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2010年11月28日 (日)

小林敏明「廣松渉─近代の超克」(1)

まず、廣松らが乗り越えようとした「近代」とは何かを問うことから始める。日本では単線の時代区分が自明に為されているが、欧州ではそうではない。そこで、「近代」を単なる単線的な時間系列の上に位置する便宜的な一歴史区分とみなすに終わらないで、ある共通の発想パターン、科学史家などのいう「パラダイム」をもったひとつのエポックとして捉えて見る方がいいと著者は言います。そこでしばらくは、概略的に「近代」の代表的なメルクマールを検討していきます。

まず「近代」を成立させた具体的条件として重要なのが産業資本主義の社会です。この産業資本主義の特徴は商品経済ないし貨幣経済が一般に流布し、その結果人間の労働までが「商品」となることがあげられます。商品となった労働は貨幣と同じように計算され、文字通りその貨幣と直接交換されるようになるのがそうです。これは、本来それぞれに性格や質を異にする労働がさしあたりその固有の質を度外視されて、「量」としてのみ扱われる。これを可能であるかのように(イデオロギー)が出てきて、労働はそれがかかった時間量で量られうることになります。この背景には、その尺度となる時間が比較計量可能なものであるという一般抽象的な考えが前提されているわけです。『資本論』の「抽象的人間労働」とはそういう意味です。

こうしたシステムが成立可能となったのは、同一の人間が一方で家族や共同体に所属しながらも、他方でそうした紐帯から分離した「自立的個人」と機能し共同体とは別の次元にある仕事を引き受けることができるということです。この自立した個人どうしが作り上げる社会、一般に「市民社会」、は旧来の共同体的人間関係を前提にしない独自の論理や倫理に従います。一方、生産関係が資本利潤の追求に向かう「資本─賃労働」の関係は、相互に対等な関係ではない。それは、賃労働者は自らの労働力の他には生産手段を持たず、資本の側から提供される生産手段を借用しながら自分の労働を提供しなければなりません。賃労働者は、もはや土地も機械も道具も持たない「無産者」となってしまっているためです。そのような人間は旧来の共同体から出てしまった人間であり、それにともない「都市化」が進んだと言えます。こうした経済上の社会変化と平行して、「ネーション・ステート」と呼ばれる国民国家の成立という重要な変化が起こりました。

このような経済社会の変化は、人々の考え方やメンタリティにも大きな変化を与えました。それは近代合理主義の登場です。とくに資本主義ないし産業社会との関連で合理主義に注目したのが、マックス・ヴェーバーです。簿記をもとに営まれる合理的な産業経営は、直接自然科学からもたらされたものではなく、むしろピューリタニズムの禁欲的倫理から出てきたものだ分析して見せました。その端的な例が、「天職beruf」の概念です。もともとは「神からの召命」を意味するギリシャ語のクレーシスをルターがドイツ語のberufに翻訳したときに意味が変容し、ちょうど「労働」を社会原理とする新しい時代を先取りすることになり、カルヴァン派がその転換を実質的に進めたものです。ウェーバーはさらに合理主義が近代的パラダイムの中で広がり「官僚化」が進むことを認識していました。つまり、労働者の管理を合理的に管理する、ひいては住民そのものの管理まで波及する。それは、広く社会的行為が創造的エネルギーを失って「凝固」したときに生ずる現象です。それがさらに進んで、人々を隷属させる容器ともなってしまう。これは後に「制度化」「物象化」という問題になっていきます。どうしてそのようなことが起こるのか。それは、世界観、社会観、国家観そして人間観を考えるときの発想モデルとして、近代に入る前は「有機体」がモデルとなっていたのに対して、近代では「機械」のイメージが支配的になっていきます。さらに「機械」は、効率を求めて絶え間なく改良を加えられたり、新機軸が発明されたりします。ここから現れてくるのが「進歩」という発想です。

最後に哲学や思想に与えた影響について考えてみます。産業社会が旧来の共同体から分離した「自立的個人」を多数生み出していったことにより、哲学的にも「個人」という概念が重要な意味を帯びてきます。これに伴い、ギリシャ語のヒュポケイメノン「基体」概念が「実体」と訳され、当初、神と同一視されていたものが、デカルトになると精神と物体も実体とみなすなど、概念が変容してきます。これに乗じて精神と物体はそれぞれ独立した別々の世界を為し、それぞれが主体と客体の関係に重ね合わされ、主体の支配下に置いたということです。その結果、人間が主体と客体の関係を取りまとめるような特別の存在となってくるのです。

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