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2011年1月11日 (火)

西島千尋「クラシック音楽はなぜ<鑑賞>されるのか」(1)

Kiku 音楽が「きく」対象として意識されたのは、19世紀中頃のドイツにおいてであり、それまでは音楽は踊りのため、労働のため、儀式のため、社交のためのものであり、ただ「きく」ために存在していたものではなかった。

日本では芸術とかかわることを<鑑賞>という。しかも、この言葉はもともと日本にあった言葉ではない。明治以降に使用され始めた言葉のひとつだ。しかも、<鑑賞>が指し示す意味は変化しつづけてきている。この変化の過程は、近代国家日本がいかに芸術とかかわるべきかの模索の経緯を表わしていると言える。しかも、興味深いことに、他国には<鑑賞>にあたる言葉はない。

序章 日本だけにある<鑑賞>と言う言葉

<鑑賞>と言う言葉には二つの意味がある。ひとつは世界各国にも共通する音楽のたしなみ方を意味し、もうひとつは最初に述べた日本独自の意味の鑑賞である。共通する音楽のたしなみ方とは、コンサートホールで聴衆として一定のルールを守ることであり、エチケットを守っていれば、心の中でどう思っていようが、それらしいコンサートになるわけです。実は、クラシック音楽のコンサートには、このようなマナーを含めてクラシック音楽に集中するしかけが為されている。例えば、コンサートホールは外界から遮断し、訪れる人を非日常的な空間に囲い込む、またホール内でも座った人の視線はステージに集中するように仕掛けられている。演奏が始まる前に証明は可能な限り落とされるが、それは誰が隣に座るが重要でなく、関心をステージに集めるためと言える。しかし、ステージでスポットライトを浴びる演奏者や指揮者が主役かと言えば、そうではない。例えば、オーケストラの服装は黒か白に限られている。これは召使の服装で、いわば音楽という主人に仕えていることを示している。このような様々なしかけ、聴衆が守るべきルール、そして芸術作品という考え方によって、クラシック音楽のコンサートは集団的な反応形式が重視される。その集団的な側面が<鑑賞>のひとつの側面、世界に共通する意味である。

それでは、<鑑賞>のもう一つの意味、つまり日本独自の鑑賞について考えてみよう。それは、個人の内面に踏み込む内容をもつ。ある音楽と関わっているとき、その人がどうきいている、どのように感じているかは分かりようがない。だが、クラシック音楽には理想とする聴き方があるという考え方がある。これは美学の用語でいう「美的体験」に似ている。自然対象や自然の光景、人工品のなかでは特に芸術作品を対象として、その感覚的な美質を味わい、さらに技術的・精神的な構築物である芸術作品の場合には、その制作の技法を評価し、そこに絶えず意味を探求し、さまざまな解釈の可能性を比較考量しつつ、全体の思想を把握するという、感覚的で技術的、かつ知的な多層的理解の、ダイナミックなプロセスである。しかし、<鑑賞>の対象は芸術に限定され、評価・判断の要素はふくまれていないようだ。また、外国語、例えば英語にも、appreciationのような似た言葉があるが同じではない。

<鑑賞>は明治中期に美術の分野で批評の意味合いで使われ始め、文学や音楽にも波及していった。大正から昭和にかけては批評は客観で<鑑賞>は主観という使い分けがなされていくが、批評がプロなら鑑賞はアマチュアといような、この区分も曖昧で、戦後になると<鑑賞>独自の概念が形成されていく。このような<鑑賞>の変遷の意味するところは何なのか。当初の鑑賞は翻訳語のひとつで専門用語であったのが、批評と使い分けられることで非専門化し、次第に主観性が強調されていく。この過程は専門家から、より多くの人々を鑑賞の主体として想定する過程であるであるとも捉えることが出来る。しかも、専門用語であった明治から大正にかけては権威を生み出す行為であった鑑賞が、徐々に権威に従う行為へと変化していった。このことを極言すれば、近代日本は、権威に従う鑑賞者を求めてきたとも言えるのではないか。

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