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2010年11月23日 (火)

小林敏明「〈主体〉のゆくえ」(7)

京都学派によって先鞭をつけられた「主体」概念は、第二次世界大戦後、主体性論争で一種の流行語にもなりました。これはマルクス主義の解釈をめぐって、文学論争から始まり哲学者や社会科学者の間に飛び火して広がったものでした。その争点とは、一言で言えば、マルクス書義的唯物論に主体性は認められるか否かという問題でした。

梅本克己は「人間的自由の限界」を発表します。その中で、人間の自由は自然を合理的に支配することに始まり、さらに支配組織や制度を備えた第二の自然ともいうべき社会があって、これらの克服がないと、人間は真の自由な主人公となりえないからで、これはマルクスやエンゲルスの意図でもあったと言います。自由の獲得とは自己疎外からの人間解放ということでしょうか。つまり、社会においては一度得られた必然もやがて人間を拘束する桎梏となる。それは、人間が自ら作り出したものによって支配されるようになることです。克服以前の自然と同じような偶然となってしまう。だから自由であろうとすれば、人間は不断にその偶然を批判的創造的に克服しつづけなければならないということです。このような梅本の主張は、今ならば、問題がどこにあるかも分からない当たり前のようにも見えます。しかし、当時のマルクス主義の論壇では、このような個人の創造的自由と言う、人間の「主体性」を入れて歴史のダイナミズムを捉えようとする梅本の節は、マルクス主義正統派である模写説への間接的な批判ととられたのでした。また、梅本の主張の中には京都学派の影響が見られることから、当時の正統派からは観念論と批判されたのでした。

実際に京都学派には梅本の先駆者がいたのです。梯明秀は1937年「唯物論と主体性」というそのものズバリというような論文を発表しています。ここで梅本に先駆けて、むしろ彼よりも明確な主張を展開していました。例えば、梅本の言う自己疎外を主体的に克服しようとするとき、それを克服しようとする人間の側の意識について、現実に意を唱え、それを変革しようとする意志は、その現実を否定することから、それ自身は論理的には一種の「無」ということになると言います。これはヘーゲル=田邊の弁証法における「否定」の意味に近いものです。これに対して、梅本の場合は、歴史の転換期において革命や変革が行われる場合、そこでは階級的利害対立が前面に出てくることになるが、この対立は言い換えれば社会性と個人性との分裂だと言います。この革命運動の担い手たちは、それまでの労働者としての資本主義社会における現実的なあり方を否定し、階級全体ひいては全人間の解放という、未だ実現されていない理念へ献身することになります。言い換えれば、古い全体性の中の現実的な個としての自分を否定して(=死)、未だ現実となっていない新しい全体性における個の復活を考えるというもので、この自覚は宗教と似たような性格を持つことになるわけです。しかし、この論争の結果は何物も生まない不毛なものとなったようです。それは当時の政治情況が緊迫したもので、労働運動が急激に高揚し、革命勃発を懸念したGHQが激しいレッド・パージに出る次期でした。このような時期に「人間性」なんかを引き出した哲学論議など悠長で無意味に聞こえ、実践が喫緊のものとして迫っていたと言えます。皮肉な言い方をすれば、戦時中の京都学派が「主体」を「国体」に横ずれさせたことと、戦後の唯物論者が「主体」を「党派」に横ずれさせたことは、同じようなものです。その理由は何か、著者は言います。「論者たちがこぞって「主体」というシニフィアンを「Subjekt」の翻訳語として、つまりあくまでその代理の符牒として使っているからである。だからそこにはこの日本語のシニフィアンを構成している「主」や「体」への関心など生まれようもない。」と。しかし、著者は主体性論争が終わったことについて、当時、「主体」概念が急激に広がったことに注目します。ここでは雑誌『世界』で1948年に掲載された「唯物史観と主体性」に注目します。正統派の唯物論、近代主義的な政治学者、心理学者、実存主義的な哲学者、デューイ型のプラグマティズムに依拠する社会学者などが議論をしていますが、「主体」の捉え方はバラバラのようです。そこで、注目されるのは、この「主体」という新造の翻訳語が急速に人々の関心を集める半面で、実証科学を信奉する人々からは、はじめから理論的有効性を疑われているということです。

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