ダニエル・J・レヴィンティン「音楽好きな脳 人はなぜ音楽に夢中になるのか」(4)
私たちの身の回りの世界に対する理解は、まず特定の個々のもの(人、木、曲)から始まる。そして周囲と関わる経験を通し、それらの特定のものを脳内でほとんど例外なく、あるカテゴリーのメンバーとして処理する。ロジャー・シェパードは、これまでここで考えてきたこと全体の一般的な問題を、進化の観点から説明した。すべての高等動物は、外面と事実について、三つの基本的な問題を解決する必要があるとシェパードは言う。生き延び、食べられる物と水と隠れ家を見つけ、捕食者から逃げ、子孫を残すために、生き物は三つのシナリオに対応しなければならない。第一に、二つのものがそっくりに感じられるときでも、それらは本質的に別のもののことがある。鼓膜、網膜、味蕾、触覚センサーに同じパターン、またはほとんど同じパターンの刺激を与えても、それぞれ違うものかもしれない。木になっているのが見えるリンゴの実は、今、この手にあるリンゴとは違う。交響曲から流れてくるヴァイオリンの音色は、すべてのヴァイオリンが同じ音符を演奏していても、何挺もの異なる楽器の音が集まったものだ。第二に、二つのものが異なっているように感じられるときでも、それらは本質的に同じもののことがある。ひとつのリンゴを上から見るのと横から見るのとでは、まったく違って見える。正しく認知するためには、このような別々の見え方を、筋の通ったひとつのものの表現にまとめあげられる計算体系が必要となる。感覚受容器が、重なり合わないまったく別々の活性化パターンを受け取っても、私たちはそのものの統一された表現を作り上げるのに欠かせない情報を抜き出さなければならない。私は、いつも話をする友だちの声を両耳で聞き慣れているかもしれないが、電話を通して声を聞いたときにも、片方の耳で、それが同じ人物だとわかる必要がある。外面と事実についての第三の問題には、さらに高次元の認知プロセスが関わっている。第一と第二は近くのプロセスで、ひとつのものにもいくつもの見え方や聞こえ方がある、また、複数のものが(ほとんど)同じ見え方や聞こえ方をすることもあると理解していく。そして第三は、外面が異なるものでも、同じ種類に属しているという考え方だ。これはカテゴリー化の問題で、最も強力で最も高度な原則になる。高等哺乳動物や鳥でも多くは、さらには魚さえ、カテゴリー化する力をもっている。カテゴリー化では、外面の異なるものを同じ種類として扱う。赤いリンゴは青いリンゴと違って見えるかもしれないが、どちらもリンゴだし、私の母親は父親は似ていないが、とぢらも私の保護者で、いざというときには頼れる存在だ。適応行動には、体の感覚器官が受け取った情報を分析できる計算体系が必要で、情報から(1)まわりにあるものや場面の不変の性質と(2)そのものや場面が示している瞬間的な状況を把握しなければならない。レナード・メイヤーは、作曲家、演奏家、聴き手が音楽的な関係の基準となっているきまりごとを内面的に自分のものにし、その結果としてパターンの意味するものを理解して、形式のきまりごとからの逸脱がわかるようになるには、分類が絶対不可欠だとしている。
音楽が基本的な特徴からの変形や歪みにとても強いということだ。曲で使われているピッチを変え(移調)、そのうえテンポと楽器を変えてしまっても、まだ同じ曲だとわかる。音程、音階、さらに長調から短調へ、短調から長調へと調性まで変えることができる。さらに例えばブルーグラスからロックへ、クラシックへとアレンジを変えても、歌は同じままだ。これほど劇的な変化があっても、まだその曲だとわかる。それならば、私たちの脳にある記憶装置は、こうした変形を経ても曲を聞き分けられるようにする何らかの計算式や計算記述を導き出しているように思える。
私たちの音楽の記憶が、階層的にコード化されていることを示すものだ─すべての単語が等しく目立っているわけでも、曲のフレーズのすべての部分が等しい立場をもっているわけでもない。私たちが歌を途中から始められる場所や止められる場所は決まっていて、それは音楽のフレーズに対応している。これも、テープレコーダーとは違う点だ。この階層的なコード化という考え方は、ミュージシャンを対象にした実験によって、別の方法で確認されている。ほとんどのミュージシャンは、よく知っている曲を演奏するにあたって、途中のどこからでも始められるわけではない。ミュージシャンたちは曲を、階層的にフレーズ構造に従って覚えている。音符の集まりが練習の単位となり、小さい単位が集まってもっと大きい単位になり、それが集まってフレーズになり、さらにフレーズが集まってヴァースやコーラスや楽章になり、最後にはすべてが集まってひとつの曲になる。演奏家や歌手に、自然なフレーズの区切りの二、三個前や後の音符から始めるように言っても、普通は無理だろうし、楽譜を読むときでさえ同じことだ。別の実験では、ある音符が曲に出てくるかどうかをミュージシャンに思い出してもらうと、その音符がフレーズの先頭やダウンビートにあるときのほうが、フレーズの中間やウィークビートにあるときより、早く正確に思い出せることがわかった。音符も、その音符が曲にとって「重要な」音符かどうかに応じて、カテゴリーに振り分けられているようだ。素人が歌を歌うとき、曲のすべての音符を記憶しているわけではない。「重要な」音─音楽の訓練を受けなくても、どの音が重要かについては誰もが正確で直観的な感覚をもっている─と音調曲線だけを記憶している。そして歌う時点で、ひとつの音から別の音に進む必要があるのを知っていて、間の抜けている音は個々に覚えずに、その場で埋めていく。この方法によって記憶の負荷は大幅に減り、効率も高まる。
