松宮秀治「芸術崇拝の思想」(3)
第2章 革命思想としての啓蒙主義
政治の体制で、いわゆる政教分離の大きな契機のひとつと考えられるのが啓蒙主義の思想と言えるでしょう。著者は“啓蒙主義は芸術を解放する。歴史的な表現をすれば過去形として、解放したというべきであろう。解放したというのは何から、どのように解放したということなのか。これ以後の叙述はしばらくこの問題にかかわっていくことになるのであるが、暫定的な結論としていえば、芸術は理念的に「職能」から解放され、自律的な価値を与えられたということである。職能から解放され、自律的な価値を与えられるということは、注文者、保護者、ギルドという同業組合の権力や拘束から解放された自由人として、権力、権威、伝統のみならず、社会的な道徳にも服従の義務を負う必要のない存在になるということである。これを突き詰めていくと「芸術家」とは理念的にはみずから神となって、自己の作品を通じて、歴史と社会がいまだ発見しえなかった新しい価値を創出する「創造者」となることである。”と言います。啓蒙主義は「進歩」という思想を新たに持ち込みました。人間精神が世代をおって力を増し、人間が形成されていく歴史は時代をおって完全な状態移っていくという信念は、今では素直には聞けないものですが、当時としては革命的な意義を持っていたと著者は言います。これは人間から恐怖ーを除き、人間を支配者の地位につけるということだと、アドルノとホルクハイマーは言います。つまり、人間が自己の知的な力で、人間をこれまで支配していた呪術的、神話的、宗教的世界観から自由になって、理性が支配する世界へと人間を解放しようとする思想です。著者は、啓蒙主義が理性を人間の属性とすることによって、人間を神の位置つまり絶対者の位置に据えたとして、その思想的根拠をカントに求めます。カントはドグマや権威を権力から独立させて、与えられた対象の本性を「理性」をもって判断していきます。キリスト教の宗教的世界観の根幹をなす自由・霊魂の不滅、神の存在という三つのイデアは純粋理性では否定も肯定もできませんが、実践理性において道徳と倫理の問題として対象化となってくると著者は分析します。かなり、恣意的な読みかもしれませんが、著者の分析を敷衍すると、これは、三つのドグマを純粋理性により正誤判断しようとしても、人間が誤った判断をしてしまったときの責任をとれない、しかし、実践理性で倫理的な責任の範囲を規定することにより責任の所在を理性で判断できることから、判断の責任の所在をはっきりできるということです。言い換えれば、理性によって人間の行動の判断基準、当為と禁止、権利と義務等を人間が判断できることになると言います。ここに至って、西欧思想が宗教から解放され、専門科学が自律的な存在を主張できる基盤が整ったといいます。私には、そこのところの説明が不十分でよく理解できませんでした。
例えば、政治学では政治全体についての真理を追求することではなく、意見をもつことが必要というように変わってくる。そこから理念としての政治のあるべき姿から、現実の政治に必要なもの、つまり、人間社会の新しいユーピア建設のための設計図をつくるためのものと変容するのです。これは、一種のリセットであり、方法論として始原状態から考え直すということを意識的に行っていました。例えば「無垢なる自然状態」とか「善良な未開人」といったものです。
ここで、前章を思い出していただきたいのですが、芸術の自律性の先駆けとなったヴィンケルマンはギリシャ美術を理想としました。これは、上で述べたことで言えば、まさにリセットのための始原状態とも言えないでしょうか。まさに、芸術理論が政治思想と同一の展開をしているわけです。そして、芸術の分野でリセットした主な対象とは宗教などの権威に基づく伝統的な芸術理論である「自然模倣論」です。単純化していえば「人間の精神は何も創造することができない」というテーゼです。「創造」とは神の御技であって、「芸術」は神の創りたもうた自然の模倣にすぎないというものです。
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