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2010年10月17日 (日)

松宮秀治「ミュージアムの思想」(6)

3.「芸術」の誕生

この節では、近代の代表的な「聖遺物」である「芸術」という概念がつくられるプロセスについて議論が展開されます。

著者は、近代西欧の「芸術」概念のエポックメイキングとなったのは、ヴィンケルマンの『ギリシャ美術模倣論』『古代美術史』を著したことだと言います。彼こそが、「芸術」は宗教や政治といったあらゆる外部からの干渉を排し、ただ芸術家の内面の要求にのみ従うべきだというという、私たちにとってはお馴染み芸術の概念を最初に提唱した人なのです。彼は、遅れて来た古典主義者とでもいうべき人で、その専門であるギリシャ美術に「芸術」の理想を見出していました。しかし、ここでのギリシャ美術には遅れて近代に突入したドイツ人としてのバイアスがかかっていたと言えます。例えば、彼がギリシャ美術を代表するものだという裸体彫刻に関して言えば、「裸体」とは、従来のヨーロッパの「着衣」像に対立する概念として提出されます。「着衣像」とは地位、身分、富という虚飾のなかで人物を表現するのに対し、裸体像はそれらをすべて排除し、人物をその「人間性」そのものとしてみる表現方法であると彼は考えるわけです。皇帝、教皇、君主たちの像はすでにみてきたようにその権威、権力、威信を象徴する品で身を飾り、また不自然きわまりないポーズで表現されるため、人間の内面性という自然から遠ざかり、「人間性」を失ったものとして描かれる。ヴィンケルマンは、これは芸術が政治や宗教の道具に堕しているため、このような衰退がおこるといい、芸術の解放を唱えます。つまり、美術家が自己の内面の要請だけに忠実であるなら、自己の人間性を発見するだけでなく、表現の対象となる人物の人間性をも発見できるというわけです。これは、単に美術理論にとどまらないと筆者は言います。ヴィンケルマンの主張には、新たな市民社会のイデオロギーから宮廷社会と貴族社会のイデオロギーを批判し、社会変革につながる美術理論の提出という側面もあったと筆者は言います。つまり、それまでの政治の視覚化という絶対主義王政の政治手法は「君主」を頂点とする「秩序の格率」をつくり出すために、「衣装」という装置や「装飾品」という装置を使って、その厳格な序列体系をつくり出してきた政治であり、文化であったからです。これに対抗して、「衣装」や「装飾品」によってつくられた人間価値をいったん白紙還元してみようというのが、ギリシャ彫刻を理想とする「裸体」思想の中心といえます。しかもそれが直接的な政治批判というかたちではなく、絶対主義の政治の視覚化を絵画様式のバロックとロココという様式概念でくくり、その特質を絵画文化に見出し、その絵画文化批判を、古典主義の彫刻文化を対抗的に持ち出すという形をとったのが特徴的です。

美術は宮廷社会の価値観を代弁することをやめ、自ら新しい人間性の理想を提示していく方向に歩み出さなくてはならない。そうすれば、美術品はもはや社会の装飾品たることをやめ、製作者と鑑賞者の双方の人間性を高めあう「教養財」とならなければならない。王侯貴族もこれまでのような権威と威信の道具としての美術品の蒐集をやめ、いっさいの虚飾を捨て、ただ人間性のありようそのものを追及したギリシャ彫刻を蒐集すべきである。というわけです。そして、このような理念のもとでの蒐集品は、新たにそのために準備された神殿に安置され、一種の畏敬の念にも似た気持ちで、魂の安らぎと精神の活性化を求めて対峙されるべきものとならなければならない。それは近代の「芸術」思想を作り出す思想でもあるが、同時に「美術館」という新しい型のミュージアムを創り出す思想でもありました。

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