いて、うち9人は何やっているか分からないと拒絶してしまうけれど、1人は病み付きになってしまうような性格のものだと思います。私は、数十年間、離れられません。

松宮秀治「ミュージアムの思想」(1)

Musium このところ、ビジネス書という類の本が続きましたので、今日からは、少し目先を変えます。

基本的に、何かを学ぶとか目的を持って本を読んでいるわけではないので、たまたま、役に立ったというのは排除しませんが、その時々で気の向いた本に手を出しているという濫読の人です。私は。ただし、どうしても仕事と結び付けがちなのですね。勤め人の悲しい性でしょうか。そのへんは、投稿の中身で想像がつくと思います。それでは…序章から。

序章 ミュージアムとは何か

この本のタイトルで“ミュージアム”という外国語が日本語の“博物館”や“美術館”などに分けて置き換えられ、それに応じて機能の違う施設に分けられてしまったことを、ミュージアムを成り立たせている思想に潜む暴力性が見えなくなっていると著者はいいます。さらに、 “ミュージアムという思想が攻撃性と暴力性をもつものであるということは、ミュージアムを成立させている科学、技術、文化、歴史、文化、芸術という西欧近代の創出した諸価値そのものが、それぞれに西欧中心の価値体系として世界の一元的整秩を最終目標としていること”そして、“ミュージアムの基本となっているコレクションという行為に公的価値を賦与し、コレクションという行為を単なる「ものを蒐める」という私的領域に閉じ込めずに、ものを蒐めることによって世界を所有するという政治的行為に転換させてきたこと自体も、ミュージアムの思想が攻撃性と暴力性と不可分に結びついたものであること”をあきらかにしていきます。しかし、“ ”内の文章は壮大すぎて何を言っているのかイメージできないですが、追って明らかになるようで、楽しみに読み進めましょう。

2010年10月11日 (月)

曽根麻矢子「バッハのゴルドベルク変奏曲」

31cxcebpfgl 昨日、グレン・グールドの名盤を久方ぶりに聴いてみたら、また聴きたくなって(一度聴くと暫く病みつきになるようなところがあります。たしかに)、今度は、別の人のを含めて聴き直すことを始めてしまいそうです。それで、曽根さんの旧盤です。この人も2回録音しているようですね。曽根さんの旧盤はグールドがピアノでチェンバロ的な行き方をしたのを、逆にチェンバロでピアノ的に弾いたらどうなるかというような返答をしたような演奏と思っています。まず、録音のせいかもしれませんが、残響が抑えられているようで、チェンバロの響きがとても無機的で楽器と言うよりも機械に近い感触で、グールドのピアノの録音に似た感じがします。それで、演奏の方ですが、最初のアリアでは装飾をあまり施していません。まるで、グールドがピアノでつけた装飾と同じような感じなのです。そして、ピアノ的だという印象を持った最大の点は、第1変奏にあります。昨日のグールドの新盤と同じような弾き方というのか、直前のアリアが弱音でスローテンポでることから、一転して強打のアップテンポにして対比を鮮やかにしている点なのです。チェンバロという楽器はピアノに比べて強弱の変化が強調しにくい特徴があります。それなのに、なのです。携帯プレーヤーでなおかつインナーホンで聴いていると、この辺りは無機的な録音と相俟って、チェンバロがキンキン響き、とても刺激的です。満員電車では音漏れで周囲を気にしてしまうところです。そして、曽根さんはリズムというかビート感をとても強調するような弾き方をしていて、前のめりというのか推進力のある演奏をしています。

その意味で、チェンバロという楽器から連想されるような優雅とか繊細とかいったイメージとは正反対の、リズミカルで力強い感じがします。

グレン・グールド「バッハのゴルドベルク変奏曲」

732 このところ、「ストーリーとしての競争戦略」が長くなってしまって、久しぶりの音楽のように思います。今回は、問答無用の名盤です。旧盤と新盤、あるいはザルツブルク音楽祭でのライブ録音か、グレン・グールドのファンでの好みは分かれると思いますが、私は新盤です。内容の細かなことは日本盤では諸井誠の本当にマニアックな解説がついているので、こちらを読むことをお奨めです。(これだけでも十分に買う意義があります。言うまでもなく)変奏を3つずつグループ化しただの各変奏の意図だのは、そちらを読んでほしいです。チェンバロのような感じを出させるために、レガート奏法の使用を抑え、スタカートを多用した響きの軽さと、音色の変化をもたせず、かわりに装飾をつける、などの特徴は色々なところで、語られ尽くされている観もあります。

この曲は、最初のアリアに対して30の変奏と最後にアリアをもう一度やって終わりというように、同じテーマを32回繰り返すという内容です。ただし、私の好みとしては、このテーマであるアリアはそんないいメロディとは思えないので、アリアには、あまり魅力を感じてはいません。また、変奏曲といってもテーマがどのように手を加えられているかはよく分りません。なので、32の小品の集まりのような聴き方をしています。まず、アリアをグールドは弱音で非常にゆっくりと演奏していて、しかし、レガートでメロディを歌わせるというのではなくて、たんにゆっくり弾くだけなので、私には退屈で、しかも、繰り返しをするものだから、なおさらでした。(ただし、ファンの中にはグールドの思い入れが感じられるとか、いいメロディとかというように好きな人もいるので、好みの問題ですね)それが、第一変奏に間を置かず、バーンと大きな音で入り、しかもテンポがそれまでと違い、一転速くなる、このときの一瞬の変化がドラマチックです。この第一変奏の入りが私は大好きで、そうなると退屈なアリアが第一変奏がくるのを勿体ぶっていて、期待感を高められるようになります。しかも、弱音に耳を澄まして聴いていて、その後の第一変奏のバーンの衝撃がなおさら衝撃的になるのです。グールドという人は途中でテンポを揺らすようなことはしない人で、バッハのようなメロディに歌う要素が少なく、シンプルなものには単調に映るきらいがあります。しかし、この曲では変奏のたびにテンポが転換するのは、場面が変わるような楽しさで、とくにアップテンポの変奏のときの前のめりのような生き生きとしたビート感覚のような畳み掛けるリズムに翻弄されるのが楽しいです。

そのときその時の変奏の変化に身を任せて、ノリノリで聴いていて、スローなテンポのときの、次の変奏を我慢して待っているときの期待感というようにメリハリが、この新盤の魅力と、個人的には思っています。

2010年10月10日 (日)

藤本隆宏「能力構築競争」(2)

昨日の続きです。

筆者は、日本の自動車産業のものづくりシステムは「創発的」に形成されたと言います。トップダウンで計画的に作られて面以外に、当事者が事前に思い描いていた計画や意図とは違う形で出来上がってしまったところがある、と言います。結果として競争力を持ったというと見も蓋ものないですが、それだけに当事者ですら、その全体像をつかむことが難しく、ましてや競合企業にとっては非常に掴み所のないものとなったと言います。

