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2010年12月

2010年12月29日 (水)

仕事納め

今年は今日が仕事納めとなります。もともとの動機が通勤の行き帰りで読んだ本、聴いた音楽の感想や感じたこと、思ったことを徒然に書きとめることでした。仕事納めで今年の通勤は終わりということなので、ひとまず仕事始めまでのあいだ、しばらくお休みします。今年の8月からこのプログを始めて、読みにくい分量の多い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。

また来年、仕事始めで、お会いしましょう。

ダニエル・J・レヴィンティン「音楽好きな脳 人はなぜ音楽に夢中になるのか」(7)

科学には、私たちが好きだと感じる音楽をなぜ好きかについて、言うことがあるらしい。そしてその話は、ニューロンと音符とが見せる相互作用の、もうひとつの興味深い側面を明らかにしてくれる。

人間の脳と、人間が使っている音階とは、共進化してきたと言える。長音階の音符が均整のとれていないおかしな配置になっているのは、偶然ではない。この配置のほうがメロディーを覚えるのが簡単で、それは音の発生に関する物的な現象から導かれた(この本ですでに取り上げた倍音列を通しての)結論だったのだ。私たちが長音階で使っている音のピッチは、倍音列を構成している音のピッチは、倍音列を構成している音のピッチに非常に近い。ほとんどの子どもたちは生まれて間もないころから自然に声を出し始め、そうした初期の発声はまるで歌っているように聞こえる。赤ちゃんは自分の声の範囲を探り、まわりの世界から取り入れる音に応えながら、発音する方法を探る。赤ちゃんの耳にたくさんの音楽が届けば届くほど、自然に起こる発声に含まれるピッチやリズムのバリエーションは増えていくだろう。

何歳になっても新しい音楽を好きになれるようには思えるが、大多数の人の好みは18歳か20歳までに固まる。なぜかはまだはっきりしていないものの、いくつかの研究によって実証されてきた。人は敏を重ねるにつれ、どちらかというと新しい経験の影響を受けにくくなっていくのが、その理由のひとつだろう。私たちは十代の間に、違う考え方、違う文化、違う人たちの世界が存在することに気づき始める。そして自分の人生や個性、あるいは決意を、親から教えられたことや育ってきた道に閉じ込めなくてすむよう、違う考え方を試して見る。同じようにして、新しい種類の音楽を探す。とくに西欧の文化では、どんな音楽を選ぶかは社会的に大きな意味を持つ。私たちは友だちと同じ音楽を聴く。若くて、自己を確立しようともがいている間ならなおさら、自分も同じようになりたい人、どこかに共通点があると感じられる人と、社会的な集団を作って絆を結ぶ。その絆を結ぶ。その絆を具体的に表す方法として、同じような服装をし、いっしょに活動し、同じ音楽を聴く。自分のグループはこんな音楽を聴いているけど、あいつらはあんな音楽を聴いている。こうして、音楽は社会的な結びつきや社会行動の結束を強める働きをするという進化論的な考え方につながっていく。音楽と音楽の好みは個人とグループのアイデンティティーを表わし、それぞれ区別する目印になるのだ。好きな音楽はその人の個性とつながりがある、その人の個性を表わしていると、ある程度までは言っていいだろう。それでも大体の場合、そうした好みは多かれ少なかれ偶然の要素に導かれて決まるものだ─どこで学校に通ったか、誰と仲良くしていたか、そしてその仲間がどんな音楽を聴いていたのかが大きく影響する。

音楽の単純さと複雑さのバランスも、好みの要因になる。さまざまな芸術分野─絵画、詩、ダンス、音楽─の好き嫌いに関する科学的研究によれば、芸術作品の複雑さとそれを好きになる程度の間には、規則的な関係がある。複雑さというのは、もちろんまったく主観的な概念になる。この概念をきちんと理解するには、ある人にとっては計り知れない程複雑に思えるものが、別の人の好みにピッタリはまることがあるかもしれないのを、知っておく必要がある。同じように、誰かがおそろしく単純で味気ないと思ったものを、別の人は難しくて理解できないと感じるかもしれない。それはひとりひとりの経歴、経験、理解力、認知のスキーマの違いによるものだ。ある意味ではスキーマが最も大切になる。それは私たちの理解力の枠組みを作るもので、その体系の中に、ある芸術作品の要素やそれに対する解釈を当てはめていく。スキーマは人が持っている認知モデルと期待に関する情報を伝える。あるスキーマを持っていれば、マーラーの第5番は完全に解釈できるもので、たとえ生まれて初めて聞いた場合でも大丈夫だ。それは交響曲であり、四楽章をもつ交響曲の形式に従っている.メインテーマとサブテーマをもち、テーマの反復がある。テーマはオーケストラの楽器によって奏でられ、アフリカのトーキングドラムやファズベースは使われない。マーラーの交響曲第4番を聴きなれている人は、第5番が同じテーマの変奏で始まり、ピッチまで同じだと分かる。マーラーの作品に詳しい人は、この作曲家が自分の作曲した三つの歌曲から、曲調の一部をこの交響曲に取り入れているのが分かる。音楽教育を受けた聴き手なら、ハイドンからブラームス、ブルックナーに至るほとんどの交響曲で、通常は始まりと終わりが同じ調性あることに気づく。マーラーは第5番でこの慣習を破り、嬰ハ短調で始め、イ短調を経てから、最後をニ長調で締めくくった。交響曲の進行とともに調性を追うことを学んでいなければ、あるいは交響曲の標準的な軌跡を知っていなければ、このことは意味がない。しかし、年季の入った聴き手にとっては、この慣習の無視は満足感を伴う驚きをもたらし、期待を裏切る。調性の変更が耳ざわりにならない巧みな演奏なら、なおさら素晴らしい。ところが、適切な交響曲のスキーマをもっていない聴き手、あるいは別のスキーマ、インドのラーガの熱烈なファンというようなスキーマをもっている聴き手にとっては、マーラーの第5番は意味のない、またはとりとめのない音楽で、ひとつの音楽的意図が、始まりや終わりの境界もなしに次のものと曖昧に混ざり合って、まとまりのある全体をなしているにすぎない。スキーマは、私たちの知覚の、認知処理の、最終的には私たちの経験の、枠組みをつくる。曲が単純すぎれば、つまらないものに見えてしまい、あまり好まれない。複雑すぎても、今度は理解できなくて、やっぱり好まれない傾向がある─私たちにはそれが、何かよく知っているものに根ざしていると感じられないからだ。音楽は、ついでに言うならどんな芸術も、好まれるためには単純さと複雑さのバランスをうまくとっていなければならない。単純さと複雑さは知っているかどうかに関係し、知っているかどうかは、スキーマの別名にすぎない。

私たちの音楽の好みはほかの好みと同様に、以前の経験と、その経験の結果がよかったか悪かったかによっても影響される。心地よいと感じるサウンド、リズム、音楽的味わいの種類は、人生における音楽的体験のなかでプラスの要素をもった経験の延長であることが多い。好きな曲を聴くことは、ほかの心地よい感覚経験とよく似ているからだ。チョコレートや摘みたてのラズベリーを食べる、朝のコーヒーの香りを嗅ぐ、芸術作品や、愛する者が眠る平和な顔を見るなど、心地よい感覚経験はいろいろある。その感覚経験を楽しむと、よく知っている感覚と、よく知っていることがもたらす安全に、心地よさを覚える。私は熟したラズベリーを見て香りを嗅ぐだけで、おいしいであろうことも、食べても安全でお腹をこわしたりしないことも、予想できる。ローガンベリーをはじめて見たときにも、ラズベリーとよく似ているので、食べてみようと思い、安全だろうと予想できる。安全なことは、多くの人が音楽を選ぶ際のポイントだ。私たちは聴いている音楽に、ある程度まで身をゆだねることになる。作曲家と演奏家を信頼して、自分の心を許すことになるのだ─音楽は自分自身を、どこか外の世界に連れ出してしまう。素晴らしい音楽が自分をもっと大きい何かに、他の人々に、あるいは神に結びつけてくれると感じる人は多い。音楽が感情をどこか超越したところに連れこんでくれないとしても、いやな気分を一新することはできる。そういうときには、誰にも隙を見せたくない、心の鎧をはずしたくないと感じているものだ。もし演奏家と作曲家が安全な気持ちにさせてくれるなら、心を許す気持ちになる。偉大な作曲家の音楽を聴くとき、私はどこかでその作曲家と一体になるような、または作曲家の一部を自分の中に引き入れるような、そんな気持ちになる。このような聴き手の脆弱さ、すべてをゆだねる感覚は、この40年間、ロックやポップ音楽ではおなじみの光景だ。これでポップ・ミュージックを取り巻くファンの説明がつく。私たちはミュージシャンに、感情をゆだね、時には生き方までまかせてしまう。ミュージシャンは私たちの気分を高揚させ、落ち込ませ、安らぎをもたらし、閃きを与える。ほかに誰もいない私たちの居間や寝室にも、自由に入ってくる。そして私たちは彼らを、直接、イヤフォンで、ヘッドフォンで、耳の中にまで招き入れ、その間は世界じゅうのほかの誰とも話をしない。赤の他人にここまで身をさらけ出すことなど、そうそうあることではない。それに対して、好きなミュージシャンには進んで自分自身をさらけ出してしまう理由のひとつは、ミュージシャンのほうが私たちに自分をさらけ出してくることにある。(作品を通してわが身の弱さを伝える─実際に弱いのか、またはただ芸術的に表現しているのかの区別は、ここでは重要ではない)芸術の力は、私たちを互いに結びつけ、また生きていることの意味、人間であることの意味についての、もっと大きい真実へと結びつけることにある。アーティストとのつながり、またはアーティストが支持していることへのつながりは、こうして音楽を好きになるひとつの要因となる。

私たちは音楽を聴くことによって、音楽のジャンルや形式に関するスキーマを作り上げている。何気なく耳に入ってきているだけでも、とくに音楽を分析しようと思わなくていい。ごく幼いころから、人は自分の文化の音楽で決められた、正しい音の動きを知っている。やがて生まれる音楽の好き嫌いは、たいていの場合、子どものころ耳にした音楽によって出来上がった認知スキーマの種類で決まってくる。ただし必ずしも、子どもの頃聴く音楽によって人生を通した音楽の好みが決まってしまうという意味ではない。多くの人々は異なる文化や様式の音楽を聴いたり学んだりして、それに同化していくとともに、スキーマも身に付けていく。重要なのは、私たちの幼いころの音楽とのふれあいは心の最も奥深いに根をおろすことが多く、将来にわたって音楽を理解していく土台になるという点だ。音楽の好みには社会的な要素も大きく影響し、歌手や音楽家についての知識、家族や友だちが何を好きかという知識、そしてその曲が何を支持しているかという知識に左右される。歴史的に見て、とくに進化的に見て、音楽は社会活動に関わりをもってきた。最も多い音楽表現がラブソングであること、そしてほとんどの人のお気に入りにラブソングが入っているのは、そんな理由かもしれない。

2010年12月28日 (火)

あるIR担当者の雑感(16)~IRのニッチ戦略(6)

昨日まで、私の考えること、IRにだって戦略はあってもいいのではないかということ、とくに知名度が低い新興市場の中小企業には特に他と異なる戦略をとることで企業の個性を際立たせ投資家にアッピールにするに有効ではないかということ、そして、自身の勤務先では他の会社では比較的軽視され気味に見える定性的情報の提供を充実させて行きたいというようなことをお話してきました。今日は、その補足的事項として、IRには様々なツールがあり、昨日までお話してきた戦略が、それらのツールではどのように捉えられるのかをお話したいと思います。

まず、IRの重要なツールとして決算説明会があります。これは、雑感(9)でもお話しましたように、説明資料に文章のよる説明を入れていく。ただし、説明会資料は決算短信と違って単に読むだけのものでなく、説明会というプレゼンティションのための資料ですから、プレゼンターである社長がどのようにプレゼンティションを行うかによっても変わってきます。しかし、ある程度資料に内容を書き込むことで、プレゼンティションの最中には出席者のメモをとるような労力を極力減らし(出席者が自分でポイントだと思えることや疑問点等をメモしていくまは別です)、その分社長のプレゼンティションに集中してもらうような資料づくりは原則として行っていくつもりです。それは、いくつかの副次的効果もあるのではないかと思っています。例えば、説明会に臨み、たいていの人は開始前に会場について、配布資料に目を通しています。そのときに資料からある程度の内容が分かれば、一種の予習のようなもので、これから始まる説明会のプレゼンティションに対して、自分なりに、ここをポイントに聞こうとか、ここは突っ込んで見ようといったことを予め用意してもらえるのではないかと思うのです。また、雑感(9)にも書きましたが、資料に書き込んであると説明会に出席できなかった人も資料を読んで、ある程度の内容を理解できることもできるわけです。また、各社のホームページ等で見る限りは説明会資料に文章での説明をある程度以上のボリュームで載せている企業は少ないようなので、そうすることでユニークな位置に立てると思います。

これについて、先日雑感(9)の内容について、資料に解説をつけることで説明会当日にプレゼンターが資料に書かれていない内容や資料以上に突っ込んだ説明をしたような場合に、たとえ出席できなくても解説でフォローしてもらえると、ありがたいというご意見をうかがいました。なるほど、何かの事情で説明会に出席できなくて、そこで語られた内容もフォローしたいというのは、無理もないことでしょう。

また、ジャスダックなどでは個人投資家向け説明会へのお誘いなどがありますが、これまで述べてきたようなターゲッティングということから、あまり積極的にはなれません。個人投資家の中でもこういう人というように対象を絞るとか、少人数向けにミーティングをするとかいうようなことがないと、単にイベントを開いた。というだけの満足感に浸ることで終わってしまうように思います。

最後にホームページについては、多分投資家が未知の企業に興味をもって、取りあえずその企業のことを調べてみようというときに、まず、その企業のホームページを見ることから始めることになるでしょう。そうなると、雑感(10)でも書きましたが、ホームページをその企業にあったものとして作りたい、ということで、基本的には、これまで縷々述べてきた戦略の応用篇と考えていいのではないかと思います。これは、私の個人的な好みですが、バークシャー・ハサウェイのホームページは好きです。シンプルというのか、シンプル以前に、何か担当者がホームページビルダーのテンプレートそのままをアップしてしまったような情けないようなページですが、余計ことはしないということと、CEOであるウォーレン・バフェットの手紙が掲載されている、というこの点だけを以って、コンテンツは沢山あるけれど主張が感じられない東芝などのページに比べると天と地の違いというように感じます。それに、日本でああいうお粗末なつくりのページで内容が異常に充実しているというようなページがあったら面白いのに、(というか、自分ではやりたい)と思っています。

今日は、落穂拾いのようなことになりましたが、最後の締めとして、私の日頃肝に銘じている大原則として、会社が悪いときにはIRがよくなることはないということ。つまり、IRは会社をそのまま、正直に伝えるので、悪い会社を良い会社だとは伝えることは出来ない。会社がいい会社であることが前提。そのためには、IRという業務も会社がよくなっていくために何らかの役割を果たしていかなければならないということです。また、関連して、絶対に嘘をついてはいけない、ということ。

ダニエル・J・レヴィンティン「音楽好きな脳 人はなぜ音楽に夢中になるのか」(6)

人はどうやって音楽家になるのだろうか?音楽のレッスンを受けている子どもたちは大勢いるのに、なぜ大人になって楽器の演奏を続ける人はわずかになってしまうのだろうか?私の仕事を知って、音楽を聴くのは大好きだけれど、「何にもならなかった」と話しかけてくる人多い。私は、そういう人たちが自分に厳しすぎるのではないかと思う。私たちの文化では、音楽のエキスパートとただの音楽好きの間にある溝が広がりすぎて、みんなが弱気になっているのだ。そしてなぜかわからないが、それは音楽の世界だけの現象のように見える。ほとんどの人はシャキール・オニールみたいにバスケットボールをできないし、ジュリア・チャイルドのように料理できないのに、裏庭でバスケットを楽しんだり、友人や家族のためにご馳走を作ったりしている。音楽での溝の深さどうやら文化的なものらしく、現代の西欧社会に限られている。多くの人が音楽のレッスンは何にもならなかったと言うが、認知神経科学者の研究によれば、そんなことはない。子ども時代にほんの少しでも音楽のレッスンを受けると、まったく訓練を受けなかった人より効率的で発達した音楽処理用の神経回路が作られる。音楽のレッスンは上手な聴き方を教え、曲の構造と形式を聞き分ける力を伸ばし、好きな音楽と嫌いな音楽を区別しやすくする。

才能という考え方を正当化する最も強力な証拠は、音楽的な技能を、ほかの人より短時間で身につけてしまう人がいることだ。それに対して、才能には関係ないという見方─というより、練習によって完璧になるという見方─の証拠は、専門家や演奏の名手たちが実際にどれだけの訓練を積むかという研究から見えてくる。数学やチェスやスポーツのエキスパートたちと同様、音楽のエキスパートも、本当に卓越した技能を身につけるためには長い時間をかけて教えを受け、練習しなければならない。いくつかの研究によると、音楽学校の最も優秀な生徒は最も練習量が多く、優秀ではないと見なされた生徒の練習量の二倍にのぼることもあるという。

音楽のように学習の要素をもつ技能について、遺伝の影響を環境の影響と区別するのは難しい。音楽は親から子へと受け継がれる傾向がある。それでも、音楽家を親に持つ子どもは、音楽に縁のない家に生まれた子どもより、幼児期から音楽を学ぶように励まされる可能性か高い。たとえて言えば、フランス語を話す両親が育てる子どもはフランス語を話す可能性が高く、そうでない両親の子どもはそうでない可能性が高い。このとき、フランス語は「親から子へ受け継がれる」と言えるが、フランス語を話すのが遺伝の影響だと主張する人はいない。

音楽のエキスパートにはさまざまな側面がある。楽器を演奏する腕の冴え、感情を伝える力、創造性、曲を暗譜する特別な精神構造など。そして聴き手のエキスパートは、大半の人が六歳でもうこのエキスパートになっているわけだが、音楽的文化の文法を精神的なスキーマに組み込み、音楽的な期待を抱けるようになっている。それが音楽に美しさを感じる経験の核心なのだ。こうした多彩な専門技術を人はどのようにして身につけていくのか、神経科学は者はまだ解き明かしていない。それでも最近では、音楽の専門技術はひとつのまとまったものではなく、数多くの要素から成り立っていて、音楽のエキスパート全員がそうした異なった要素を等しく備えているわけではないということで、意見が一致してきている。なかにはアーヴィング・バーリンのように、誰もが音楽家なら当然もっているはずだと思う基本的要素をもたない音楽家もいる。彼は楽器をうまく演奏することができなかった。これまでにわかっていることから考えて、音楽の専門技術がほかの分野の専門技術とまったく違うことはなさそうだ。音楽はたしかに、他の活動では使わない脳の構造と神経回路を使うとはいえ、音楽のエキスパートになるプロセスには─作曲家でも演奏家でも─ほかの分野のエキスパートになるのと同じ性格的特徴の多く貸せ必要になる。なかでも、勤勉さ、忍耐力、やる気、そして昔ながらの根気強さをあげることができる。有名なミュージシャンになるのはまったく別の問題で、もって生まれた要素や能力より、カリスマ性やチャンス、幸運がものを言う世界だ。それでももう一度、大切なことを言っておきたい。私たちは誰でもが音楽の聴き手としてエキスパートであり、曲の好き嫌いに、ごく微妙な判断を下すことができる。理由をはっきり言えなくても、好きなものはわかる。

2010年12月27日 (月)

あるIR担当者の雑感(15)~IRのニッチ戦略(5)

さて、ここまでIR戦略とけっこう自慢気に書いてきましたが(本人も、そういう“どうだ!すごいだろう!”というひけらかしたい気持ちがあることは否定しません)。これは戦略ではなくて、戦術ではないかとご意見も出てくるのではないかと思います。厳しい目でみれば、ここまで述べてきたことは小手先のこととも受け取ることができてしまうものです。そこで、今日は、もう一歩踏み込んだ議論に入ります。それは、私の勤務先の企業について、何を投資家に向けて発信したいのか、この企業の本質は何なのかということに関連してくることです。

私の勤務先の企業は、技術力を売り物にしているメーカーです。質の高い製品をユーザーに供給して信頼を得、業績を積み重ねてきています。この連載の最初にも紹介しましたようにB to Bの取引形態で、主要なユーザーは素材メーカーや電機メーカー等という性格のため利益率が比較的低い業界にあり、売上は設備投資動向の影響を受け易いことから、このところの業績の数字はあまり良いものとは言えません。だからと言って、社内が沈滞ムードかというと、技術やさんたちは活き活きと開発テーマに打ち込んでいるし、将来に向けての熱っぽい議論が起こったりしています。そういう企業の空気というようなものは、実際に訪問してもらえば、分かる人は察知できるものですが、数字には現われてきません。私自身、いまの勤め先は好きですし、いい企業だと思っています(これは社員にとって居心地がいいとかいうのとは別に、企業理念とか経営陣の考え方とかも含めてです)。そういう企業だからこそ、熱心に他人に対しても良い企業であることを分かって欲しい、というシンプルな動機でIRを熱心に始めているといってもいいです。果たして、そういう点に投資価値があるのか、というのは投資をする人の価値観にもよるかもしれませんが、少なくても、それが技術開発の活力の源泉でもあるし、現状に甘んじることなく企業として成長する意欲を持っていることは確かです。数字として未だ現われていない投資家にとって未知の要素が、私の勤務先にはある。むしろ、この要素の部分が大きいのではないか、としたら、これを投資家に伝えるべきだし、理解してもらいたい。結果は客観的に数字で表われますが、その背後の数字に現われない投資家にとって隠れたところに本質的なものがあるのではないか。そこで、成長の可能性などを判断してほしい、ということで定性的な文章による情報に力を入れようとしているわけです。

