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2011年1月15日 (土)

西島千尋「クラシック音楽はなぜ<鑑賞>されるのか」(5)

第4章 音楽を愛そう─日本国民は将来みんなクラシック音楽鑑賞者

太平洋戦争の敗戦により、占領軍の指導を受けながら教育基本法が施行される。そこで、音楽鑑賞教育が新たに始められた。この指導要領の作成にあたったのが作曲家の諸井三郎だった。彼は、音楽美に触れることで人間性および精神生活を高められると考えており、それが知識や技術の教育に対する、芸術教育の意義であると考えていた。さらに作曲家としての立場から、日本の音楽を世界水準に待て持っていくという理想を抱いていたという。そのためには、専門家だけでなく、根本的土台を支える聴衆、子どものころから豊富な音楽経験を持つ優れた聴衆の育成がひつようであった。その対象とした音楽はクラシック音楽であった。彼の理想は、留学先のドイツで出会ったような音楽愛好家だが、このような理想と当時の民衆の趣味に大きなギャップが存在し、そのギャップを急激に埋めることは容易でないことも分かっていた。そこで、段々と向上させることが、現時点での目標であると考えていた。しかし、教育現場では、鑑賞教育は普及しなかった。なぜなら、教師が実際にどう教えていいか分からなかったからである。しかし、諸井の鑑賞に対する考え方は共有されていった。<鑑賞>は知識や教養という捉え方でなく、精神の訓練でもなく、心の活動を豊かにさせることが鑑賞の目的であるという。このような心の強調に伴い批判されるようになったのが言葉だった。音楽の美は言葉で表わすことはできないのだから、美辞麗句を用いて音楽を説明することは真の鑑賞を阻害することであり、直接の音楽の美しさを味わうことにあるのだ。と心と言葉が対立的に扱われるようになった。しかし、当時の大多数の国民にとって音楽はうたったり楽器を奏でるもので、きくものではなかった。

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