トヨタの場合、創業者がそのようなビジョンを持っていたものの、そのビジョンを頼りに暗中模索や試行錯誤を繰り返した結果と言えるのではないか。それでも、当時の国内状況の制約からやむなく選択したことが、後にプラスに働いた「怪我の功名」もある。例えば、①経営資源が不足する中で生産量成長を余儀なくされたため、結果的に効率的な分業関係が形成された。(社員を増やせないことが、過剰分業の回避につながった。対外的には部品企業の活用が進んだ。設備投資を抑え、既存設備の効果的活用を学習した。)②国内市場の成長がモデル多様化を伴わざるをえなかったために、結果的にフレキシブルな生産システムが構築された。(小ロット生産を余儀なくされた。新製品開発の効率化を常に迫られた)③資本の慢性的な不足が、過剰技術の選択を回避する効果を導いた。

しかし、同じような状況はトヨタ以外のメーカーにもあり、「怪我の功名」の可能性はあったはずなのに、トヨタだけが抜きん出て高いものつくり能力を形成したのは、なぜか。筆者は、トヨタには「怪我の功名をきっちり活かす能力」すなわち、進化能力があると言います。そのような進化能力の実態は何か、どこから来たものなのかについて、筆者は「心構え」だと言います。企業が創発過程そのものを完全にコントロールすることはできないとしても、組織の成員が日ごろからパフォーマンス向上を志向する持続的意識を保ち、何事か新しいことが起こった時、「これはわれわれの競争力の向上に役立たないだろうか」と考えてみる思考習慣を、従業員の多くが共有していることが、その組織の進化能力の本質的な部分であるようだ。というのが筆者の言いようです。

この後で、欧米メーカーのキャッチアップや日本メーカーの海外工場建設などに伴う、ものづくりの修正について言及がなされますが。「心構え」というのが、最終結論ということでしょうか。

で、これって、鶏が先か卵が先かの、どっちかの一方のようなものですよね。これまでの分析や検証が大変なことで、膨大なデータを解析してきた筆者の労苦を考えると頭が下がる思いがします。しかし。この宙ぶらりんのような結論ですか?ね。立派な結論を期待するわけではないのですが。でも、実務家が読めば、こんな結論を出すために、こんなに苦労したの?と言われても、仕方がないと思います。著者への失礼は重々承知しています。しかも、検証もされていないでしょう。この結論は一種のオールマィティな方便としても使えるので、日本のものづくりは全部「心構え」で語れてしまう危険もあるじゃないですか。

ただし、取り上げられている項目数や情報量は多いので、自動車産業のものづくりについての広範な知識が欲しい人には、とても便利な本であると思います。私からは、いい意味でも悪い意味でも教科書というか、著者が自分の考えようとしていることを十分にまとめられていない。単純にページをめくる喜びが薄い、食い足りなさが残る本でした。

2010年10月 9日 (土)

藤本隆宏「能力構築競争」(1)

Nouryoku 最近、日本のものづくり、とくにアーキテクチャ関連の本を読むことが多かったのですが、本書は少し前になりますが、所謂インテグラル型のアーキテクチャの代表的なものづくりである自動車産業において、とくにトヨタ・システムを中心に、その強さを分析したもので、新書とはいえ約400ページにも及ぶ分厚く読み応えがあるものです。通勤の車中で読むには、コンパクトではありますが、かえって単行本より重いので腕が疲れました。以前に読んだ「技術力で勝てる日本が、なぜ事業で負けるのか」「国際標準化と事業戦略」あるいは「メイド・インメジャパンは終わるのか」などととも関連している内容です。

膨大な著作のページのうちの多くのページが概念の説明とデータとその検証に費やされている観があるので、研究者や学生さんには親切なのかもしれませんが、何冊かの関連本を読んでいる実務者にとっては、ややうっとうしく感じました。ただし、こういうところを丁寧に読んでいくと、とても勉強になるとは思います。そこで、かいつまんで、私なりの読みを以下に書きましょう。

筆者はメーカーの競争力には「表層競争力」と「深層の競争力」があると言います。表層の競争力とは、特定の製品に関して顧客が直接観察・評価できる指標のことで、具体的には価格、知覚された製品内容、納期などのことを指します。これに対して顧客は直接観察できないけれど、表層の競争力を背後で支え、かつ企業の組織能力と直接的に結びついている指標のことを深層の競争力といい、生産性、生産リードタイム、開発工数、適合品質、設計品質などを指します。表層の競争力が直接顧客の支持率を競うことで利益をあげていくわけですが、本題の能力構築競争は深層の競争力の競争を指すことになります。

実際のところ、日本の自動車産業はものづくりの組織能力や深層の競争力では安定的に強かったが、表層の競争力は円高やブランド不足の影響などもあり欧米の後塵を拝し、利益パフォーマンスは決して強いとは言えなかったのです。一方、ものづくりに関しては自動車という製品が擦り合わせて作り込む製品であることが日本のメーカーの組織能力の傾向と相性が良かったと言います。このような擦り合わせてつくるために製品設計情報を一本の糸として全体としての一貫性が貫かれ、工程側における情報の受信、作業側における情報の発信がともに間断なく行われ、これに伴うフィードバック情報も頻繁に流れ、その結果開発システムからは統合性の高い製品設計情報が生み出されという線のもとに、情報が縦横に間断なく流れていると言います。有名な、ジャストインシステムや生産工程の個々の施策(多工程持ち、多能工化など)がこの流れの中に配置されているわけです。

そして、これが1980年代以降に顕在化した日本の自動車産業の強い国際競争力に対して、欧米企業が対日キャッチアップを開始しても苦労の末でも深層レベルでは日本企業に追いついていないことを考えると、このような一見地味な深層の競争力が実は容易に模倣できない複雑な体系であり、これを構築するには生産や開発の現場での地道な活動の賜物であったものと言えます。

では、このような日本企業の深層の競争力はどのようにして形成されたのか、これが私には、本書の核心になると思いますが、次回に。

2010年10月 8日 (金)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(18)

18回にもわたる長いものとなりました。楠木さんの語り口をご堪能下さい。本書は第6章で中古車買取のガリバーをケースとして取り上げた具体的な分析、最後のストーリーとしての戦略の骨法というまとめが残されていますが、実際に手にとってお読みになることを薦めます。