ここまでが、IR戦略の何をするかということについてです。次に、どのようにするかを説明したいと思います。ここまで縷々説明してきたのは、定性的情報、つまり、定量的情報である財務諸表の数字の背景にある事情についての文章での説明に重心をおいて、これを他の企業に比べて充実させていこうということでした。ここからは、充実するといっても、どのようにするのかということについてお話したいと思います。これについては、これまでのところで折に触れて少しずつお話してきましたし、以前の投稿の雑感(1)や雑感(4)で企業が自分のことを自分の言葉で説明することについて、あるいは雑感(3)でストーリーについて個別にお話しても来ました。また、雑感(10)でホームページについてですが東芝という企業のホームページが盛りだくさんのコンテンツがありながら見る者に訴えかけることがないことをお話しました。このような議論を下敷きとして、一昨日のIRのニッチ戦略(3)でご紹介した私の勤務先の参考例をまたご覧いただきたいと思います。量的には、かなり多いもので、そこに込められた情報量も相対的に多くなっていると思います。しかし、作成した自分で言うのも何ですが、量が多くなっている分、情報は伝わってくるのですが、どのような企業なのか、何をやろうとしているのか、ということについては焦点が定まっていないというような気がします。実は、私の勤務先の会社でも先日、第2四半期決算説明会を行ったときに、資料も説明も具体性を重視して説明量を多くしたのはよかったものの、事業年度後半に向けて企業として何をやろうとしているのかというポイントの印象が薄まってしまったのでした。つまり、社長が「今期はこれをやる!」と力強く宣言することと、細かな打ち手を事細かく説明して全体がどうなのかが分かりにくくなってしまったのと、どちらがこの企業はやりそうだ、という印象を受けるでしょうか。ということなのです。勿論、社長が宣言したとしても内容が空疎なら信頼感はもたれないです。

それでは、実際に、具体的にどうするか、これは企業に関してのひとつのコンセプト、あるいはストーリーといってもいいかもしれません、これを一本筋として一貫性を持たせた筋を中心に様々な情報を枝葉として関連づけていくという記述をとることになると思います。これは、何かどこかで聞いたような感じです。そう、強いて言うなら企業の事業戦略の立て方とよく似ている、というか、同じ方法論です。もともと、文章による情報では、そういうものを表わそうとしているわけで、その表わし方も実はその表わすものによって粗方決まってくるのではないでしょうか。では、実際に、担当者の私はどうしようとしているのか…。これは、さきほどの参考例でお分かりのように、未だ暗中模索の段階と言って、これ以上の説明はお許し願いたいと思います。

そこには課題もたくさんあります。しかし、課題があるということは、それを克服することができれば道は開けるということで、課題も可能性と考えて、それも企業の可能の一環として情報提供していきたい。そのために文章という手段はとても有効です。

これが、IR戦略の基本的なところです。この点に関してのこれ以上の突っ込んだ議論は、会社名を明らかにして具体的な議論をすることになりますが、それは会社の宣伝になってしまいますから、このへんで止めておきます。

明日は、補遺としてこのような戦略で、他のIRツールはどのように位置づけられるのかということ、最後に私個人として、こうなったらいいなという個人的理想をお話して終わりとしたいと思います。

ダニエル・J・レヴィンティン「音楽好きな脳 人はなぜ音楽に夢中になるのか」(5)

すでに論じてきたように、ほとんどの曲は、聴きながら足で拍子をとれるものだ。耳から入ってくる音楽には鼓動があって、それに合わせて足先をトントンとリズミカルに動かせるし、少なくとも心の中で足先を動かしているような気持ちになれる。この鼓動は、ほとんど例外なく規則正しく、均等な時間間隔で続いていく。こうした規則的な鼓動によって、私たちは一定の時点で何かが起こるだろうと予測するようになる。電車の線路から響いてくるガタンゴトンという音のように、それは私たちが前へ前へと進んでいること、動いていること、そしてすべてがうまくいっていることを知らせてくれる。

クラシック音楽の話では、普通はグルーヴという表現を使わないが、オペラや交響曲、ソナタ、コンチェルト、弦楽四重奏も、ほとんど明確な拍子と鼓動をもち、それは一般に指揮者の動きに対応している。指揮者はどこにビートがあるかを演奏者に知らせ、感情を表現するためにその間隔を広げたり縮めたりする。人と人との実際の会話、現実に許しを乞う言葉、怒りの爆発、求愛、物語、計画、子育て─どれをとっても、機械が刻むような正確なペースで起こるわけではない。音楽が私たちの感情の動きや人と人とのやりとりに見られる力学を映し出す限り、膨らんだり縮んだり、速くなったり遅くなったりも立ち止まったり考え込んだりする必要がある。このようなタイミングの変化を感じる、またはしるには、次にいつビートが聞こえるかについて、脳内の計算システムが予想情報を手にしていなければならない。規則的な鼓動のモデル(スキーマ)を脳が作り上げるからこそ、演奏者がそこから逸脱したのに気づけるわけだ。これはメロディーの変奏に似ている。演奏者がメロディーを勝手に変えても同じ曲だと分かるためには、私たちの心の中に、元のメロディーの表現が存在していなければならない。拍子を抽出すること、つまり曲の鼓動がどんなもので、それがいつ起きると期待できるかを知ることは、音楽的感情に不可欠な部分だ。音楽は、期待を体系的に裏切ることによって私たちの感情に語りかけてくる。このような期待への裏切りは、どの領域─ピッチ、音質、音調曲線、リズム、テンポなど─でも構わないが、必ず起こらねばならない。音楽では、整った音の響きでありながら、その整った構成のどこかに何らかの意外性が必要になる。さもなければ感情の起伏がなく、機械的になってしまう.整いすぎた響きも技術的には音楽かもしれないが、そんな音楽は誰も聞きたいと思わない。たとえば、ただの音階は、たしかに整ってはいる。それでも、子どもが音階ばかりを飽きもせず弾いているのを聞けば、親は五分もしないうちにうんざりしてしまうにちがいない。このように拍子を抽出できる神経的な基礎は、どこにあるのだろうか?脳を損傷した患者の研究から、リズムと拍子は、神経の上で関係がないことが分かっている。脳の左半球に損傷を受けた患者が、リズムを把握することも、自分でリズムを作ることもできなくなりながら、拍子はわかることがある。右半球に損傷を受けた患者は、その逆のことがある。リズムも拍子も、神経の上ではメロディーとは別の場所で処理されるものだ。

音楽は言語の特徴の一部を真似ていて、言葉によるコミュニケーションと同じ感情の一部を伝えるように感じるが、何かを意味したり、何か特別なものを指しているわけではない。また、言語と同じ神経領域の一部を呼び覚ますが、音楽の場合は言語よりずっと、動議づけ、報酬、感情に関わる原始的な脳構造に深く入り込んでいく。「ホンキー・トンク・ウィメン」の出だしで聞こえるカウベルの響きで、「シェーラザード」の冒頭のいくつかの音符で、もう脳内の計算システムニューラル発振器を曲の調子に同期させて、次の強拍がいつ聞こえるかを予想し始める。曲が展開するにつれ、脳は新しいビートが聞こえる予測をつねに更新していて,心の中のビートと実際に聞こえてくるビートが一致することに満足を覚え、巧みなミュージシャンがその期待をおもしろく裏切ると楽しく感じる─それは誰でも知っている音楽のジョークのようなものだ。曲が呼吸し、まわりの世界と同じようにスピードを上げたりゆっくりになったりすると、私たちの小脳はそれと同期を保つことに快楽を見出す。印象的な─グルーヴのある─音楽は、タイミングをわずかに外している。巣の屋根を叩く木の枝のリズムが変化すると、ネズミが感情的に反応するように、私たちもグルーヴのある音楽ではタイミングのずれに感情的に反応する。ネズミはタイミングの規則違反に何の知識もないわけだが、それを恐怖として経験している。文化と経験を通して音楽は少しも脅威ではないことを知っている私たちの場合は、認知システムが規則違反を快楽や喜びの源として解釈することになる。グルーヴに対するこうした感情的反応は、耳と聴覚皮質という回路ではなく、耳─小脳─側坐核─辺縁系という回路で生じる。グルーヴに対する私たちの反応が前意識または無意識のうちに起こるのは、前頭葉ではなく小脳を経由しているからだ。そして何より目覚しいのは、これらの異なった経路すべてが統合されて、たった一曲の音楽の経験に注ぎ込まれることだろう。音楽を聴くのストーリーは、脳のいくつもの領域が、管弦楽を奏でるかのように絶妙な調和をとりながら機能していくストーリーだ。そこには、人の脳の最も古い部分と最も新しい部分がともに関わり、後頭部にある小脳から両目のすぐ後にある前頭葉まで、遠く離れた領域が加わっている。そこでは、論理的な予測システムと感情的な報酬システムとの間の神経化学伝達物質の放出と取り込みに、綿密な演出が施されている。私たちがある曲を好きになるのは、以前に聴いた別の曲を連想し、それが人生の感傷的な思い出にまつわる記憶痕跡を活性化させるからだ。

2010年12月26日 (日)

あるIR担当者の雑感(14)~IRのニッチ戦略(4)

まずは、昨日の続きです。百歩譲ってIRを戦略的に行い、具体的に定性的情報とやらを充実させていくことがありうるとしよう、しかし、決算短信といい、有価証券報告書といい、果たして、そんなに多くの人が見るだろうか。また、仮に見る人がいたとしても、その定性的情報とやらの部分まで熱心に読む人がどれだけいるのか。というような疑問を呈する向きもあると思います。これについては、またターゲッティングのところに戻りますが、当初から遍く人々を対象とせずに、IRの対象を絞っていることをお話しました。たしかに、個人投資家を対象としたアンケート調査を行ったりすると、個人投資家が投資対象の情報を得ようとする際によく利用するのは企業のホームページや会社四季報等が上位を占め、決算短信をあげている人はほとんどなく、ましては有価証券報告書においてをや、です。だから、実効性を疑うことは無理もないことと思います。しかし、企業を深く知ろうと言う場合、現在のところでは決算短信を見るというのは、例えばアナリストやファンドマネジャーのような人々の間では常識といえます。だから、見る人は見ている、というような楽観的な見方をしてもいいのではないか。大事なことは、少し突っ込んだ興味をもってくれた人に対して、サプライズとも言えるほど充実した情報を提供することで、少なくとも企業として投資に興味を持った人への熱意を持っていることを分かってもらうことではないか、ひいてはそのことによって企業に対する興味をさらに増してもらうことではないか、つまり、いったん興味を持ってくれた人を捕らえて離さないようにすることではないかと、思うのです。

さて、昨日の続きが長くなりましたが、今日の本題に入りましょう。それは、昨日の最後で申しましたように、実際にIRの実務に携わっている人、とくに熱心にIRを進めようとしている人は社内で様々な困難に立ち向かっていると思います。寡聞な私のような者の耳にも風の噂で苦労している担当者のことは聞こえてきます。とくに、ここでずっと説明してきているような戦略を実行しようとした場合、担当者レベルで実際に考えられる困難は、それほど多くの情報を外に出すことが実際にできるのだろうか、ということです。これは、実際にこの仕事に就いた人で、熱心に情報開示を進めようとした人ではないと分からないと思います。企業というものは、法律や規則で義務として決められた情報については開示しますが、また、営業推進のために宣伝は熱心に行いますが、それ以外の情報は出したがらないのです。例えば、新製品情報とその販売戦略を開示しようとすると、営業からライバルに知られなくないというようなチェックが必ず入ってきます。ですから、事業戦略やその結果に対する経営サイドでの評価などというものは、企業によっては社内に対しても明らかにされないところもあります(元々、やっていないという所もあると思いますが)。それを社外の、それも企業と今のところ利害関係もないところに対して情報を提供するとなると、社内においてコンセンサスを得るのは大変なことで、社内調整に多くの労力をかけねばならないことになります。これは担当者としては、忍耐と工夫でなんとか凌ぐしかないということで、やっていくしかないことです。

ここで、この投稿を読んでいる皆さんに一言だけ申し上げておきたいことは、積極的な情報開示を行ったり、説明会の資料を工夫しているような企業は、IRに対してトップ以下が強い意欲と理解を持っている少数の例外を除いて、担当者が社内への調整にかなり苦労しながら、やっとのことで出来ているということを理解してほしい、ということです。例えば、私の場合でも、株主宛に期末に送る事業報告の中で「会社がかかえる課題」という今後に向けて何をしていくかという項目について、具体的な打ち手を説明できるようになるために約10年かかりました。それ以前は、単に“積極的な営業努力を続けます”というような抽象的な何とでも解釈できるようなことしか書いていなかったのです。ここから一歩踏み出すのに、それほどの時間がかかりました。

しかし、この苦労は、実は無駄ではないのです。ここで何度もくどいほど述べていますが、IRというのは企業と投資家のコミュニケィションであると申してきています。これは何も企業の側から一方的にしゃべるだけではない、ということでもあります。これまで説明してきたのは、企業の側から情報を提供するという、ともすれば一方通行とも取られかねないことでした。これでは広報というIRによく似ているが、本質は全く違うものと一緒になってしまいかねません。企業側が聞くとは、例えばどのようなことか。以前に企業が胸襟を開いて情報を開示しようとすれば、そこに必ず綻びがあらわれ、投資家側ではそれを企業を深く知るための糸口となりうるということを申し上げました。これを糸口として、突っ込みたい場合、当然「どういうことか?」という質問が出てくるはずです。それは、決算説明会の場であったり、企業を取材するときだったりするのでしょうが、その際に、より深く突っ込みたい人なら、ただ単に質問だけでなく「一般的にはこうなるはずだが、御社はどうしてこうなのか」とか「他社はこうやっているのに、どうして御社はこうなのか」というような、質問者の意見を交えた質問がなされる、とか場合によっては個別のミーティングで「御社はこうやってもいいのではないか」というような率直な意見を言ってもらえることがあります。企業はこのような声をIR担当者を通して、あるいは経営者がダイレクトに聞くことができるわけです。熱心なIR担当者なら有益と思われる声は当然、経営者をはじめとして社内になんとか伝えようとします。このとき、前段でIR担当者が苦労している社内調整の場が、実は有効であったりするのです。ここで、社外の、市場の声というような言い方と一種の外圧のように利用できるわけです。これは、長い目でみれば企業にとってとても有益なことになると担当者としては信じています。

さらに、これは私の個人的な思い入れかもしれませんが、以前に添付した見本文書で企業の市場認識とか自社の強みのような文章は、社内では暗黙の了解事項として皆内心では思っているのですが、文章として明解にして表わされる機会の少ないことではないかと思います。これを敢えて文章として白日の下にさらすことによって、社内の議論を喚起するというのか、企業としてのアイデンティティのような議論のひとつのキッカケとなりうる、という副次的効果があるのではないかと思うのです。実際、私の勤務先では、決算説明会の質問で技術開発について “品質の良過ぎるもの(オーバースペック)を作っているのではないか”という質問を受けたことを社長が利用して、後日、社内の技術担当者に “社外からはこのように見られているがどう思うか”という議論を吹っかけて回り、社内で議論を引き起こすキッカケとなりました。また、資本コストというような概念は、このような経路でないとなかなか社内には入って来にくいのが現状なのです。だから、迂回しましたが話題を戻しますと、IR担当者が、現在、社内で苦労しているということは、実はチャンスでもあるというのが、乏しいながら経験から得た教訓でもあります。

なんか、続き物の連載のようになってきていますが、もう少し我慢して、お付き合い下さい。

ダニエル・J・レヴィンティン「音楽好きな脳 人はなぜ音楽に夢中になるのか」(4)

私たちの身の回りの世界に対する理解は、まず特定の個々のもの(人、木、曲)から始まる。そして周囲と関わる経験を通し、それらの特定のものを脳内でほとんど例外なく、あるカテゴリーのメンバーとして処理する。ロジャー・シェパードは、これまでここで考えてきたこと全体の一般的な問題を、進化の観点から説明した。すべての高等動物は、外面と事実について、三つの基本的な問題を解決する必要があるとシェパードは言う。生き延び、食べられる物と水と隠れ家を見つけ、捕食者から逃げ、子孫を残すために、生き物は三つのシナリオに対応しなければならない。第一に、二つのものがそっくりに感じられるときでも、それらは本質的に別のもののことがある。鼓膜、網膜、味蕾、触覚センサーに同じパターン、またはほとんど同じパターンの刺激を与えても、それぞれ違うものかもしれない。木になっているのが見えるリンゴの実は、今、この手にあるリンゴとは違う。交響曲から流れてくるヴァイオリンの音色は、すべてのヴァイオリンが同じ音符を演奏していても、何挺もの異なる楽器の音が集まったものだ。第二に、二つのものが異なっているように感じられるときでも、それらは本質的に同じもののことがある。ひとつのリンゴを上から見るのと横から見るのとでは、まったく違って見える。正しく認知するためには、このような別々の見え方を、筋の通ったひとつのものの表現にまとめあげられる計算体系が必要となる。感覚受容器が、重なり合わないまったく別々の活性化パターンを受け取っても、私たちはそのものの統一された表現を作り上げるのに欠かせない情報を抜き出さなければならない。私は、いつも話をする友だちの声を両耳で聞き慣れているかもしれないが、電話を通して声を聞いたときにも、片方の耳で、それが同じ人物だとわかる必要がある。外面と事実についての第三の問題には、さらに高次元の認知プロセスが関わっている。第一と第二は近くのプロセスで、ひとつのものにもいくつもの見え方や聞こえ方がある、また、複数のものが(ほとんど)同じ見え方や聞こえ方をすることもあると理解していく。そして第三は、外面が異なるものでも、同じ種類に属しているという考え方だ。これはカテゴリー化の問題で、最も強力で最も高度な原則になる。高等哺乳動物や鳥でも多くは、さらには魚さえ、カテゴリー化する力をもっている。カテゴリー化では、外面の異なるものを同じ種類として扱う。赤いリンゴは青いリンゴと違って見えるかもしれないが、どちらもリンゴだし、私の母親は父親は似ていないが、とぢらも私の保護者で、いざというときには頼れる存在だ。適応行動には、体の感覚器官が受け取った情報を分析できる計算体系が必要で、情報から(1)まわりにあるものや場面の不変の性質と(2)そのものや場面が示している瞬間的な状況を把握しなければならない。レナード・メイヤーは、作曲家、演奏家、聴き手が音楽的な関係の基準となっているきまりごとを内面的に自分のものにし、その結果としてパターンの意味するものを理解して、形式のきまりごとからの逸脱がわかるようになるには、分類が絶対不可欠だとしている。

音楽が基本的な特徴からの変形や歪みにとても強いということだ。曲で使われているピッチを変え(移調)、そのうえテンポと楽器を変えてしまっても、まだ同じ曲だとわかる。音程、音階、さらに長調から短調へ、短調から長調へと調性まで変えることができる。さらに例えばブルーグラスからロックへ、クラシックへとアレンジを変えても、歌は同じままだ。これほど劇的な変化があっても、まだその曲だとわかる。それならば、私たちの脳にある記憶装置は、こうした変形を経ても曲を聞き分けられるようにする何らかの計算式や計算記述を導き出しているように思える。

私たちの音楽の記憶が、階層的にコード化されていることを示すものだ─すべての単語が等しく目立っているわけでも、曲のフレーズのすべての部分が等しい立場をもっているわけでもない。私たちが歌を途中から始められる場所や止められる場所は決まっていて、それは音楽のフレーズに対応している。これも、テープレコーダーとは違う点だ。この階層的なコード化という考え方は、ミュージシャンを対象にした実験によって、別の方法で確認されている。ほとんどのミュージシャンは、よく知っている曲を演奏するにあたって、途中のどこからでも始められるわけではない。ミュージシャンたちは曲を、階層的にフレーズ構造に従って覚えている。音符の集まりが練習の単位となり、小さい単位が集まってもっと大きい単位になり、それが集まってフレーズになり、さらにフレーズが集まってヴァースやコーラスや楽章になり、最後にはすべてが集まってひとつの曲になる。演奏家や歌手に、自然なフレーズの区切りの二、三個前や後の音符から始めるように言っても、普通は無理だろうし、楽譜を読むときでさえ同じことだ。別の実験では、ある音符が曲に出てくるかどうかをミュージシャンに思い出してもらうと、その音符がフレーズの先頭やダウンビートにあるときのほうが、フレーズの中間やウィークビートにあるときより、早く正確に思い出せることがわかった。音符も、その音符が曲にとって「重要な」音符かどうかに応じて、カテゴリーに振り分けられているようだ。素人が歌を歌うとき、曲のすべての音符を記憶しているわけではない。「重要な」音─音楽の訓練を受けなくても、どの音が重要かについては誰もが正確で直観的な感覚をもっている─と音調曲線だけを記憶している。そして歌う時点で、ひとつの音から別の音に進む必要があるのを知っていて、間の抜けている音は個々に覚えずに、その場で埋めていく。この方法によって記憶の負荷は大幅に減り、効率も高まる。

