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2010年12月21日 (火)

小田内 隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」(8)

異端審問において注目すべきことは、告白という手続を実践したことである。異端審問の網にかかった者は執拗に告白の言葉、彼についての真実の知を求められた。その最終的な目的は、告白と言う手続きによって隠された異端の罪を言説化する、つまり自白することであり、そのためにあらゆる強制手段が動員された。筆者は言います。“M・フーコーが言うように、告白制度は人々に自己に関する真理(罪・欲望・性など)を語るように義務づけ、それによって自らのアンデンティティを神に対して明らかにすることを求める。それは権力による個人の形成であった。年に一回は信徒を「呼び出し」、告解手引書に規定された質問にしたがって告白と悔悛を要求し、彼を「キリスト教主体」に形作る。このようにして告白は信徒の内部に教会が提示する真理に対して「服従する意志」を創り出す.信徒は自己の罪や欲望について語ることによって、そうした告白を導く支配関係を内面化する。いうまでもなく教会の悔悛の秘蹟では信徒は「自発的に」告白することを求められた。一見したところ逆説的であるが、異端審問における告白は監禁や拷問の使用が許される強制的な性格が露骨であるにもかかわらず、最終的にはその真理性は告白の自発性によって保障されると考えられた。密室で余儀なくされた告白は、そのあとに被告によって「自分の」ものとして認められなければならなかった。”このように異端審問で告白が偏執的なまでに求められた事実は、ある意味で異端の本質に関わるものであった。異端は神や教会の神聖尊厳に対する「反逆罪」として観念され、キリスト教社会の根源的秩序を侵犯する「言語に絶する犯罪」とみなされた。それだけに、悔悛の秘蹟で扱われる普通の罪とは異なり、あらゆる強制手段を用いてでも告白させなければならなかった。これによって服従する意志を個人の内面に創り出し、キリスト教世界の統一を防衛することが目指された。著者は言います。“M・フーコーによれば、近現代社会では権力は、被支配者の「自己」を主体として組織化し規律化する。主体の規律化のための様々なシステム(学校・労働施設・病院・工場・軍隊)が登場する。それらを通じて支配は内面化され、「各人が自らの監視者であるような視線」が創り出された。近代国家のような集中し浸透する権力や、グローバルで包括的な市場経済やコミュニケーションのシステムが出現する以前にあって、その実効はきわめて限られたものであったとはいえ、この種の権力が13世紀のカトリック司牧の変革、とくに異端審問の中に一つの端緒をもつことは明らかである。”

最終的な結論、というのか一つの果実はキリスト教会という社会で「選び」という個人の主体的な選択が、反秩序に結び付き「異端」として排除されていく構図です。これは、最後のところでM・フーコーに触れていましたが、フーコーが狂気や犯罪を対象として分析して見せた、社会的な統合のプロセスで、アウトサイダーとして排除されていく構図に類似しています。筆者は分析の前提としてフーコーの方法論が念頭にあったのかもしれません。そして、異端が生じてくる構図として、私には極めて説得的に思えました。で、比較の意味で同時代の日本の状況をみれば、いわゆる鎌倉新仏教が民衆を背景に、親鸞、日蓮などのような宗教カリスマの手で次々と誕生していたわけです。キリスト教において異端とされていた分派の人々はなぜ、親鸞や日蓮のように新たな宗派もしくは宗教をスタートさせなかったのか。それが大きな疑問としてのこりました。さらに想像を膨らませていくと、後の20世紀になってキリスト教を正面から否定して見せたマルクス主義の陣営において、ソ連でスターリンが権力を掌握した後の粛清のなかでトロツキーやジノヴィエフ、カメーネフといったスターリンの競争者たちがマルクス主義の名のもとに粛々と粛清の決定に従ったのか、同じように中国の文化大革命で朱徳等か同じように粛清に従ったのか、中世キリスト教の異端審問と同じような空気を感ずるのです。これは想像が飛躍しすぎたかもしれません。さらに、初期のカオスともいえる成長が一段楽して安定期に入った集団の中で、制度的な秩序が形成されてくる、同時に官僚制が生まれてくるなかで、初期の活力は集団の制度的安定にとってはマイナスに働くケースもよくあることで、異端排除の構造にはそのような性格もあるように思います。これは、卑俗な考えかもしれませんが、成熟期にはいった企業の中で出世のための足の引っ張り合い、もしくは派閥の争いの力学が、これに近いところをなぞっているようにも思います。そのように意味で、中世のことを述べていますが、私にとってはアクチュアリティーを感じることができる著作だと思いました。

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