多痕跡記憶モデルは、私たちが曲を聴きながらメロディーの不変の特性だけを抜き出せるという事実を、どのように説明するだろうか?メロディーについて考えてみると、私たちは計算を行っていることは間違いないだろう。絶対値、表現の詳細─ピッチ、リズム、テンポ、音質などの細部─を登録しているほかに、私たちはメロディーの音程や、テンポを除いたリズム情報について、計算しているにちがいないのだ。マギル大学のロバート・ザトーアらの神経画像研究が、これを示唆している。側頭葉の背側(上部)─ちょうど両耳の上あたり─にあるメロディー「計算センター」が、音楽を聴いているときにピッチとピッチの間の音程の差と距離に注意を払い、移調した曲も分かるために必要となる、ピッチを取り除いたメロディーの値だけのテンプレートを作っているらしい。私が行った神経画像研究では、よく知っている曲によってこれらの領域と海馬の両方が活性化する。海馬は脳の中心深くにある構造で、記憶のコード化と取り出しに不可欠であることが知られている。こうしたさまざまな実験結果は、私たちがメロディーに含まれている抽象的な情報と固有の情報のどちらも蓄えていることを示している。これは、感覚に対するあらゆる種類の刺激に共通していると思われる。記憶は文脈も保存するので、多痕跡記憶モデルは、私たちがほとんど忘れかけていた古い記憶を呼び戻すことがあるのも説明できる。通りを歩いていたら、長く嗅いだことのなかった香りが漂ってきて、それがきっかけとなって遠い昔の出来事を思い出したことはないだろうか?または、ラジオから流れてきた古い歌を耳にした途端、心の奥深くに埋もれていた、その歌が流行ったころの思い出が、急に頭に浮かんできたことはないだろうか?こうした現象は、記憶というものの核心に迫るものだ。たいていの人は、アルバムやスクラップブックのように一連の記憶をもっている。友だちや家族に何度も話したエピソードや、苦しいとき、悲しいとき、落ち込んだとき自然に想い浮かぶ過去の経験は、自分が誰なのか、どこからやってきたのかを思い起こさせてくれる。これは自分の記憶のレパートリーで、ミュージシャンのレパートリーや演奏方法を知っている曲のように、何度も再生を繰り返している記憶だと考えることができる。多痕跡記憶モデルに従えば、すべての経験が潜在的に記憶の中でコード化されている。脳の特定の場所に保管されているわけではない。脳は倉庫のようなものではないからだ。記憶はニューロンのグループによってコード化され、それらが正しい値に設定されて一定の方法で構成されると、記憶が呼び戻されて、心の劇場で再生される。思い出したくても思い出せない壁があるのは、それが記憶に「保管」されていないからではない。問題は、該当する記憶にたどり着く正しい手かがリが見つからず、神経回路を適切に構成できないことにある。同じ記憶に何度もたどり着けば着くほど、思い出を呼び戻して回想する回路が活発になり、その記憶を呼び戻すために必要な手がかりを簡単に見つけられるようになる。理論的には、正しい手かがりさえあれば、どんな過去の経験でも思い出せるということだ。多痕跡記憶モデルでは、記憶の痕跡とともに文脈もコード化されていると見なすので、人生を歩みながらことあるごとに耳にしてきた音楽は、それを聞いたときの出来事と組み合わせて保存されている。だから、音楽はあるときの出来事に結びつき、それらの出来事は音楽に結びついている。
記憶は音楽を聴くという経験に、あまりにも深遠な影響を与えるため、記憶がなければ音楽はないと言っても過言ではない。たくさんの理論家や哲学者が言ったように、音楽の土台は繰り返しだ。音楽は、私たちが聞いたばかりの音を記憶に蓄え、それを耳から入ってきている音と関連づけることで、成り立っている。そうした音の集まり(フレーズ)が、変奏や移調という変化を伴って後からもう一度聞こえてくれば、記憶システムが喜ぶと同時に感情センターが刺激される。神経科学者たちはこの10年間で、記憶システムが感情システムにいかに密接にむすびついているかを明らかにしてきた。長いこと哺乳動物の感情の在り処と見なされてきた扁桃体は、海馬のすぐ隣にある。そしてその海馬は長いこと、記憶の呼び戻しではないにしても、記憶の保管に不可欠な構造だと見なされてきた。今では、扁桃体が記憶に関与していることがわかっており、とくに強烈な感情を伴う出来事や記憶によって強く活性化される。私の研究室で行ってきた神経画像の研究ではいつも、扁桃体は音楽に反応して活性化するのに、ただの音や音楽的な音を、でたらめに寄せ集めただけのものには反応しないという結果が出ている。大作曲家によって巧みに作り上げられた繰り返しが、私たちの脳を感情的に満足させ、音楽を聴くという経験をこんなに楽しいものにしているのだ。
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