多痕跡記憶モデルは、私たちが曲を聴きながらメロディーの不変の特性だけを抜き出せるという事実を、どのように説明するだろうか?メロディーについて考えてみると、私たちは計算を行っていることは間違いないだろう。絶対値、表現の詳細─ピッチ、リズム、テンポ、音質などの細部─を登録しているほかに、私たちはメロディーの音程や、テンポを除いたリズム情報について、計算しているにちがいないのだ。マギル大学のロバート・ザトーアらの神経画像研究が、これを示唆している。側頭葉の背側(上部)─ちょうど両耳の上あたり─にあるメロディー「計算センター」が、音楽を聴いているときにピッチとピッチの間の音程の差と距離に注意を払い、移調した曲も分かるために必要となる、ピッチを取り除いたメロディーの値だけのテンプレートを作っているらしい。私が行った神経画像研究では、よく知っている曲によってこれらの領域と海馬の両方が活性化する。海馬は脳の中心深くにある構造で、記憶のコード化と取り出しに不可欠であることが知られている。こうしたさまざまな実験結果は、私たちがメロディーに含まれている抽象的な情報と固有の情報のどちらも蓄えていることを示している。これは、感覚に対するあらゆる種類の刺激に共通していると思われる。記憶は文脈も保存するので、多痕跡記憶モデルは、私たちがほとんど忘れかけていた古い記憶を呼び戻すことがあるのも説明できる。通りを歩いていたら、長く嗅いだことのなかった香りが漂ってきて、それがきっかけとなって遠い昔の出来事を思い出したことはないだろうか?または、ラジオから流れてきた古い歌を耳にした途端、心の奥深くに埋もれていた、その歌が流行ったころの思い出が、急に頭に浮かんできたことはないだろうか?こうした現象は、記憶というものの核心に迫るものだ。たいていの人は、アルバムやスクラップブックのように一連の記憶をもっている。友だちや家族に何度も話したエピソードや、苦しいとき、悲しいとき、落ち込んだとき自然に想い浮かぶ過去の経験は、自分が誰なのか、どこからやってきたのかを思い起こさせてくれる。これは自分の記憶のレパートリーで、ミュージシャンのレパートリーや演奏方法を知っている曲のように、何度も再生を繰り返している記憶だと考えることができる。多痕跡記憶モデルに従えば、すべての経験が潜在的に記憶の中でコード化されている。脳の特定の場所に保管されているわけではない。脳は倉庫のようなものではないからだ。記憶はニューロンのグループによってコード化され、それらが正しい値に設定されて一定の方法で構成されると、記憶が呼び戻されて、心の劇場で再生される。思い出したくても思い出せない壁があるのは、それが記憶に「保管」されていないからではない。問題は、該当する記憶にたどり着く正しい手かがリが見つからず、神経回路を適切に構成できないことにある。同じ記憶に何度もたどり着けば着くほど、思い出を呼び戻して回想する回路が活発になり、その記憶を呼び戻すために必要な手がかりを簡単に見つけられるようになる。理論的には、正しい手かがりさえあれば、どんな過去の経験でも思い出せるということだ。多痕跡記憶モデルでは、記憶の痕跡とともに文脈もコード化されていると見なすので、人生を歩みながらことあるごとに耳にしてきた音楽は、それを聞いたときの出来事と組み合わせて保存されている。だから、音楽はあるときの出来事に結びつき、それらの出来事は音楽に結びついている。

記憶は音楽を聴くという経験に、あまりにも深遠な影響を与えるため、記憶がなければ音楽はないと言っても過言ではない。たくさんの理論家や哲学者が言ったように、音楽の土台は繰り返しだ。音楽は、私たちが聞いたばかりの音を記憶に蓄え、それを耳から入ってきている音と関連づけることで、成り立っている。そうした音の集まり(フレーズ)が、変奏や移調という変化を伴って後からもう一度聞こえてくれば、記憶システムが喜ぶと同時に感情センターが刺激される。神経科学者たちはこの10年間で、記憶システムが感情システムにいかに密接にむすびついているかを明らかにしてきた。長いこと哺乳動物の感情の在り処と見なされてきた扁桃体は、海馬のすぐ隣にある。そしてその海馬は長いこと、記憶の呼び戻しではないにしても、記憶の保管に不可欠な構造だと見なされてきた。今では、扁桃体が記憶に関与していることがわかっており、とくに強烈な感情を伴う出来事や記憶によって強く活性化される。私の研究室で行ってきた神経画像の研究ではいつも、扁桃体は音楽に反応して活性化するのに、ただの音や音楽的な音を、でたらめに寄せ集めただけのものには反応しないという結果が出ている。大作曲家によって巧みに作り上げられた繰り返しが、私たちの脳を感情的に満足させ、音楽を聴くという経験をこんなに楽しいものにしているのだ。

2010年12月25日 (土)

あるIR担当者の雑感(13)~IRのニッチ戦略(3)

「0510.pdf」をダウンロード

昨日は、私の勤務先の会社がIR戦略として、ほかの会社と違うことをやろうとしていて、それは定性的情報、つまり、会社の業績の数字の理由やこれからどうするのかというような数字に表れない、通常文章で説明されるような情報の開示を充実させていこうというものでした。これだけでは抽象的すぎて、実際にどうなるのか想像がつかず、説明を読んでいても雲をつかむようでしょう。それで、ひとつの見本として、私の勤務先が今年の5月に発表した3月期末の決算短信の中から企業の中長期的な課題についての定性的情報を参考としてアップします(この記事の最後にダウンロードで見て下さい)。興味ある方は読んでみてください。未だ不十分な代物ですが、他の大多数の企業のものに比べれば分量だけでも、かなり多いものです。

ても、果たしてこのようなことは開示を受ける側である投資家の間では、「待ってました!」と歓迎されるようなことでしょうか。たとえば、企業分析の専門家であるアナリストから見れば、このようなIR戦略は余計なことかもしれません。また、個人投資家と呼ばれる人たちから見れば、決算短信などあまり見ないものであるし、そんなに文章を書かれても全部読むのも大変だし、そこまでのものは必要ないという人もいるでしょう。

今年度の電機や自動車等のメーカーの業績は来年の5月ごろに一斉に発表されますが、おそらく不景気だった昨年度を上回る売り上げや利益を計上するところが多いでしょう。その結果をもって株価が上下し、そこで短期的な売買の利鞘を稼ぐ投資家も多いと思います。これに対して長期的な投資をする人は、その結果が一時的なものなのか、これからの回復あるいは成長に向けての第一歩なのかは投資判断の重要な要素になると思います。しかし、それは財務諸表の数字からは容易には推し量ることはできません。このような場合、さっきの企業は数値を発表してくれるのでいいのだというアナリストも、自ら企業を取材で訪問するなり、電話でインタビューするなりして、情報を集めているのです。だから、こういう定性的情報のニーズがないとは言えないはずです。

そして、ここからは少し大風呂敷を広げますので、眉に唾をつけてきいてほしいのですが、IRというのはインベスター・リレイション、つまりは投資家と企業との関係、コミュニケイションです。建前をいえば企業がこのようなことをやろうとしているということを誠意をもって説明し、そのことを十分理解した上で投資家は責任をもって投資するというものでしょうか。そのような理解しあう関係を築いていくことがIRの目的のはずです。これは個人対個人場合もそうですが、お互いに胸襟をひらいて本心を明かしていかなければなりません。時には良いときもあるし、悪いときもある、その時、いいものはいい、悪いものは悪い、と言えるようでなければ、信頼関係は築けないでしょう。そのために、企業の側からまずは、ある程度胸襟を開いてみせることは大切なことではないか。だいだい、このような業績への企業自身の評価とかその原因をどのように企業が把握しているかというようなことを、突っ込んで明らかにしようとすれば、そこに必ず、ちょっとした矛盾とか説明のほころびが出てくるはずなのです。それは、大体の場合に企業が一番アッピールしたいことの周辺にあるものなのです。だから、そのようなほころびは、企業がある程度胸襟を開こうとすれば、出てこざるをえない。それは、アナリストやファンドマネジャーのようなプロからすれば、企業を深く知るための絶好の糸口となるはずです。だから、投資家の側では、このようなIR戦略は歓迎することはないかもしれませんが、ないよりはある方がいいと考えていいのではないでしょうか。それに、これまで、私はIRという仕事を通して、何人ものアナリストやファンドマネジャーと会ってきましたが、彼らの多くは、この仕事が好きで、それ以上に使命感のようなものを持っているという印象を持っています。それは、単に投資で成績を上げることは職業として当然のことですが、上で述べたような投資の建前のようなことを本気で信じている、つまり、投資ということを通じて企業を育てていきたい、ひいては日本の株式市場を盛り立てていきたい、もっと言えば日本経済を活性化させていきたい、ということを本気で思っている、言わば熱い!人々が多いということです。これは以前の雑感(2)で紹介したYさんもその典型的な一人と言えます。そういう人々に対して企業も本気でぶつかっていかなければいけない。これは、私の職業的良心(のつもり)です。

さらに、個人投資家のレベルで言うと。私は日本の個人投資家のレベルは、雑感(10)で紹介したホームページ充実度ランキングで評価項目であった個人投資家に親切かどうかというところで想定されていたレベルに比べて、もっと高いレベルにあるのではないかと思っています。はっきり言って、ホームページで想定されていた個人投資家というのは無知に近いもので、私には個人投資家を馬鹿にしているとしか思えない。私には、企業がIRについてそれなりの努力をすれば、それを評価できる個人投資家はけっこう多いのではないかと思うのです。そして、不遜に聞こえるかもしれませんが、この説明の連載の最初(1)で説明したターゲッティングにフィードバックすることになりますが、私の勤務先が戦略として積極的に説明しようとしていることについて、余計とか難しすぎて随いていけないというような人は、敢えて切って捨ててもいいのではないかと思うのです。長期的な投資という点から、おそらくそういう人は、たとえ株を買ってくれても、すぐに売ってしまうケースが多いのではないか。企業を理解してもらって、その上で判断して投資してくれる個人投資家は決して愚かではないはずで、しかもそういう人に大して、誠実に説明をしていけば、その企業のファンになってくれる可能性が高いのではないか。実は、そういう株主が企業にとっては一番歓迎したい人ではないかと思うのです。そういう人は、時には企業に対して苦言を呈することもあるだろうし、決して企業ベッタリではないかもしれませんが、それはその企業のファンだからこそ言ってくれるもの、という株主を増やしたいというのは、IR担当者としての私の理想でもあります。

もしかしたら、この連載をIRの仕事に従事している人が読んでいるかもしれません。いろいろご意見もあるかと思いますが、多分、実務で様々な困難に直面している立場からいえば、そんなことできるのか?という疑問も出てくると思います。それについては、今日も長くなりましたので、明日、また、続きということで。

ダニエル・J・レヴィンティン「音楽好きな脳 人はなぜ音楽に夢中になるのか」(3)

音楽は組織化された音響だと書いたが、その組織には、予想を裏切る要素が何か含まれていなければならない。そうでなければ感情表現が単調で、機械的になってしまう。私たちが音楽を味わえるのは、好きな音楽の基本となる構成(話し言葉や手話の文法に相当するもの)を学ぶ力と、次の展開を予想できる力を実っていることに深く関係している。作曲家は聴き手の期待を知り、その期待をいつ満たすか、いつ裏切るかを意図的にコントロールすることによって、音楽に感情を吹き込む。音楽を聴いたワクワク感、ゾクゾクする気持ち、思わず溢れる涙は、腕のいい作曲家とその曲を解釈する演奏家によって私たちの期待が巧みに操られた結果だ。音楽のこうした特性は、脳の中にそのまま表現されているわけではない。少なくとも、音楽を処理する最初の段階では、表現されていない、脳はひとつにはそこに何があるかに基づいて、またひとつには、学習した音楽体系の中で耳に届いた音が果たす役割を考えながらどう解釈するかに基づいて、独自のバージョンの現実を作り上げている。会話を解釈する場合と同じだ。「猫」という言葉に猫らしさはまったくないし、その言葉を作り上げている文字のどこにも、猫らしさはない。私たちはただ、この音の集まりがネコ科のペットと表わすと学習したにすぎない。同様に、私たちは一連の音がひとまとまりになることを学習し、それがいつもまとまっていると予測する。一定のピッチ、リズム、音質などが過去にどれだけの頻度でまとまっていたかを脳が統計分析し、その結果に基づいて、どんなふうにまとまって登場するかを期待する。外界とまったく同じ構造の表現が脳の中の記憶にあるという、直観的に信じてしまいそうな考え方を、ここではすっかり捨てなければならない。脳はある程度まで、知覚による歪みや錯覚を記憶し、各要素間の関係を引き出している。そして私たちのために、複雑さと美しさがいっぱいの現実を計算している。そのような考え方の基本的な証拠として、現実の光線は一次元(波長)で変化しているのに、人の知覚システムは色を二次元として扱っているという単純な事実がある。ピッチでも同じことだ。異なる速さで振動する分子の一次元の連続体から、私たちの脳は(学習した内容に応じて)三次元、四次元、あるいは五次元と、豊かな多次元ピッチ空間を生み出す。現実世界にあるものに、脳がこれだけ多くの次元を追加しているなら、正しい組み立てと巧みな結びつきをもつ響きに対して、私たちが抱く深い思いにも説明がつくだろう。

私たちは音楽のスキーマをもっている。それらは母親の胎内にいるときに生まれ、音楽を聴くたびに練り上げられたり、修正されたり、さまざまな情報を受け取ったりする。西欧音楽のスキーマには、一般に使用されている音階の知識が暗黙のうちに含まれている。たとえばインドやパキスタンの音楽を初めて聞くと耳慣れない感じがしてしまうのは、そのためだ。インドやパキスタンの人たちは耳慣れないとは感じないし、赤ちゃんもそう感じない(少なくとも、どの音楽でも耳慣れない感じは同じ程度だろう)。明らかに、自分が音楽として学習してきたものと矛盾しているから、耳慣れないわけだ。赤ちゃんは五歳になるまで、それぞれの文化的コード進行を認識できるようになる─この間にスキーマを作り出す。私たちは音楽の特定のジャンルやスタイルについて、スキーマを発達させて行く。スタイルとは、「反復」の別名ともいえる。私たちは以前耳にしたことがある何かを聴けば分かるし、同じ曲で聴いたことがあるのか、それとも違う曲で聴いたことがあるのかも区別がつく。音楽を聴くには、耳に届いたばかりの音符の知識を記憶に止める力と同時に、聴いている曲のスタイルに近い、よく知っているほかのあらゆる局の知識を記憶している力ももっていなければならない。後者の記憶は、耳に届いたばかりの音符ほど正確で鮮明でなくてもいいが、聞いている音符の文脈を確立するために必要なものだ。私たちが発達される主なスキーマは、ジャンルとスタイルの表現形式のほか、時代、リズム、コード進行、フレーズ構成(ひとつのフレーズが何小節からなるか)、曲の長さ、どの音符の後には普通どの音符が続くか、といったものが含まれる。

ここまでのところで、音楽を処理する神経構造についての図式をまとめてみよう。あらゆる音は鼓膜から始まる。するとすぐに、音はピッチごとに分解される。まもなく、言葉と音楽とは別々の処理回路に枝分かれするのだろう。会話の回路は個々の音素(文字と音声の体系を構成している子音と母音)を識別できるように信号を分解する。音楽の回路は、信号を分解し、ピッチ、音質、音調曲線、リズムを個別に分析し始める。これらの仕事を実行しているニューロンからのアウトプットが前頭葉にある領域に送られると、その領域はそれら全部をひとまとめにして、全体の時間的パターンに応じた構造や秩序があるかどうかを見つけ出そうとする。前頭葉は海馬や側頭葉の内部にある領域にアクセスして、この信号を理解するのに役立つ記憶があるかどうかを問い合わせる。

あるIR担当者の雑感(12)~IRのニッチ戦略(2)

昨日は、ターゲッティングのところまででした。これから、それでは対象を絞ってどうするのかということを、お話したいと思います。前回のおさらいですが、私の勤務先で対象として絞り込んだのは、長期的な成長に対して投資をしようとする投資家の人たちということでした。では、このような人たちはどのような情報を主に欲していると考えられるでしょうか。IRの情報開示ですから決算数値などは必要最低限の情報は開示しなければなりません。しかし、このようなターゲットの人たちに、その時々の細かな数字は果たして求められているのか。むしろ、長期的な企業の将来性を見るために有効な情報の方をより欲するのではないでしょうか。もちろん決算数値は大切です。これをベースにして企業は成長していくわけですから。しかし、単に決算数値を開示するのではなくて、成長のベースとしての視点で情報を発信していく、ということにすれば決算発表についても、ターゲットのニーズにより応えられるはずです。ではどうするかというと、数値という定量的情報は大切ですが、その数値が結果としてそうなった原因や状況についての情報、つまり、決算短信で言えば財務諸表の前に文章で事業概況が説明されているところ、これは決算短信では定性的情報といいます、これをより充実させて行くということです。これは、そんな大層に言われることまでもなく、当然ことと思われる方も多いと思いますが、実際の決算短信や有価証券報告書を見てみると、力を入れている会社は意外と少ないのです。力を入れている、いない以前に、仕方なくやっているというのか、まるでやる気のないような会社もけっこう多いので、私には驚きであるのです。ここはまた、財務諸表のような定量的情報と違って文章の情報なので、書こうと思えばいくらでも書ける、情報を盛り込もうと思えばいくらでもできるという性格のものです。ここを、他の会社の会社とは格段に違うものにしていこうとすることで、差別化を図るというものです。ただし、ここで誤解して欲しくないのですが、それ以外の情報発信をおざなりにするということではないのです。ターゲットはターゲットですが、それは企業としてやらなければならないことはキチンとやって、さらにそのプラスアルファをしようとするときの話です。だから、決してターゲット以外の人々を無視するということではありません。

なんだ、そんなことかと思われるかもしれません。そんなことが有効ということなら、他の会社だって簡単に手をつけるだろう、と思われるかもしれません。しかし、そうでしょうか。前段で書いたように多くの企業がおざなりで済ませているのに理由がないわけではないのです。定量的情報、つまり決算数値は決められた通りに計算すれば、ある程度のものは出せるものです。これに対して、定性的情報、つまり、決算結果が出てきたのはどうしてか、ということをまとまって文章にする、しかも、踏み込んで書いていくということは、企業がその事業年度にどのようなことをやってきたかということ、そしてそれに関して結果がどうで、そうなった原因は何かということに触れることになるはずです。(私が思うに、このようなことこそ、私の勤務先がターゲットとして考える人たちが欲しいと思う情報です。)でも、実質的に、これは企業の経営の基本戦略とその結果に対する経営自身の評価でもあるわけです。大企業の場合、たとえば、前回の雑感で取り上げた東芝のような幅広く事業展開している企業では、幾多の事業を把握しそれに企業全体の動きを考えて個々の事業の企業全体の中でのウェイトを考えながら、戦略とその結果の評価をまとめていくということは、おそらく経営陣の中でも全体を統括する立場の人々、端的に言うと社長の行うことではないでしょうか。このブログで拙劣ながら翻訳で紹介したバークシャ・ハサウェイという米国の企業はCEOであるウォーレン・バフェット自身がペンを取って執筆しています。それだけ、大変なことで、大きな責任を伴うことだと思います。これに対して、日本の企業では社長自ら語るところはあるでしょうか。たぶん、現在のところはないのではないかと思います。では、日本の企業はどうしているのか。だいたいは、経理、経営企画あるいは広報担当の従業員もしくは責任者あたりが作成しているのではないかと思います。そのような人々が、どれだけ事業の実態や経営の戦略について社長の立場で理解し、責任をもって表現することができるでしょうか。おそらく、各事業からレポートを出させたり、各事業の代表を集めての会議を開いて文章を作成したり、するようなことになるのではないでしょうか。そのような場合、結果はある程度見えてきます。それは、現在の決算短信の文章やホームページのような可もなく不可もないものではないでしょうか。

そのような突っ込んだ定性的情報で説明することについての困難さを認識しているなら、どのようにして、敢えて定性的情報で他の会社より突出しようなどと考えるのは、どのようにして行うつもりなのか、と思われることでしょう。それは規模の小さい企業ならではの有利さを生かすことによって、ある程度はやっていけるのです。私の勤め先では、実際には、私と私の後を引き継ぐことになる若い社員で作成しているのですが、規模の小さい企業では事業全体を見ようとすることは大企業に比べれば遥かに容易です。そして、私の勤め先の大きな特徴かもしれませんが、全体として中小企業では社長との距離が大企業に比べて遥かに近い。おそらく大企業では、この件について社長と打ち合わせは1回か2回、はなはだしい場合には、そのようなことは全く行わないこともあるでしょう。そのようなやり方でも社長の考えを肌で知るということは不可能に近い。これに対して、私の勤務先のような中小企業では、社長と話すのは日常茶飯事、それこそ一日に何回も接しているし、与太話も経営に関して真剣な議論もしているわけです。後は、担当者の熱意と覚悟さえあれば、ある程度のことは可能になると思われるのです。しかも、IR担当者は日ごろの活動でアナリストやファンドマネジャーと話をする機会が多いため、投資家といわれる人々がどのような見方をするか、どのように情報を欲するかということを、ある程度想像することができます。そこで、そのような視点も交えて定性的情報を作成していくことができるのではないかと考えています。そして、これは経験の積み重ねの比重が高い、つまり、やろうと思っても一朝一夕でできることではないものです。

これは、何も決算短信に限ったことではなく、決算説明会の資料にも言えることです。それが雑感(9)でも書いた説明会資料に解説をつける必要のないものにする、ということにも通じるのです。

でも、このようなことで果たして効果が見込めるのでしょうか。これは担当者しての私の個人的な自己満足なのではないでしょうか。これは昨日の最後で、このようなことに違和感を感じられる投資家の側の人への回答ということも含めて説明したいと思っていたのですが、長くなってしまいました。今日はこのへんで、この後は明日に続きます。

2010年12月24日 (金)

ダニエル・J・レヴィンティン「音楽好きな脳 人はなぜ音楽に夢中になるのか」(2)