優れた戦略ストーリーの競争優位の本質は交互効果にあるので、一見してすぐにわかるような派手な構成要素は必ずしも含まれていません。そのため競合他社はしばらくその優位に気づかずにやり過ごします。しかし、そのストーリーの交互効果がフル回転し、いよいよ競争優位を発揮するようになると、結果としてもたらされる高いパフォーマンスは他社の注目を集めるところとなります。他社はこれこそベストプラクティスとばかりにその戦略を模倣しようとします。さまざまな情報を収集し、分析し、コンサルタントの助言も活かして、成功しているストーリーの構成要素を洗い出します。分析してみると、出てきた構成要素の多くのものはわりと簡単に自分のところでもできそうなことですし、お金を出せば市場を通じて手に入れられそうに映ります。そこで、他社は、次から次へと自分の戦略にそれらの要素を導入します。しかし、競合他社はオリジナルのストーリーが内包していた交互効果の妙については十分に理解していません。場当たり的に戦略を模倣しても、オリジナルの戦略の競争優位の本質であった交互効果は発揮できません。戦略が不全をきたし、かえってちぐはぐなことになります。「聡明にして間抜け」というわけです。これまでの戦略の一貫性や強みも破壊され、パフォーマンス低下の憂き目に遭うという成り行きです。この間、優れた戦略で成功している企業は何をしていたのでしょうか。競合他社の動きに反応して防衛策をとったわけでも、特段の戦略変更をしたわけではありません。オリジナルのストーリーにせっせと磨きをかけていただけです。気づいたときには、競争他社が勝手に奇妙なことを始め、パフォーマンスを低下させています。戦略ストーリーが模倣されるどころか、かえって競争優位が確固たるものになるという次第です。

戦略の競争優位が持続する論理として、模倣の障壁による「排除の論理」と競合他社の「自滅の論理」があるというお話をしてきました。ここで言いたかったことは、前者に比べて後者の論理のほうが、持続的な競争優位の源泉としてより強力だということです。戦略ストーリーがその流れの中で交互効果を発揮できれば、他社はそう簡単にはまねできません。しかし、この競争優位の階層でいうレベル3の段階では、交互効果の複雑性が戦略模倣の障壁となっているという話で、排除の論理にとどまっています。しかし、さらに時間軸を延ばして競合他社の反応を考えてみましょう。優れた戦略ストーリーが高いパフォーマンスを出し続けていれば、当然のことながら競合他社はよりいっそう強い関心を持つはずです。なんとかして自分たちも、その強みを手に入れようとするかもしれません。ここでクローズアップされるのが自滅の論理です。キラーパスをテコにしたレベル4の競争優位の持続性は、排除の論理よりもむしろ自滅の論理に依拠しています。優れた戦略ストーリーを徹底的に分析し、それを構成している要素を手に入れようとする自体が、追いかけてくる競合他社の側で構成要素の過剰を引き起こし、結果的に戦略不全に陥ります。繰り返しますが、オリジナルのストーリーの中核にキラーパスが効いているほど、こうした成り行きの可能性は大きくなります。模倣しようとすることそれ自体が、かえって模倣の対象との距離を広げてしまうわけどですから、レベル4は究極の持続的な競争優位だといえるでしょう。ヒト・モノ・カネ・情報の流通スピードが速くなり、その範囲もどんどんグローバルになっています。この不可逆的な傾向は、ある戦略で成功してもすぐにまねされてしまい、以前と比べると競争優位を持続しにくくなるということを意味しています。しかしその反面で、情報の流通が盛んになるほど、優れた戦略ストーリーが喧伝され、業界の内外で知れわたるだけに、それを(生半可に)模倣しようとする企業はふえるのかもしれません。模倣すること自体が差異を増幅するという、ここでお話ししたメカニズムに注目すれば、情報技術やグローバル化がどんなに進展しても、独自の優れた戦略ストーリーを構築した企業の優位は一般に思われている以上に持続的だといえそうです。

2010年10月 7日 (木)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(17)

続きです。あと2回くらいで終わりです。楠木さんの語り口をご堪能下さい。

単に競争優位を獲得するにとどまらず、どうやってそれを持続的なものにしていけるか。これまでも多くの戦略論がこの問に答えようとしてきました。この章のクリティカル・コアの話をこれまでの話と重ね合わせると、競争優位の階層を描くことができます。競争優位のあり方には五つの異なるレベルがあり、持続性の低いものから高いものへと階層を成しています。レベル0は「外部環境の追い風」で、単に「景気がいいから儲かっている」というもので、利益の源泉が丸ごと外部の一時的な環境要因に依存しています。景気が悪くなれば利益が出ない状態に逆戻りしてしまうわけで、競争優位以前の段階です。レベル0では定義からして持続的な競争優位は期待できません。一つ上のレベル1は「業界の競争構造」に利益の源泉を求めると言うスタンスです。世の中には利益が出しやすい構造にある業界もあれば、もともと出にくい構造に置かれている業界もあります。ただし、利益性の高い魅力的な業界は誰にとっても魅力的ですから、他社もそうした業界にはぜひとも参入したいと考えるはずです。一時的に魅力的な競争構造にある業界でも、他社が次々に参入してしまえば荒らされてしまいます。それこそよっぽど「先見の明」がなければ、業界の構造だけに依拠して持続的な競争優位を確立するのは難しそうです。このようにレベル0とレベル1は、企業の競争戦略というよりも、その企業を取り巻く外部要因に注目した論理にとどまっています。レベル2移行が競争戦略の出番となります。レベル2は個別の構成要素に競争優位を求める経営です。第2章で詳しくお話したように競争優位の構成要素にはポジショニング(SP)と組織能力(OC)という二種類があります。いずれもそれなりに競争優位を持続させる論理を含んでいます。個別の要素を超えて、ストーリー全体に持続的な競争優位を求めるのがレベル3です。要素を個別にまねすることはできても、それが複雑に絡み合った全体をまねするのはずっと難しくなるという考え方です。第3章で強調したように、このレベルでの競争優位の源泉は、個別の要素の中にあるのではなく、ストーリーの一貫性が生み出す交互作用効果にあります。構成要素の間には、相互依存や因果関係が張りめぐらされているので、いくつかの要素をまねしても、全体がきちんとかみ合って交互効果を起こさなければ、同水準の競争優位は達成できません。最上位にあるレベル4の戦略は、構成要素の交互効果をもたらすようなストーリーを構築することにとどまらず、「一見して非合理」なキラーパスにそのストーリーの一貫性の基盤を求めます。ここでの持続性の源泉は、そもそも競合がまねしようという意図をそもそも持たないという「動機の不在」と「意識的な模倣の忌避」て゜した。こうして比較すると、階層の上位に行くほど、競争優位の持続性の背後にある論理が強力になっていることがおわかりいただけると思います。競争優位の階層にある五つのレベルは、どれか一つ選ぶというものではなく、積み重なる関係にあります。利益ポテンシャルが高い業界で、明確なSPと強力なOCを持ち、それが一貫したストーリーを構成し、キラーパスが利いていて、おまけに景気がいいとくれば、五つすべてが満たされており、最強です。

