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2010年10月22日 (金)

私はブルックナーをこう聴いている(2)~視点

2.視点

まず、これからブルックナーの音楽について独断と偏見から考えていく前に、お断りしておきたいことがあります。これから考えていくことは、ブルックナーによって生み出された作品の実際の音楽の動きや響きに何が具体的に聴きとれるか、そしてそこで聴かれたイメージが、聴いた私の感覚をどのように刺戟するかということです。つまり、現実の聴体験として行いうる限りのブルックナーの音楽についてお話ししていこうということです。だから、ここで追い掛ける対象は、あくまでも現実に聞こえてくる音です。例えば、ブルックナーという作曲家の伝記的な人物像には、私には、全く興味がありません。敢えて言うならば、現実の聴体験に神話を持ち込むものとして、音楽を聴く上で邪魔なものでしかありません。また、ブルックナーをめぐって様々な書物やらCD解説やらが洪水のように数多く出回っているようです。これらには、ブルックナーの音楽についての私自身の言葉を組織していくうえでの刺戟となったものもあり、それらについては部分を批判的に引用していくことになるかもしれません。しかし、これらは私がブルックナーの音楽を現実に聴くことについて何の扶けともなりませんでした。音楽というのを何々の視点により価値付けられ、関係付けられ体系として捉える私には、視点が曖昧なままアプリオリな公理のように音楽を語ると、音楽の生き生きとした生命が死んでしまって化石になってしまうように思われるのです。

さて、これまで現実のとか具体的にとか言ってきたわけですが、未だ何一つ具体的にどうということを述べていません。これでは、「偉そうなことを言うが言行不一致ではないか」と叱られてしまいそうです。そこでまず、ブルックナーの交響曲を聴くというときに、多くのファンを魅了しているものに緩徐楽章があるのは、誰しも依存のないことだろうと思います。そこで、とりあえず例として、交響曲第6番の第2楽章を聴いてみることにしましょう。

最初にチェロによる低音から始まり、一拍おいてヴァイオリンがかぶさるようにレガートで旋律を演奏します。この最初のところで、チェロによる第1音から一拍後のヴァイオリンへと、まるでひと連なりのように、私には聞こえてしまいます。最初の音と続く音の音色が急変するので、聴く私は驚かされます。また、この後、チェロとヴァイオリンは各々のパートを続けるので、第1音から双方向に流れが枝分かれしていくようにも聴くことができます。ヴァイオリンの旋律が一節奏し終わると、繰り返しでもう一度弾かれます。そして、その上でオーボエが弦楽四重奏の第1ヴァイオリンが弾くカデンツァのような演奏をします。カデンツァのような、というのはオーボエの旋律に即興性が感じられるからです。まず2つの音による下降フレーズ。次に倍近くにフレーズが伸び、更にその倍と段々とフレーズが伸びていきます。最初の2つの音が繰り返される度に、続く音が加えられ、段々とひとまとまりの旋律がかたちづくられていくのを、聴く者は同時体験できるというわけです。4回目はもう一本オーボエが重ねられ、この後、このひとくさりが反復されます。反復はもう一度で、今度は2本のオーボエで演奏されます。そして、オーケストラ全体でこの節が強く反復される小さなクライマックスとなり、ホルンと木管楽器の掛け合いによるつなぎを経て、弦楽部による新たな旋律が開始します。“あかるいホ長調で、ヴァイオリンとチェロが対位法的に第2主題を示しだす。”と解説されている旋律です。譜面で言うと2小節程度の短い完結した動機を、最初はチェロ、そのチェロでの一節が終わらないうちにヴァイオリンが追い掛けます。二つのパートが掛け合いをするように演奏されると、お互いが休止を埋め合うようで、更にその隙間を第2ヴァイオリンが時には寄り添うように時には装飾的に埋めて行きます。それで、聴いている方では、これらの動きが一連の旋律のようにも聴き取ることもできるのではないでしょうか。

この時、ひとつひとつの動機或いは旋律は、そのものとして、ひとつひとつの動機或いは旋律として在りながら、同時に相隣する動機或いは旋律と掛け合いをしたり連なることで、そのものとしてとは異質の旋律となるのです。聴く私にとって、このことは曲の印象ら変化や運動を与える契機となります。私がブルックナーの音楽を解説書等の科学法則のような抽象的もの言いを避けているのは、解説書等のもの言いが、このような変化や運動に触知するのを妨げてしまうからです。解説書では、ひとつひとつの動機或いは旋律は、あくまで、ひとつひとつの動機或いは旋律それ自体でしかありません。ひとつひとつの動機或いは旋律それ自体は、美しかったり、明るかったり、悲しかったりと感じることはあるかもしれません。しかし、これは何もブルックナーの音楽に限ったことではなく、音楽を聴く感性を揺さ振るようなことはありません。また、単に、この旋律が美しいと言うだけなら解説書風のもの言いに独り言を加味しただけに過ぎません。こういう言い方では、その旋律を美しいとは思わないという異質な聴き手との共存が難しいのではないかと思うのです。それが同時に、異質な旋律となっても聞こえてくることで、私の耳は動揺するのです。ブルックナーを聴くということは、このような同時に共存している二つのものを触知することもあるのです。同時に共存しあうその二つのものが、三つ、四つと複数化されてゆくとき、そこには豊かな音楽的空間が形成されるはずです。そこでは、様々な視点によって形成される音の意味が単一な音楽のかたちに還元されるのを妨げていると考えられます。つまり、ブルックナーの音楽は、このような点からも解説を嫌うのです。このような多様な音の意味の共存の中に、ブルックナーの音楽の開放的な自由闊達さを見出します。ブルックナーの音楽を愛しいと思うのは、何よりもまず、この自由さを愛することに他ならないのです。以下、このような視点で、交響曲第3番を聴いていきたいと思います。

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