小林敏明「〈主体〉のゆくえ」(1)
哲学もそうですが、そこで使われている言葉、とくにその意味について、“意味というには、どこにおかれようとそれ自体は不変な、何か固まった物のような存在ではない。それは言語表現の連鎖や網目の中から、その都度紡ぎ出されるもので、厳密に言えば、同じ表現といえどもそれが置かれたコンテクストのなかで、その都度異なった表現をもってたち現われてくる”ものです。これが、翻訳、ある概念をある言語システムから別の言語システムのなかに置き換える作業においては、言葉が置かれたコンテクストとの関係とそれが生み出す意味効果の違いやズレは鮮明なかたちをとって現われてきます。とくに明治以降の近代化の中で移入され、発展してきた哲学においては、さらに中身の意味がよく分からなくても、とにかく受け入れ、しかる後に、次第に意味を理解していくという受け取り方もされていた。そこにあったのが翻訳後という、哲学ならばテクニカルタームのような言葉で、…的とか、…性、とか…体というかたちの言葉です。
西洋語でもSubjektとSubstanzという語形のよく似た二つのシニフィアンが互いに意味的に連動しあっていることは、理解できると思います。このような親近関係に基づいて数々の哲学的な議論が重ねられてきたことも明らかです。これらとKorperやNationを連動させるためには意味(シニフィエ)に基づいての関連づけが必要で、そこに理論や理屈が生まれてくるのです。これに対して、近代日本語のように「主体」「身体」「国体」と、はじめから語形(シニフィアン)に共通性や類似性があると、シニフィアンどうしの自動的な連動関係が生まれてくる。極端な場合には、意味付けの努力がなくとも、シニフィアンの自動的連鎖反応によって、それらの間の連関が、あたかも自明であるかのように受け取られてしまう。
本書はこのような翻訳語の…体という言葉の中で、主体ということばに着目しています。
まずは、主体ということばSubjectの翻訳のために造られた造語ですが、そのもともとの言葉であるSubjectについて議論を進めます。
Subjectの前半subは「下」、後半jectは「投げる」をそれぞれ意味する言葉で、文字どおりには「下に投げること」でそこから「従属する」というようなネガティヴな語源を背景にしているものが、その反対の意味ともいえる「主体」というような意味で使われるようになったのは、哲学史を遡る必要があります。まず、この語源はギリシャ語のύποκείμευου(ヒュポケイメノン)に遡ることができます。原義は「下に置くもの」でしたが、アリストテレスの『形而上学』第7巻でύποκείμευουはούσία(実体)の内実とされ、「他のものがそれについて陳述されながらも、それ自体は他のどんなものについても陳述されないもの」つまり、そこから物事が発現、発展していくような存在という意味になっています。これらがラテン語に翻訳される過程において、ούσίαがsubstantiaに、ύποκείμευουがsubiectumに翻訳され、ともに後者の意味に引きずられ、シニフィアンとしても類似の語形をもってしまったのです。これが後世の近代ヨーロッパ哲学に大きな影響を残します。
近代になり、デカルトは哲学の出発点を「思惟するもの」としての「我」に見て、その思惟を担うとされるのが「精神」で、「精神」は「物体/身体」と並んで、ともに「実体substantia」だとされました。デカルトは、それまでの「実体」は「真に存在するもの」の意味で神という存在に対してのみ使われたものだったのに対して、神を無限の実体として棚上げする一方で、思考する我の、その思惟ないし精神とその対象となる身体もまた「実体」としました。これは、思惟する人間こそが「実体」だという宣言とも取れます。
これを、決定的にしたのがカントでした。『純粋理性批判』において「実体Substanz」「基体Substrat」「主体Subjekt」は同置されていて、諸現象のあらゆる変移に対して不変なものとして、有名な現象の元にあって不可知な「物自体」に近いものとされていることです。しかし、「実体」は現象の中に認められ直観と同置されています。ここで重要なのは、カント哲学の大前提として現象も直観もあくまでも人間の意識、つまり「主観」の側で成り立つものなのです。つまり、物事の背後にあった基体としての「実体」は、いまや主観の内部に認められるようになってしまったというわけです。このような転倒によりSubjektはすべての現象ひいては人間の認識の、元締めとなっていったわけです。いまや、デカルトの出発点となった「我思う」の「我」とSubjektが等置されているわけです。
しかし、ニーチェはこのような人間中心主義的なSubjekt概念による転倒のプロセスを懐疑的に見ていました。外部に向かう本能が内に向かうようになったとき初めてそこに内面や魂が生まれてくるとするなら、その内面や魂(精神)こそ、近代に入って「主体」が新たに手に入れたその内実であると、彼は言います。ニーチェにとっては、それらと並んで主体もまた内面化の産物でしかないということになります。このような懐疑を徹底させていったのが、ハイデッガーでした。ハイデッガーは人間が全ての存在者を自分の身に引き受ける基体=主体として特権的な存在者となったとき、その引き受けられたほうの存在者たち、ひいては世界はすべて、その基体=主体としての人間が代表し表象する「像」に変じてしまったと言います。
このようにヨーロッパ哲学において「subject」の概念が、翻訳という作業により翻弄されて変遷してきた。このような複雑な概念が、異なる文化圏、言語システムに持ち込まれていったとき、どうなるのか。それを本書では検証して行きます。
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