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2010年10月20日 (水)

熊谷晋一郎「リハビリの夜」(2)

著者は、健常者のモデルと等身大モデルのギャップの大きさを克服するため、幼い頃からリハビリに励むことを強制されます。リハビリではリハビリする側をトレイナー、リハビリされる側をトレイニーという二つの立場にわけますが、著者は、この両社の関係を三つのパターンに分類します。まず、最初にストレッチでトレイニーの体をほぐすときには、互いの動きを《ほどきつつ拾い合う関係》にあると言います。トレイナーの大きな手が、なかば強引に、しかし丁寧にトレイニーの動きを拾いながらゆっくりと硬く強張った体を弛緩させ、トレイニーの体は徐々にその手に馴染んでいく。それはトレイナーの手の動きを追尾し、自らを重ね合わせる、この時「触れられる側」と「触れる側」は往復運動のように役割を相互に交替し、どちらがどちらか分からなくなるような相互交流が成される。

そして、トレイナーの指示によって健常者の動きをなぞるような指導が始まり、この時、トレイナーとトレイニーとの融合から、両者に距離が生じ、トレイニーはまなざされるという、運動目標をめぐって《まなざし/まなさせされる関係》になると言います。健常の動きに近い動きを実行するように仕向けられるのですが、運動目標を与えられると、焦りで「身体内協応構造」を強めてしまい、体を硬直させてしまう結果に陥ってしまうことなると著者は言います。このとき、トレイニーの体はトレイナーに監視され、努力の仕方や注意の向け方のような内面までも介入されるような事態になると言います。このとき著者は、焦って高ぶる自身が自壊するように、身体内協応構造がほどけて、体がぐにゃりとなってしまうと言います。

この後、トレイナーは思い通りに動かないトレイニーの体にストレッチを施し、まるで粘土細工をするように物理的な介入をする、著者の体が発する信号を拾わずに介入される《加害/被害関係》に移行します。同じストレッチでも、《ほどきつつ拾い合う関係》の場合のように、互いが相手の体に入り込み合い、まなざしを二人が共有するような関係はなく、トレイニーは体のパーツが切り離され統一感が失われ、トレイナーに奪われたような感覚、意識が体を他人のように見ている状態になってしまうといいます。

著者はこう振り返ります。“私が長年受けてきたリハビリでは、まず「健常な動き」を手にするという規範的な運動目標が立てられ、トレイナーはトレイニーの動きがその目標に沿っているかどうかを、一方的にまなざし続けた。そして、私の動きを監視するようなトレイナーのまなざしを、私自身も内面化していくことになった。こういった規範的な運動目標のもと、《まなざし/まなざされる関係》に身を置くことで、私の体の緊張はだんだんと強まっていった。そしてその緊張によって、私の繰り出す動きはかえって当初の運動目標から外れていくばかりだった。自分の動きが運動目標から外れつつあるということを感受した私の中には焦りの感情が生じ、その焦りはますます私の体の緊張を強めることになっていく。「健常な動き」という運動目標のもと、緊張と焦りが悪循環していくこのようなプロセスは、私の動きを「健常な動き」から遠ざけていくだけではなかった。悪循環がピークに達すると、閃光のような刺激とともに焦りとこわばりは自壊し、痙攣となってがくがくと放出されていくことを私は知ったのである。そしてその自壊には、強烈な快楽があるということも。こうしてリハビリは、私に「健常な動き」を刷り込むかわりに、「敗北の官能」を胚胎させた。おそらく問題は、最初に「健常な動き」という運動目標を立ててしまったところにあったのだと思う。あらかじめ設定された運動目標にわが身を近づけていくというアプローチ自体が、私にとっては最初から限界を抱えていたのだ。私が「私の動き」と呼べるものを手にするためには、何か根本的に、構え方を変えていく必要がある。”

そして、著者は大学進学を機に一人暮らしを始めます。しかし、一人となった途端にトイレで立ち上がることができず、著者の言で“トイレに拒絶”されてしまいます。著者は、トイレの改装をやってもらいます。これに対して、著者は、“改装によって姿を変えたトイレに触発されるように、私の体も変わる”といい、トイレに合わせて自分の身体内協応構造を組み直しを行います。著者は、このようなことをトイレだけでなくシャワー、玄関、ベッドと広げていくことにつれて、それまでぼんやりとしていた私の身体の輪郭、「等身大の内部モデル」が徐々にくっきりしてきます。著者にとっては手本のないところからオリジナルな分節化を立ち上げたと言います。これは、例えばトイレを容易に使いこなせる人たちとは、かなり異なる分節化となりました。著者は、このような関係は内部に閉じたものではなく、外界へ開かれたものなので「身体外協応構造」と呼びます。

そして、人と人との間にも同じようなことが言えます。「こけが普通の動き」という運動規範は本来、人とモノ、人と人のあいだに効率よく身体外協応構造を成り立たせるための工夫にすぎない、著者は言います。ということは、私が同化的に自らの動きを周囲のモノや人に合わせるだけでなく、周囲のモノや人が私の動きに合わせて変わるという双方向性の歩み寄りがあってもよいはず。そういう面では、一人暮らしによってぽんと放り出された世界の中で私が周囲と交渉し、オリジナルな運動規範を立ち上げていく過程だったと言えます。

このあと、もっと具体的な議論が進み、その中で現象学でしばしばとりあげられる“まなざし”の分析を進めるなど、非常に興味深い議論が展開されます。しかし、それは、現物を手にとって読むことにより、堪能してほしい思います。

しかし、著者が周囲とのオリジナルな関係をつくりあげ、それをベースに自らの身体をチューニング(再構成)させていくプロセスは、とくに脳内のバーチャルリアリティともいうべき内部モデルを、健常者による規範として既成のものを、オリジナル・モデルに変換させていく、これを実際に検証させていくのは、今、私自身が、意識化されていない暗黙の領域にある企業の自己認識にはっきり言葉を与えようとしているので、かたちこそ違え、他人事とは思えませんでした。(著者は同列に比べられないと怒るかもしれません)

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