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2010年12月 1日 (水)

小林敏明「廣松渉─近代の超克」(4)

ここで、近代の超克の議論に戻ることにします。この「超克」とは超えることで、そこに超えられるべき「境界」なり「限界」が想定されていなければなりません。超えられるべき地平を備えたものは閉じられたシステムとみなされます。これは、さきの丸山の視点とは正反対で、全体化され、ひとつの対象として捉えられます。これが近代の超克で議論された基本的な「近代」像です。「超克」はその境界を超えて外部に出る、つまりは「近代の彼岸」を求めることを意味します。これは廣松にも共通することで、著者は「体質」の問題といいます。廣松は『〈近代の超克〉論』の中で、近代主義に対する反撥、京都学派に対するアンビヴァレントな態度を明らかにしていますが、このアンビヴァレント(両面)の片面をなす共感について、廣松本人は理論的共通性の中に見出しています。しかし、著者は一歩進めて、このようなことを発想させる土壌があると言います。このような土壌の自覚的な立ち入りは廣松が遠ざけた日本浪漫派に見られます。それは近代をひとつの限界あるシステムとして捉え、そこからの脱出を図るということです。そして、この基本姿勢を背景的原因に著者は斬り込もうとします。その手掛りとして、ドイツでは近代化に遅れたところで反近代の風潮が生まれて来るということから、近代化の遅れという条件は「近代の超克」という発想を生み出す土壌にもなりうると著者は言います。「遅れて来た」ということは、すでに近代を体現した先行する国や地域を「外部」にモデルとして持っているということです。だから近代は初めから「他者」として立ち現われる。逆にいえば、自らが近代という世界の中にどっぷりと浸かりこんでいたら、それを対象化したり、それを全体として超克するというような発想は生まれてきません。これは、マルクス主義の資本主義批判にも言えることです。近代の超克という議論は、すでに近代が矛盾を露呈し終焉期に向かっていると考えていながら、その発想自身が誕生したのは、まさにこれから近代に向かうところだったということです。ここで、廣松の境遇を考えてみると、「田舎」という日本内部での「遅れ」と、今度は日本自体が抱えた「遅れ」という二重の遅れを体験していたことになります。同じことが総じて地方出身者であった京都学派の近代の超克推進者にも当てはまるのです。遅れの側にある者には、自分たちが破壊ないし解体されるという危機に面している意識があり、近代の側から破壊者が侵入してくるということへの抵抗の意識が生ずるわけです。しかし、その一方で前近代から脱出を図ろうとする彼らには、近代は憧憬の対象でもあるので、そこに反発と憧憬の入り混じったアンビヴェレントな「敵」が生まれることになります。このような廣松や京都学派にとって近代を超克するかぎりは近代の彼岸という問題が生ずるわけですが、この彼岸は実現されていないわけで、必然的にユートピアのような性格を帯びてくることになります。著者は、廣松と京都学派がともに「田舎」という辺境に原点をもっていて、世界をそこから「遠心的」に見ていたという原点遠心的な発想スタイルできわめてよく似ていると言います。

つまり、著者は近代の超克と近代主義は人々が思い込んでいるほど簡単に二つの陣営に分かれてどちらかに腑分けできるような単純なものではなく、一人の思想家の内部においてさえ拮抗し合い、その拮抗の処理においてその思想家の個性を決定しているものと言います。この両者の拮抗関係は当面続くし、この拮抗関係の中からこそ真に鍛えられた思想が生まれると筆者は言います。このような拮抗に値する超克論を提示しえた廣松という思想家の営為があると言います。

最後の結論に向けて、それまでのペースから急に駆け足になったきらいはありますが、先に主体のゆくえとも関連するところがあり、その関連が理解を助けてくれました。としても、結論はいまひとつ分かりにくいもので、著者の廣松にたいするスタンスから、これが精一杯のところだったのではないかということは分かります。断言をするのはここでは形骸化のおそれがあるし、なかなか難しいのは分かりますが、ここまで京都学派と廣松の思想上の相克を追いかけたのだから、では、京都学派と廣松とはどうなのかということを、触れて欲しかった。そうでないと、結局のところ、みんな根っこは一緒というような、まぁまぁ…、というような受け取られ方をされてしまう恐れも感じる。しかし、本書の魅力は、ここに至るまでのプロセスで、当初の著者の意図である廣松の日本思想史に対する位置というのか、思想史上の相克はある程度、このプロセスで見えてくると思う。これを廣松のすべて言説から引き出してくる著者の廣松に対する読み込みに対しては、脱帽するしかない。

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