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2011年1月18日 (火)

西島千尋「クラシック音楽はなぜ<鑑賞>されるのか」(8)

第7章 ポピュラー音楽にかなわないクラシック音楽─<鑑賞>教育の失敗

音楽鑑賞教材に対しては、多くの批判がありました。それらは主に、①一貫性がない、②保守的である、③クラシック音楽の中でもロマン派・古典派に偏重している、④クラシック音楽として正統的でない、⑤クラシック音楽に偏りすぎている、などです。さらに、もっと根本的な批判として共通の教材という制度により固定観念が生まれカリキュラムや教材の開発が進まないという批判でした。鑑賞教育により何を目指すかという議論から、いかに共通教材を教えるかに移ってしまったというわけです。

何よりも、音楽鑑賞教育の失敗と見なされたのは、子どもがクラシック音楽を好きにならないということでした。では、子どもたちはどのような音楽を愛好していたのかといえば、流行歌であった。この中で、ポピュラー音楽の愛好の仕方と、クラシック音楽の愛好の仕方が意識して区別されるようになる。ポピュラー音楽は感覚的にきけばよいが、クラシック音楽は感覚に終わってはならず、精神的にきくことの重要性や芸術的感動を得ることの必要性が説かれた。このため、以前はあったクラシック音楽に親しむというニュアンスは薄れていったと言える。これに対応して、ポピュラー音楽をただきく場合をリスニング、クラシック音楽をきく場合に対応するのがアプリシエーションと区別されていく。そこで、リスニングとアプリシエーションが切り離されていく。

これは教育現場での教員養成についても、大きな課題となった。教師自身が感動できないものをどうやって子どもに教えられるのか、という意見が現場からあがったのである。また音楽専科の教師は演奏家として訓練されるため、音楽鑑賞を低く見る傾向にあり、さらにクラシック音楽以外の音楽をほとんどきかないため、クラシック音楽の正統性に疑いを差し挟むことはなく、一般的な教員や子どもとも認識の溝は埋まらなかった。

一方、太平洋戦争に敗戦した戦後日本は文化国家を標榜した。これは、戦時体制が文化や芸術を抑圧したことへの反省や文化が平和に結びつくとの認識からで、当時の人々にとっては平和は切実であった。その一環でクラシック音楽が重視されたのであった。文化庁による芸術政策も進められた。芸術祭や文化ホールの建設など、民間でも音楽家養成学校や楽器メーカーによる教室などで底辺を広げる動きが始まった。ただし、この弊害としては、芸術は無料で享受できるとの風潮が広がり、数多く立てられた文化ホールが赤字に悩まされる原因はここにもあった。演奏施設や演奏者が揃ってくるに従って、聴衆が追いつかないという状況。鑑賞教育をいくら施しても、聴衆は育たない。関係者はポピュラー音楽への批判をもって、クラシック音楽の浸透を阻むものとしていた。その根底には、いったん優れたクラシック音楽に接すれば、子どもはその芸術性に気づくはずという傲慢ともいえる楽天主義があったようです。

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