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2010年11月18日 (木)

小林敏明「〈主体〉のゆくえ」(3)

一般に西田哲学と言われる西田幾多郎の思考は、Subject概念の捉え方に関しては、前半期の「主観」概念から、後半期の「主体」概念と明らかに二つの時期に分けられます。まず、前半期から見ていきます。その出発点ともいえる『善の研究』において、キー概念である「純粋経験」について「主客未分の状態」とか「主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみ」とかいった言い方で表わされています。ここでいう「主客」は「主観」と「客観」のことで、純粋経験というのは、未だ主観と客観の区分のない状態であり、それが分化発展して主観と客観が生じてくるものです。この『善の研究』が公刊されたのは1911年ですが、この頃には「主客」が「主観」と「客観」のことだということが自明なほどに、この概念が定着していたことを表わしています。著者は、ここで西田が「主観」という概念を使用したことについて、次のような問題を指摘します。「主観」というのは、認識とか知覚に偏った表現であり、「観」はパースペクティブであり、純粋経験として何かを見たり聞いたりという知覚行為の場合には問題がないが、純粋経験には、このような知覚行為も含めて「行い」とか「行為」の意味をも持っている。だから、今日の我々ならば「主観」というよりは「主体」という表現を使うのではないか。しかし、『善の研究』執筆当時には、「主体」は哲学用語として定着していなかったと言う事情もあり、また、当時の西田は認識論に呪縛されていた面もあったと言います。西田は、その後、このような「観」に象徴される認識論中主義に対して、「述語論理」という特異な迂回路を経て、自己批判する後半期に飛躍します。

『働くものからみるものへ』『一般者の自覚的体系』などにおいて判断の構造について、従来の判断の形は主語に従属するように述語がつけられるものだったことに対して、西田は述語のほうをもとにした判断ないし論理というものを考えました。どういうことかというと、例えば「この花は赤い」や「風が吹く」という命題においては、従来の発想では、まず花という「もの(主語)」があって、それが赤いという属性をもつがゆえに「この花は赤い」という命題が成り立つと考えるものです。つまり、赤くなるような実体としての花がまずあると考えます。これに対して西田は、こうした「もの」はすでに反省の結果として生じた対象であり直接的な事態そのもの、西田の言葉でいえば主客未分の純粋経験、ではない。西田によれば、判断のベースはこの直接的な事態でなければならない。例えば、「赤い花」があるのではなく、文字どおり「この花は赤い」という事態そのものがまずある。「もの(主語)」より「こと(述語)」が先行する。中期の西田哲学は、純粋経験を一歩進めて、それを「場所」として捉え直したものと言えます。この「場所」というのは我々に直接与えられる動的な状態そのもののことで、そこには未だ主観も客観も、したがって対象も成立しておらず、ただ無限定の状態だけがあるものです。先ほどの言い方で言えば、「もの」に先行する「こと」の世界ということでしょうか。それが初期の「純粋経験」との違いということでしょうか。「純粋経験」は分化発展していきますが、同じように「場所」も分化発展します。西田は「場所が場所自身を限定する」という言い方をします。つまり、述語が自己自身を限定するわけで、限定するもの(述語)が限定されるもの(主語)を包み込むわけです。西田哲学の特異性は、さらにこの主語と述語の関係に意識と意識の対象を重ね合わせてみせました。この場合、意識に対応するのは主語ではなくて、述語のほうであり、意識されるもの(対象)に対応するのが主語なのです。別の観方からすれば、これは実体を認めないラディカルな関係主義だということができます。

このような述語論理の迂回路が、後期西田哲学の「主観」から「主体」への転換を間接的に用意しました。ありのままの動的事態と言う考えは「行為」概念の再検討に向かいました。これには、アインシュタインの相対性理論、とくに観測理論とマルクスの影響があるといいます。とくに、マルクスの有名な『フォイエルバッハ・テーゼ』から触発された西田は、原文で使用されている「Subjekt」にたいして従来の「主観」という訳語では十分にそぐわないこと「主体」とならざるをえないこと。つまりsubjectの新しいシニフィアンの出現となるわけです。その後も、西田は単純に「観」の立場を放棄して「行為」「実践」の側に鞍替えしたわけではなく、「観」の立場は一貫して残りますが、行為のダイナミズムの中で統一的な捉え方が為されていきます。

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