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2010年10月 5日 (火)

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」(16)

今回は長くなりましたが、今日を入れて、あと三回くらいで終わりです。楠木さんの語り口をご堪能下さい。

起承転結がきちんとしているというのは、古今東西の優れたお話の基本条件ですが、その中でもとりわけ重要なのは、読み手の心をがっちりつかむような「起」と、ストーリー展開のツボとなる「転」の二つです。戦略ストーリーでも同じです。この章では戦略ストーリーの5Cのうち残された最後の一つ、「クリティカル・コア」についてお話しします。クリティカル・コアは「転」にあたります。ストーリーのヤマといってもよいでしょう。コンセプトと並んで、クリティカル・コアは戦略ストーリーの優劣を決めるカギとなります。サッカーにたとえれば、ゴール(長期利益)へのシュート(競争優位)に向けてさまざまなパス(構成要素)を繰り出すわけですが、その中でも「キラーパス」となるのかクリティカル・コアです。「戦略ストーリーの一貫性の基盤となり、持続的な競争優位の源泉となる中核的な構成要素」、これがクリティカル・コアの定義です。この定義を前段と後段に分解すると、クリティカル・コアの二つの条件が見えてきます。第一の条件は、「他のさまざまな構成要素と同時に多くのつながりを持っている」ということです。クリティカル・コアは文字どおりストーリー全体の中核、つまり他のさまざまな構成要素と深いかかわりを持ち、「一石で何鳥にもなる」打ち手です。これは前段の「ストーリーの一貫性」に関連しています。第二の条件は、「一見して非合理を見える」ということです。ストーリーから切り離してそれだけを見ると、競合他社には「非合理」で「やるべきではないこと」のように見える。しかし、ストーリー全体の中に位置付ければ、強力な合理性の源泉になる。クリティカル・コアの特徴はこの二面性にあります。この意味で、クリティカル・コアはストーリーに「ひねり」を利かすものであり、起承転結の「転」なのです。この第二の条件は、定義の後段の「持続的な優位」に関連しており、とりわけ重要な意味を持っています。

「それだけでは一見して非合理゛けれども、ストーリー全体の文脈に位置付けると強力な合理性を持っている」という二面性、ここにこそクリティカル・コアの本質があります。なぜ、「一見して非合理」が重要になるのでしょうか。その理由は競争優位の持続性に深くかかわっています。違いをつくっても、すぐにそれがすぐに他社に模倣されてしまうようなものであれば、一時的に競争優位を獲得できても、すぐに違いがなくなり、元の完全競争に戻ってしまいます。そうなると利益は期待できませんから、簡単にまねができないような違いをつくるということが戦略の重要な挑戦課題です。これが競争優位の持続性という問題です。他社がまねできないような違いとは何か。おそらく一番ストレートな、誰もが思いつくことは、「時間的先行による専有」です。これから伸びるであろう市場に誰よりも早く参入し、顧客を囲い込むことができれば、それは他社がすぐにまねできない強みになります。他社に先駆けて技術を開発し、特許で押えてしまうというのも同種の論理です。ストーリー全体の一貫性も、それ自体で持続的な競争優位の源泉となりえます。いくつかの構成要素をまねできたとしても、ストーリー全部を丸子度まねすることはできないし、するにしても時間がかかるという論理です。しかし、こうした論理に共通しているのは、実際にまねできるかどうかは別にして、少なくとも競争相手は「(それが良いことなので)できるものならまねしたい」という意思を持っているということです。これに対して「一見して非合理」というクリティカル・コアは全く違った論理を意図しています。それは「動機の不在」です。そもそも競争相手がまねようという動機を持っていなければ、まねされないのはいたって自然な話です。もっといえば、競争相手による「意識的な模倣の忌避」という論理です。競争相手がわれわれのしていることを非合理だと考えていれば、たとえ「まねしてください」とお願いしても「イヤだよ」と向こうから断ってくれるでしょう。「A(構成要素)がX(望ましい結果)をもたらす」という因果論理がその業界や周囲にいる第三者に広く定着しているとします。同時に「BがXをも阻害する」という信念が共有されていたとしましょう。このときAは「合理的」で、Bは「非合理」です。多くの会社がAを選択し、Bには手を出さないはずです。こうした状況で、ある会社がBという構成要素を中核に据えたストーリーをつくったらどうなるでしょうか。競争相手は「何をバカなことを…」と冷笑するか、黙殺するでしょう。Bをまねする動機がそもそもないのです。むしろ、Bをやる企業が出てくることによって、自分たちがやっているAの合理性をより強く認識するでしょう。そうした会社の側には「意識的な模倣の忌避」が生じ、より積極的にAの方向に踏み出すかもしれません。つまり、模倣による同質化とは反対に、敵が自ら距離をおいてくれるというわけです。その後時間が経過し、その一見して非合理なことをやっていた会社(以下、「非合理会社」)が長期利益をたたき出すようになると、当然のことながら競合他社も「非合理会社」の強みを認識し、戦略を模倣しようという動機が生まれます。いくつかの構成要素はまねされるかもしれませんが、ここでも「非合理」なBの要素についてはまねされる可能性は依然として低いでしょう。「非合理会社」の戦略ストーリーは、Bを中核として組み立てられています。ですから、いくつかの構成要素をまねしたとしても、一見非合理なBにまで手を出し切れない他社は、同じストーリーの全体を手に入れることはできません。ストーリーを読み解くセンスに優れた競争相手は(そういう企業は実際のところあまり多くいないのですが)、Bにこそ競争優位の根幹があるということを見抜くかもしれません。しかし、それまでさんざん「合理的」なAの路線で事業を展開してしまっていますから、いきなり回れ右をしてBにスイッチすることは不可能といえるほど、長い時間と多くのコストを要するのが普通です。

