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2010年11月29日 (月)

小林敏明「廣松渉─近代の超克」(2)

廣松の思想は基本的に「マルクス主義」とともに始まり、その基本姿勢は終始変わることはありませんでした。廣松

は1960年代後半の当時の流行であった疎外論を批判します。疎外論とは、現代の人間は機械やシステムの歯車として自主的な主体性を失った存在に成り下がってしまっている、だから、今こそその失われた人間性を取り戻さなければならないという議論です。これは『経済学哲学草稿』が遅まきながら出版され脚光を浴びたことにより現われてきたものです。これに対して、廣松は疎外という議論が成立するためには、まず主体としての人間がいて、それが労働という行為を通して自分の本質を対象に外化するというプロセスが前提となっています。これは、マルクス主義が克服したとされるヘーゲルの理論装置そのもので、実は疎外論を支えているのは近代的ブルジョア・イデオロギー以外の何ものでもないというのが廣松の批判です。廣松によれば、マルクスは自己批判的にそうした発想を超えていくところに思想上の転換点があるといいます。その契機となったのが『ドイツ・イデオロギー』にあると言います。廣松によれば、ここでは人間は初めからアプリオリに「主体」として存在するものとは捉えられておらず、「社会的関係」としての人間をとらえているのです。ここでの「個体」は論議の出発点ではなく、反対に関係的行為ないと行為的連関の所産であり、結果と言えます。ここでは「実践」という概念が人間存在のベースをなす哲学的行為概念にまで鋳造し直されています。この『ドイツ・イデオロギー』はマルクス主義思想の真の出発点があると廣松はみなしているように考えられます。では、廣松はこのような新たな発想を実際にマルクスのどのような議論に見出し、近代を超える内実があるとみなしたのでしょうか。この意味で重要なのが「物象化」という概念です。発端は『資本論』に出てくる「物化」という言葉です。商品が労働の産物であることは、当時の経済学の常識でした。しかし、その商品の価値は他の商品と交換される際の「交換価値」がそうです。それは食べられるとか、見て楽しむなどという直接消費者の欲求に奉仕する使用価値とは全く異次元のところに成立する価値なのです。それでは、それまでの経済学の常識であった人間の労働が価値の源泉というのは、フィクションにすぎない。これは、逆の方向で考えて見れば、一人の人間が汗水たらして作った米を売って得た金額と、別の人間がわずか数分の電話取引で得た株売買の利益との間に、理不尽なほどの差が生ずることは、「価値」が決して単純な人間の労働量などで決まっているのではないことは明白です。一個の人間の主体的行為としての労働ではなく、はじめからシステムという関係の網の目に組み込まれた人間たちの総労働から逆算して個々の労働の価値が決められている。マルクスは、これが取り違えられて、あたかも「抽象的労働」が「凝結」するように見えてくると言います。これが物象化です。

廣松は『資本論』の再解釈を通じて得られた商品の価値的性格を他の価値一般にまで広げていきます。経済的価値を超えて、あらゆる文化的社会的価値は多かれ少なかれ「感性的・超感性的」の二重性格を帯びているのです。これを認識論の場面に適用してみせたのが、初期の主著『世界の共同主観的存在構造』です。われわれは一般に物事をそのまま知覚し、認識していると思い込んでいるふしがあるけれど、よく見てみると、そこに二重構造がある。例えばいま聞こえている音はたしかに物理的に発せられた音、その意味で感性的に近くされたものには違いないが、普通にはそれを自動車のクラクションの音「として」聞いている。つまり、そこには初めから何らかの「意味付け」が働いている。このような文化的社会的に与えられた意味は明らかに感性的次元に成立するものではなく、そもそも「意味」という存在自体が超感性的といえる。廣松は、このような認識される側の二重構造とは別に、知覚認識する側の二重構造を持ち出してくるのです。われわれがふだん、物事を見たり聞いたりする時に、その都度異なった「誰々として」立ち現われていると言います。これは言い換えれば、認識の実践化、行為論化とでも呼ぶべきものです。その都度の状況を超越して初めから「主観」なるものが存在しているわけではなく、主観はむしろその認識というひとつの「行為」が置かれる、その都度の状況ごとに規定されるものと考えられます。こうした対象面と主体面のそれぞれの二重性から入れ子型の四肢構造なるものが導き出されます。これが最も見易い形で現われるのが言語ないし言語認識の場面です。さらには相対性理論解釈にもこれか広がります。これらの議論を踏まえた廣松の「唯物論」は「物」を動態的な関係や函数の所産として捉えるものとなるのです。

廣松の認識存在論とも言うべき四肢構造論は、社会的行為論にまで進みます。認識論は主に「者と物」の関係を取り上げましたが「者と者」の関係はたんに認識にとどまらず、相互の行為となることが普通だからです。ここでは認識論と実践行為論がつながっていると言えます。例えば、今、通りを歩いていて目の前に怪我をして助けを求めている他者に遭遇したとします。私はこの助けを求める「当事他者」の期待に応えなければならないような状況に置かれています。つまり、私の行為はさしあたりこの期待の理解とそれへの呼応として発生します。そして、他の通行人たちは「環視的第三者」として私におおいかぶさってきます。私はこの人たちの期待にも応えなければならない。仮に誰もいなくても私自身の良心の呵責ということもあります。ここには「ひと」という見えない抽象的な匿名の他者が顔を出してくるのです。このように、われわれはその都度に応じて何らかの役割を演じながら日常生活を営んでいると廣松は言います。私の自己同一性はされらの役割群の束として保たれているのです。さらに役割とはその都度の状況に応じて発生するものですが、これに他者の反応を呼び起こすという「他者」との「共軛」関係において成り立つものです。しかし、問題はその後です。廣松にとって役割とは本来的にその都度の状況に制約された行動ですが、類似の状況が繰り返されるとルーティン化が起こり、さらにはルール化されと、その裏面としてルールに従わない場合のサンクション(罰)が生じます。まさに役割の物象化です。こうした態勢ができると、こんどは役割の「脱人化」が起こる。つまり、大工さんは人が替っても大工さんです。つまり地位の既成化です。こうして役割や地位が協働連関の度合いを増すと一定のまとまりをもった「機構」を形成するまでに至ります。この機構がひとり歩きをし始めると、人を拘束するような転倒した事態が生じるわけです。

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