認知科学者にとって「心」とは、私たちひとりひとりの一部で、それぞれの思考、希望、願望、記憶、信念、経験を具現するものを言います。それに対して「脳」は頭の中にあって、細胞と水、化学物質と血管が集まってできた体の器官です。脳内で起こる活動が心の中身を生み出すと考えます。彼らはときに脳をコンピュータのCPU、つまりハードウェアに譬え、基本的に同じハードウェアでも異なるプログラムを実行できる(だから、とてもよく似た脳からまったく異なる心が生まれる)のです。長年にわたる神経心理学の調査から、ハードウェアとしての脳の各部位の機能を示す地図を作れるようになり、個々の認知活動に関わっている場所を突き止められるようになってきました。このようなことから、脳の捉え方として、脳を計算システムになぞらえて、一種のコンピュータだと考える。そしてつながり合ったニューロンのネットワークは、情報の計算を実行するとともに、その計算結果を思考、決意、認識、そして最終的には意識というものにつながる方法に組み合わせていく。さらに認知の異なる側面を、それぞれ異なるサブシステムが受け持っている、というものです。音楽的な活動には、すでに知られている脳のほとんどの領域、ほとんどの神経のサブシステムが総動員されることになります。音楽の異なる側面には、異なる神経領域が対応します─脳は機能分離の方法を用いて音楽を処理し、音楽信号のピット、テンポ、音質などの個々の側面を専門に分析する特徴検知システムを採用していると言えます。平均的な脳は1000億のニューロンで構成されていると言われています。こり膨大な数のニューロンが様々な組み合せでつながっています。脳の処理能力は、このような相互接続の膨大な可能性ばかりでなく、脳が逐次処理ではなく並列処理を行うためでもあります。

ここで、一般には、脳の中では周りに見える世界とまったく同じ形の世界が表現されていると直感的に信じられていると思われますが、少なくともアリストテレスの時代から、人間の感覚は世界を歪めてとらえることがあるのは知られていました。それは進化の上での適応だった考えるのが妥当でしょう。私たちが見たり聞いたりするものからは、一部の情報が欠けているものが多い。狩猟採集生活をしていた祖先は、木の陰に一部が隠れたトラの姿を見たり、近くにある木の葉のざわめきでかき消されそうなライオンの唸り声を聞いたりしたに違いありません。音や光景は、身のまわりの別のもので曖昧にされた、部分的な情報として耳や目に届くため、かけた情報を復元できる知覚システムがあれば危うい状況でもすばやい決断に役立ちます。聴覚系も独自の知覚的補完機能を備えています。音楽を聞く場合には、このような知覚補完的機能、特徴抽出のプロセスに続いて特徴統合というプロセスを別に用いているようです。脳はまず、音楽から基本的な低レベルの特徴を抽出します。それには専門の神経ネットワークを使い、信号をピッチ、音質、空間的位置、大きさ、反響の環境、長さ、異なる音符の開始時間という情報に分解する。こうした活動は、これらの値を計算するいくつもの神経回路によって同時進行する。それらの神経回路はだいたい互いに独立して活動できるので、ピッチを判断する回路は、長さを判断する回路の仕事が終わるまで待つ必要はない。このように、刺激に含まれている情報だけを神経回路が考慮する処理を、ボトムアップ型の処理と呼ぶ。この間、これと並行して脳のもっと高いレベルの中枢は、それまでに抽出されたものに関する情報の流れを絶えず受け取っている。この情報は常に更新され、古い情報が書き換えられていくのが普通だ。さらに高度な思考の中枢(ほとんどが前頭皮質にある)はこれらの更新情報を受け取りながら、次のようないくつかの要素を用いて、音楽がどんなふうに展開していくかを懸命に予想する。

~聴いている曲の、それまでの内容

~よく知っている曲なら、次にどう展開するかの記憶

~よく知っているジャンルや礼式なら、以前に聴いた同じ形式の音楽に基づく、次にどう展開するかの予想

~そのほかに与えられた情報、たとえば本書でせつめいしてきた音楽の概要、演奏者の急な動き、隣人の合図など

こうした前頭葉での計算はトップダウン型の処理と呼ばれ、ボトムアップ型の計算を実行している低レベルのモジュールに影響を与えることができる。トップダウン型の処理で生じた期待は、ボトムアップ型の処理機構にある回路の一部をリセットして、誤解を生じさせることがある。これが知覚的補完などの錯覚が起こる神経面から見た原因のひとつだと思います。また、トップダウン型の処理とボトムアップ型の処理は、処理をしながら情報を交換する。特徴を個々に分析する一方で、脳のより高度な部分(系統発生的に新しく、低レベルの脳領域から連絡を受け取る部分)はそれらの特徴をまとめ知覚の全体像を作り上げている。その過程で情報が不足したり、曖昧だったりすることがあるので、脳はさまざまな推定を行う。そしてときにはその推定が誤っていて、視覚や聴覚の錯覚を生み出す。

音楽における究極の錯覚と言えば、構成と形式の錯覚だろう。音符の順序そのものには、私たちが音楽から感じる豊かな感情のつながりを生み出すものは何もない。音階にも和音にも、本能的に解決を期待してしまう和音の進行にも、それはない。私たちが音楽を理解できるのは経験のたまもので、新しい曲を聴くたびに、それを覚えて変化できる神経構造があるからだ。脳は、子どもが自分の文化の言葉を話すことを学んでいくように、それぞれの文化の音楽に特有の音楽の文法のようなものを学んでいく。人はみな世界中のどの音楽でも学べる能力をもって生まれる。人間の脳では誕生前後から急速な神経の発達が始まり、幼児の間はそれがずっと続く。この期間には人生のどの時期よりも急速に、新しい神経のつながりが生み出されていくが、小児期中期になるとそれらのつながりを刈り込んで整理する作業が始まり、最も大切な、最もよく使われるものだけが残っていく。こうしてできあがった神経のつながりが、音楽を理解できる私たちの基礎となり、最終的にはどんな音楽が好きか、どんな音楽に感動するか、どんなふうに心を動かされるかを決めていくことになる。大人になってからは新しい音楽を楽しめるようにならないと言っているのではない。幼い時期に音楽を耳にすることによって、基本的な構成要素が、脳の配線そのものに組み込まれていくのだ。つまり音楽は一種の錯覚で、私たちの脳が、一連の音に構成と順序を当てはめていると考えることができる。

あるIR担当者の雑感(11)~IRのニッチ戦略(1)

このところ、雑感(9)でも雑感(10)でも取り上げた題材は別ですが、同じようなことを言っているので、そのあたりをここで整理しておきたいと思います。

私の勤め先のような新興市場に上場していて、会社の規模としては中小企業で、時価総額も大きくなくて、B to Bのメーカーというユーザーや業態の性格から着実な成長を目指しているような、言うならば投資対象としては地味な企業の場合、有名な大企業や先端的で爆発的な成長が見込まれるような企業と違って、投資家の目に触れる機会が少なくなってしまいます。そのため、このようなある程度受け身の姿勢でも、投資家が見にきてくれるような有名企業と同じことをやっていても、知名度のない私の勤め先のような企業には見に来てもらえません。そこで、当然、そのような企業とは違うやり方でIRをやっていくという選択肢が出てきます。ここで、当然と言ったのは、経営戦略が同じような中小のメーカーが大企業と同じような製品で競争関係に立った場合、規模で優位な大企業と同じ土俵で勝負するよりは、競合する大企業がやらないところで特色を出して生き残る、あるいは差別化により競争していくことを選択するはずということからです。それぞれの企業が、その企業の実情に合わせて、それぞれに経営戦略をとっているようにIRについては、その企業に沿った戦略があるはずではないか、というのが私の基本的な考え方です。だから、以前に書いた()(10)のところで単一のものさしでIRを考えることについては、違和感を持ったわけです。しかし、事業戦略とこのようなIR戦略には大きな違いがあります。それは、企業の事業では商品というものが各企業では違うのである程度市場が区分されていますが、IRというのは、それこそ企業自身が商品となるので全企業が同一の市場で戦わなくてはならないことです。だからこそ、どのように戦うのかという戦略が経営戦略以上に大切になる、と私は思っています。

では、私はどうしようとしているのか。以前、このブログに読書メモを投稿した事業戦略の著作の中でも、対象を絞り込むことの大切さを説いていました。(例えば「ストーリーとしての競争戦略」)もっと言えば、敢えて切り捨てることの大切さでしょうか。これは、IRの原則であるフェア・ディスロージャつまり、情報を公平に出していくことに反するように見えます。前段でいったように株式市場は全企業が、企業自身を買ってもらう(投資してもらう)ための競争をしているのですから。ここでターゲットを絞り、極端な場合切り捨ても辞さないということは、企業の側から投資家に向かって、「あなたはターゲットではないから、この会社の株式は買わなくてもいい」というようなことはできません。私は、そんなことを言っているのではありません。しかし、株式を買う人(投資家)には様々な人がいます。また投資をする動機も様々です。その中で、私の勤め先の実情と比較的シンクロしやすい投資の動機を持つ人たちに向け重心を絞った企業のアッピールをしていこうという考えているわけです。情報はすべての投資家に向けて発信するけれど、重点を絞ったターゲットによりアッピールするような発信のやり方を考えていくというものです。そこで、ターゲッティングです。前段で紹介した私の勤務先の性格からすると、短期的に株価がどんどん上がっていくことは期待できないので、短期的なキャピタルゲインを稼ごうとする投資家の投資の対象とはなりにくい。また、市場での毎日の株式の取引出来高が少ない、つまり流動性に難があるため、たとえ小額でも短期的に大量の売買をすることによって売買利益を出していくような投資対象にはならない。ということは、中長期的な投資を考える人をターゲットとせざるを得ないということです。私の勤務先は堅実な経営をしているので、短期的な投資には面白みがないということは確かです。しかし、安定性というから見ると、株式投資のポートフォリオ、つまり、株式投資をする際に一社の株式だけを買うのではなくて、数社の株式をまとめて買って、その中で一発当てるようなリスクが高いが当たると大きい株や万が一に備えて安定的に利益を得られるような株式を組み合わせて買う方法です、そのポートフォリオの中に安定的な株式として私の勤め先の株を混ぜてもらう。あるいは、長く保有してもらって配当を安定的に受け取ることを考える。あるいは、長く株式持っていて、長期的な企業の成長を見越して投資をするような投資家の人。その他を対象として優先的に考えてみる、ということになります。でも、この程度のことなら、どの会社も内心では考えていることではないかと思います。ただ、多くの場合は、そう考えていても、「そうなればいいな」程度で、企業から積極的にそのようにターゲットを絞って動くことをしようとしないのが、ここで私の考えているところと異なってくると思います。ターゲッティングのところで、あまりこだわっていると先が続かなくなるので、では、実際にどうするのかを考えて見ます。しかし、ターゲッティングについては、この先でも、折々にフィードバックされるので、その都度、検討を加えることになると思います。ここは、ひとつの節目で、一日の投稿としてはながくなりそうなので、続きは明日ということにします。

終わるまでに、一言追加です。このようなことを企業の側で勝手にやっていいのかと、もしかしたら、投資家の側から見れば顰蹙を買うかもしれません。そのような場合には、ごめんなさいと言う他ありません。できれば、ここは少し我慢していただいて、次回の投稿を読んでいただいて、決して、投資家に不利なことにはならないように考えていることを理解していただきたいと思います。

2010年12月23日 (木)

ダニエル・J・レヴィンティン「音楽好きな脳 人はなぜ音楽に夢中になるのか」(1)

Leviin 著者は、ミュージシャンとして活動や音楽プロデューサーとしての活動の後、大学に入り直して研究生活に入った人。その主な関心は“私はだんだん、一生芽が出ないミュージシャンもいるのに、一部のミュージシャンはなぜあんなに人気が出るのだろうかと疑問に思い始めた。それに、作曲などできない人もいれば、いとも簡単に曲を作れる人がいることも不思議だった。創造力というものは、たったいどこからやって来るのだろうか?心を動かされる歌があるのに、何も感じない歌もあるのはなぜだろうか?そのすべてにおいて、音を聞き分ける「知覚」の役割は何だろう?ほとんどの人には聞こえないニュアンスが聞こえる、有能なミュージシャンやエンジニアたちの並外れた能力は、いったいどうなっているのだろうか?”それで、筆者は神経心理学を学び始める。その後、同じ関心を持ちつづけ心理学と神経学を交わったところにある認知神経科学の視点から、音楽の科学について本書を書いているという。

といっても、学術的な研究論文の体裁をとらずに、一般読者向けに音楽を巡る探究物語のような書き方をしている。著述の性格上、どうしても脳科学的な専門用語が出てきてしまうが、私は一切無視して、脳科学的な探究をする際の構成が、音楽を認知するときのストーリーに即した形になっているので、そっちに興味を持って読んだ。ここで、この本の魅力の一つになっているのが、著者が音楽を単なる研究対象の死体(生き生きとした楽しみを失った形骸)として扱っていないこと。音楽を楽しむことを失わずにいることが、著述からも分かる。それは、音楽に関する記述が、具体的であること。研究のよる探究の説明も、個々の音楽を譬えにして、実際に音楽が聞こえてくるように書こうとしている姿勢がこの本の魅力といっていい。

まず、筆者は音楽の用語(パーツ)の解明から始めます。

     ピッチ(音の高低)

     リズム

     音調曲線

     音質

     音の大きさ

     反響

     拍子

     調(キー)

     メロディー

     ハーモニー

音楽の主な要素の説明をした後で、しかし、現実の音楽の作曲や演奏では、これらの要素を切り離して考えることはせずに、相互の関係で考えます。このような要素の間の関係を研究するアプローチとして先駆的な役目を果たしたのがゲシュタルト心理学だと言います。ゲシュタルト心理学者たちが問題としたのは、特定のピッチの集まりであるメロディーは、ピッチ全体が上がったり下がったりしたとき、どのように同じメロディーのまま認識されるのかという点でした。これについては満足のいく理論的説明を加えることはできず、最終的には細部に対して形態が、部分に対して全体が、勝利しているということでした。一定のピッチの集まりを使ってメロディーを演奏するとき、ピッチの間の関係が同じなら、どれも同じメロディーになる。別の楽器で演奏してみても、やはり同じメロディーです。半分の速さにしてみても、こうした変化をいっぺんに加えてみても、聴く人はまったく問題なく元の曲がわかる。ゲシュタルト心理学は、この答えを導くことはできなかったものの、「ゲシュタルト群化原理」と呼ばれる原則を見出しました。もともと、視覚の世界においてたくさん木々の集まりを森として見るように、オーケストラの演奏で、トランペット一本の音だけを聞き分ける人はほとんどいません.同じ楽器の響きはひとつの群を構成しているし、オーケストラ全体で一つの群を構成することもありえます。人の聴覚系は、音の群化に倍音列を利用していると考えられます。個々の楽器から生まれた様々に異なる響きが、ひとつの楽器の知覚に結びつく。例えば、私たちにはオーボエやトランペットから出ている個々の倍音が聞こえるわけではなく、オーボエの音色、トランペットの音色として聞こえてきます。人間の脳は耳に届くいくつもの異なる振動数を分析し、きちんと正しいやり方で組み立てることができるわけです。浮遊するいくつもの倍音という印象を受けるのではないし、合成されたひとつの楽器の音に聞こえてしまうわけでもなく、脳はオーボエとトランペットに別々の心像を確立しており、両方がいっしょに演奏されている心像ももっています。それが音楽を聴いたときに音質の組み合せを認識する基礎となります。これらはそれぞれの楽器からの異なる基本振動数から異なる倍音の集まりが生まれるので、脳はコンピュータのような計算処理によって、何と何が組み合わさるかを判断します。このように音の属性に対応する神経生物学的サブシステムは、早い時期に、脳の低いレベルで分離することが判明しています。しかし、属性ははある一定の方向で結びつくと協調することも反発することもあるのは明らかな上、経験と注目が群化に影響を及ぼすこともわかっているので、群化のプロセスの一部は意識的な認知制御の下で行われていることになります。

2010年12月22日 (水)

デイビッド・ウェッセル「バーナンキは正しかったか? FRBの真相」

Barnank 本書の底流には、後出しジャンケンの優位さで結果をしたり顔で評価するのはフェアではない。バーナンキや周囲の人々が切羽詰った状況で様々な判断をしていったことについて、その時にどのような選択肢が可能でどうしてある選択肢を判断せざるを得なかったのか、その中で、バーナンキがどのような努力をしようとしたかを見ようという意図が感じられます。そこでは、グレートパニックという未曾有の金融状況の混乱の中で、前任者であるグリーンスパンの政策を改めることにもなったでしょう。筆者はこう書きます。“本書はバーナンキのFRBが「実行する必要のあることを実行する」ために「破綻したパラダイム」を捨てた物語だ。FRBが何に気づき何を見落としたか、何をして何をしなかったか、何を正しくやり何をやりそこなったかという物語だ。ベン・バーナンキが必要なことは何でもやろうと決意した物語だ。とりわけ、大恐慌以来、最悪の脅威からアメリカ経済を守る立場にいた少数の人々、押しつぶされそうになり、疲労困憊し、泣きつかれ、攻め立てられて、後知恵で批判され続けた人々の物語である。”

グレートパニックは、その名の通り金融機関や市場関係者を心理的なパニック状態に陥れ、通常なら常識的な歯止めがかかるものがまるで行き場を無くしたレミングの群れのように破滅に向かって突っ込んでいくような状況を招きました。バーナンキはゆっくりと考える時間の余裕のない状態で、つまり、事態の進展が速過ぎて、それどころではなかった、従来の処方が効かない状況に直面し、何らかの処置を施していかなければならなかったわけです。FRB理事会は一枚岩でなく、バーナンキに異議を唱える者もいて、パニック時に迅速な対応を取れませんでした。しかも、パニックを引き起こした原因のひとつである金融商品について適正な価値という実態を把握できていなかった。バーナンキが危機にようやく気がついたのはベアー・スターンズの件の直前と言っていい頃だったようです。

ベアー・スターンズを機にFRBは大きく変わりました。つまり“ベアー・スターンズ前には、FRBは中央銀行が何世代もやってきたことを従来どおりにやっていた。自力で迅速に資金を集められない健全な商業銀行に、数日間、ときには数週間、資金を貸し出していたのである。1987年の株式市場の暴落後も2001年のテロ事件後も、FRBは積極的に貸し出した。だが、その相手は銀行に限られていた。1998年に大手ヘッジファンド、ロング・ターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)が破綻しかれたときは、FRBは一銭も融資せず、大手金融機関に奉加帳方式で資金を出させて救済させた。2008年3月、その神聖な原則が破られた。FRBが自身の獲得している銀行に対してではなく、借金の比率や運営の仕方に関してFRBのルールに従うことを義務づけられていなかった証券会社のベアー・スターンズに対して、何十億ドルも融資したのである。しかも、されはベアー・スターンズに限定された措置ではなかった。他の証券会社や投資銀行もFRBの資金を利用できると、FRBは宣言したのである。”FRBが規制の外にいる金融機関に融資したことは、やがてアメリカの金融規制体制の長く先送りされていた変革を余儀なくさせるものでした。FRBは、われわれが監督しているのは銀行だけで、影の銀行システムは別の規制機関の担当だとは、もう主張できなくなりました。ベアー・スターンズへの融資は確実に前例とみなされるのでFRBはすべての投資銀行の帳簿を検査しなければならなくなるわけです。この時、ベアー・スターンズは大きすぎてつぶせなかったのではなく、つながりが複雑すぎて潰せなかったと言います。これが新しい基準となりました。ベアー・スターンズは5000社の企業に対して未決済取引を抱えており、75万件のデリバティブ契約の当事者であり、この会社が倒産した場合には、多くの企業が連鎖倒産してしまう、大恐慌のはじまりのおそれがありました。この法的根拠は1932年連邦準備法の漠然とした文言「異常かつ緊急な状態」の基づく措置でした。「異常かつ緊急な状態」が、必要なことは何でもやるための法的根拠となりました。しかし、この融資でも、ベアー・スターンズを持ち堪えさせることはできず、J・P・モルガン・チェースに買収させることでようやく収束を見ます。この前後の事情、ファニーメイとフレディーマックの処置、そしてリーマン・ブラザースの件についてFRBと周辺の動きを本書は丹念に追います。そこで見えてくるのは、FRBが従来にない大胆な施策を苦労して着手しても、事態はそれを超えて進展してしまう状況でした。この後の、AIGの国有化や金融安定化法案の可決、金融機関に対する資本注入などの経緯が丹念に語られます。

これらの結果に対して、著者は現時点において、次のように語ります。“歴史は厳しい審判だ。FRBの高官や彼らに好意的な学者は、正当ではあるが狭く限定した問の立て方をする。たとえば、彼らがその時点で持っていた情報と権限を考慮に入れると、バーナンキと彼の銃士たちはどの程度優れた仕事をしたか、というように。だが、他のほとんどの人にとって、重要なのは意図ではなく結果である。当初の足踏みはあったものの、ベン・バーナンキと彼のチームはグレートパニックを撃退するためにできることはすべてやったと、確かな根拠を踏まえて評される日がいつか来るかもしれない。だが、最終的な結果が何年ものきわめて鈍い経済成長と失業の蔓延なら、多くのアメリカ人が彼らは失敗したと判断するだろう。努力に対してAの評価を得るだけでは足りないのだ。ポールソンは退任から数ヵ月後に、いみじくもこう語った。「われわれは金融システムの崩壊を防ぐことに成功したが、人びとはわれわれに景気後退を防がなかったことに不満を持った。起きなかったことについて賞賛を得るのは難しいものだ」。FRBはできるかぎりのことをやったと言われても差し押さえで自宅を失った家族にとって何の慰めにもならない。倒産に追いやられた実業家にとっても、老後の蓄えが安和と消えた65歳の人にとっても、資金難の銀行に門前払いにされた借入希望者にとっても、就職先が見つからない新卒者にとっても同じである。これらの犠牲者にとって、また他のすべての人にとって、グレートパニックに対するFRBの対応についての最後の審判は、2010年と2011年、およびそれ以降のアメリカ経済の状態を待たねばならない。”

