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2010年10月28日 (木)

松宮秀治「芸術崇拝の思想」(1)

Art 先日、読んだ「ミュージアムの思想」に続くものでしょう。この人のものを読んでいると、所々興味深い指摘があったりして、飽きさせないサービスが感じられるのですが、なんとなく考えが独り歩きしてしまうような印象を受けてしまいます。クラシック音楽のファンで、ある演奏なり演奏家なりを深い精神性があるとかコメントする人で、どこが、どのような響きがそう感じさせるのか、と聞くと答えられないひとが結構多かったりします。音楽を聴いたうえでそのように感じるのなら、どのようにしてというような分析は難しいけれど、どの部分でそう感じたのか、ぐらいは話せるはずですが。思うに、そういう人は音楽の響きを、実は聴いてはいなかったりして、精神性の高いというような先入観を用意して、演奏が始まった時点で、音楽に耳をふさいで先入観を頭の中で呪文のように繰り返して、自分を納得させているようなイメージがあります。自己陶酔に浸っているわけですね。これと似たような印象をこの著者にも感じました。ただし、随所で脱線するところは楽しい。では、少し中身を見ていきたいと思います。

序章 芸術家伝説

本書のテーマを著者は、こう言います。“本書全体のテーマは西欧近代がなぜ芸術崇拝という新しい思想を生み出したのか、また西欧の近代国民国家が政教分離を近代国家の政治原理とするようになったのか、またこの政教分離の思想と芸術の神聖化とはどのようにかかわるかを見ていくことである。”なんか難しそうです。

で、まず序章では導入として、いまのところ芸術家というものに対して我々が一般的に持っている理想的なイメージをハインリッヒ・リッセの『神へり裏切り』という短編を紹介します。これはフランスのある辺鄙な農村でひとりの農夫が道端で一心不乱に絵を書く画家と知り合い、その出来上がった作品を受け取ります。その後、農夫は絵のことをすっかり忘れたころ都会から画商がその絵を探しにきて、買いたいと申し出ます。その語、農夫は妻の勧めもあって、その絵を売ってしまいます。農夫は売却を神への裏切りの思え、魂が抜けたようになって、泥酔のあげく大怪我を負い死んでしまうという話です。ここで描かれている画家は西欧近代の「芸術」の観念の本質的な諸要素を巧みに集約していて、近代の芸術神話の典型と言うことができるといいます。

これが、前近代や非西欧の芸術家伝説の場合なら、このようなものではなく、「才能発見」仮説と「完璧な伎倆」伝説に集約てきます。このような芸術家伝説は社会と芸術が求める価値が一体であったときに、人びとが芸術家を理解する直接的で有効な手段だったと言えます。これに対して『神への裏切り』の“画家はまったく社会から孤立し、旅行者か放浪者のように名も知らぬ村にひとりたどり着き、憑かれたように絵の制作に熱中する。彼は世俗的な芸術家としての成功や、社会的な名声の追求とは完全に無縁である。彼は孤独であり、自己の内なる芸術的信念以外のなにものも関心をもたない。彼が孤独であるというのは、彼に親や兄弟、あるいは妻や子供や友人がいないかということではなく、彼にとってあらゆる世俗的価値が何の意味ももたないゆえに、すべての社会的活動との接点が失われ、社会から孤立した道を歩まねばならないということである。社会的な栄誉や金銭的欲求を超越しているがゆえに、自己の畢生の大作を惜しげもなく農夫に与えてしまう。彼は直感的に自分と農夫か同類であることを認識したのかもしれない。彼は自発的に社会の圏外に出ることを喜び、農夫は受動的に社会の圏外に押し出された存在であること、つまり、両者がともに世俗的な価値の埒外に生きる者同士であることが二人を結びつけたのであろう。二人のこの結びつきが一枚の聖なる絵画を通して、俗世間の俗物どもを表面に浮かび上がらせる。農夫の妻と首都から来た画廊主と絵を買い取る老紳士である。三人はそれぞれ自分の置かれている立場で各自の役割を演じているが、金銭という最も世俗的欲望を象徴しているものでこの絵とかかわっている。世俗社会においてはこの金額が高くなればなるほどこの絵の聖性は高まってくる。後に詳述するように、西洋近代の「芸術」は神格化され「聖性」を帯びたものとなったはずなのに、皮肉にも神格化され聖性を賦与されたがゆえに「聖遺物」崇拝と同じ世俗信仰の体系を創り上げてしまい、世俗社会では芸術がマモンの神、いうなれば拝金主義者たちの守護神の支配下に組み入れられるという逆転現象を招いてしまった。”この意味で、西欧中世のキリスト教世界において最も高価なものは「聖遺物」で、いかなる宝石や貴金属よりも高価でした。近代社会では、これに代わり新たな聖遺物として「芸術」作品が浮上してきます。そして、中世の「聖遺物」がキリスト教という宗教がバックボーンとなって聖性を与えられていたのに対して、近代の「芸術」は国家という栄誉と顕彰のシステムであり、一般には芸術作品は作品自体の芸術的価値によって聖性を自然と手に入れているものと観念的に考えられました。作品を生み出す芸術家は社会とは無関係に芸術の深化に身を投じる、『神への裏切り』の画家のように、のがひとつの理想像となっていたわけです。このような、中世から近代へと時代が代わったことに伴い、宗教が占めていた位置が芸術に移り変わったのは、西欧近代の「政教分離」が関係している、というのが本書のテーマです。

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