考えれてみれば、ある線戦略がもたらす競争優位が長期にわたって持続するということは不思議なことです。情報や知識の移転が簡単でなかった時代はいざ知らず、これだけ情報技術が発達し、経済がグローバル化した今日では、国や地域や企業を超えたヒト、モノ、カネ、情報の流動性は飛躍的に増大しています。しかし、現実を見ると強い企業はかなりの長期にわたって強い。四方八方から戦略を注視され、模倣の脅威にさらされながらも、5年、10年、15年と競争優位を持続しています。これはなぜでしょうか。なぜ企業間の差異が長期にわたって維持されるのでしょうか。私はこの問題についてずっと強い関心を持ち、持続的な競争優位の正体についていろいろ考えてきました。「ストーリーとしての競争戦略」という視点に立てば、これまで明示的もしくは暗黙のうちに想定されていたものとは異なる、従来見過ごされていた論理があるのではないかと考えるようになりました。今、競争優位を持ち、高い業績をあげている企業A社があるとします。A社の競合企業B社はA社になんとか追いつこうとしています。B社はA社の成功の背後にある戦略に関心を寄せ、その強みを手に入れるためA社の戦略を模倣しようとしています。なぜA社が競争優位を持続するのか。先にお話した競争優位の階層でいうレベル2までは、A社によって「防御の論理」を想定しています。つまり、B社はA社の戦略を模倣しようとするのだけれども、そこにいくつかの障壁があるので、完全にはまねしきれない。だからA社の競争優位が持続するという論理です。このような「競争優位を防御する」という論理では、A社にとっての戦略の防御(B社にとっての模倣の障壁)となりうるものには、さまざまな種類があります。A社が先行者優位に基づいて参入障壁を固めているため、B社がその業界に参入すること自体ができない。これはレベル1の防御の論理です。異なるポジショニングの間にはトレードオフがあるので、B社がA社の戦略を模倣するのはそう簡単ではない。一方のOCに注目するならは、A社が保有する技術をパテントで専有してしまえばB社は対価を払わなければ手に入れられませんし、A社がノウハウの密度が高いものづくりの能力を構築していれば、B社は簡単には追いつけません。結果的にA社の競争優位は維持されます。いずれにせよ、これらはいずれも競争戦略の障壁を高めようとする防御の論理です。しかし、戦略ストーリーの交互効果がもたらす競争優位をよくよく考えれば、競争優位の階層のレベル3やレベル4になると、こうした防御の論理ではなく、むしろ「自滅の論理」とでもいうべき質の異なる論理が浮かび上がってきます。つまり、B社がA社の戦略を模倣しようとするところことそれ自体がB社の戦略の有効性を低下させ、結果的にA社とB社の差異が増幅するという論理です。B社はA社に追いつこうとして戦略を模倣しようとします。しかし、戦略をまねする過程でB社に「奇妙なこと」が起き、A社に追いつけないどころか、当初の意図に反してかえってA社との距離が広がってしまうという成り行きです。模倣しようとすること自体が差異を増幅するという論理は、結果として起こるB社の「敵失」や「自殺点」がA社に持続的な競争優位をもたらしていると言う考え方です。B社はA社に追いつこうとして、主観的には合理的な模倣行動をとるのですが、実際はその過程で自らのパフォーマンスを低下させてしまう落とし穴に陥ります。自滅の論理では、B社はA社との距離を詰めてくるどころか、むしろ当初よりも戦略の差異やパフォーマンスの格差は拡大することになります。つまり、A社が意図的に防御しなくても、B社が勝手に遠ざかっていくというか、「自滅」してくれる。その結果として、A社の競争優位が持続するという論理です。

2010年10月 5日 (火)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(16)

今回は長くなりましたが、今日を入れて、あと三回くらいで終わりです。楠木さんの語り口をご堪能下さい。

起承転結がきちんとしているというのは、古今東西の優れたお話の基本条件ですが、その中でもとりわけ重要なのは、読み手の心をがっちりつかむような「起」と、ストーリー展開のツボとなる「転」の二つです。戦略ストーリーでも同じです。この章では戦略ストーリーの5Cのうち残された最後の一つ、「クリティカル・コア」についてお話しします。クリティカル・コアは「転」にあたります。ストーリーのヤマといってもよいでしょう。コンセプトと並んで、クリティカル・コアは戦略ストーリーの優劣を決めるカギとなります。サッカーにたとえれば、ゴール(長期利益)へのシュート(競争優位)に向けてさまざまなパス(構成要素)を繰り出すわけですが、その中でも「キラーパス」となるのかクリティカル・コアです。「戦略ストーリーの一貫性の基盤となり、持続的な競争優位の源泉となる中核的な構成要素」、これがクリティカル・コアの定義です。この定義を前段と後段に分解すると、クリティカル・コアの二つの条件が見えてきます。第一の条件は、「他のさまざまな構成要素と同時に多くのつながりを持っている」ということです。クリティカル・コアは文字どおりストーリー全体の中核、つまり他のさまざまな構成要素と深いかかわりを持ち、「一石で何鳥にもなる」打ち手です。これは前段の「ストーリーの一貫性」に関連しています。第二の条件は、「一見して非合理を見える」ということです。ストーリーから切り離してそれだけを見ると、競合他社には「非合理」で「やるべきではないこと」のように見える。しかし、ストーリー全体の中に位置付ければ、強力な合理性の源泉になる。クリティカル・コアの特徴はこの二面性にあります。この意味で、クリティカル・コアはストーリーに「ひねり」を利かすものであり、起承転結の「転」なのです。この第二の条件は、定義の後段の「持続的な優位」に関連しており、とりわけ重要な意味を持っています。

