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2010年11月 3日 (水)

松宮秀治「芸術崇拝の思想」(5)

第3章 芸術神学の誕生(つづき)

「美学」とは芸術作品の具体的な理解や作品制作における具体的な知識に役立てるというものではなくて、人間の感性による美的認識の学問です。それは芸術の倫理的な価値を保証する役割を果たしました。自律的な価値を要求する芸術が、その倫理的価値を美学に保証してもらっていたということになります。人間の美的認識とは個々人の好き嫌いの次元にとどまる認識ではなく、その認識能力自体が高度の人格と倫理性を基盤としているということになれば、芸術は高度な人格形成と人倫規範そのものとなります。それを行ったのが美学なのです。その結果、美学は宮廷文化の欲望論から芸術を解放し市民社会の倫理的な禁欲主義の思想に一体化させることに貢献していきました。

例えば、バークの『崇高と美の観念の起源』は美学の古典として知られていますが、それは、芸術については何も書かれていなくて、美を芸術の中心に置き、しかも美の本質に道徳性を措定したからです。このことは、芸術を宮廷と教会から市民の側に奪い取ることでもあり、芸術論のかたちを借りた市民主義のイデオロギーであったとも言えます。それは芸術の神聖化につながったと著者は言います。すなわち”「芸術」の神聖化とは、芸術や権力を権威装飾にするのでもなく、また実用価値や効用価値といった利用的役割から解放し、芸術それ自体が自己目的であるようなもの、つまり現実生活上の利用価値はもたず、あたかも純粋な遊びというものが遊ぶこと自体を自己目的とするような、そんな「遊戯精神」に由来し、それゆえに芸術がいかなる拘束からも逃れた「自由」を享受し、またみずから楽しむがゆえに人をも楽しませ、人間精神を解放するものにしていくことである。いいかえれば「芸術」がオリュンポスの神々のように自由を楽しみ、その活動自体が人間界の卑小な利益から超然として、「神遊び」のような無目的なものでありながら、人間の理想となり、高貴で崇高な畏敬と崇拝の対象となるようなものに「芸術」を高めていくことである。「芸術」は現実に隷属し、権力や権威に奉仕し、実用的に支配される存在であってはならない。それは目的や実用から解放されているがゆえに自由であり、自由であるがゆえにみずからの内的発動に忠実に「仮象」の世界に遊ぶことができるというのがこの時代の芸術論の到達点であった。”

ここで著者が言う最後のところで自由云々と言っていますが、著者はこのような芸術思想の中で自由が発見され政治の世界まで普遍化していったと説きます。芸術の自律的価値というとき、実際にはパトロンや注文者の意向に縛られて制作されていたのであり、そうではなくて制作者の自律した、いうなれば自由な想念で完成されるべきということに結び付くわけです。現実的な欲望の求めに応ずることなく、自由と結び付いた美は現実の欲望を超越するというわけです。カントによれば、「自由」の意識とは、その時々の恣意的な欲望などに服従することなく、普遍的な道徳で自己を律し、義務を伴う責任感という道徳的意志によってはじめて成立するものと言えます。それまでこのような道徳の規準は、正義や真理といったものと同じように超越者、絶対者のなかだけに存在しうるものでした。それをカントは自由と道徳の規律を個々人の人格の中に求めることのできる論理体系を打ち出したのでした。このことによって、人間は「神」を必要としなくなります.芸術が自由を発見したのは、まさにこのようなプロセスの中でです。ということは、芸術はもはや「神」を必要となくなっていくのです。

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