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2010年11月30日 (火)

小林敏明「廣松渉─近代の超克」(3)

さて、ここからが本題に入ります。『〈近代の超克〉論』を足掛かりにして、廣松を日本近現代思想史の流れの中に位置づけるというのが、筆者の意図です。

日本思想との直接的対決はほとんどない中で、この著作は異彩を放っていると言えます。あえてその廣松が取り上げたのは、近代の超克というテーマゆえで、そもそも廣松にとってマルクス主義を標榜することは、そのまま資本主義社会及びそれと表裏をなす近代的世界観そのものへの根本的な挑戦であったからだ、と著者はいいます。戦時における近代の超克は「文学界」グループ、「日本浪漫派」そして「京都学派」の三つのグループを中心に展開されました。しかし、廣松は、このうち京都学派に特に目を向けています。廣松の関心は何よりも京都学派のもつ「近代」観にありました。京都学派の歴史観はヘーゲルやランケなどのプロイセン系の歴史観をベースにして、当時の皇国史観とは真っ向から対立していました。この、例えばランケの歴史観の大きな特徴は、古代、中世、近代という時代区分をそれぞれのパラダイムとしてとらえようという態度です。また、高山岩男の「世界史的世界観」はそれまでのヨーロッパ中心主義の枠にはおさまりきれないような多様性が生まれ、これに見合ったヨーロッパ中心ではない歴史観がひつようになったという認識です。高山によれば、このような歴史は、マルクス主義のような経済的下部構造ではなく、「文化」、一定の類型を備えた民族文化、が機動力となって動かされていることになります。そこにも世界史的世界を支える多元性の根拠があり、また「世界史の哲学」「哲学的人間学」と結ぶ理由がある。このような基本的歴史認識の上に立って、彼らは同時代を「近代」、しかも内的な爛熟を経て今や衰退の危機に直面している近代とみなします。

では、廣松はというと、このような京都学派に対する容赦ない批判は『〈近代の超克〉論』の中で一貫して行われていますが、どこかで京都学派に対する敬意が感じられるのも確かだと著者は言います。その理由は、廣松が京都学派の近代観をそれなりに認めたうえで、その「超克」の仕方において彼らとの決定的な決別点を見出すという姿勢をとっているためです。

明治以降の近代思想史を考える上で重要な問題のひとつは、日本は既に近代化されているのか、それとも未だ近代以前なのかという現状認識の問題です。『〈近代の超克〉論』の中の議論をみれば、廣松は日本が近代化されているか否かにかかわらず、すでにわれわれが「世界史の時代に生きる」かぎり、近代の超克はどこから出てきてもよいと考えていると考えられます。つまり、「外来思想の単なる翻訳紹介に終始することなく」自分の頭で近代という巨大なパダイムに立ち向かおうとした、その姿勢において廣松は京都学派に共感を覚えているようだ著者は言います。廣松にとって重要なことは、日本の近代化云々ではなく、世界をグローバルに見れば、近代は明確な姿を現し、すでにその限界さえも示しており、とこからであれ、根本的克服の道を探らねばならない時期にきているということです。つまり、近代を限界をもったひとつのパラダイムとして捉えているということです。

廣松と比較する意味で、近代の超克に対してもっとも厳しい批判を行った戦後民主主義良識派を見ていきます。ここでは、その代表者の一人として丸山真男の「近代」観を見ていきます。丸山にとって、日本は近代を獲得していないといいますが、彼のいう「近代」とは、西洋近代とも違います。それは、ヨーロッパとか出生の地の特殊性に還元することのできない普遍的理念としての「近代」で、地球上のどこかですでに存在しているような既存の体制や制度ではなく、今ある現実を不断に改良することを通して目指される目標となります。具体的に当時の政治に見られる基本的な動向として、丸山が1953年の講演で述べているのは、テクノロジーの飛躍的発達、大衆の勃興、アジアの覚醒という三点です。これは廣松や京都学派の近代観とかなり重なり合う、これには、丸山の思想形成にヘーゲル主義の強いバイアスがかかっているためだと筆者は言います。しかし、丸山は三点を「それ自体は必ずしも価値を内包していない」「社会的現実」として捉えています。これは京都学派や廣松では考えられないことで、彼らにとっては丸山の言う「社会的現実」は丸山が言うようなイデオロギーから自由な代物などではなく、むしろ近代イデオロギーと直結した現象だからです。丸山の、イデオロギーから自由な「社会的現実」から出発して、それをコントロールするイデオロギーを求めるというのは、彼がリアル・ポリティクスから離れていないことを意味しています。丸山の認識において「近代」は閉じたパラダイムではなく、あくまでイデオロギーから自由な「開かれたシステム」ないし「未完のプロジェクト」なのです。だから、まとまった全体として対象化されることはない。京都学派からみれば、それは近代の内部に取り込まれることを意味するけれど、「開かれたシステム」であるならば、そもそも内部など成立しなくなる。丸山のような近代主義者は、このような「社会的現実」を与件として、その都度現実的問題を克服しながら、そこに何らかのバランスを見出していくということになります。だから、実際には資本主義の体制を全面的に批判し、転覆させるという発想は出て来ることはなく、資本主義がその都度発生させる問題や矛盾を、ひとつひとつ克服しながら、その資本主義に不断の修正改良を加えていくというものです。

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