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2010年11月22日 (月)

小林敏明「〈主体〉のゆくえ」(6)

高坂と相携えるように出てきたのが1942年の高山岩男の『世界史の哲学』です。自由主義や機械文明をともなった資本主義を核とするヨーロッパ近代社会の世界進出によって、世界はひとつになった。これにより、歴史も単なる孤立した国史ではなく、世界史として考察される必要がある。とはいえ、これまでのようにヨーロッパ史を機軸にして世界史を論ずることは、ヨーロッパと言う特殊世界を普遍視してしまうことであり、真の世界史観方とはいえない。世界史的世界には多元的な特殊的世界史が互いに対等なものとして存在するのであり、そうした多元性とそれに基づいた葛藤をとらえることのできる世界史こそが真の世界史である。多元性をこととする特殊世界史はそれぞれに固有な地理性を背負っており、この要因を考慮に入れない世界観は単なる抽象であり、現実的ではない。それぞれに固有な地理性を帯びるということは、そこに一定の文化を体現した民族とそれを基盤にした国家が成立していると言うことであるが、これは単に自然から与えられたものではない。それはあくまで人間と自然との長い交渉を経て出来上がったもので、この人間の社会的歴史的活動に対する認識を欠いては歴史はは空虚になってしまう。また、歴史は常にその都度唯一で一回的な現在の出来事であるところに、その本質がある。歴史はあくまでそのつど「道義的生命力」に支えられて起こる現在の創造的営為である。しかし、歴史にはつねに過去を永遠の秩序とみなすような自然意志がはたらくので、歴史的創造の営為はこの歴史否定の暗黒の原理との闘争を避けることができない。かといってまた、この過去性も現在性も無視していたずらに未来を志向する理想主義も誤りである。歴史は現在を核とした過去と未来の錯綜するダイナミズムのなかにこそ求められなければならない。

では、高山の『世界史の哲学』なかで「主体」はどうなっているのでしょうか。高山の歴史哲学の核心が自立した多元的文化という観点にあり、この多元的文化を体現しているのが民族や民族国家ですが、「主体」は直接この核心部に関係させられているものです。ただし、シニフィアンのずらしを通して。彼は次のように言います。「主体とは単に精神的なる主観ではない。精神的・身体的なるものが真の主体である。歴史とはこのような意味の主体的行動を俟って成立する」と、ここでも「身体性」の果たす媒介的役割は大きい。この身体を「空間性」から「地理性」へとずらしながら、そこに世界の多元性の根拠見出そうとします。そして、「主体」が基本的に自然を相手に活動する人間としてとらえられ、その活動を通して自然環境と交渉するといっても、それは人間が一方的に対象としての自然を加工してしまうわけではなく、真の関係は地理的環境と精神的主体との間に成立する「呼応」であるいいます。「呼応」とは主体と主体の間の事柄であり、人格の根源をなすものです。ここでは、「身体」を介して「主体」を「空間─地理─自然」へとつなぐシニフィアンの連鎖であり、個的主体を最終的に民族特殊性へと取り込もうとする試みでもありました。

高坂、高山と並んで西谷啓治の「主体的根源性」を見ていきます。かれは、宗教哲学から「無」と「主体」の結びつきを問い『根源的主体性の哲学』を発表します。歴史というのは単に客観的な因果の連鎖で流れていくものではなく、そこには人間の主体的なかかわりがある。そのかかわり人間の意志的要求として発現し、それが「客体」へと具体化されるとき現実の歴史が成り立つ。この人間の要求「主体性」はどこから来るのか。そこで展開されるのが「根源的主体性」です。西谷によれば、主体性は近世の産物であり、その近世の特徴は人間の自立的存在、人間自主性の自覚にある。しかし、これは単なる近代的自我や個人の成立以上の意味を持っていた。それは人間の自主性は個人と言う次元を超えて、普遍的理性の領域にまで広がるものだった。このような超越的な自己普遍化されたものを「根源的主体性」と呼びます。このような根源的主体性は普遍的理性に解消されてしまうことは西谷には受け入れられないことでした。そこで西谷は自我を肯定すると同時に否定し、それを通して何らかの超越を確保する「絶対無」の立場、これはたんに自我を否定して無くしてしまうのではなくて、あくまで自我を底に向けて徹底し、突き破るという「脱底」を通して人間主体を主体たらしめるような、しかもそれ自体は個的ではありえない超越的で根源的な主体性、つまり主体に対するメタ主体です。このような「主体」は「個人的主体」を超えて「根源的主体」へと拡大され、さらには「無」にまでつなげられていったわけです。このような西谷は、のちに『近代の超克』の議論で、このような主体的無とは、実際に国民として生活している我々が国家に対して献身滅私の態度を取ることだと発言するに至ります。

著者は、このような現実の国家への滅私奉公的忠誠と日本中心主義の理念は、端的には高坂や高山、西山らが真摯に追求した無の哲学を強引に捻じ曲げたものであり、哲学ではなくプロパガンダに成り下がってしまったと言います。どうしてこのような逸脱が可能になったのかといえば、「主体」から「無」へのシニフィアンの遊戯的飛躍によってのみ可能で、それにより「主体」はいつのまにか「国体」にすりかわってしまったのだと。

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