「それだけでは一見して非合理゛けれども、ストーリー全体の文脈に位置付けると強力な合理性を持っている」という二面性、ここにこそクリティカル・コアの本質があります。なぜ、「一見して非合理」が重要になるのでしょうか。その理由は競争優位の持続性に深くかかわっています。違いをつくっても、すぐにそれがすぐに他社に模倣されてしまうようなものであれば、一時的に競争優位を獲得できても、すぐに違いがなくなり、元の完全競争に戻ってしまいます。そうなると利益は期待できませんから、簡単にまねができないような違いをつくるということが戦略の重要な挑戦課題です。これが競争優位の持続性という問題です。他社がまねできないような違いとは何か。おそらく一番ストレートな、誰もが思いつくことは、「時間的先行による専有」です。これから伸びるであろう市場に誰よりも早く参入し、顧客を囲い込むことができれば、それは他社がすぐにまねできない強みになります。他社に先駆けて技術を開発し、特許で押えてしまうというのも同種の論理です。ストーリー全体の一貫性も、それ自体で持続的な競争優位の源泉となりえます。いくつかの構成要素をまねできたとしても、ストーリー全部を丸子度まねすることはできないし、するにしても時間がかかるという論理です。しかし、こうした論理に共通しているのは、実際にまねできるかどうかは別にして、少なくとも競争相手は「(それが良いことなので)できるものならまねしたい」という意思を持っているということです。これに対して「一見して非合理」というクリティカル・コアは全く違った論理を意図しています。それは「動機の不在」です。そもそも競争相手がまねようという動機を持っていなければ、まねされないのはいたって自然な話です。もっといえば、競争相手による「意識的な模倣の忌避」という論理です。競争相手がわれわれのしていることを非合理だと考えていれば、たとえ「まねしてください」とお願いしても「イヤだよ」と向こうから断ってくれるでしょう。「A(構成要素)がX(望ましい結果)をもたらす」という因果論理がその業界や周囲にいる第三者に広く定着しているとします。同時に「BがXをも阻害する」という信念が共有されていたとしましょう。このときAは「合理的」で、Bは「非合理」です。多くの会社がAを選択し、Bには手を出さないはずです。こうした状況で、ある会社がBという構成要素を中核に据えたストーリーをつくったらどうなるでしょうか。競争相手は「何をバカなことを…」と冷笑するか、黙殺するでしょう。Bをまねする動機がそもそもないのです。むしろ、Bをやる企業が出てくることによって、自分たちがやっているAの合理性をより強く認識するでしょう。そうした会社の側には「意識的な模倣の忌避」が生じ、より積極的にAの方向に踏み出すかもしれません。つまり、模倣による同質化とは反対に、敵が自ら距離をおいてくれるというわけです。その後時間が経過し、その一見して非合理なことをやっていた会社(以下、「非合理会社」)が長期利益をたたき出すようになると、当然のことながら競合他社も「非合理会社」の強みを認識し、戦略を模倣しようという動機が生まれます。いくつかの構成要素はまねされるかもしれませんが、ここでも「非合理」なBの要素についてはまねされる可能性は依然として低いでしょう。「非合理会社」の戦略ストーリーは、Bを中核として組み立てられています。ですから、いくつかの構成要素をまねしたとしても、一見非合理なBにまで手を出し切れない他社は、同じストーリーの全体を手に入れることはできません。ストーリーを読み解くセンスに優れた競争相手は(そういう企業は実際のところあまり多くいないのですが)、Bにこそ競争優位の根幹があるということを見抜くかもしれません。しかし、それまでさんざん「合理的」なAの路線で事業を展開してしまっていますから、いきなり回れ右をしてBにスイッチすることは不可能といえるほど、長い時間と多くのコストを要するのが普通です。

クリティカル・コアの論理が「先見の明」と大きく異なるのは、外部環境の変化に依存しないということにあります。「先見の明」の論理では、戦略が事後合理性を獲得するためには、外部環境が期待したとおりに変化してくれなくてはなりません。確かに時間的には変化の先読みをしているのですが、本当のところどうなるのかは実際の外部環境の成り行き次第です。外部環境に対して「受け身」の姿勢になります。この意味で、事後の合理性に期待する戦略は「やってみなければわからない」のです。もちろんどんな戦略も、最終的には「やってみなければわからない」という不確実性を抱えています。競争優位の源泉が「バカなる」であれば、単に合理的なことをしようとする戦略に比べて、不確実性は不可避的に大きくなります。しかし、「事前と事後」と「部分と全体」では、想定する不確実性の中身に大きな違いがあります。それは不確実性が外部の環境要因にあるのか、それとも戦略の内部にあるのか、という違いです。部分非合理を全体合理性に転化するというクリティカル・コアは、ストーリー全体を構想することによって、その戦略が有効性を発揮するコンテクストを自ら意図的につくろうとします。ですから、外部環境が「先見」のとおりに動いてくるかどうかにそれほど依存しなくても、独自の競争優位をつくねことができるのです。ストーリーの戦略論が必ずしも「先見の明」に依拠するものでないことをおわかりいただけたと思います。この違いは競争優位の持続性のあり方にも大きく影響します。キラーパスの正体が先見の明であれば、事前の段階で競争相手の「動機の不在」には期待できるかもしれませんが、事後的に合理性が明らかになってしまえば、他社は同じことをするでしょう。「意図的な模倣の忌避」による競争優位の持続は期待できそうもありません。この時点では「部分」も「全体」も合理的ですから、「先見の明」は「普通の賢者」の戦略と同じことになってしまいます。競争優位が持続できるとしたら、規模の経済や経験効果、ネットワーク外部性、戦略ポジションの専有など、普通の意味での先行者優位が何かしら確保されていなければなりません。時間軸で事前と事後の合理性ギャップを衝くよりも、自らつくるストーリーの力によって、部分の非合理から全体の合理性を引き出すという戦略のほうが、競争優位の持続性という点で優れているというのが私の考えです。

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(15)

第5章 「キラーパス」を組み込む

たぶん、著者はこのストーリーとして戦略ということのキーとなるものとして真打、トリに持ってきたのでしょう。起承転結の「転」にあたる、サッカーでいうとキラーパス、著者は「クリティカル・コア」といいます。

このクリティカル・コアには二つの条件があるといいます。

第一には、他のさまざまな構成要素と同時に多くのつながりを持っているということ、構成要素のつながりの中核となる結節点の役割を果たしているということです。そのため、これが有効に機能すれば「一石で何鳥になる」打ち手になります。

第二には、「一見して非合理に見える」ということで、いうなれば、部分最適と全体最適の問題です。単独に打ち手として取り出してみれば、競合他社には非合理に見えるけれども、ストーリー全体の文脈に当てはめてみれば合理的に変じる。

このようなことを、筆者の得意技ですね。スターバックスコーヒーを実例にして詳細にじっくりと説明してくれます。ほかにも、マブチ・モーター、デル、サウスウェスト航空、アマゾン、アスクルといった豊富な実例から説得力ある議論を展開してくれます。上の二つの条件が具体的にどのようだったかというのか、次々に示されるとリアルに理解が進みます。何度も言うようですが、興味を持った方はぜひ一読を進めます。ただ、実務にかかわる人ならば、読んでいるうちに自分の会社のことを、どうしても考えてしまうことになると、思います。

第二の条件である「一見非合理」は、よく似ているけれど「先見の明」とは違います。ストーリーとしての戦略は外部環境による優位性から一歩進んで、競争優位を勝ち取るものというのが、第一章や第二章で述べられてきたことです。ですから、外部環境の変化に依存するだけなら、何もストーリーなど構築する必要はないわけです。

そして、面白いことに競合他社がクリティカル・コアの合理性に気がついて、これを模倣しようとすると、ストーリー全体を模倣しなければ意味がないことになりますが、どうしてもコアの部分だけを取り出して中途半端な模倣に奔ればかえって、従来の戦略の阻害要因となり自滅を招く結果になるのがオチだと言います。これを渋谷センター街のファッションをまねしようとした田舎のコギャルがみっともない姿に成り果てるプロセスを使って分析しているのが面白い。

この後、第六章では今までの説明のまとめとして、ガリバーを例にとってストーリーの読解を実際にやってみせてくれますが、これは原本で味わって見てください。

今回は、長くなりました。それだけ、私も気に入っていたので、気合が入ってしまいました。お付き合いいただいて、ありがとうございました。

あとは、この章の引用を2~3回続けます。

本書は、このあと見事なケース分析を行って、最後にストーリーの骨法という結論に至ります。ここでは、触れません。興味のある方は、くどいようですが本書を直接、読むことをおすすめします。

