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2010年10月29日 (金)

松宮秀治「芸術崇拝の思想」(2)

1章 芸術の価値とは何か

序章でも述べられましたが、本書で対象としている「芸術」というのは、近代、だいたいここ200年前に西欧でつくられた、ローカルな概念です。そして、これは突然、ポッと出現したものでなく、西欧というローカルに特有ともいえる歴史的な条件のもとに作られたものだということです。これは序章でも述べられていますが、西欧の近代国家で生まれた政治原理である「政教分離」と密接な相関関係にある芸術の自律的価値という思想がベースになっていると言います。この著者は1941年の生まれですから、(世代論で一概に片付けられることではないかもしれませんが)、未だ、芸術というものはありがたいというようなイメージを持っていて、著者には、それに対する愛憎半ばするような感じがあります。そういう、モノサシで、私は、これから読み進めて行きますが、芸術作品の自律的価値というのは、基本的には芸術価値評価は芸術以外のいかなる価値、道徳的価値や宗教的価値、社会的価値によっても左右されるべきでないというものです。ただし、このようなことは、ある程度は価値評価の基準のひとつとして。何ら特殊なものではないと、私は思います、序章の中で私個人のコメントとして書いたことでも、音楽の響きそのものを聴いて欲しいというようなことも、それにあたると思います。だから、もしかしたら、私は、著者の分析している構造に絡め取られていて、そういう偏見から、本書にコメントしているかもしれません。ただ、現実に「芸術」作品に対する評価を単一の基準をそれが絶対的基準として評価するということがありうるのか。批評として文章に残すような場合には、論旨を明確化するため、と言葉というものが独り歩きする傾向にあるので、結果としてそういうものが後世に残ってしまうというようなことは十分考えられますが。ちょっと、最初から言い過ぎたかもしれません。

まさしく文章で、芸術の価値ということを書き残したのが、ヴィンケルマンでした。彼は、古代ギリシャというヨーロッパ文明と文化の源泉を“発見”しました。彼自身は意識していなかったようですが、この中で讃美されている虚飾を排した簡素な美の精神は、絶対主義王政とこれを経済的に支える重商主義の基盤をなす考え方である「奢侈」を正面から否定するものでありました。絶対主義王政の支配システムである「権威」「威信」には政治の視覚化が必要なツールであり、例えば、それは豪華な建物、衣装、儀式、イベントであり、それは「奢侈」ということです。当時は欲望そのものが政治体制維持のためには必要なものとして肯定されてたようですが、その反面多大な費用を要することも真実であり、各国の王室は絶えざる出費過剰により財政難に苦しみ続けたというのが実態のようです。その負担のツケは多くの場合、国民にまわってくるものです。このような時代の矛盾を敏感に感じ取っていたのが若い知識人層であり、ヴィンケルマンの著作は、そういう知識人層に受け容れられていったと考えられます。また、浪費に悩む専制君主のなかでも、「権威」による祝祭政治から、実体的な支配をする官僚政治への移行を志向する方向性に合致するものとしてヴィンケルマンからイメージを与えられた者も少なからずいたようでした。それが、「政教分離」と近代的な芸術との結びつきです。だから、芸術の自律的価値といいながらも、実は政治とは切っても切れない関係にあったと、著者は分析して見せます。

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