“大学の先生たちは「もし~だったら、どうなるか」とう遊びに「反事実的仮定」という重みのありそうな名前を与えている。これはついやってみたくなる遊びである。バーナンキが2007年8月にグレートパニックを撃退するためにもっとすばやく行動していたら、どうなっていただろう?ベアー・スターンズが触媒となって、大手金融機関の破綻に対処するための法律があの時点でつくられていたら、どうなっていただろう?銀行の資本強化のための追加資金を議会がもっと早く承認していたら?当初の銀行救済プランがもっときちんと検討されていて、それがもっと一貫性のある形で実行され、説明されていたら?…事態はもっとましになっていたのではあるまいか。だが、確かなことは誰にもわからない。だが、「もし~だったら」という遊びにはもう一つの面がある。ベン・バーナンキが大恐慌の研究を行っていなかったとしたら、どうなっていただろう?第二の大恐慌を防ぐために必要なことは何でもやろうと、彼が腹をくくっていなかったとしたら、どうなっていただろう?FRB内部の反対に彼がひるんだり従ったりしていたら、どうなっていただろう?これらの問いは前に掲げた問いより答えやすい。景気は今よりもっと悪くなっていただろうし、この本はFRBがどれほど取り乱し、どれほど対応が遅れたかを物語るものになっていただろう。”

2010年12月21日 (火)

小田内 隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」(8)

異端審問において注目すべきことは、告白という手続を実践したことである。異端審問の網にかかった者は執拗に告白の言葉、彼についての真実の知を求められた。その最終的な目的は、告白と言う手続きによって隠された異端の罪を言説化する、つまり自白することであり、そのためにあらゆる強制手段が動員された。筆者は言います。“M・フーコーが言うように、告白制度は人々に自己に関する真理(罪・欲望・性など)を語るように義務づけ、それによって自らのアンデンティティを神に対して明らかにすることを求める。それは権力による個人の形成であった。年に一回は信徒を「呼び出し」、告解手引書に規定された質問にしたがって告白と悔悛を要求し、彼を「キリスト教主体」に形作る。このようにして告白は信徒の内部に教会が提示する真理に対して「服従する意志」を創り出す.信徒は自己の罪や欲望について語ることによって、そうした告白を導く支配関係を内面化する。いうまでもなく教会の悔悛の秘蹟では信徒は「自発的に」告白することを求められた。一見したところ逆説的であるが、異端審問における告白は監禁や拷問の使用が許される強制的な性格が露骨であるにもかかわらず、最終的にはその真理性は告白の自発性によって保障されると考えられた。密室で余儀なくされた告白は、そのあとに被告によって「自分の」ものとして認められなければならなかった。”このように異端審問で告白が偏執的なまでに求められた事実は、ある意味で異端の本質に関わるものであった。異端は神や教会の神聖尊厳に対する「反逆罪」として観念され、キリスト教社会の根源的秩序を侵犯する「言語に絶する犯罪」とみなされた。それだけに、悔悛の秘蹟で扱われる普通の罪とは異なり、あらゆる強制手段を用いてでも告白させなければならなかった。これによって服従する意志を個人の内面に創り出し、キリスト教世界の統一を防衛することが目指された。著者は言います。“M・フーコーによれば、近現代社会では権力は、被支配者の「自己」を主体として組織化し規律化する。主体の規律化のための様々なシステム(学校・労働施設・病院・工場・軍隊)が登場する。それらを通じて支配は内面化され、「各人が自らの監視者であるような視線」が創り出された。近代国家のような集中し浸透する権力や、グローバルで包括的な市場経済やコミュニケーションのシステムが出現する以前にあって、その実効はきわめて限られたものであったとはいえ、この種の権力が13世紀のカトリック司牧の変革、とくに異端審問の中に一つの端緒をもつことは明らかである。”

最終的な結論、というのか一つの果実はキリスト教会という社会で「選び」という個人の主体的な選択が、反秩序に結び付き「異端」として排除されていく構図です。これは、最後のところでM・フーコーに触れていましたが、フーコーが狂気や犯罪を対象として分析して見せた、社会的な統合のプロセスで、アウトサイダーとして排除されていく構図に類似しています。筆者は分析の前提としてフーコーの方法論が念頭にあったのかもしれません。そして、異端が生じてくる構図として、私には極めて説得的に思えました。で、比較の意味で同時代の日本の状況をみれば、いわゆる鎌倉新仏教が民衆を背景に、親鸞、日蓮などのような宗教カリスマの手で次々と誕生していたわけです。キリスト教において異端とされていた分派の人々はなぜ、親鸞や日蓮のように新たな宗派もしくは宗教をスタートさせなかったのか。それが大きな疑問としてのこりました。さらに想像を膨らませていくと、後の20世紀になってキリスト教を正面から否定して見せたマルクス主義の陣営において、ソ連でスターリンが権力を掌握した後の粛清のなかでトロツキーやジノヴィエフ、カメーネフといったスターリンの競争者たちがマルクス主義の名のもとに粛々と粛清の決定に従ったのか、同じように中国の文化大革命で朱徳等か同じように粛清に従ったのか、中世キリスト教の異端審問と同じような空気を感ずるのです。これは想像が飛躍しすぎたかもしれません。さらに、初期のカオスともいえる成長が一段楽して安定期に入った集団の中で、制度的な秩序が形成されてくる、同時に官僚制が生まれてくるなかで、初期の活力は集団の制度的安定にとってはマイナスに働くケースもよくあることで、異端排除の構造にはそのような性格もあるように思います。これは、卑俗な考えかもしれませんが、成熟期にはいった企業の中で出世のための足の引っ張り合い、もしくは派閥の争いの力学が、これに近いところをなぞっているようにも思います。そのように意味で、中世のことを述べていますが、私にとってはアクチュアリティーを感じることができる著作だと思いました。

2010年12月20日 (月)

小田内 隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」(7)

こんどは支配エリートからみれば、異端の「選び」とは神の真理の絶対的な否定に他ならず、異端は悪魔の手下であり、教会が地上に確立しようとしている秩序への攻撃と映りました。言うまでもなく「異端」のスティグマは教会によって貼りつけられるものであり、何をもって異端とするかは教会によって定義される。その意味で、異端問題には最初から権力関係の問題が内在していたと言えます。グレゴリウス改革以降、教皇首位権が信仰領域ばかりではなく、規律領域にも拡張され、ヨーロッパ社会に対するヘゲモニーの主張となったことは、権威への服従がますます強調され、「異端」のスティグマも対象の内実以上に、それとの権力関係(=不服従)によって規定されるようになっていた。教会が社会を包摂するキリスト教社会においては、様々なタイプの逸脱が「不服従の異端」の地平にとり込まれることになったと言えます。この関連では政治的な理由で「異端」と非難された膨大なケースが見いだされます。とくにローマ教会と政治的に対立し、「教会の自由」を侵害するとされた個人や集団が、しばしば異端非難の対象となりました。このような動きは、さらに1199年の教勅によって異端はローマ法への反逆罪と同一視されるに至ります。著者は次のように言います。“すべての異端は神とキリストの神聖尊厳に対する「反逆罪」であり、教会の「つなぎ解く力」を一身に体現する教皇の至上権に対する「反逆罪」である。それは教会/キリスト教世界というキリストの「神秘体」を冒瀆することに他ならない。これによって異端はキリスト教世界の最大の敵となり、この世界の「悪のヒエラルヒー」の頂点に位置づけられる.性的逸脱(とくに同性愛)・高利貸・魔術使い・神への冒瀆・改宗ユダヤ人・偽誓者・「教会の自由」の攻撃などが異端非難の対象となり得たのは、なんらかの意味で神と教会の「神聖尊厳」に対する侵害として観念されたからである。いずれにせよ、ここに異端は「反逆罪」として観念され、「陰謀」という権力の悪夢と結び付けられた。”そして、異端に対する戦いは異教徒イスラームに対する戦いと同じように聖戦=十字軍とみなされるようになる。一方、異端に対する言葉の戦いの面でも、ドミニコ会やフランチェスコ会の説教師が異端と同じように裸足で物乞いしながら、放浪の説教生活をすることにより異端の「使徒的生活」に対抗する清貧の説教師として振舞いました。彼らは教会の制度構造の中に統合され、説教と告白を担うばかりでなく異端審問の担い手となっていきます。ここに、説教・告白・異端審問という三重の形をとって、異端に対する戦いが成熟したと言えます。例えば、説教は新たに組織化され、かつ戦闘的な色彩を強めました。説教は言葉による説得であると同時に、異端の恐怖を煽るレトリックによって迫害の心性を醸成し象徴的暴力として機能していました。

異端は、教会の言説によって農場を荒らす動物や疫病、ここから拡大して反自然としての悪魔の手先まで、様々なメタファーで語られました。これらはすべて迫害者の想像力の産物と言えます。しかし、それはR・ジラールが「迫害文献」と表現する、明らかに事実を歪めているが「暴力を渇望する特有な想像力」を語っているテクスト群に属する。つまり、そうしたテクストの背後には、馬鹿げた噂にも飛びつく興奮した集団心理が読み取れる。さらに、ジラールの議論にしたがえば、そうした状況を生み出すのは、相互に模倣し競合する過程で生じる秩序解体の危機であった。つまり、「使徒的生活」という同一の福音書モデルをめぐって多様な宗教諸集団が競合していた。修道会も一般信徒もカタリ派も、自らこそが真の「使徒的生活」の模倣者であると考えた。つまり、そこには一つのモデルをめぐる激しい模倣の競合が存在していた。12世紀の宗教文献は「どちらが真の使徒的生活か」「どちらがより良いキリスト教的生活か」をめぐる熾烈な論争に満ちている。やがて、この激しい模倣の応酬の結果、相互の間に差異が消失の危機が立ち現われ、キリスト教世界の秩序は脅かされる。ここに「身代わりの山羊」のメカニズムが働く。ある逸脱者に混乱と危機のすべての原因(=罪)が帰せられ、他のすべての者が一致して彼を犠牲に捧げる。迫害者たちは想像力の働きの中で犠牲者を冒瀆的犯罪を犯した怪物的存在に変貌させる。「不服従の異端」の地平を覆う「悪魔の陰謀」のイマジネールの前では、カタリ派・ワルド派などという異端者の「選び」、彼らの固有の声は沈黙に付され、モノトーンの漆黒の闇に塗り込められてしまう。そこから、異端審問という排除のメカニズムが現われてくることになります。

異端審問はそのための新たな権力の舞台を提供します。まず。異端審問官は異端者を追跡し、捕らえる。続いて、密室の闇の中で、監禁と拷問の恐怖をちらつかせながら、「真理」、つまり異端の罪を告白することを迫る。この一連のプロセスにおける手続きや技術が精錬された。最後に、異端審問官は総説教において信徒の前で判決結果を公示し、「真理」と「誤謬」の所在を可視化する。異端審問は、言葉・振舞い・イメージを駆使した排除と統合の儀礼であり、教会の宗教的メッセージを信徒に伝えることによって、教会の象徴支配を確立する演劇装置と言うことができると筆者は言います。とくに、異端に対する判決、その罪と懲罰の告示の機会に、このドラマが仕立てられている。中世ヨーロッパの裁判は公開の場ですべての人々の前に儀礼的に演じられたスペクタクルであった。これは一般信徒の生活が日常の教化活動の対象として本格的に意識されてきたことにより、彼らの生活にキリスト教的な規律と枠組みを与えることが緊急的な課題として認識されてきたことに応じて、機能したと言えます。このような背景から見れば、異端審問の総説教のスペクタクルは司牧の「新しい言葉」を身につけた托鉢修道士による、断罪と悔悛の演劇であったと言えます。

2010年12月19日 (日)

あるIR担当者の雑感(10)~日興アイ・アールの全上場企業ホームページ充実度ランキングへの個人的印象

日興アイ・アールによる2010年度、全上場企業ホームページ充実度ランキングが11月29日に発表されました。私は、11月30日が説明会だったので、ようやく今ごろになって、じっくりこのニュースを見ていました。上位にランクされたのは次のような企業のホームページです。

1.        ㈱東芝

2.        ㈱NTTドコモ

3.        ㈱カプコン

4.        KDDI㈱

5.        富士フィルムホールディングス㈱

これらを見てみると、常連で毎年上位にランキングされている企業で、それぞれの分野を越えて有名な企業ですね。評価項目を見ると、なんと135項目で「分かりやすさ」29項目、「使いやすさ」26項目、「情報の多さ」78項目だそうです。個人投資家向けガバナンス、CSR、環境対応情報、個人投資家向けページでは自社の特徴や強みや戦略のポイントが分かりやすくまとめてある、あるいはIR資料では株主通信、アニュアルレポート、CSRレポート、ガバナンス報告書など盛り沢山です。

で、実際に上位のホームページを拝見してみました。たとえば、トップの東芝のページ。コンテンツは沢山あって、たしかにランキングの135もある評価項目について、多分ほとんどすべて対応していて、それぞれの項目でそれなりの水準を保っているのでしょう。そして、それらが整理されていて、まあ、見やすくレイアウトされて、しゃれたデザインで、洗練されたというのでしょうか。

でも、このようなブログのようなことまでやっている多少屈折したIR担当者個人として見ると、端的につまらない。これを作っている担当者は楽しんで仕事をしているのだろうか、と思ってしまうのです。私は、趣味でクラシック音楽を聴いていますが、ひところ日本人の若い音楽家が海外でコンクールを大挙してエントリーして、上位によく顔を出していましたが、優勝というのは少なく、とくに、ピアノでいえばショパンコンクールやリーズ国際コンクールなどのトップランクと言われるコンクールでは未だに優勝者を出していません。そこでよく言われたのが、テクニックとか間違いのない演奏をするけれど個性が乏しく、自分はこういう音楽をやるのだという主張がみえないという評価が多かったように思います。東芝のホームページを見ていて、そんなことを思い出しました。大変失礼な言い方かもしれませんが、そつがない優等生の模範解答のような、と言う感じでした。

中小企業で黙っていては注目もされないし、予算もかけられない担当者の僻みといってしまえば、それだけです。でも、初めて訪れた人が、これだけ沢山の項目があって何から見たいと思いますか?「そうか、東芝っていえばこれだよな!」というようなものが感じられない。これを作っている人が「東芝とはこういう会社だ!」というもの、いうならば企業アイデンテティが伝わってこない。投資はリターンを求めるもので、そういうのは必要ないということもあるのでしょうが。しかし、人間が作っているのだし、投資するのも人間です。IR、インベスター リレイションというのは投資家との関係を取り結ぶことで、ここでは突き詰めれば人と人と、私は思います。誤解を恐れずに言えば、東芝のホームページには企業としての人が見えてこない。

その大きな要因は、綻びがないことです。企業として悪いところがないはずはないのです。それが見えてこない。生身の人間ならば、面と向かって話していれば、隠していても何となく分かります。文章でも、このようなホームページでも、相手に分かってもらおうとある程度胸襟を開けば、そこに自ずと出てきてしまうものです。大体のところ人間だって企業だって、自分一番アッピールしたいところの直ぐ近くに一番見られたくないものがあるものです。だから、見られたくないものを隠すには、見せたいものを見せないことが一番確実なのです。東芝のホームページには、そういうリスクをかけて自社を見せようというところがない。人間の生身のコミュニケーションでは、実のところ、そこから始まるのではないでしょうか。すくなくとも、このホームページを見て、この企業に対しての夢を見ることは難しい。(将来に向けての技術とか説明されてはいますが)

こういうことを考えていると、以前、日本のいくつかのメーカーが製品の不祥事を隠してリコールをしなかったりということがあったことを思い出してしまうのです。東芝がそうだとは言いません。しかし、そつのないホームページから感じられるコミュニケーションに対する冷たさから、そのような体質のようなものを想像してしまう。

私は、東芝と言う会社は優良企業と思っています。たとえば、かつての“からくりギエモン”以来のものづくりの伝統や、日本で原発パッシングが強かった時期にあえてウェスチングハウスを買収したような大胆な経営判断、あるいはエジソン以来の白熱電灯をやめていち早くLEDに切り替えたことなど、日本企業には数少ない、大胆な経営体質の先進的な企業だと思っています。私が思うのは、例えば、そういうことに誇りを持っているようなことがホームページからは感じられないことなのです。

日興アイ・アールの評価には、そういう点は評価の対象とはなっていないのでしょう。前回、とりあげた野村IRもそうですが。どうやら、このような有名な大手のアイ・アール支援企業は、このような企業の独自性というよりも、標準的なものさしを作って、優等生的なアイ・アールを志向しているように見えます。それを見ると、私のようなとにかく独自性を何とか打ち出そうと考えているような担当者や企業にとっては、縁のない支援会社であることが明らかだということが分かります。

その意味で、このランキングは、ひねくれた私のような担当者には、反面教師として、このようにはなりたくないものとして、非常に参考になります。そういう、オマエの作っているホームページはなんぼのものなのか?と突っ込まれれば、胸を張って「どうだ!」とお見せできる自信はありません。でも、たとえば、今のこのようなやり取りからこそ、コミュニケーションが始まるのではないでしょうか。ホームページはそのようなキッカケではないかとおもうのです。

小田内 隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」(6)

12世紀、グレゴリウス改革が終息に向かうと、ローマ教会による秩序の創出という求心的な動きと、拮抗するようにヨーロッパ各地で多様な宗教生活の開花という遠心的な動きが起こります。例えば、聖書の理想を追求する多様な宗教共同体が登場したことが挙げられます。フランス西部の陰修士運動から始まり、聖職者・修道士・一般信徒を問わない多様な集団が、福音書的清貧の教えを説き、使徒のような共同生活と福音説教を実践しました。このような動きから、シトー会やプレモント会などの多くの新しい修道会や聖堂参事会が設立されました。また、一方で商業・貨幣経済の発展を背景に、都市では新しい経済ばかりでなく、新しい文化と心性が生成し始めました。そこでは早くからラテン語の読み書きができない一般信徒の間にも文書やテクストに関する関心が高まり、商人をはじめとしたエリート層は俗語による読み書きに加えてラテン語訳聖書にも説教を通じて触れる機会を増やしていました。彼らのような一般信徒にもテクストに書かれた神の言葉に対する関心が高まりました。このようなニーズに応えて、カリスマ的な説教師が教会の周縁や外部で聖書の教えを説き、自律的なテクスト共同体を創り出しました。

しかし、このような多様性の受容には信仰における統一という明白な限界があり、ローマ教会が形成する秩序の枠内では許される選択も、それを越えると「異端」の烙印を押されることになりました。ローマ教会への服従が信仰と区分されにくくなるなかで、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」という逸脱者の宣言は、不可避にローマ教会の提示する支配的現実からの離脱の第一歩につながりました。このような動きを背景に、14世紀にかけて、カタリ派、ワルド派、聖霊派という三つの大きな異端が起こります。これらは教会の真理の権威を根源的なレベルで脅かし、最も危険視された存在でありました。

真理の権利は4世紀までに司教を中心とした聖職位階制として制度化されていました。そしてグレゴリウス改革の「教会の自由」により、聖職者を世俗の穢れから浄化し、彼らの儀礼による象徴的な力を確立し、それを社会全体に及ぼすこと、例えば聖体の秘蹟によって聖職者はキリストと象徴的に一体化し、その立場から信徒を聖体に結集し、協会の統一を創り出す。そして、このような象徴的な身体は教会内にととまらず、社会的身体への拡張され、世俗社会に対する象徴支配に向かいました。さらに「はじめに言葉ありき」の言葉どおり、キリスト教は受肉した神であるキリストの言葉を伝える宗教であり、この解釈権を教会が独占しました。このような象徴的身体と神の言葉の独占による象徴支配が現世改宗への方向転換とともに世俗社会に及ぼされとき、宗教は権力として形成され、特権・寄進・課税・裁判権等からなる財を基礎とする組織体へと変貌します。教会は管轄下にある財を世俗の俗物財と峻別し、霊的財として、その富と権力を正当化しました。しかし、霊的な領域と俗的な領域に明確な線引きは難しく矛盾と葛藤は避けられません。それは、とくに三つの社会・文化的トポス、身体・言葉・富において文明を構成する基礎的な場面で生じました。それは、先ほどの三つの大きな異端に象徴的に見ることができると筆者は言います。

本書は、ここで三つのケースを詳細に追いかけますが、ここでは触れません。私の興味も、本書の主な目的も、例えばカタリ派とは何か?という問に答えることではなくて、キリスト教という宗教のなかで、異端という現象が生まれてきた構造的な原因と、異端と正統の相関関係、異端を生むことにより正統が強化されてきたというような構造にあると思うためです。この三つのケースは中世カトリック教会が内部に抱え込んだ矛盾と葛藤が渦巻く三つの歴史的トポスにおいて、カトリック教会とは異なった方向に解決の道を求めた人々が選び=異端の当事者となっていったわけです。

2010年12月18日 (土)

小田内 隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」(5)

中世キリスト教社会の異端は紀元千年前後という封建秩序の安定と教会改革と同時に始まります。当初の異端は、言うなれば神の秩序から離脱し、神によって定められた存在のあり方に背を向けて、「別の存在」になろうとした人々、それは「狂気」に他なりません.精霊のカリスマに導かれ、制度的・人間的制約を越えて行動できると信じ、カトリック教会を否定し、自ら異なった救済の道を「選択」したのでした。また、さらに、彼らは書物を直接読むまでは至らないものの、カリスマ的指導者の説教によって媒介されたテクスト、とりわけ聖書に含まれたメッセージへの関心が生まれたのでした。