2010年10月 4日 (月)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(14)

前回に続いて、第四章です。第三章に比べて、短いと思われるかもしれませんが、原則として一番いいところは実際に読んでもらうこととしているので、あえて触れていません。この章と次の章が核心部分で、実際に読んでもらいたい部分がたくさんあります。それでは、お楽しみください。

コンセプトは、顧客の喜ぶ姿が映画のシーンのように浮かび上がってくるような言葉でなくてはならなりません。そのためには、そもそも誰を喜ばせるか、価値を提供するターゲットをはっきりさせる必要があります。ここまでなら、戦略やマーケッティングの教科書で繰り返し指摘されていることですしか、ストーリーの起爆剤となるようなユニークなコンセプトを構想するためには、もう一歩踏み込むことが大切です。「誰に嫌われるか」をはっきりさせる、これがコンセプトの構想にとって大切なことの二つ目です。ターゲット顧客から徹頭徹尾喜ばれるということは、ターゲットから外れる顧客にはっきりと嫌われるということです。人間でも同じです。誰かに非常に愛されている人は、誰かから嫌われているものです。誰からも好かれている人というのは、本当のところは誰からも好かれていないのかもしれません。誰に嫌われるかを意図する。これが筋の良いコンセプトを描くための最も効果的な入り口であるというのが私の考えです。

ビジネスであれば「誰に嫌われたいか」をこちら側で定義できます。誰からも愛されようと思うと、ストーリーに無理が生じて、筋の良い因果論理が損なわれ、一貫性が失われます。それを聞いたとたんに「えっ?そんなの僕はいやだね…」と言いそうな人々がはっきりと思い浮かぶ言葉のほうが、コンセプトとしてはむしろ筋が良いといえます。(もちろん、全員が嫌いそうなコンセプトは論外ですが)。そもそも、本当に全員からこのうえなく愛されてしまうと、独占禁止法に抵触してしまいます。これは半ば冗談ですが、コンセプトの構想にとって八方美人は禁物だということです。八方美人に陥らず、誰かにきちんと嫌われるためには、あからさまに肯定的な形容詞をなるべく使わずにコンセプトを表現することが大切です。顧客価値を定義するというと、どうしても「最高の品質」とか「顧客満足の追求」とか、それ自体で肯定的な意味合いを持つ形容詞を使いたくなります。しかし、そういってしまうと、誰かに嫌われるかがはっきりしなくなります。「最高の品質」はそれ自体であからさまに「良いこと」なので、よっぽどのひねくれ者でない限り、誰にとっても好ましいことでしょう。ということは、本当のところ誰が喜ぶかがぼやけてしまうということです。しかも肯定的な形容詞でコンセプトを片づけてしまうと、そのとたんに思考停止に陥りがちです。結果的に品質が最高になったり、サービスがきめ細かくなったりするのは、もちろん良いことです。しかし、ストーリーを語り起こす起点にいきなり肯定的な形容詞が出てきてしまうと、それに続くストーリーが「よし、頑張ろう…」という短い話で終わってしまいます。

これまで繰り返し強調してきたように、戦略ストーリーは「長い話」でなくてはなりません。ひとたびストーリーを固めれば、未来永劫とはいきませんが、向こう10年、15年、できたら20年ぐらいは、同じストーリーで長期利益を獲得できるというのが理想です。ストーリーは時流に合わせてころころ変えるものではありません。ストーリーの寿命は、外的な機会が機会として存続する期間よりも、ずっと長くなければいけないのです。できるだけ長いストーリーをつくるためにも、人間の変わらない本性を捉えたコンセプトが大切になります。事業を取り巻く環境や機会は常に変化するものです。絶えず変化していく環境や機会の表層を追いかけ回してしまうと、結局のところ目が回るだけで、筋の良いストーリーは生まれません。だから、「変わらないもの」としての人間の本性を捉えたコンセプトが必要なのです。

人間の本性を見つめる。それは「マーケティング調査をして顧客のニーズを知りましょう」という話とはまるで異なります。顧客のことを知悉しなければコンセプトは生まれませんが、だからといって顧客の声をいくら聞いても、人間の本性を捉えたコンセプトにはなりません。顧客はそもそも「消費すること」「買うこと」にしか責任がないからです。責任のない人に過剰な期待を寄せるのは禁物です。

要するにコンセプトは、自分の頭で深くじっくりと考えるしかないのです。どんなに投資をしても、自分の頭を使わなければコンセプトは構想できません。流行の画期的な技術やそのとき華々しく成長している市場セグメント、今そこにいる顧客の声、こうした「外部の事情」に惑わされてはなりません。人間の変わらない本性を見つめるためには、そのような表面的な誘惑や情報の洪水を意識的に遮断することがむしろ大切です。人間の本性を捉えた骨太のコンセプトをつくるためには、その製品やサービスを本当に必要とするのは誰か、どのように利用し、なぜ喜び、なぜ満足を感じるのか、こうした顧客価値の細部についてのリアリティを突き詰めることが何よりも大切です。繰り返しお話してきたように、特に大切なのは「なぜ」についてのリアリティです。グーグルで広範な情報を検索し、引っかかった情報をいくら深掘りしたところで、顧客価値についてのリアリティのある「なぜ」を手に入れることはできません。およそあらゆる人にとって、一番リアリティのある「なぜ」は自分自身の生活や仕事の中にあるはずです。自分自身ほどリアリティを持って理解できる「顧客」は他にはありません。皆さんもご自身でモノやサービスを消費する状況を思い浮かべてください。なぜそれにお金を払うのか、なぜ自分がそれに価値を感じるのか、無理して肩肘張らなくても、改めて振り返ってみればきわめてリアリティに満ちた「なぜ」が自然と思い当たるはずです。消費財ではなくても話は同じです。ちょっとした便利さや価値、不便や不満は仕事の中で毎日のように感じたり、発見しているはずです。ごく日常の生活や仕事の中で、嬉しかったこと、面白いと思ったこと、不便を感じたこと、頭にきたこと、疑問に思ったこと、そうしたちょっとした引っかかりをやり過ごさず、その背後にある「なぜ」を考えることを習慣にする。回り道のように見えて、これがコンセプトを構想するための最上にして最短の道だというのが私の意見です。どんなに画期的なコンセプトも、発想の初めの一歩はそうした日々の習慣の積み重ねの中から生まれるものだと私は思っています。

2010年10月 2日 (土)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(13)

さぁ、核心部の著者の語り口を楽しんでください。しかし、この著作の最大の魅力である事例と、事例に即しての見事な説明は、実際に、この本を読むことをお奨めします。だから、一番いいところは…ね。

