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2010年11月14日 (日)

橋本秀美「『論語』─心の鏡」(4)

第二部では、具体的に『論語』の中から、一節を抜き出して、解釈の変遷を追いかけ、重要な概念がどのように捉えられてきたかを見ていきます。これは、目から鱗が落ちるところが続出で、第一部を踏まえて読むとたいへん深い。ひとつひとつ紹介したいのですが、これは実際に本書を読むことをお勧めします。最後に著者が解釈に対する考えを述べています。

“結局、解釈において、言葉の使われ方を論証する方法は、技術であり手段であって、傍証を提供することはできても、最終的根拠とはなり得ない。何故かと言えば、この言葉が他でこういう意味で使われているから、ここでも同じ意味であろう、というのは単なる可能性に過ぎないからだ。蓋然性に高低の差はあり、論証によって蓋然性を高めることはできるが、他の解釈の可能性を否定することは不可能である。「愛してる」という一言が、どれほど多くの異なる思いを含むことがあるか、考えてみよう。相手がどれほど自分を愛しているか、それは自分なりに解釈するしかない。どんな口調で言ったか、どんな表情で言ったか、あるいは日ごろ彼が自分にどういう態度で接しているか、など、判断の参考となる事柄は無数にあるが、それでも絶対確実な解釈というのはありえない。言った本人にさえ、本当のところは分かっていないかも知れない。それでも彼の言葉を信じる、という時、それは正に信念であり、賭けである。色々な事情を考えても、私にはどうしてもこの解釈が正しいとしか考えられないのだとすれば、絶対に正しいという保証はないが、私にはそれを信じる以外ない。そして、あらゆる事情を考慮した上で、可能性かどんなに小さいと言われても、自分はその可能性を信じる、という人がいた場合に、他人は彼の判断を誤りだという権利を持たない。人間そうやって生きているのだが、古典の解釈というのもまたそんなものである。表面的な指標だけを頼りに、客観的に計算できる蓋然性だけを信じて生きるのは、全くつまらない人間だと思う。古典解釈に客観的で厳密な科学的方法がある、などというのは、同じようにつまらない妄想である。”

次に『論語』と中国社会の関わりについて、解釈面からではなく、社会の面から、まず、『論語』は、文字内容・解釈・版本、どの面について言っても、二千数百年の間、まさに中国社会に育てられてきたと言えます。逆に、二千年以上の間、中国の全ての知識人は、幼少から『論語』を学ばない者はなく、『論語』を学んでいなければ中国語を習得したことにならないとも言えます。従って中国知識人の精神は『論語』によって育てられ、鍛えられてきたもので、それは知識人以外の全ての社会のあり方に根本的な影響を与えていると言ってよいと思われます。

これは、他方で、中国における高級官吏任用試験である科挙の存在も大きいと思います。科挙は、中国の知識階層に、『論語』を含む古典の学習を必須のこととして要求しました。中国古典の言語と、現代の中国語との距離は、日本の古語と現代語ほどにかけ離れたものではないが、それでも古典の内容は簡単に理解できるものではなく、必ず各種の注釈を参考にして徐々に身につけていく必要があったと思われます。大人になってから勉強しようとすると、大変苦労するので、できるだけ小さい子供のうちから暗記させようとする。しかし、このような困難な学習の過程にこそ、大きな経験的価値があるのではないか、と筆者は言います。古典は生きた言語ではないから、その意味は頭で考える必要がある。どのように理解すべきか解釈を考えてみるが、通じない。また別の解釈を考えてみるが、それも通じない。そういう細かな失敗を積み重ね、自分の考えを繰り返し修正して、少しずつ的確な解釈に近づいていく、という根気の要る作業となります。それは、辛抱強く他人の声に耳を傾ける訓練にもなる、と筆者は言います。

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