このような異端は、世俗の支配と教会の司祭が混淆しシモニア(聖職売買)やニコライティズム(聖職者妻帯)が一般化する傾向において、両者の領域の区分を求められる中で生まれてきたとも言えるものです。カトリック教会は、1049年の教皇レオ9世の即位以来、いわゆるグレゴリウス改革を始めます。これと符牒を合わせるかのように、中世初期の異端は姿を消していきます。このグレゴリウス改革の帰結として、3つの重要な点を著者は指摘しています。

     王権は他の一般信徒と同じく従属的地位に置かれ、聖職者と一般信徒が厳然と区別されました。聖職者身分は精霊のカリスマを独占し、秘蹟によって神と人間の間を媒介する。したがって、精霊を特権的に管理する聖職者身分は一般信徒の世界から解放され、霊的に自由となる。

     ローマ教皇の首位権が現実の指導権として主張され、聖職者身分を規律化し、さらにはキリスト教世界に号令を発するようになった。教皇権は正統信仰を決定するばかりでなく、社会を規律する権力となった。

     聖職者身分と一般信徒身分の間の隔絶をもたらし、ローマ教皇の首位権のもとに聖職者身分は結集し、中央集権的に組織化され、法的な身分しての性格を強めた。この教皇を中心とする聖職者の組織体が、キリスト教世界に対するヘゲモニーを要求し、教会の統一が社会の統一を保証することとなり、真理の権威は不可避的に権力的になっていった。

言ってみれば、グレゴリウス改革は「教会の自由」を掲げ、聖職者身分が世俗世界からの解放だけでなく、霊的な立場から世俗世界を支配することを図ったと言えます。その結果、教会は世俗社会のあらゆる領域に介入し、一般信徒の生活を規律化し、封建社会の支配構造をイデオロギー的に正当化する役割を担うようになります。そして、現世での改宗を実現するために、教皇庁を中心とした官僚組織が発展し、世俗権力を動員されるようになります。

このようなグレゴリウス改革における教皇首位権の主張の一つの帰結として「異端」というスティグマの変化が起こります。それは「不服従の異端」と呼ばれるもので、著者は次のように言います。“初期教会で確立されて以来、異端は聖書や信条によって文書化された信仰の真理(三位一体・キリストの受肉・死と復活)との関係で規定された。4世紀には、キリストから「つなぎ解く力」を与えられた使途ペテロの後継者、教皇がこの真理を最終的に保証する立場にあるとされた。しかし、ここに教皇首位権の主張が信仰の領域から規律の領域へと拡大された結果、異端概念もまた規律の領域へと拡大されたのである。つまり、「信仰は服従である」。したがって、ローマ教会への不服従は信仰からの逸脱と同義であり、異端である、と。すでにアウグスティヌスが異端の「頑固さ」を強調したことに萌芽はあったが、ここにはじめて明確な教義的誤謬がなくとも「不服従」という権力関係によって「異端」とされる制度的可能性が現われたのである。これを「不服従の異端」と呼ぶ。「不服従の異端」は強力な磁場のように、狭義の信仰領域を越えて様々な領域における逸脱を圏内に引きつけていく。その中には、政敵・反逆者・偽誓者・不敬の言葉を吐く者・高利貸・性的逸脱者・魔法使いなど、雑多なカテゴリーが含まれ、信仰の問題を中心に広大な裾野が広がる。この「不服従の論理」の広大な裾野をつねに念頭において、はじめて中世異端史は十分に理解されるのではないだろうか。異端の歴史とは権力の歴史でもあるからである。”

2010年12月17日 (金)

あるIR担当者の雑感(9)~説明会資料に解説をつける

野村IRからアンケートが送られてきたので答えてみました。ま、アンケートはアンケートで択一式なのでサクっと答えたわけです。そこで、少し気になったのが、アンケートという、そして、択一式回答という形式です。どうしても、こういうものには質問する人のバイアスが多かれ少なかれかかっているものです。バイアスの程度が激しければ、誘導尋問と変わらないものにもなってしまうこともあるでしょう。(それゆえ、私は報道機関がよくやっている世論調査というのは信用できないと思っています)で、今回のアンケートの質問とその回答の選択肢を見ていると、このアンケートを作ったひとにはIRはこうあらねばならない、とかこれがIRのスタンダードたというイメージがあるのが想像できるのです。アンケートをやっている野村IRという会社が方針としてIRはこのようにしていきたいという明確なものを持っていれば別ですが、どうもそうではないようです。

このブログのこの一連の記事を読んでいただいている方には想像がつくかもしれませんが、私の勤め先の企業は中小メーカーで新興市場に上場しているため、東証一部上場の有名企業と同じようなIRはできないし、やっても注目されないので、企業に応じたIRがあると思っています。例えば、あえて個人向け説明会を開催しないというようなことがあってもいいと思います。それは、個人投資家を軽視するということではなくて、会社の性格が大きな会場に会社のことをよく分からない個人を集めて30分程度のプレゼンをするよりも、ひとりひとりの個人と時間をかけて突っ込んだコミュニケーションをすることでファンを一人ずつ増やしていく方が適しているケースもあると思うのです。そういうのは、このアンケートからは抜け落ちてしまっているのです。

例えば、最近有名企業の中で、決算説明会を開催した後で、ホームページに資料や動画を掲載する以外に資料の解説を載せるところが出てきました。以前にも書いたことがありましたが、パワーポイントで作成する説明資料は、せいぜいのところ見出しを載せるには適しているのですが、説明を載せるには不便なソフトです。それだけではないでしょうか、パワーポイントで作られる資料は内容がないので、ただこれを見てもよく分からないというのが本当のところだと思います。それで、資料に解説をつけて資料を見る人の便宜を図るというのでしょう。それ自体は悪いことではないです。しかし、それならば、わざわざ解説が必要になるように資料をなぜ作らなければならないのか、そんな中途半端な資料を分かっていて(後で解説をつけるような補足をしているわけですから)配って、投資家を馬鹿にしているのではないかと言われてもしかたのないことではないかと思います。それをアンケートの文脈で見てみると、資料の解説を載せていることを聞くのは、どうしても、それはいいことと受け取られているように見えるのです。もしかしたら、私は穿った見方をしているのかもしれません。アンケートと同じに、それ以上にバイアスがかかっている。しかし、解説が必要のない充実した資料を作ろうとしている企業と中途半端に資料を配布して後で解説を補足的に追加する企業とを同列に論ずることはできないのではないか。しかも、解説を追加する企業のほうがより努力しているとかような価値判断ができるのか、と言う点にすごく不信感を持ちました。

さらに、そういう解説を載せている企業は、それはそれでいいのですが、それを見て、IRとはこういうもので当社もやらなければならないと誤解してしまう企業がでてきて、これがIRのトレンドだというようなことになってしまうのではないかと、とても心配になっています。

ちなみに、私の勤め先の企業は資料の解説は作っていません。

2010年12月16日 (木)

小田内 隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」(4)

中世キリスト教は古代末期のアウグスティヌスやヒエロニスム等によって思想的に準備されました。4世紀までに明確になった「異端」とは、聖書を恣意的に解釈する、つまり、聖書から恣意的に教えを「選ぶ」という行為が「異端」されました。「異端」とは人間による「選択」の結果であったといえます。アウグスティヌスはこれに加えて、異端者の「頑固さ」「執拗さ」を強調しています。異端には知的な側面(教義的誤謬)ばかりでなく、意志的な側面(頑固さ・執拗さ)があると言います。言い換えれば、単に真理を否定するだけでなく、真理を制定する権威に不服従が問題となるのです。このことが異端弾圧という強制力の介入を導きいれる契機ともなります。つまり、異端の本質が頑固さにあるならば、カトリック教会の統一に由来する真理への挑戦であり、したがって「無理にでも人々を連れてきて」教会の統一に復帰させなくてはならない。それは「迷える羊を群れに戻す」教会の規律権力の現われであり、迷える羊にとっては「甘やかしてだますよりは、厳しくして愛するほうがよい」と、人間の罪深さという頑なな習慣の壁は恐怖や強制や外的な制約によって「柔軟化」させる過程によって克服されなければならないからです。そのための手段として、皇帝という世俗権力が行使されました。

しかし、4世紀末に西ローマ帝国はゲルマン民族大移動のなかで崩壊し、数世紀の間政治的には支配的なヘゲモニーのない状態が続きます。中世ヨーロッパが成立に向かうこの時期、異端の問題は表向きは発生しませんでした。中世における異端の発生は11世紀に中世ヨーロッパの封建社会が確立し、教会がグレゴリオス改革により中世教会として成熟するのを待って起こります。その際の異端は古代とは異なった形をとり始めます。それを規定した歴史的条件として、次の点が考えられます。

     中世ヨーロッパではキリスト教のテクストを読めるのは一部の聖職者の手に握られていた。このようなリテラシーの復興、つまり、聖書に対する関心が民衆の間に芽生え、年の発展とともに文字文化に親しむ俗人口の拡大を背景に中世の異端史は始まると言ってよい。

     中世ヨーロッパは各地の領主が支配する権力の分散した社会で、教会のヘゲモニーは文化的にばかりでなく、政治的・社会的にも規定されていた。

     カトリック教会が社会的現実についての解釈権を独占していた。政治・経済・倫理など世俗社会のあらゆる領域に教会が介入し、多大な影響を及ぼしていた。

このような変化に伴い、古代キリスト教の異端は常に複数で語られていたものが、カトリック教会という真理の権威から逸脱する選択はすべて誤謬とみなされ、異端となる。個々の選択は「異端」のスティグマによって漆黒に塗り固められ、否定的ステレオタイプに還元され、「悪魔の陰謀」の物語として単数形で語られるものとなりました。

2010年12月14日 (火)

小田内 隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」(3)

「異端」の語源であるギリシャ語のhairesisは決して否定的な意味合いはなく、当時の東地中海のヘレニズム世界では多様な哲学諸派が競合し、宗教混淆が活発に起きていたと言います。そのような中でのhairesisは「選択する」を意味し、さらに特定の政治的立場や党派、とくに哲学の学説・学派などを意味していました。しかし、パウロにより、イエスの福音が地中海世界に広がるとともに、キリスト教徒の共同体内でこの言葉は新たな意味を帯びてくるのです。すなわち、共同体の一致を脅かす内部分裂を意味し、明らかに非難の言葉となっていきました。古代末期の地中海世界を政治的に支配していたのは古代ローマ帝国でした。しかし、ローマ帝国も末期になると、広範な政治支配は、人や物や思想の流動化をもたらし、都市や地方における伝統的な絆とそれを支えていた守護神の世界を緩やかに解体に導き、それに代わって皇帝や高官たちが社会的ヒエラルヒーの頂点に立ち、超越的な唯一神が求められるようになる。このようなニーズに合致していたのがキリスト教会の連帯と信仰と儀式の普遍性でした。超越的な神自身が人間となり天と地を結ぶ、キリストにおいて神性と人性が一致するという観念は、あらゆる差異を超越する究極的な連帯を象徴するもので、古代末期の流動化する社会で求められていた超地域的な連帯を指し示す社会的言説と成りえたと著者は言います。このような中で、キリスト教の共同体が分派するのは超越的な唯一性と相容れないものとなります。その経緯を著者は次のように言います。“パウロは唯一の心理の名のもとに、キリスト教をユダヤ教や異教から分離し、キリスト教徒の間で正しい信仰と誤った信仰を区別した。多神教的な世界ではこのように明確に真理の独占を主張することは一つの革新であった。そして、「異端」という言葉の創造は真理の主張の楯の半面であった。他のすべての信仰を他者化/異端化することによってキリスト教信仰の唯一普遍性は成り立つからである。ここで改めて強調したいことは、イエスの福音をめぐって様々な解釈の潮流が存在したこと、したがって、その中でのちのカトリック教会に連なる流れが普遍的真理の地位を独占するにいたったのは、あらかじめ決定されていた事柄ではなかったということである。初期教会が直面していた多数の可能性が渦巻く状況に「正統と異端」の対立という表現を用いるとすれば、それは事後的に確立した関係から遡及的にみてのことである。誤解を恐れずに言えば、生成期には複数の「キリスト教」の可能性があった(そして、おそらくつねにあり続けた)のではないだろうか。”そして、それを端的に示すのが2~3世紀にかけてキリスト教史上の最古最大の異端とされたグノーシス主義の運動です。ただし、グノーシス主義とは正統派の教会による呼称で、彼ら自身は自分たちこそが真のキリスト教徒であると主張していました。この当時(2~3世紀)のキリスト教には多様なカリスマ的指導者と多様な聖書が存在し、複数のキリスト教の可能性と選択肢が渦巻いていたと言えます。キリスト教内部での論争を通して「異端」というスティグマが結晶化され、グノーシス主義は「異端」として決定的に退けられ、キリスト教徒は異質な反対物として封印されてしまいました。これに対して、「キリスト教」の名は自らを「カトリック」つまりは普遍的と規定する教会によって排他的に独占されることになりました。これは、ローマ帝国によるキリスト教の国教化の過程とも重なるものです。さらに4世紀までに、教会組織の形成に伴い、司教を中心とした聖職者のヒエラルヒーによる新たな教会指導層が聖書の真理を解釈する権威となっていきます。この権威はイエスによって使徒に与えられ、特にペテロから継承されたものとされ、司教の合議体によって確かなものとされました。つまり、真理の権威の制度化が進められていったわけです。これに伴い正統教義の文書化が進み唯一の真理を生み出すカトリック教会が5世紀には確立します。

2010年12月13日 (月)

アンドレア・ルケジーニ「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第19番」

Lucchesini ベートーヴェンの32のピアノ・ソナタの中でも規模が小さくて、しかも「テンペスト」を含む作品17と「ヴァルトシュタイン」と有名な大曲の間に挟まれている不遇な位置取りのせいもあって、マイナーに地位にあるのではないでしょうか。ピアノを習っている人には、ベートーヴェンの優しいソナタとして練習したことのあるということで、知られているそうですが。ただ、埋もれた小品として聴かないでいるには、もったいない佳品です。かといって、手垢のついた有名曲になってしまうよりは、知る人ぞ知るというくらいの方が、この曲には合っているかもしれません。

さて、この曲2楽章で構成される小曲ですが、第1楽章のアンダンテを、弾くピアニストによって全然テンポが違います。強いてパターン化すれば、ゆっくりテンポを落として弾くピアニストは、後のロマン派を向いた解釈をしようとしている人で、軽快にサッと弾くピアニストは古典派の格式の中で、モーツァルトに向いたような解釈をしようとしているように思えます。冒頭の第1主題のテーマが哀しげで歌うメロディで、弾く人によってモーツァルトの声が木霊するようにも、シューベルトを招き寄せているようにも聴こえてくるのです。冒頭のメロディが出てきて一度繰り返した後の即興性がある橋渡しのようなパッセージの流れから哀しみが染み出してくるような印象はモーツァルトに近いものですし(ここは軽快に弾かないと、透明さと哀しみが走るような感じはでてこないで、ゆっくり弾くと重苦しくなってしまう)そして、第2楽章(終楽章!)のロンド、アレグロのテンポの取り方にも関係し、それによって終楽章の印象も変わってきてしまうようです。

ここでは、アンドレア・ルケジーニというイタリアのピアニストの実況録音によるピアノ・ソナタ全集の中にある演奏です。HMVのon lineをみると廃盤になってしまっているようですが、弱音主体で、比較的おそめのテンポを基調に細かなところでは自在に動かして、フレーズごとに微妙に陰影をつけるようなつくりはインティメートな雰囲気を作り出して、コンサートホールでというよりはサロンで聴いているような印象を受ける点でユニークな全集だと思います。この曲の演奏にも、そのような特徴が、よく表われていて彼の個性を際立たせています。冒頭のメロディの入りを弱音でそっと始めて、各フレーズの入りを後拍気味にして静かにそして柔らかなタッチで始まるようにして、聴き手の耳をそばだたせ、入りに答えるような左手のフレーズを心持ち強めに印象づけるように弾くと、どこか後ろ髪を引かれるような感覚に捉われます。そのあと、前にいった哀しみが走るようなパッセージを淡々と紡ぐように弾くと、哀しみの淵に一人取り残されたような感じがしてきます。これは、シューベルトを望むどころか、遥かに超えてショパンの晩年に手が届くようなものではないか、と勘ぐってしまいます。だから、その後につづく、第2楽章が快活なロンドではなくて、哀しみを一人耐えて、明るく振舞おうとするかのような、長調であるがゆえに却って透明な哀しみを感じるような印象になってしまうのでした。たぶん、スタンダードが、これぞベートーヴェン!というような正統派(?)の得視点から見ると、逸脱に見えるかもしれませんが、ベートーヴェンに元々このような要素もあったのではないかと思わせるほど説得力を感じました。

このピアニストで、モーツァルトの第4番のピアノソナタ(遥かにシューベルトへの呼びかけが聞こえてくる)の演奏を聴いてみたい気がします。

あるIR担当者の雑感(8)~説明会の終わった後で

しばらくの間、ウェーレン・バフェットの株主への手紙を拙いながら訳したのを載せてきました。これをしばらく前から、仕事上で行き来のある人に、折をみて、適宜見せたりしていますが、大半のひとはふ~んという感じで、反応が返ってきません。一応、こちらでも、これについて予備知識とか仕事の関係で文章の言っていることが最低限わかる人を選んで、見せてみたのですが、多くの人は単に戸惑っていたという感じで、私への反応に困ったというようでした。投資家の中にはバフェットの信奉者も多いので、一部の翻訳が出版されたりしていますが、発行会社の側で株式関係の事務仕事(株主総会なんかも含まれる)をやっていたり、IR関係の仕事をやっていたりという人には、知らないということか、あまり関係がないというような位置づけのようです。

というのも、今、第2四半期の説明会がようやく終わって、出席して下さった方々、とくにアナリストの反応を、ある人にお願いしてきいて貰っているのですが、その人の言によれば、出席者の正直な感想を聞きたがらない会社も多いのだそうです。決算説明会はIRにとって大事なイベントで、発行会社と投資家サイドが定期的にコミュニケイションする機会と、私は考えています。IR担当者としては、会社の決算や事業の状況、今後に向けての事業戦略などをよりよく理解してもらうため、資料をつくり、経営者と打合せをしながら開催に向けて腕を振るうことになるというわけです。で、もっと大事なのはその後だ、と私は思っています。事前にできるだけの努力をして実施した説明会について、出席した人は、果たして理解してくれたのだろうか、どのような感想を持ったのだろうか、会社に対して言いたいようなことはないのだろうか。私は、それがたいへん気になります。そうしないと、説明会が一方通行の会社が説明するだけの場で終わってしまいます。それは、一歩間違えば単なるPRになってしまいます。もちろん、説明会では質疑応答の時間があります。そこで、ある程度思っていることを話すこともできますが、時間の制約もあるし、他の人の前で言いにくいこともあるでしょう。あるいは、その後、出席したアナリストが取材に来てくれれば、1対1での話し合いの中で、少し話してくれるでしょう。しかし、そのようなアナリストの取材が頻繁にあるのは有名な大企業の場合で、それ以外の中小企業、とくに私の勤め先のような地味なメーカーの場合には、待っていては誰も来ていただけないというのが現状です。そこで、IR支援会社にお願いして、説明会の後で出席して下さった方々にインタビューをお願いしています。これは、発行会社本人には直接言いにくいこともあるということと、本音のところでどう思っているかを聞き出すのにはそれなりの経験が要るということからです。

さて、その支援会社では説明会後の出席者のインタビューをサービスのメニューとして入れていたのを、やらないでくれと言ってくるクライアント(発行会社)が増えてきたと言います。上で述べてきたような考えを持つ私としては、とても不思議に思いました。そういう会社は、説明会がどのように受け取られるか、会社のこと、今期の事業のことをどう思われているかに興味がないのか、そもそもそういう興味が期待値となって株価が形成されるのではないか、と思っているのですが。で、冒頭のバフェットの件です。バフェットの“手紙”は株主に向かって自分の考えはこうであると胸襟を開いて、コミュニケーションをしようとするものです。バークシャーの株主総会とともに、そういうものの極北と言えるものです。説明会の出席者の反応を聞かないというところには、このようなバフェットの姿勢は考え方の違うところとして興味をひくものではないかもしれません。

で、話は又変わりますが、今回の説明会ででてきた意見には、例えば、(今回の決算は前期の数値を上回り、メタメタだった前期から回復してきたことが結果として現われたものだったのですが)「回復が、一過性なものなのか、勢いが回復向かって動き出したのか判断できない」「経済環境の変化によるものではないか、経営戦略の面、経営努力の面によるものなのか」といった意見があったりとか、「このメーカーは高い技術を持っている(担当者としては、たいへん嬉しい)が、それがどうして業績の伸びにつながらないのか」というような意見があったりとか、説明会に対して「説明のメリハリがほしい」とか、色々言ってくれます。私には、こういう意見こそが次回の説明会に向けて、すごく参考になります。ここにあげただけで、次回の説明会で何を説明しようかというポイントを教えてもらえたし、進め方も直せるというものです。そして、言って下さった意見を次回の説明会に一部でも反映すると、意見を言ってくれた人は、そのことを忘れていないので、会社に対して信頼感を持ってくれることになると、説明会を定期的に開くのは、その積み重ねで投資家との信頼関係を一歩ずつ築いていく場になるのでは、と思っています。

小田内 隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」(2)