競争優位のシュートの決定に比べて、コンセプトの定義ははるかに難しい問題です。なぜならば、それは「見たまま」ではないからです。誰に何を売っているのか。見たままであれば、答えは自明です。しかし、「本当のところ、何を売っているのか」というのがポイントです。PCの会社は見たままでいえばPCを売っているわけですが、本当のところ、売っているのものはPCではありません。お客さんにしても、本当のところをいえば、PCそのものを欲しいという人はほとんどいないのです。まぁマニアは別です。そういう特殊な人は別にして、本当のところ顧客が何にお金を払っているかというと、PCを使うことによって得られる何かなのです。「本当に売っているもの」を考えれば、同じPCメーカーであっても、デルとHPではコンセプトは異なります。アップルはもっと違うでしょう。コンセプトは顧客に対する提供価値の本質を一言で凝縮的に表現した言葉です。それを耳にすると、われわれは本当のところ誰に何を売っているのか、どのような顧客がなぜどういうふうに喜ぶのか、要するに我々は何のために事業をしているのか、こうしたイメージが鮮明に浮かび上がってくる言葉でなくてはなりません。

優れたコンセプトを構想するためには、常に「誰に」と「何を」の組合せを考えることが大切です。「誰に」と「何を」表裏一体で考えることによって「なぜ」が初めて姿を現すからです。「なぜ」は、戦略ストーリーにとって一番大切な問いかけです。ストーリーを動かす原動力は因果論理にあります。「誰に」だけ、「何を」だけでは静止画になってしまい、肝心の「なぜ」についての思考が甘くなりがちです。「なぜ」についての因果論理は「動き」の中にしかありません。動画でなければ因果論理を考えることができないのです。「誰に」と「何を」をペアで考えれば、コンセプトが動画になります。顧客がその商品なりサービスなりを認知し、反応し、購入を決断し、使用し、価値を認め、継続的に利用し、利用経験を蓄積し、さらに満足を大きくしていく、こうした一連の動きが見えてきます。そうした動きのあるイメージを思い浮かべ、実際にそのような動きが生まれるかを突き詰めることによって、なぜその顧客がその商品なりサービスなりに食いつくのか、なぜお金を払うのか、なぜ喜ぶのか、なぜ喜びが持続するのか、いくつもの「なぜ」が見えてきます。コンセプトを動画で構想するというと、多くの人が「どのように」という方法論に傾きがちです。しかし、コンセプトから「誰に」と「何を」が抜け落ちて、「どのように」ばかりが前面に出てくると、コンセプト不全に陥るのが常です。これは戦略ストーリーが失敗作となる典型的な成り行きです。例えば、「顧客の囲い込み」とか「サービスの個別化」「顧客の組織化による継続的課金」、こうしたよくあるアイディアはいずれも「どのように」を問題にしています。それ自体は悪いことではないのですが、この種の方法論が先行したコンセプトは、結局のところ顧客への提供価値よりも自分たちがとのように儲けるかという手前勝手な妄想に終始してしまうことが少なくありません。顧客を組織化して囲い込むにしても、それに先行して「誰に」と「何を」を突き詰めなければコンセプトは動画にならないのです。そこまでの価値を認める顧客は誰か、なぜ彼らを囲い込めるのか、なぜ彼らが継続的にお金を払うのか、サービスを個別化することによって顧客に提供できる独自の価値とは具体的に何か。コンセプトはこうした一連の「なぜ」に対する答えを含んでいなければなりません。「なぜ」が希薄なコンセプトでは、リアリティのあるストーリーは切り拓けないのです。数値目標の設定はストーリーを実際に動かす上で必須の作業工程ではありますが、「数字」だけではコンセプトにはなりえません。数字それ自体は「誰に」「何を」「なぜ」に全く言及していないからです。コンセプトはあくまでも会社の外にいる顧客に提供する本質的な価値の定義です。会社の中で自分たちが達成すべき目標の設定ではありません。いうまでもなく、数値目標を設定したからといって自動的に価値を生み出せるわけではありません。独自の本質的な価値を提供できた結果として、数字が出てくるのです。「数字よりも筋」です。優れたコンセプトが筋の良いストーリーを駆動していれば、数字は後からついてきます。この順番が逆転してしまえば本末転倒です。数字も実現できません。

筋の良いストーリーに独自にコンセプトは欠かせません。戦略ストーリーにおけるコンセプトの重要性はいくら強調してもし過ぎることがありません。どうしたら優れたコンセプトを構想できるのでしょぅか。これにしても法則や必勝法、飛び道具のようなものはもとよりないのですが、コンセプトを考えるときに大切にしておいたほうがよい論理であれば、いくつかお話しすることができます。以下ではねコンセプトづくりにとって大切なことを三つに集約して指摘したいと思います。第一は、これまでの話と重なりますが、すべてはコンセプトから始まる、ということです。幸いにして、コンセプトづくりにはたいして投資は必要ありません。使うのは自分の頭だけです。サンクコスト(埋没費用)もほとんどありません。思いついたアイディアがうまく転がっていかなくても、また考え直せばいいだけです。反対にコンセプトをないがしろにしたままストーリーに取りかかってしまうと、失敗は高くつきます。勝ち目のない事業に進出したり、誰も欲しくないような製品を開発したり、工場や従業員などの固定投資をドブに捨てるといった、取り返しのつかないことになりかねません。コンセプトの構想はある意味で「安上がり」な仕事ですが、逆にいえば、どんなに投資しても、アタマを使わなければ筋の良いコンセプトは生まれません。急ぐ必要はありません。コンセプトの構想にじっくりと時間をかけるべきです。本質的な顧客価値を捕らえて確信できるコンセプトが固まるまでは、ストーリーの細部を考えても意味がありません。コンセプトがしっかりしていないストーリーはしょせん砂上の楼閣です。裏を返せば、「これだ!」というコンセプトが固まれば、ストーリーづくりの半分は終わったも同然だということです。

2010年10月 1日 (金)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(12)

第4章 始まりはコンセプト

話は、いよいよ核心に迫ってきました。著者はこの次の第5章のキラーパスが面白いと思って最後にとっておいているようですが、私には、実務的には、このコンセプトの考え方は、すぐに自らを問い直して、いまの状況を再確認させるという意味あいも含めて、ストーリーの一番の核ではないかと思いました。後で出てきますが、キラーパスもコンセプトなしには生まれない、というとこからみると、一番大事なのは、むしろ、こちらではないか。この章でもブックオフやリクルートの雑誌「ホットペッパー」、アスクル(ここでの久美子さんの話は涙なしにはいられない?)、アマゾン、そしてサウスウェスト航空(コンセプトにより想定するライバルも違ってくるというは、目から鱗バラバラ)といった豊富で、魅きつけられるような事例に沿った説明が展開されていますが、興味ある方は実際に購入して読むことをお勧めします。

