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2011年1月16日 (日)

西島千尋「クラシック音楽はなぜ<鑑賞>されるのか」(6)

第5章 音楽は「ただきく」ものではない─<鑑賞>と「きく」ことの違い

昭和25年ごろより朝鮮戦争などを契機に占領軍の方針が転換し、米国の指導が強まった。また、諸井三郎による指導要領は高度すぎるということで、改訂が行われた。その中で、米国の影響が強まり、<鑑賞>は英語のアプリシエーションの訳とされた。その意味は、音楽の本質・美をききわけ、ききとり、享受すること。さらにリスニングに当たる聴取とを意図的に対比した。つまり、聴取は断片的な音を感覚的に聞く聞き方であり、この音色は何の楽器の音かなどの取り扱い。これに対して鑑賞は全体的、統一的な音楽を精神的に聞く聞き方となります。鑑賞の意義は音楽を美的対象として受け入れることとされました。

ここでの「きく」ことには知的な面とマナーの面が特徴的です。子供たちはやがて社会人となるので、その際のために音楽をきくエチケットを身につけておく事を求めた。また、それ以前の知的な鑑賞が復活した。しかし、また、実際には鑑賞教育はあまり実施されなかったといっていい。これは、音楽科の教員の多くが演奏家としての教育を受けていたことや、鑑賞の意義が教育現場に浸透していなかったこと、また、鑑賞の定義づけが抽象的で、高度な印象を与えてしまったむこと、さらに、このような<鑑賞>に対して評価を加えることの難しさ、などによるためと考えられます。このころから、ただ「きく」ことと<鑑賞>の差異化が進む。それはまた、流行歌に対してクラシック関係者が抱いていた脅威も影響している。彼らに言わせれば、レコードが与える音楽(つまりは流行歌)に屈服することで主体性を失い、音楽への真の感動を失ってしまうという危惧があるという。

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