「異端」を選択というキーワードで見、そしてレッテルを貼るという形成過程で見ていくと、異端者=選択する側と、教会=レッテルを貼る側という双方向の物語として織りなされている。筆者は、こう言います。“中世における「正統と異端」の対立の歴史は、異端者と正統教会のそれぞれの側から紡がれた、二つの物語によって織りなされている。まず異端者自身の物語がある。まず異端者自身の物語がある。キリスト教世界は決して一枚岩ではなく、様々な矛盾と多様性をはらんでいた。その統一の外観の背後にはキリスト教として生きる可能性が渦巻いていたのである。その中で彼らはカトリック教会とは異なった救済への道を選択した。つまり、異端者自身の物語とは「異端」という言葉の本来の意味にあたる、一つの立場の「選び」の物語なのである。本書ではいささかぎこちないが、これを「異端=選び」の物語と呼ぶことにしよう。これに対して、正統派教会の側からは同一の歴史がまったく異なった物語として語られた。すでに述べたように、「異端」という言葉は教会が創り出したスティグマである。したがって、そこから分泌される教会の言説は徹底してネガティヴなものとなり、異端を「悪魔の陰謀」として語る物語となった。この支配的な言説は「異端」というスティグマによって異端=選びの物語としての異端者自身の言説を闇に葬り、隠蔽してきた。”

では、このような中世の異端の舞台はどのように形成されてきたのか、「異端」とは教会の正統的な信仰からの逸脱であることは間違いないにしても、何が信仰からの逸脱かという理解のあり方はキリスト教の歴史を通じて変化してきた。つまり、「信ずること(=真理)」にも歴史があるのであり、それに応じて「異端であること(=誤謬)」の意味も変化するわけで、この関係性を筆者は「正統と異端の地平」と呼びます。

2010年12月12日 (日)

小田内 隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」(1)

Photo まず、「異端」というスティグマについて、筆者は次のように言います。“現代では、「異端」という日常の言葉遣いとしてイデオロギーや文化の面で「反主流」を意味し、ときにはたんに平凡や日常から離れた趣味の奇矯さを意味することがある。ある言葉が一般化することで語義を拡大し、曖昧化する現象は別に珍しくはない。しかし、本来の宗教用語としても、ときに曖昧で、問題ある用例に出くわす。「異教」と「異端」が混同されることは、いわゆる専門書にもときおり見かけるが、厳密に言えばもちろん誤りである。「異端」という言葉はギリシャ語hairesis(ラテン文字に翻字)に由来する。これは本来の意味では「選択すること」を意味した。ここから、協会の教えとは異なった信条を唱え、その結果として教会から排除された人や立場という異端の一般的な意味が生まれた。異端とは教会が定めた信仰の教えとは異なった教えを「選択」することである。この「選択」という語源的意味は異端を考える上でたいへん示唆に富んでいる.現代社会では、人生を自分で設計し、その様々な段階で何かを「選択」することは、個人の基本的な権利であると考えられている。アメリカの社会学者P・バーガーが述べているように、「前近代人にとって異端はひとつの可能性─普通はむしろ程遠い可能性にすぎないが、現代人にとっては、異端がひとつの必然性となる」現代人は前近代の人間に比べれば、比較にならないほどの選択の自由をもっている。それは、職業・居住地・結婚からはじまって趣味やライフスタイル、さらには内面の問題にまで及ぶ。かつて生まれながらに定められた宿命であったものが、個人の選択の問題になった。こうして、異端(=選択)は普遍化することによって、かつて持っていた否定的な意味を失い、価値を付与された。「選択」することが日常的常態となれば、それが否定的意味合いを持つことはなく、社会的な排除につながることもない。ところが、キリスト教社会としての中世では、話はまったく異なる。人間の生き方、位置はあらかじめ神の意志によって定められ、そこから外れないことが来世の救いの条件であった。したがって、あえて異なった道を選択することは神によって定められた位置から外れていくことに他ならない。伝統的な社会では一般に個人の選択の余地は少なく、意識的な選択の行為は多かれ少なかれ逸脱を意味したと言ってよていであろう。”また、異端が形成されるのは最初から「こうだ」というものがあったわけではなく、徐々に正統の関係から、レッテルを貼られるように形成されるとして、次のように言います。“どの宗教にも普遍的に見られる逸脱や排除の一つの変異型であるキリスト教の異端。一見したところ逆説的かもしれないが、ここで象徴相互作用論やラベリング理論に代表される逸脱の社会学の一般理論を引き合いに出すことは、問題の特殊性を理解する助けのように思われる。H・ベッカーによれば、「社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々によってこのレッテルを貼られた行動のことである」。逸脱行為とは、ある人間に内在する性質ではなく、レッテルを貼られた結果として創り出されるものである。したがって、最初から自明なものとして実体的にそこにあるのではなく、ある過程の中で状況的に定義され、その時々の状況によって変化する、と。”

2010年12月11日 (土)

ジリアン・テット「愚者の黄金 大暴走を生んだ金融技術」(3)

この後、サブプライムローンの悪化に始まり、危機的な状態にはまっていくのですが、各金融機関は強気にポジションを増してリスクを広げていきました。これは、ゴールドマンサックスを筆頭に驚異的な業績の数字を上げていたのが各社の競争意識を煽り、無理な競争を強いられていったことと、当時のCEOたちがクレジット・デリバティブの内容について細かなことは理解しておらず、リスクを把握していなかったため、歯止めがかけらなかった。また銀行内部でも、タテ割の組織のためCDSの担当部署が何をやっているのか、他の部署にはわからずリスク担当部署も手を出せない状態で、いわば野放しにされていた。これが、結果的に状態をどんどん悪化させて行くことになりました。

J・P・モルガンでCDSを作り出したチームのメンバーたちは、自らの生み出したアイディアが、尽きることのない災禍をもたらすものに変貌してしまったことに衝撃を受けていました。彼らの多くは、問題の原因はデリバティブという金融イノベーションにあるのではなく、銀行の行き過ぎた行動にあると分析しました。とくに住宅市場でまれに見る行き過ぎがあったことだと。「自動車事故が起こっても、自動車を非難したり、使わなくなったりしない、責められるのは運転手だ。デリバティブも同じで、問題はツールにあるのではなく、それを使う人の側にある」というわけです。具体的には「市場関係者がいったいなぜ、馬鹿げ条件でサブプライムローンの過剰融資に走ったかであり、また実際の住宅ローンの数量が需要に追いつかなくなった際に、なぜそれをクレジット・デリバティブの技術と結び付けてシンセティックABS/CODを創り出したかだ」その一方で、イデオロギー自体に問題があったことを認める者もいたとのことです。このモデルの前提には人間行動や規制の構造を十分考慮しなかったもので、のような要素は雑音に過ぎないと切り捨てられていたが、それは間違いで、我々は完全な数量モデルの世界に住んでいるわけではないと。

おそらく筆者は、この最後のことを言いたかったのだと思います。このような結論は、以前読んだ「ザ・クオンツ」にも通じるところがあります。2冊に似ているところがあるからと、安易に結論を出すのは軽率ですが、何か、行き過ぎた金融イノベーションにたいする不安からも、そのような考えが出てきているかもしれません。ただ、最初のところで、私の感じた違和感を言いましたように、その根底には、私のような人間には異質な文化的な基盤があり、その文化そのものに対する懐疑までには至っていない。文化の良し悪しなどを云々する気は全くありませんが。読んでいて違うな、という感じが終始つきまとっていました。リスクをさけるにこしたことはないのですが、それは、あくまでも自分の責任においてのことで、リスク自体を誰かに渡すのなら、リストと裏腹の便益も一緒に渡すべきで

そのようなことを考えたら、リスクを譲渡することは考えにくくなると思うのですが。

しかし、それは本書の価値とは無関係です。門外漢も私でも読み進められるように、噛み砕いて丁寧に説明してあります。

2010年12月10日 (金)

ジリアン・テット「愚者の黄金 大暴走を生んだ金融技術」(2)

本書の舞台であるJ・Pモルガン(JとPの間に・を入れることが重要であること、また、その理由も本書を読むまで知りませんでした。)は「一流の銀行業務を一流の方法で実践する」ことを銀行の目的とし、ハイリスクで強引な取引により高収益を稼ぎ出す“食うか食われるか”の金融文化とは一線を画した金融機関であることによって、金融イノベーションの波に乗り遅れたものの、金融危機で受けた痛手は他の金融機関に比べれば比較的薄いものだったために、危機後は業界のトップ地位に出たという経緯が活写されています。

もともと、商取引や金融には、借り手が融資や債券の返済をしないというテフォルト(債務不履行)リスクが付き物で、銀行は長年にわたり、このようなリスクを最小化しようとしてきました。その最も基本的なやり方は健全な融資判断によって、危ないところへの融資を避けるというものでした。もう一つは、分散することでした。例えば、銀行同士が協調融資を組んで、1件当りの融資額を抑えることにより、デフォルトの痛みを分け合うというものでした。このデフォルトリスクを切り離して投資家に売り渡そうというのが、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)というものだそうです。具体例として、石油会社エクソンに対して、j・P・モルガンとバークレイズは1993年48億ドルのクレジットラインを設定しました。これは、必要な場合に決められた額を融資することを約束する契約で、いわゆる融資枠を先に認めてしまうようなことです。しかし、j・P・モルガンではこれを認めてしまうと、融資したことと同じ扱いとなり、融資したことによって引き当てのための自己資本の裏付けが必要となって、その分他の融資ができなくなってしまいます。そこで、欧州復興開発銀行は融資のための与信枠を持っていましたが、リスクの高い活動が禁じられていたためせっかくの与信枠を有効に活用できていませんでした。そこで、J・P・モルガンは欧州復興開発銀行に対して、エクソンへの与信枠に伴うリスクを引き受けてもらい、その代わりに毎年手数料を支払うという契約をしました。もし、エクソンがデフォルトに陥れば欧州復興開発銀行がデフォルトに伴う損失をJ・P・モルガンに補償しなければならなくなります。しかしデフォルトがなければ、J・P・モルガンから毎年高い手数料を受け取ることができるというわけです。こけがCDSの仕組みというわけです。これができれば、銀行は与信枠や自己資本のよる引き当てを考えずに、限度なく融資をすることができることになります。しかも、デフォルトリスクを考えなくてもいい。

しかし、これでは大量な取引を迅速にこなすことはできない。そこで考えられたのがシンセティックCDOと言う商品です。ひとつひとつの融資案件を取引の対象とするのではなく、多数の融資を束のようにまとめて、そのすべてのリスクからクレジット・デリバティブを作り出そうというものでした。しかし、ひとつの融資案件に対してのリスクを判断して投資対象とするか投資家が判断するのがたいへんと思われるのに、その案件をいくつもまとめて束にするとなると、その中のひとつひとつの案件のリスクをそれぞれ判断しなければならないのではないか、と私なら考えます。そこで、証券化ということが導入されたと説明されています。つまり、融資の案件をパッケージ化することによって問題含みの融資に伴うリスクはパッケージの中で拡散されるため、実際に一部がデフォルトになっても損失は残りの融資から得られる利益で相殺されるという。しかし、これだってデフォルトして場合の損失が残りの融資でカバーできるかを判断することになるはずで、各融資案件の検討は、どちらにしても投資判断の際に検討しなければならないのではないか。私の常識では、そう考えます。そこがウォール街の発想と私の場合の根本的な文化の違いなのでしょうか。どうしても、感覚的かもしれませんが、どうしてそう思うのかが根本的に理解できないようです。

そのあと、トランシェと呼ばれるリスクとリターンの階層分けを行うようですが、なぜそのようなことが必要なのか、そもそもの時点から何を考えているのか、理解不能で、錬金術の呪文のように思えてきます。

銀行としては、こうすることで融資によるデフォルトの引き当てを外部に流出させることで、規制を逃れて、より多くの融資ができるということなのでしょう。何か貸したら貸しっぱなしということになり、融資するかしないかの審査の必要がなくなってくるようにも思えます。

この手法を開発したJ・P・モルガンでは当初は社内の与信枠という制約を取り払うことが当初の目的だったのが、次第に、スキームをつくり販売する手数料収入が大きくなり、次第にそちらが主体となっていきます。それは、CDSを売りまくる。実際の最初の頃の取引においては、大規模なデフォルトが発生し、7億ドル分の備えがすべて使い尽くされた場合には、J・P・モルガン自体が追加的な損失を引き受けることが明記されていた。しかし、そのような事態が実際に発生することはないというこが前提されていたようです。しかし、当時の欧州の規制当局は、その前提を共有してわけではなく、そこで、損失が発生した場合の資本手当てがされていない分(さっきのJ・P・モルガンでは7億ドルを超えた場合)のリスクをスーパーシニアというCDSを作り出したわけです。そして、CDSは銀行のバランスシートに積みあがって行きました。さらに、新たな試みとして、手を付けようとしたのが住宅ローンにリスクについてでした。しかし、デフォルトリスクの潜在的な相関性を追跡できず、正確に評価することはできないため、断念します。しかし、他の銀行は住宅ローンを使ったCDSを販売し始めました。J・P・モルガンの担当者は、それがどうして可能になったのか、不思議に思ったということです。

その後、銀行と証券の垣根が実質的に取り払われ規制がなくなり、金融イノベーションの波の中で、J・P・モルガンは次第に他行に遅れをとり始め、チェース・マンハッタンと合併するものの、エンロンやワールドコムの不祥事の波をかぶり低迷していき、CDSのチームも次第にバラバラとなり、他の会社に移るものもあらわれました。これを機にCDSは一気に業界全体に広がり、取引量は飛躍的に増えます。

2010年12月 9日 (木)

ゼルダ「ダンシング・ディズ」

Zelda Zeldaというバンド名から、「グレート・ギャツビー」のスコット・フィッツジェラルドの妻で、ロスト・ジェネレーションと呼ばれる第一次世界大戦後の空虚さに生き晩年は狂気に沈んだ女性にちなんでの、いかにも女子大生(現代では死語となりそうなニュアンスですが)らしさというのを感じます。1980~90年代というから女の子バンドのはしりとでも言うのでしょうか。音的には、当時のニューウェブと言われた風潮とニューヨークのアーティスティックなインディペデントなバンドやグラム・ロック、具体的には、初期のロキシー・ミュージック、デビッド・ボウィ、ブライアン・イーノ、ルー・リード、ニューヨーク・ドールス、パティ・スミス、トーキング・ヘッス等のもろもろの影響を受けたのが分かる音楽を演ってたように思います。同時代の人には、これらの名があがるのを見ると、スノッブで耽美に染まり易く、ある程度の屈折を見せて、しかし、実態はニュー・ミュージック・マガジンのようなお堅いロック雑誌なんかを購読したりして真面目にロックをお勉強した、というのだったのではないかと思います。

で、今日は、このバンドのダンシングデイズというアルバムです。これは当時の最先端であるビデオと同時に発売されたものでした。当時は、最先端で、とても新鮮だった映像をまじえて演奏を聴いてみると、上でお話したようなこのバンドの性格が良く出ていたように思えました。

オープニングの後、演奏されるクエスチョン・ワンと言う曲は、ノリノリのロックンロールナンバーで、客席はノリノリになるのですが、実際に演奏する彼女たちはというとクールで、映像を見ると良く分かります。このあたりにも彼女たちの知的にロックを捉えようとする特徴が良く出ているというのか(いい意味でも、悪い意味でも)、といえると思います。例えば、この曲の歌詞は、ニューヨーク・アンダーグラウンドのバンドやギンズバーグなんかの影響がよく感じられるものですが、ボーカルの高橋佐代子は独特のハスキーで、少し呪術的な雰囲気を醸し出す声で、熱狂的に叫ぶというのではなく、歌詞が聞きとれるようにひとつひとつの言葉をはっきりと発声し、しかも歌詞のフレーズの歌い方も、歌うと言うよりは朗唱するように雰囲気で、陰影を与えながらうたっています。サポートメンバーのパーカッションは熱くなっていますが、ドラムは正確にリズムを刻み、ベースラインは複雑です。そして、ギターの石原富紀江がフロントプレイヤーという派手さがなくて、ボーカルに寄り添うようで、しかし、独立性をもった、つかず離れずでプレイしています。曲調は違いますが、ボブ・デュランの「追憶のハイウェイ61」の最後の長大な曲“Desolation Row”でデュランのボーカルと拮抗するギターのようです。しかし、こっちのゼルダの方はノリノリのロックンロールナンバーです。このギターの聴き所はボーカルのバックでソロフレーズを密やかに始めて、だんだんに前に出てくるところ。そして、この人のギターソロは、短いリフをつなげて大きなフレーズを創り出す。クラシック音楽の演奏家ならば、長く深いフレージングと言われるのと同じもの。リフをつなげて長く長くなる。そしてなが~くなったフレーズが波打つようにうねるのです。それは、ひとつひとつの小さな波が重なって波打つ大海原になるようです。以前に西脇千花の演奏するスカルラッティのソナタK27について書きましたが、彼女のピアノのフレージングは、ここでの石原のギターにも共通するものに思います。このようなスケールの大きなギターが派手に前に出ることなく、ボーカルとのバランスを取りながら、しかも数分のノリノリのロックンロールの中で演られるという、堀の深い音楽となっています。

ジリアン・テット「愚者の黄金 大暴走を生んだ金融技術」(1)

以前に呼んだ「リーマンショック・コンフィデンシャル」と時期的に重なるが、CDSやCDOといった金融商品を生み出した人々と、その金融機関であるJ・Pモルガンの側から、金融危機を見ようとしたドキュメンタリー。本書もそうだが、ここでも以前に取り上げた「リーマンショク・コンフィデンシャル」にしても「ザ・クオンツ」にしても、綿密な取材が行われ、豊富な知識を駆使して書かれているので、門外漢にも読みやすい。これだけのものが書けるジャーナリストが何人もいて、何冊もの本が出版されると言うのは、アメリカではこの分野に対する関心が日本より高い社会というなのだろうか、ということを思ってしまう。果たして、日本の銀行家や証券マンで、この本に出てくるジェイミー・ダイモンのようにある程度人口に膾炙される人はいるのだろうか、かつての安田善次郎のような立志伝の人物は別にして、現在はいないだろうし、人々の関心もそういうところにはないと思う。その意味で、アメリカという社会の特異性が現われている本とも言えるのではないかと思います。文化的な背景の違いのためか、私の頭が硬直しているためなのか、そもそも債権の証券化ということ自体が、よく理解できないので、個人的に本書の議論には、時折、途中で置いてきぼりを食らったものでした。例えば、日本のケースで言えば、銀行がある企業に運転資金を貸し付けたりするとき、大抵の場合は、その後の貸し付け先の企業の経営状況を債権者ということで、帳簿を見る権利をもっている立場などによって注視して、時には追加融資等を行って、融資先の企業を成長させ、最終的には企業が成長した際には、銀行も企業も互いにWin Winで利益を得るというようにイメージしていました。しかし、債権を証券化してリスクを売り払ってしまうということは、融資先とそのような関係を継続することは難しくかるのではないか。融資した時点で証券化によりデフォルトのリスクを回避し、当初の見込み収益を先に確保できるとは思いますが、リスクを負うことによって将来得るかもしれない長期的な大きな利益を放棄してしまうことになるではないか。また、社会の公器としての金融機関の使命というような考え方はないのでしょうか、と思うわけです。(これが金融危機の時点で、審査もしないで住宅ローンの貸し付けを行うという無謀な事態になっていったかもしれませんが)その最初のところで、個人的に躓いてしまったので、理解しながら読み進めることは、難しかった。ただし、これは本書の価値を貶めることではなく、あくまでも、読んでいる私の側の個人的な事情によるものです。

2010年12月 8日 (水)

King Crimson 「Earthbound」

Earthbound 音質は悪く、演奏にもムラがあります。しかし、一曲目の21st Century Schizoid Man、キングクリムゾンのマニュフェストともいっていい曲、この曲の演奏だけでこのアルバムの価値は十分にあると思います。それほどまでに、この演奏は素晴らしい、凄まじい。同じバンドの太陽と戦慄に関しての投稿のところで、ロックと言う音楽には初期衝動のようなものがある、というようなことを書きました。しかし、それは単なる衝動であって、一度発散すると衝動は収まっていくもので、多くのロックバンドはデビュー曲が一番素晴らしく、あとは尻すぼみのように衝動が萎えて、パワーを失っていく。太陽と戦慄はそれを精緻にコントロールして、聞き手にも衝動を起こさせるような、煽りまでやってみせた。と言うようなことを書いたと思います。しかし、これは如何にうまくやったとは言っても、初期衝動を絶やさないというような保守的な姿勢が、どうしても拭えないものです。どこか守りの姿勢が感じられるのです。これに対して、アースバウンドでの21st Century Schizoid Manの演奏は、そんなことも吹っ飛んでしまうような衝動の塊のような演奏です。とはいっても、単に絶叫しているだけ、にとどまらない音楽的に昇華されたものであるのですが(そこが、また凄い!)

