小林敏明「〈主体〉のゆくえ」(5)
三木のこのような人間学は師である西田にも影響を及ぼし、周囲にブームを起こしました。西田は鈍牛の渾名のとおり、じっくりと時間をかけてこの動きを取り込んでいきましたが、対照的に反応したのが後継者と目されていた田邊元でした。もともと科学哲学から出発した彼は、三木らの影響を受け、「種の論理」を打ちたてます。「社会存在の論理」という論文の中で、田邊は従来の社会哲学は全体と個体という互いに拮抗しあう関係を十分に捉えきれていないと言います。このような全体と個体の中間項として両者を媒介する社会的存在が「種」です。このアイディアは生物学の類・種・個の区別からきているものでしょうが、具体的なあり方としては、国家、民族、階級などを念頭に置いているものです。例えば、国家とか民族のなかに産み落とされた人間は、ます国家や民族のような広い意味での共同体から分離独立するようにして個人となり、そこに個体と種の対立が生ずる。この種に対する個体の否定性が次に種を類的普遍性に止揚するときの媒介原理となるということです。つまり、種が連続的、同一的であるなら、そこに対立する限りで、個は種に対して非連続であることになるが、裏を返せば、まさにこの非連続をもたらす個の否定性(差異性)こそが種に発展や変化をもたらす原動力にもなるということでしょうか。この時、類・種・個は互いに均等に並列する三つのファクターをなすのではなく、「種」があくまでも原基的なのです。田邊は、「種」をギリシャのヒュポケイメノンから「基体」と呼びます。種は類と個の中間に位置するがゆえに媒介の役目も果たし、すべての母胎的起源にして媒介となるので「絶対媒介としての種」と言われます。さて、「主体」の問題ですが、田邊は主体を類・種・個の三項の中で、個を表わす言葉として使用しています。具体的には「主体」が種=民族共同体を意味する「基体」に対立しつつ、その動因ともなっている個人の意味で使われている。このように近代におけるSubjektの成立とともに、ヒュポケイメノン、基体が改めて近代的な現象である「ネーション」の別名として復活する。そして、一方「主体」の方は明確に近代を特徴づける近代的自我主体=個人と同一化され、それを一面的に理解してしまう自我中心主義としての「人格存在論」に対する批判として種の先行性、原基性が主張されます。
このような風潮から現われたのが「近代の超克」や「世界史的立場」を強調するイデオローグたちでした。
まず、高坂正顕は1937年『歴史的世界』を公刊します。ここでは「基体」は自然を指します。彼は、その自然を二種類に分け、「根源的自然」はすべての存在の根源にあるがゆえに「母」と比喩され、基本的にはそのままの形で現われることなく、現実には「妻」に比喩されるような人間活動のパートナーとして現われる「環境的自然」です。高坂は後者の具体的な現われを「風土」や「血族」にみます。しかし、この環境的自然は人間の歴史的活動との関わり合いの上に成り立っているものであり、その意味では本質的に「歴史的自然」と考えられます。このような「基体」に対して「主体」は個人としての人間の主体性から国家の主体性に引越してもしたようです。その理由として、高坂が「主体」を「主権」と同一視しているためと考えられます。著者は、これをシニフィアンの戯れであり、アクロバットだと評していますが、どうしてこのようなことが起こってしまったのか。この背景には京都学派の国家を個人と同じ一種の有機体と捉える考えが働いていて、この個人と国家のアナロジーを保証する役目を果たしたのが「歴史的身体」という概念です。三木清は『歴史哲学』の中で、人間の行為は身体を通して自然と結び付いており、人間の行為が歴史的となるのも、このようなことがベースにあると言います。ここでは、「身体」という言葉のつながりで「個人的身体」から「社会的身体」への類推的ずらしが行われていると言えます。高坂の哲学にも、このような認識の流れが入り込んで、「身体」を介した「主体」から「主権」、「個人」から「国家」への移行を可能にしたようです。今から見れば、語呂合わせのような「個体」としての「主体」は「身体」を介して「国体」へと移行した。
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