クリティカル・コアの論理が「先見の明」と大きく異なるのは、外部環境の変化に依存しないということにあります。「先見の明」の論理では、戦略が事後合理性を獲得するためには、外部環境が期待したとおりに変化してくれなくてはなりません。確かに時間的には変化の先読みをしているのですが、本当のところどうなるのかは実際の外部環境の成り行き次第です。外部環境に対して「受け身」の姿勢になります。この意味で、事後の合理性に期待する戦略は「やってみなければわからない」のです。もちろんどんな戦略も、最終的には「やってみなければわからない」という不確実性を抱えています。競争優位の源泉が「バカなる」であれば、単に合理的なことをしようとする戦略に比べて、不確実性は不可避的に大きくなります。しかし、「事前と事後」と「部分と全体」では、想定する不確実性の中身に大きな違いがあります。それは不確実性が外部の環境要因にあるのか、それとも戦略の内部にあるのか、という違いです。部分非合理を全体合理性に転化するというクリティカル・コアは、ストーリー全体を構想することによって、その戦略が有効性を発揮するコンテクストを自ら意図的につくろうとします。ですから、外部環境が「先見」のとおりに動いてくるかどうかにそれほど依存しなくても、独自の競争優位をつくねことができるのです。ストーリーの戦略論が必ずしも「先見の明」に依拠するものでないことをおわかりいただけたと思います。この違いは競争優位の持続性のあり方にも大きく影響します。キラーパスの正体が先見の明であれば、事前の段階で競争相手の「動機の不在」には期待できるかもしれませんが、事後的に合理性が明らかになってしまえば、他社は同じことをするでしょう。「意図的な模倣の忌避」による競争優位の持続は期待できそうもありません。この時点では「部分」も「全体」も合理的ですから、「先見の明」は「普通の賢者」の戦略と同じことになってしまいます。競争優位が持続できるとしたら、規模の経済や経験効果、ネットワーク外部性、戦略ポジションの専有など、普通の意味での先行者優位が何かしら確保されていなければなりません。時間軸で事前と事後の合理性ギャップを衝くよりも、自らつくるストーリーの力によって、部分の非合理から全体の合理性を引き出すという戦略のほうが、競争優位の持続性という点で優れているというのが私の考えです。

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