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2010年10月18日 (月)

私はブルックナーをこう聴いている(1)~問いかけ

このブログを、お読みになった方でマイリストの最近読んだ本に目が行く方は、ほとんどいらっしゃらないのではないかと思いますが。今、そこに挙げてある、ある人の著作を若いころに大好きで、難解で、韜晦している文体に格闘していました。そのうちに、文体をなぞるうちに、思考の様式のようなものまでなぞっているようなことが、ありました。

もし、私が誰に熱中していたが分かった方は、この後に続く文章を読まれると、「パクったな!」とおもわれるでしょう。これは、私が感じたか、あの人をなぞっている私が感じたか、見分けがつかなくなっている、と思います。以下、断続的な連載のような感じで、ポツリポツリと続けて行くつもりです。読みにくいかもしれませんが。

1.問いかけ

例えば、クラシック・ファンで特にブルックナーの交響曲を好んでいるような方々に、「ブルックナーを知っていますか?」と少々野暮な質問をした時に、誰もが「勿論。」と当然のように答えることだろうと思います。そうです。誰もがブルックナーを知っていると言っても過言ではありません。ある種のオーケストラの響き、ある種の節回し、またある種のリズムの動きやそれらが渾然一体となったものに触れて、思わず、「ブルックナー!」と呟かずにはいられなくなる。そんな経験はブルックナーの愛好者の方なら誰にでも憶えのあることではないでしょうか。また、そんな気軽な断定は、たえずブルックナーを意識しているわけではない聴き手さえをも、容易に納得させてしまうものです。私も参加しているのですが、例えば演奏会の後喫茶店や酒場での会話で愛好者の方々は誰もが「ブルックナー!」の呟きを内に隠し持っているのではないでしょうか。そんな無言の呟きを暗黙のうちに共有しうるのが、ブルックナーの愛好者たるものが享受できる特権のようなものかもしれません。さらに、「ブルックナー!」の呟きに、いくつかの形容詞が冠せられることになるのです。「ブルックナーを知っていますか?」の問いに、「深遠な」とか、「素朴な」とか、「孤高の」とか、「広大な」とかいうようら形容詞が加えられて返ってくることになるのでしょう。それでは、「ブルックナー!」の呟きの中身はどうなのでしょうか。ちょっと抽象的すぎるかもしれませんね。それでは、「ブルックナー!」という呟きが出てくるのを、実際の演奏なり録音されたCDからなりに即して具体的に教えてほしい。「どんなところが、どんな風だと、その呟きが生まれ出てくるのでしょうか?」と問われたら、どのような答えが返ってくるのでしょうか。私の知る限りそのことについて話されたのを聞いたことがありません。

思うに、「ブルックナー!」という呟きは、音楽を聴く耳が音楽の響きを抹殺した後ではじめて可能となる音楽とは無関係の呟きと言えないでしょうか。このようなことを申せば言い過ぎとの反感を買ってしまうことを承知で、私にとっては、ブルックナーの音楽を現実に聴きつつある瞬間、「ブルックナー!」などと暢気に呟いていることなどできないのです。というのも、ブルックナーの音楽の響きのどこをとっても、お定まりの形容詞を冠した「ブルックナー!」の呟き(この場合の呟きと形容詞は同格でしょうか)に適したものに決して似ているとは思えないからです。にもかかわらず、ブルックナーの音楽をきき「ブルックナー!」と呟いているだけなのを以って、「ブルックナーを知っている。」と答え得るのは、自分の耳で音楽の響きを聴くことを回避しているからではないでしょうか。このようなことは、現実に聴いているはずの音楽の響きを抹殺しながら、「ブルックナー!」の呟きという現実とはかけ離れた神話と戯れているように思えてなりません。ブルックナーの愛好者なら誰もが暗黙のうちに共有している神話に、現実のブルックナーの音楽の響きを従属させているかぎり、葛藤や気まずい沈黙に襲われることはなく、安心していられます。きくことによって、きいている自分の耳はいかなる変化を蒙る気遣いもありません。神話は無傷で温存されるわけです。ここでは、こうした両者のずれに身を置きつつ、ブルックナーの音楽を聴いていきたいと思います。

とは言うものの、私は、いま、現実に、ブルックナーの音楽を聴いているわけではありません。だから、どちらかといえば、神話の側に立ってブルックナーの音楽について考えようとしているわけです。にもかかわらず、できることなら、可能なかぎりずれの中に身を置いて考えを進めたいと思います。というのも、現実に音楽の響きを聴きつつある瞬間に、ブルックナーの音楽は、私の耳に、たえず変容せよと語りかけてくるかのように、様々に違って聞こえてくるからです。いつも同じように聴いていては、その都度の響きを聴きそこなうことになってしまう、私にとっては残酷とも呼ぶべき運動がそこにはあるのです。ブルックナーの音楽は、それを聴く私の耳に、普段の緊張を強いずにはいられません。それを聴いている限り、神話の中に快くとどまっているわけにはいかないのです。(それこそが、お前にとっての神話と言えないかという批判は尤もなことだと甘受いたします。しかし、だからこそ上で断っているはずです。)音楽を楽しむことを、英語ではplayという単語を用います。つまり、遊びです。遊びには、元々筋書きなどありません。ブルックナーの音楽の響き聴くということは、音楽という遊びそのものであるように思うからです。

 

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