前章で、終わりから逆回しに考えると言うことで、結果である長期的な利益の持続という目標のために、競争優位のあり方を考えました。ここでは、起点を考えます。コンセプトが本質的な価値を備えていなければ、スタートできないわけです。では、コンセプトとは何かといえば「本当のところ、誰に何を売っているのか」ということです。例えば、自動車メーカーは「自動車」を「消費者」に向けて売っています。しかし、自動車を買う人は何を求めて、何に価値を見出して、高価なものを購入しているのか。交通の手段としての必要性もあります(主に市街地で使うか、山間部で使うか、セカンドカーとして必要かといった、場合分けも可能です)。楽しみとして買うひともいれば、見せびらかすアイテムとして買うひともいます。それ以外にも、色々な動機で買われるでしょうし、これまでにない潜在的な動機を発掘することも可能です。この場合、それぞれの動機で自動車に求められることは違うはずです。このようなときに、コンセプトは顧客に提供できる価値の本質を一言で凝縮的に表そうというものです。どのような顧客が、なぜどういうふうに喜ぶのか、要するに企業が何のために事業をしているのか、こういったイメージが鮮明に浮かび上がってくるものです。

このコンセプトの構想にとって大切なこととして著者は次の三つを上げています。

その第一が、「誰に」と「何を」を表裏一体で考えることによって「なぜ」に至ることが大切だと著者は説きます。これによりダイナミズムが生まれるからです。

そして第二に、「誰にきらわれるか」をはっきりさせること、つまりはターゲットを明確にすることです。ターゲット顧客から徹頭徹尾喜ばれるということは、ターゲットから外れる顧客からはっきり嫌われるということです。

第三に、これが最も大切なことですが、「人間の本性」を捉えることだといいます。人間の本性とは、要するに人は何を喜び、楽しみ、面白がり、嫌がり、悲しみ、怒るのか、何を欲し、何を避け、何を必要とし、何を必要としないのか、ということです。

この三つを押えて、その製品やサービスを本当に必要とするのは誰か、どのように利用し、なぜ喜び、なぜ満足を感じるのか、こうした顧客価値の細部についてのリアリティを突き詰めることでしか、コンセプトしつくれないのです。とくにたいせつなのは「なぜ」についてのリアリティです。これは、自分自身の生活や仕事の中にあるはずです。こうした自分を見つめることから始まるものだ、と著者は説きます。決して、マーケット調査やコンサルティングなどからは得られるものではないとも。

あるIR担当者の雑感(5)

数日前にも書きましたが、第2四半期の説明会に向けて準備を始めているところです。で、今、一番悩んでいるのは、会社紹介のところです。私の勤めている会社は製造業向けの産業機械メーカーなので、その業界以外では無名に近いし、その製品そのものも一般に馴染みのないものです。だから、決算説明会といえども、どのようなことをやっている会社かというのを、説明するなり、説明資料を用意するなり、しておく必要があります。

だけど、それだけなら「会社案内」があるのではないか、と思われるでしょう。今なら、上場している会社ならば、綺麗に印刷された冊子の「会社案内」があるでしょうし、私の勤め先にもあります。例えば、もし営業マンが売り込みに来て、まず会社の紹介として「会社案内」そのままの説明をしたとして、その営業マンを一発で信頼できるでしょうか。というと酷かもしれません。では、最近、ある会社の若いIRもやっているという人と話す機会があったのですが、その人は自分勤めている会社を「会社案内」を暗誦するかのように、きちんとした紹介をしてくれました。云わく、何とか事業部と何とか事業部があって売上高がどうでというように丁寧に話してくれました。しかし、その人の会社は洗剤をはじめとした家庭用品のメーカーで、私などにはヒットした洗剤の名前を上げて、これ売っている会社ですとでも話してくれた方が、ずっとその会社を身近に感じられたし、私の印象として分かったという気持ちになれたと思います。その若い人にも、さっきの営業マンにしても、この人たちは押し着せを暗誦しているだけで、自分の言葉で語っていないのです。要するに紋切り型としてしか聞こえないのです。ということは、自分の会社に対して暗記する程度でいいと思っていることにもなります。実際には、ウチの会社、実は…、というのもあるはずです。それが実感できていれば、紋切り型には終わらないはずです。この人たちが、自分の家族を他人に紹介する時に

紋切り型になるのでしょうか。これが悩んでいる理由の第一点。

第二点は、今、このプログで続けて掲載している「ストーリーとしての競争戦略」の内容とも関連します。その中で取り上げられていた会社の例でいうと、サウスウェスト航空。格安航空の代表的な会社です。この会社は、創業のはじめから他の有力な航空会社と違う事業の捉え方をしていたといいます。「誰に対して」「どのようなサービス」を提供することでカネを稼ぐのかという、いわば会社の基本的な認識の点で、例えばノースウェストやデルタのような有力な航空会社と違っていて、それが会社の戦略の違いとなって現われたと言います。これは本を読んでいただきたいのですが、ちょっとだけいうと、サウスウェスト航空は自らを「空飛ぶバス」と位置付け、そういう基本認識の違いから、サウスウェスト航空はライバルを航空会社ではなくてバス会社に置いたそうです。バスから機内食のサービスはないし、席の予約がなくても飛び乗りができる。料金も、バスが基準。として、具体的戦略が進んだそうです。だとしたら、会社が自分自身を紹介するのは、会社の事業戦略やその結果としての実績を語ることの根底をなすことにならないか、思っているからです。それは、経営方針だから、トップが決めることだ、という意見もあるかもしれません。しかし、実際に動くのは従業員で、かれらの行動や発想の根底にも暗黙のうちに、本人は意識してか、無意識にか、この会社はこうだというのがあるはずです。とくに、日本の会社はトップの指令で、というより全体のコンセンサスで動く傾向が強いからということもあります。

こんなこと、IRでやるの?という疑問があると思います。(これって、ちょっと業界の突っ込んだ議論になりそうですね)私は、IRでも、あるいは、IRだからこそ、できる、と思っています。どうこうことかというと、まず、会社の中で、こんなことをやろうとする人はいないだろう、また、やらなくてはならない部署はないだろうということ。この裏面になると思いますが、IRという業務が、端的に言えば、その他の仕事、経理、財務、人事のようにテリトリーが明確に定められていない、定められるほど定着していない業務担当だからやってしまえる(大企業では別でしょうが)ことがあります。また、外に向かって情報開示、つまり、自らを開くということは、突き詰めれば、その自らとは何かということに行き着く、と思うからです。例えば、浩瀚な「アイデンティティ」という概念。これを心理学で導入したEHエリクソンの主著は邦題で『自他同一性』と訳されています。

そのようなことを考えていると、決算説明会でもちろん数字を開示するのは当然ですが、その数字が出てくる背景のおおもとのひとつが、このようなことにあるのではないか。

まあ、作業が捗らない言い訳で、こんなことを弁解にしているというのが、実態なのかもしれません。

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