メンバーは「Lizard」や「Islands」の当時のメンバーで、この2枚のアルバムは、どちらかというとスタティックなイメージが強かったのです。しかし、ここでの、とくに管楽器を扱っているメル・コリンズが言うなれば、 “逝っちゃった”“ブッ翔んだ”状態にあります。冒頭の有名なフレーズがひとしきり演奏された後、すぐに即興パートに移りますが、「In The Court Of Crimson Kingでの整った演奏とはかけ離れたものになっていきます。メル・コリンズのサックスは聴いていてフレーズが把握できないほど目まぐるしく、即興的に音が紡ぎ出してきます。周りのメンバーも当初はついていけないほど。徐々に、メル・コリンズの煽りを受けて、他のメンバーも狂い出して、ベースやドラムスといったリズム部隊も突っ走りはじめます。ここで凄いのは、個々のメンバーが個々に即興に走っている様で、実は同じ方向を向いているので、バンドとしてのまとまりを辛うじて保っていて、崩壊しそうで崩れないという、演奏全体に凄まじいスリルと緊張感が漲っている点です。ここでは、ロバート・フィリップは陰に隠れてしまっているようです。で、最後に各々で即興していたのがおきまりの21st Century Schizoid Manのフレーズで再びまとまったときの、まるでピンぼけだったレンズの焦点がピタリと合ったときのような圧倒的なカタルシスで演奏は終わります。(よくもまあ、終わったものだと思う)これは、本人たちも意図してできるような演奏ではないと思います。何かの拍子で演ってしまった、奇跡的な瞬間だったのではないかと思います。

大久保隆弘「エンジンのないクルマが変える社会 EVの経営戦略を探る」(6)

自動車のコア・コンピタンスという視点からは、エンジンがなくなり、代わりにコアとなる電池を持たない自動車メーカーは自動車に比べて不利になるが、電池メーカーが取って代わるということはないだろうと著者は言います。しかし、コアとなる期間部品が電池になることで否応なくモジュール化は進展し、新たなクルマづくりの枠組みが産業に生じる可能性はきわめて高いと言えます。コアのコンポーネントである電池やモーターを中心に部費の水平統合化は進み、自動車メーカーの系列的な取引関係を主体とした枠組みは崩れていくことになるでしょう。自動車の動力源が必ずしも自動車メーカーから生まれる保証がないというのが、新しい時代のフレームであり、これからのモノづくりの設計思想や開発、生産、企業間の連携や競争に大きく関わる前提条件となるでしょう。また、川上産業、例えばエンジンの部品数は1万点以上に及び産業の裾野は広いが、EVに代わられると、部品の取引量も業者の数も減少する。それはエンジンやその周辺、変速機、駆動系が電池、モーターやインバータに置き換わることによる。

またEVが社会的に普及し、エンジンによる自動車と変わらぬ便利さをもてるためには社会インフラの整備が不可欠と言えます。

このあと、今後のEVをめぐる戦略について、著者は具体的な提言を展開します。これは、本書の核心ともいえるべきものなので、実際に本書を手にとって読んでみることをお勧めします。

私の個人的な感想は、EVは自動車の動力がエンジンからモーターに変わることによる変化を筆者は丹念に追いかけでいるように見えますが、モーターによるEVとエンジンによる自動車は全く別のものという発想はないですね。そのような可能性は否定できないと思います。だからこそ、テスラのようなEVを製作するベンチャー企業が生まれてきているわけですし、中国で世界に先駆けて大規模にEVが作られ始めているわけですから。その時に、従来の自動車の概念とは、発想自体が異質な代物が出てきてスタンダードになる可能性も否定できないのではないか。例えばテスラにEVのデザインはエンジンによる自動車では考えられものです。そうなれば、パソコンのようにモジュラー化したモノづくりで生産されたEVが普及する可能性もあるわけです。例えば、近距離の買い物等に用途を絞り込めば快適性などは多少我慢しても価格がうんと安くなれば、消費者は歓迎するかもしれません。

だから、本書で著者が分析している内容は、この2~3年は慥かにそうだと思いますが、その後の中長期的には、ひとつの可能性として見るものではないかと思います。液晶テレビの最近の数年のアジア等への爆発的な普及とそのフィードバックとしての欧米での低価格化は予想を超えるものだったのではないかと思います。そのような将来の不確定さ、場合によっては可能性がEVにはあるし、著者の主張しているような戦略を取る場合には、当然リスクとして考えざるを得ないと思います。私は、EVにはそれだけのポテンシャルがあるのではないかと思っています。

2010年12月 7日 (火)

大久保隆弘「エンジンのないクルマが変える社会 EVの経営戦略を探る」(5)

EVとなってモノづくりは変っていくのかという視点から。エンジンの自動車では、自動車会社と部品を供給するサプライヤーの関係がクルマづくりには非常に大切であり、自動車産業は、各自動車メーカがサプライヤーを傘下に従えながら、自らが設計・開発した自動車のデザイン・機能・パフォーマンスに合った部品材料を統合しながら製品化する擦り合わせ型産業と言われ、企業間の調整能力や組織能力によって、一つの製品の品質を最高レベルに引き上げるシステムで日本企業はここに強みを発揮していました。このようなモノづくりの有様がEVの時代にどのように変化するのか、従来、エンジンを内製しない自動車メーカーは車体メーカーと呼ばれ自動車メーカーと一線を画されていました。それほどエンジンは自動車メーカーにとって他の部品とは異なる意味合いもつコアな存在でした。自動車メーカーは長い時間をかけて、このエンジンの性能の向上に努めてきました。これが自動車メーカーのコアであり、競争力の源泉でした。しかし、EVの出現によって、そのエンジンの必要がなくなります。エンジン変わる代替品として優れ電池を手にするメーカーが優位性を持ち始めています。

また、自動車メーカーにはエンジン以外にもコア・コンピタンスがあります。それは、走る、曲がる、止まるという自動車を設計、開発、改造する技術と、大量に販売するマーケティング機能を有していることです。自動車の開発、量産、販売のトータルプロセスには3万点に及ぶ部品を関連企業とともにインテグレーションする活動が伴い、これをコントロールする機能を有するのが自動車メーカー最大の強みです。

エンジンの代わりに電池になったとしても、自動車メーカーの技術・ノウハウなくして自動車は作れません。つまり、電池メーカーでは自動車を作れないのです。しかも、自動車は多品種大量生産で、車種も多く、モデルチェンジも頻繁に繰り返されます。それらを個々にインテグレートする必要があります。自動車メーカーは、コア・コンピタンスであるエンジンを失っても電池があればEVを作ることはできます。その逆は当面ありえないと言えます。このようなトータルインテグレーションの重要性に加えて、その中で従来の日本企業の強みをいかに生かすかと言う視点が大切で、次の3点の克服がポイントと言えます。

     軽量化

     低コスト化

     安全性

2010年12月 6日 (月)

大久保隆弘「エンジンのないクルマが変える社会 EVの経営戦略を探る」(4)

一方、電池に関しては90年代にニッケル水素電池、そしてリチウムイオン電池が実用化され、電池の発明から一世紀が経って、ようやく新しい原理が発見されたことになります。しかし、その90年から現在までに20年が過ぎ、その間改良による性能の向上やコストダウンはあったものの、基本的な原理は変わっていない。半導体などの進化のスピード比較すると遅々としているように見えます。電池の技術開発の特徴はセレンディップ(思いがけない幸運)なもので、これを見落とさず実現に結び付けるのは開発者の経験と熟練に裏づけられた勘が必要で、計画とおりに開発が進むと言うものではない性格のものです。

電池メーカーとしては長年鉛蓄電池とその周辺事業を続けてきたGSユアサがあり、三菱自動車、あるいはホンダとそれぞれにリチウムイオン電池の合弁を行っています。

もともと、リチウムイオン電池は日本で製品化された製品で、当初は日本企業が世界市場を独占していましたが、現在は中国や韓国にシェアを奪われつつあります。半導体や液晶で日本が韓国や中国に取って代わられたような構図は未だ生じていません。しかし、2010年代初めのPHV、EVの発売を目指して、世界の自動車メーカーと電池メーカーの提携はほぼ終わっています。だいたいのところ、日本の自動車メーカーと日本の電池メーカーの提携,、欧米の自動車メーカーと韓国、中国メーカーの提携という構図におさまります。このことは,日本の電池メーカーのグローバル化を妨げる危険や欧米主導による標準化の流れに遅れをとるリスクを孕んでいます。

さきに、電池の技術開発の特徴を述べましたが、リチウムイオン電池が今後このまま順調に進化していくかは、例えばDRAM半導体のようにイノベーションサイクルがあって、数年サイクルで一定期間を経た後に確実に次の段階の製品ができるかというと、必ずしも電池の歴史と同様で不透明です。現時点では、基本的な技術は公知のものとなり、アジア勢のキャッチアップが始まっています。これはリチウムイオン電池のイノベーションが成熟期に差し掛かっているか、あるいはライフサイクルの踊場にあって次の段階への移行時期が到来している、ということを意味しています。しかし、先は見えないという状況です。もし、イノベーションが滞ると次はコスト競争になってしまい、日本企業は市場からはじかれ淘汰される結果にもなりかねない。はじかれた企業には次のイノベーションを起こすチャンスは失われてしまいます。それがエンジンの競争と電池の違いです。最悪のシナリオは、イノベーションが停止したときに、すぐに追い越され、その都度日本企業は競争から脱落し、またイノベーションが生じて追い越せても、イノベーション停滞期に技術的優位さなくなり、コスト競争力で追い越される。その繰り返しの果てに日本企業は1~2社が存続するだけとなり、完全にイノベーションが停止したときに、市場からすべて排斥されることになってしまうというものです。

リチウムイオン電池の進化を陰で支えているのが材料メーカーであり、正極、負極、セパレータ、電解液の四つの要素で構成される二次電池は、各要素別に異なる材料メーカーが電池メーカーに供給しており、これらは日本企業が優勢を保っています。リチウムイオン電池は、材料自体の進歩や材料間の組み合せがイノベーションに大きく関わっており、この分野ですべての材料メーカーが備わっているのは日本企業の優位性と言えます。しかし、材料メーカーは日本のみならず世界のメーカーに材料を供給しており、材料では差異化できません。電池メーカーの差異化の可能な範囲は自社が特許を取得する以外は、素材の組み合せや配合、製品化、電池の量産化技術などにかぎられる。

2010年12月 5日 (日)

大久保隆弘「エンジンのないクルマが変える社会 EVの経営戦略を探る」(3)

三菱自動車は電気自動車の開発を40年以上にわたり行ってきていました。90年初めにソニーがリチウムイオン電池の開発に成功すると、三菱自動車も自動車用の電池研究を始めました。そこでの開発上の問題は、リチウムイオン電池の性能の向上と安全性の確保でした。性能を上げると安全性に問題が生じるという二律背反性を有する難しい一面があります。06年ハイブリッドが注目されていた時期に三菱自動車はEVの本格的な商品開発組織MiEV推進部を新設します。それはトヨタやホンダに2~3周遅れでやっても勝負にならず、長年の実績のあるEVしかないという、意識であったという。商品化の難点は、電池性能と車体の問題で、実用的な効率から言えば、電池のユニットはコンパクトであるほうがいいが、航続距離を考慮すると多くの電池を積む必要があるという二律背反の問題でした。また、モーターとインバータは重電関係のメーカーである明電舎が手がけました。大手自動車メーカーであれば、電池もモーター、インバータも内製化を進めます。特にインバータはエンジン車でいえばエンジンとトランスミッションでありコアの部分です。これを明電舎が任されたことでコアを外に切り出された格好になりました。

一方、日産自動車はカルロス・ゴーンCEOのもと中長期的な計画のもとで進められました。オーチャードコンセプトと長期的な課題を技術開発によって果実としてユーザーに提供する意味合いで名づけられたもので、果実(技術、製品、機能)を育む果実園ようなの経営方針です.このような果実園経営の特色は、顧客に対する価値を最初に考え、定義し、時期を明確にして、それを最初にするためのプロセスを逆行するように手段、方法、必要資源を考え、各々の技術者の持つ知識・技能をつなぎ合わせて整理し、最大の顧客価値を発揮する果実が実を結ぶようにそれぞれに明示するところにある。この中でEVの誕生は、単にリチウムイオン電池が開発されたとか、いいモーターが完成したからというものではなく、EVという果実の価値を顧客視点ではかり、創造のプロセスを階層化して明確にする。電池のような基盤技術に対しても疎かにせず継続的、組織的に向き合っている。

このように、三菱自動車も日産自動車も経営危機を乗り越え、不遇の時代を長く経験し、その間にトヨタやホンダに差をつけられ、HVの開発に遅れをとり、その結果、EVに経営資源を傾注させて、トヨタ、ホンダの先を行く創造的な次世代自動車を完成させました。というわけで、両社にとって、EVは起死回生のイノベーションと言えます。

2010年12月 3日 (金)

大久保隆弘「エンジンのないクルマが変える社会 EVの経営戦略を探る」(2)

アメリカはオバマ大統領がグリーン・ニューディール政策を打ち出し再生可能エネルギーの開発と利用を前面に打ち出した長期政策です。ここで特に関係するのは、PHEVの開発による自動車産業の復興とスマートグリッド等による電力供給の安定化と効率化であろうと、筆者は言います。かつて、1990年代の初め、当時クリントン政権が打ち出した情報スーパーハイウェイ構想に敏感に反応することができず、インターネットをパソコン通信程度の利用価値と捉え、情報ネットワークが発達した後の壮大なビジネスチャンスを予期できなかった。そして、90年代半ばに日本にITの波が押し寄せたときには、すでにアメリカが主要な技術の規格を整え、通信サービスと運用システムを掌握していました。今回も、同じような波が押し寄せる可能性は極めて大きいと筆者は言います。しかも、今回はエネルギーと電力・電気産業、家電・エレクトロニクス産業、自動車産業など国の基幹産業を直撃する可能性があります。ここで、大きな鍵を握るのは、EVでもスマートグリッドでも蓄電池です。

この政策の狙いは、単に地球環境の保護、温暖化防止にあるのではなく、再生可能エネルギー社会への転換を政策的に誘導し、すでに支配権を奪われた石油エネルギー、電力、自動車、家電などの産業を強化し、再びこの分野で世界の強力なリーダーの地位を奪還しようとする意図が読み取れます。さらに政治的な脅威である中東諸国に対する政治的牽制、豊富なエネルギー資源を有するロシア、あるいはBRICs諸国に対する技術革新による牽制にもなります。そして、次世代エネルギーの核となる技術の獲得と規格標準化をリードし、アメリカに永続的な富をもたらす仕組みを作ることにあると筆者は言います。そして、筆者はこの政策の実現の鍵を握っているのは日本だと言います。アメリカの製造業は株主重視の経営により短期的な数字を追いかけるあまり、製品ポートフォリオ戦略の罠にはまり,成果につながる長期的な芽を摘み取ってしまう傾向にあります。液晶や二次電池がまさにそうなのです。そして、これらの開発を長期にわたって続け製品化したのは日本企業です。日本はアメリカが開発を滞らせた二次電池を携帯電話やカメラ、ノートパソコンなどの小型電子製品に応用して成長を遂げてきたわけで、アメリカが開発過程で越えられなかったいわゆる「死の谷」や「ダーウィンの海」を企業同士や社内の技術の融合、裾野の広い製造業での新製品活用で市場を形成しながら乗り越えてきました。グリーンニューディール政策に大きな影響を与えるのは、この日本の技術基盤とモノづくりの総合力だと筆者は言います。アメリカはポートフォリオを組み替えるうちに収益性のない事業は売却によって外部に放出してしまい、モノづくりの技術を融合させる基盤が足りていません。その意味で、日本がアメリカと対等な相互補完関係を築く絶好のタイミングであると筆者は言います。

電気自動車の歴史は古く、ガソリン自動車と変わらぬものですが、価格が高い、航続距離が短い、パワーが乏しいといった阻害要因があり、これらのほとんどと鉛蓄電池によるもので、リチウムイオン電池の登場により、一気に商品化が進みました。日本企業がEVなどのエコカーの開発を本格的に始めたのはカリフォルニア州が90年に定めたZEV規制によるものです。排ガスを出さない新車を03年には10%にするというものでした。後に、この規制は改められました。

2010年12月 2日 (木)

大久保隆弘「エンジンのないクルマが変える社会 EVの経営戦略を探る」(1)

Ev 最初に著者は本書の目的を次のように書いています。“エコカーの中でも「エンジンのないクルマ」であるEVに焦点を当て、開発の背景や各社の取り組み、今後の市場競争などに触れながら、EVが与える産業や社会への影響ついて、経営戦略やテクノロジーマネジメント、マーケティングといった経営学の視点から考察している。特にEVの登場によって

     自動車のモノづくりは、どのように変化するか

     グローバルな自動車産業・電池産業の競争がどうなるのか

     EVの普及のために必要な産業政策や企業の戦略はどうすべきか

     EVによって、関連業界や他産業はどのような影響を受けるのか

     日本経済にとって、EVや電池産業がどのような意義を持つのか

     将来の自動車はどのように変化するのか”

EVをめぐる覇権競争は、従来の自動車メーカーの行ってきた競争とは本質的な違いがあると、著者は言います。その第一の点は自動車からエンジンがなくなるという点です。自動車メーカーは長い歴史をかけてエンジンの性能向上に努めてきました。例えば燃費の向上、排ガスの削減、軽量化など、このような良いものを安く作るという思想で延々と少しずつ積み重ねてきた競争が、電池になると機械工学で言う匠の技の世界ではなく、電気化学のイノベーションの世界に取って代わります。突如として新しい進化が生じたり、長い低迷期が続いたりするのです。エンジンのような努力の積み重ねではなく、段階的で、従来の開発のタイプのマネジメントとは異なるのです。

第二に、自動車メーカーのモノづくりの特徴は、自動車メーカーを中心とした系列化にあり、多くのサプライヤーの作った部品を自動車メーカーが効率よく組み立てるという垂直統合的なモノを行ってきました。しかし、電池とモーターは、自動車メーカーだけの力では、開発と量産化ができないものです。技術のない自動車メーカーは、電池技術のある電池メーカーなど外部に依存しなければならなくなります。内製する自動車メーカーと外部依存する自動車メーカーとの格差が始まるだろうし、強い電池メーカーは複数の自動車メーカーと取引をする可能性もあります。従来の垂直統合の系列化から電池を中心とした水平統合的なモノづくりに発展する可能性もあります。

2010年12月 1日 (水)

小林敏明「廣松渉─近代の超克」(4)

ここで、近代の超克の議論に戻ることにします。この「超克」とは超えることで、そこに超えられるべき「境界」なり「限界」が想定されていなければなりません。超えられるべき地平を備えたものは閉じられたシステムとみなされます。これは、さきの丸山の視点とは正反対で、全体化され、ひとつの対象として捉えられます。これが近代の超克で議論された基本的な「近代」像です。「超克」はその境界を超えて外部に出る、つまりは「近代の彼岸」を求めることを意味します。これは廣松にも共通することで、著者は「体質」の問題といいます。廣松は『〈近代の超克〉論』の中で、近代主義に対する反撥、京都学派に対するアンビヴァレントな態度を明らかにしていますが、このアンビヴァレント(両面)の片面をなす共感について、廣松本人は理論的共通性の中に見出しています。しかし、著者は一歩進めて、このようなことを発想させる土壌があると言います。このような土壌の自覚的な立ち入りは廣松が遠ざけた日本浪漫派に見られます。それは近代をひとつの限界あるシステムとして捉え、そこからの脱出を図るということです。そして、この基本姿勢を背景的原因に著者は斬り込もうとします。その手掛りとして、ドイツでは近代化に遅れたところで反近代の風潮が生まれて来るということから、近代化の遅れという条件は「近代の超克」という発想を生み出す土壌にもなりうると著者は言います。「遅れて来た」ということは、すでに近代を体現した先行する国や地域を「外部」にモデルとして持っているということです。だから近代は初めから「他者」として立ち現われる。逆にいえば、自らが近代という世界の中にどっぷりと浸かりこんでいたら、それを対象化したり、それを全体として超克するというような発想は生まれてきません。これは、マルクス主義の資本主義批判にも言えることです。近代の超克という議論は、すでに近代が矛盾を露呈し終焉期に向かっていると考えていながら、その発想自身が誕生したのは、まさにこれから近代に向かうところだったということです。ここで、廣松の境遇を考えてみると、「田舎」という日本内部での「遅れ」と、今度は日本自体が抱えた「遅れ」という二重の遅れを体験していたことになります。同じことが総じて地方出身者であった京都学派の近代の超克推進者にも当てはまるのです。遅れの側にある者には、自分たちが破壊ないし解体されるという危機に面している意識があり、近代の側から破壊者が侵入してくるということへの抵抗の意識が生ずるわけです。しかし、その一方で前近代から脱出を図ろうとする彼らには、近代は憧憬の対象でもあるので、そこに反発と憧憬の入り混じったアンビヴェレントな「敵」が生まれることになります。このような廣松や京都学派にとって近代を超克するかぎりは近代の彼岸という問題が生ずるわけですが、この彼岸は実現されていないわけで、必然的にユートピアのような性格を帯びてくることになります。著者は、廣松と京都学派がともに「田舎」という辺境に原点をもっていて、世界をそこから「遠心的」に見ていたという原点遠心的な発想スタイルできわめてよく似ていると言います。

つまり、著者は近代の超克と近代主義は人々が思い込んでいるほど簡単に二つの陣営に分かれてどちらかに腑分けできるような単純なものではなく、一人の思想家の内部においてさえ拮抗し合い、その拮抗の処理においてその思想家の個性を決定しているものと言います。この両者の拮抗関係は当面続くし、この拮抗関係の中からこそ真に鍛えられた思想が生まれると筆者は言います。このような拮抗に値する超克論を提示しえた廣松という思想家の営為があると言います。

最後の結論に向けて、それまでのペースから急に駆け足になったきらいはありますが、先に主体のゆくえとも関連するところがあり、その関連が理解を助けてくれました。としても、結論はいまひとつ分かりにくいもので、著者の廣松にたいするスタンスから、これが精一杯のところだったのではないかということは分かります。断言をするのはここでは形骸化のおそれがあるし、なかなか難しいのは分かりますが、ここまで京都学派と廣松の思想上の相克を追いかけたのだから、では、京都学派と廣松とはどうなのかということを、触れて欲しかった。そうでないと、結局のところ、みんな根っこは一緒というような、まぁまぁ…、というような受け取られ方をされてしまう恐れも感じる。しかし、本書の魅力は、ここに至るまでのプロセスで、当初の著者の意図である廣松の日本思想史に対する位置というのか、思想史上の相克はある程度、このプロセスで見えてくると思う。これを廣松のすべて言説から引き出してくる著者の廣松に対する読み込みに対しては、脱帽するしかない。

あるIR担当者の雑感~番外

今日、私の勤め先の第2四半期の決算説明会が終わりました。なんだかんだ言ってもIR担当者にとっては、一大イベントなので、とにかく無事に終わると、ほっと一息です。

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