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2010年11月12日 (金)

橋本秀美「『論語』─心の鏡」(2)

前漢は王莽によって打ち倒され、王莽は経書の理想を現実政治に実現しようと試みますが破綻し、後漢王朝が成立します。後漢は、政治権力の基盤が不安定で、各種勢力がそれぞれの既得権益を守ろうとしたため、政治は保守的になりました。そこでは、六経や『論語』を引用した議論が実質的意味をもつことはなくなり、これらを学習する実用目的がなくなったわけです。では、新たにこれらを勉強する意味は何かと、実用は考えずに、六経や『論語』等を文献学的・理論的に研究していく、それによって聖人の教えを知るというものでした。ここに明らかな方向は二つあり、ひとつは、学問が政治から分離し、政治への関与を避けることを清廉とする考え方であり、もうひとつは、理論の体系化への動きです。そのような中で生まれてきたのが六経を中心とする経典を研究する学問で「経学」と呼ばれるものです。その代表的な学者が鄭玄です。彼は経書の本文を詳細に校訂し、五経全てを統一的に解釈できる理論体系を構築し、諸経の注を作成しました。六経は、本来全く別個に存在し、それぞれ独自の変化・成長を遂げてきたもので、六経の本文自体を研究の対象とする、つまり、ひとつの経書だけでなく、六経全体を研究して聖人の教えを知ろうとするならば、六経それぞれの間に存在する大量の矛盾した記載が問題となってきます。彼の経学は、これらの六経のみならず緯書をも含め、それら全てを無矛盾に理解できるように調整された、膨大で詳細な理論体系を形成するものでした。彼の『論語』注解の特徴は、学説の体系性にあります。彼は『論語』を単独で読んだのではなくて、経書と一緒に読んで、統一的な解釈を考えて注をつけました。『論語』を経学体系に組み込んだと言ってもいいでしょう。

鄭玄の経学は、当時から大変高い評価を得ていたようですが、それはあくまでも理論的な研究であり、そのまま現実に応用できるようなものではなく、多くの経書の異なる記載を無矛盾に解釈するように作られた、膨大かつ精密な体系は、まさに机上の論理であり、当時の実際の習俗や朝廷儀礼制度とも全く異なるものだったと言います。これに対して、鄭玄の学説を出発点としながらも、それを換骨奪胎し、現実的に受け入れやすい形に大胆に変形・調整した王粛からの反対説が提出されました。彼は、経書の字句との完全な整合性を犠牲にして、礼学体系の簡明性・自然性を追求しました。

同じ頃、何晏による『論語集解』が編纂されました。内容的に学術性が高く、当時最も影響力も大きかったはずの鄭玄の注を踏まえて、『論語集解』を編纂したのは、当然、鄭玄の注に対する不満があっただろうと思います。そこで、鄭玄の注と『論語集解』の解説内容を対照してみると、最も鮮明に違いが見て取れるのは、『論語集解』が鄭玄の注の中での経学的な要素を、あきれるほど徹底的に排除していることです。鄭玄の注が経学理論体系を背景に『論語』を解釈したものだから、その体系に習熟していなければ、内容を的確に理解することができない。これに対して『論語集解』には、全く常識だけで理解できる内容しか書かれておらず、『論語』本文の解釈も、完全に常識的な当たり前のものになっていると言えます。

このような経緯は『論語』の受け入れられ方の変遷にも関連していると言えます。つまり、前漢以前の『論語』は政治の議論の際などに故事のように引用して説得力を高めるために使用されていたから、解釈自体は問題にならなかったと言えます。また、後漢の鄭玄は極めて厳密に解釈したけれど、あまりにも経学的に意味が限定され、『論語』そのものの理解としては偏狭で不自然でありました。そして、『論語集解』によって、『論語』ははじめて直接その意味を議論できるものとなり、ほとんど何も説明していないに等しい注がついたことで、読者はその意味は一体どういうことなのかと自然に考えざるをえなくなり、『論語』の解釈がはじめて研究されるようになったのだと言います。

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