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2010年11月25日 (木)

小林敏明「〈主体〉のゆくえ」(9)

今日では「主体」は普通の日常用語として定着した一方で、哲学や思想を語る用語としては影が薄くなっている、と著者は言います。その原因として、学生運動の衰退と、構造主義哲学のブームを上げています。例えば、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』のなかでパノプティコンが象徴的に示しているように、「主体」は人間にもともと有しているものではなくて、近代的な装置や制度によってつくりだされたフィクションなのです。監獄で一望監視装置(パノプティコン)の中に入れられた囚人たちは中央に位置する監視者のまなざしを見ることはできず、それゆえに、そのまなざしを常に意識していなければならないという強いられた状況から、やがて囚人たちはその他者のまなざしを内面化させ、いわば自分で自分を監視し、管理するようになる。このように他者のまなざしを内面化することにより、自己管理を行う「強制された自発性」は囚人に限らず、近代的人間の「主体」に妥当するという。このほかにもジャック・ラカンなどからも、近代哲学が自明の出発点として依拠した「主体」の自律あるいは自立が、監視装置や父ないし言語的無意識という他者を介して造られたものでしかない、このことから、「主体」に対する素朴な信憑は消えていったわけです。

じつは、このような外的な原因だけでなく、主体性という概念自体に自身を希薄化させる内的要因あったといいます。戦後の主体性論争のきっかけとなったのは、たんなる戦争を指導した軍部への批判ではなく、そういうものを許してしまった「われわれ」という自身への批判、つまり自己批判でありました。また、主体性というのは個人の問題で、主体性を訴えるということは、大体の場合、既成の政党や組織に反撥しました。集団への帰属を拒否する個人にとって倫理やモラルはどうなるのか、というのは倫理やモラルというのは集団に帰属することにより与えられ保証されるものだからです。しかし、学生運動は正義を求めての戦いであり、そこには倫理性が求められたはずです。ここに胚胎したのが「自己否定の論理」です。さきに紹介したフーコーの強制された自発性が本人に自覚されない擬制の自発性は、本人がモラルや倫理に反した場合には、その処罰は砕いてきな他者によってではなく、あくまでも自分の自発性にゆってなされる、いわば自己処罰が行われるのです。これと究めてよく似た自己批判というスタンスが全共闘といわれる学生運動の特徴を為していました。しかし、この自己批判は、当初は個人の良心に発したものでしたが、中には、リゴリスティックな自己批判を自殺という文字どおりの自己否定行為にまで突き詰めていってしまいました。罪を自覚する良心の呵責が自己処罰に突き詰められ、この処罰を内在させた良心に基づく自己否定がエスカレートして極限化していったのが内ゲバ殺人や組織内リンチです。このような事態が露わなったとき「主体性」に対する不信や懐疑が広まったのではないか。そのご、著者は心理学から入ってきた「アイデンテティー」という概念やその通俗版ともいえる「自分探し」のなかにかたちを変えて生き延びているといいます。

ここまで、「主体」という日本語が、Subjectの翻訳として「此観」「主観」「主体」さらには「主語」「臣民」などと異なったシニフィアンで表記され、変遷を経てきましたが、これらを包摂する実体としてのアイデンテティが不在で、そのシニフィアンの変遷や多様性は、そのままシニフィエ自体の流動性になってしまっていたわけです。

これは、論語─心の鏡でも感じたことですが、一見自明なことに対して、これは何か?とかどういうことか?ということに問を向けると、じつは実体がなくて、誰かがそれに明確な言葉を与えてあげると、それが実体であるかのように周囲の人々が、それに飛びついてくる。これは、私の仕事にも似たようなことがあることで、例えば、会社の戦略とか、事業方針とかいうような、よく考えて見れば実体のないようなものに、誰もがとりあえず「そうだったのか!」と納得できるような言葉を与えてあげることで、社内がまとまって集団としての力を普段では考えられないほど発揮してしまう。優れた経営者には、そういうタイプの人がいると思います。それは、以前、このプログでも取り上げた『ストーリーとしての競争戦略』でもそうで、ストーリーというのは人々が受け容れ易い形式です。この形式にあてはめて、モヤモヤしているものを実体化させ力としようというものでいないか、と思います。これは政治の世界ならばイデオロギーというものにも通じるのではないか。イデオロギーなどという言葉は若い人には死語になっているようですが、私はIRという仕事が、社外の投資家といような人たちに「この会社はどういう会社か?」ということの説明を繰り返しているうちに、上で言ったと同じようなプロセスを繰り返してきたように思います。それを、あるとき社内の人間に話したときの反応が、「そうだったのか!」ということもあり、逆に「何言ってんだ!」という反撥を招いたこともありますが、共通していたのが、そういう言葉をこちらから与えるまで、彼らにはそういう言葉がなかったということです。そういうと、何かこの仕事が哲学的なように聞こえてしまいそうですが。でも、投資家の人たちに、私の会社はこういう会社ですと説明してある程度の理解をしてもらった上で、はじめてこの会社はこういう戦略で将来に向けての成長を図っています、ということが説明できるので。孫子ではありませんが“敵を知り、己を知れば、百戦危うからず”の会社という己を明らかにしなければ、はじまらない。しかるに、その己というものが、実はシニフィアン(表面的な言葉の響き)にすぎず、実体を伴わない。となれば、それは形式的にはIRの仕事ではない、としても既に外に向けて言葉としてしまっていて、内に対しては言葉として形づくられていないとすれば、ある程度のことは、やらざるを得ないのではないか。ことは、さっきも言いましたように経営者の仕事です。しかし、私には、これは私の偏見なのかもしれませんが、IRという仕事にはそういう側面がどうしても入ってきてしまうのではないか、と考えているのです。

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