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2011年1月19日 (水)

西島千尋「クラシック音楽はなぜ<鑑賞>されるのか」(9)

終章 なぜ日本にだけ<鑑賞>という言葉が生まれたのか

ここまでのところで見えてくるのは、①<鑑賞>にはさまざまな意味があると言われながらも、実際には批評とは異なり、芸術に肯定的な意味を持つ言葉であったこと、②<鑑賞>を行う人が変化してきたことの2点である。

明治の<鑑賞>という言葉が生まれたころは、批評から享楽まで幅広い意味合いを含み込んでいた。その後、対象となる芸術がクラシック音楽に限定されていくにつれて、昭和以降、批評が専門家に、鑑賞はそれ以外の人と分化が進む。そのプロセスで音楽が、「きく」対象となり、独自の<鑑賞>概念が形作られていく。このこしは視点を変えて言えば、分化、つまり、分業化というのは仕事などで言えば効率化、つまり合理化を目的として行われることであり、批評と鑑賞の分業もまた、合理化であるとも言うことが出来る。国民全員が批評家という専門家になるには難しく時間を要するけれど、批評は専門化が請け負い、その他の人はそれほど難しい経験や探求を積まなくても、理解し味わったり愛好すればよい。鑑賞は、クラシック音楽を社会に成立させようとする人々と、その人々が他の人々をクラシック音楽に巻き込もうとする際に、クラシック音楽と人々を結びつけるために生み出された言葉であって、クラシック音楽の聴衆をより多くの人々にひろげようとする過程で鑑賞が形成されたと言える。

なぜ、全国民がクラシック音楽界に巻き込まれなければならなかったのか、という疑問が残る。現実に国民の誰でもが聴衆になれるような環境はステレオやレコードの普及や各地に音楽ホールが建設されコンサートが頻繁におこなわれる昭和50年代以降になってからだ。欧米のように芸術とその環境が存在していたのと、異なり、日本の場合は、明治初年当時、芸術を成り立たせることと、芸術が成立する社会のための教育制度を整えることを同時に行い、両者を切り離すことは出来なかったことに由来する。

もし、明治初年のクラシック音楽の輸入が単なる欧化政策の一環で、欧米に日本が文明化されていることをアピールするのであれば、国立のコンサートホールや、いくつかのプロオーケストラの存在程度で可能なことだ。しかし、日本の場合は、明治以前に伝わっていたものの多くを意図的に保護せず、国民全体を巻き込んでクラシック音楽界を築こうとした。これは日本が文明化された国家であることを示すにとどまらず、国民全員が文明化された近代的な国民であることを示そうとしたことに他ならない。鑑賞という態度を国民全員が見につけるということは、国民全員が近代的な人間として音楽とかかわるということでもある。<鑑賞>は感じ方は人それぞれ自由でよいと、主観的であってよいと言われるのは、そのベースにクラシック音楽が芸術であり、芸術であるから他の音楽よりも好きになってしかるべきだという客観的な価値判断がある。だから、関係者はポピュラー音楽への警戒感を露骨に示している。では、どのように、クラシック音楽をよしとする価値観を共有するか、どのようにしてクラシック音楽の魅力だとされている事柄を理解するか、<鑑賞>教育の課題として考えられつづけてきたことである。

そもそも、コンサートホールでクラシック音楽をきくエチケット、本書の言葉で言えば「世界共通のルールとしての鑑賞」から考えると、西洋芸術のルーツは古代ギリシャの人文教育にあり、野蛮な人間に対して人間らしい人間に導くことが目指されていたという。この人間らしい人間が持つべきものとして重要視されたのが言語であり、理性であった。この理性が近代には学問、法、芸術の三種類の価値領域に分極化する。こうして理性が重視されるに従って、蔑まれていったのが身体と言える。そこで、身体と関わりなく理性で音楽でかかわっていくことを示すために、音楽をきく以外の行為を行わないという「世界共通のルールとしての鑑賞」が用意された。コンサートホールではこのように個々の聴衆がひとり瞑想のうちに音楽を聞くという場を共有するのである。これは一面では、他人と快楽をともにすることにより楽しんでいる自分の姿を確認し合うことができるという理由がある。そして、さらに近代以降の社会では感情や興奮をコントロールすることが理性的とされた。コンサートホールで身体を動かさないからこそ、近代的な人間として感情をコントロールし、理性的に感動していることを表明できるということになるのだ。こうしてみると近代芸術の成立と理性的な受容の態度は表裏一体のものだと言える。すべての人間は理性を持っているという考えは、芸術はすべての人間に開かれていることになる。しかし、現実は芸術に積極的にアクセスする人間は限られたものだった。そこで、芸術と人々とを仲介する専門家が登場する。ところが、専門家が使用する専門用語は閉鎖的で神秘化され、芸術と人々との距離はさらに広がることになる。それでは、その段階をすっ飛ばそうという「芸術は理屈ではない、自由に心で感じればよい」という言説が説得力を持っていく。

国民全体を聴衆としてクラシック音楽へと誘うということは、国民全体を理性を備えた近代的な人間へと導こうとすることだと言えば、議論の飛躍だろうか。

本書は音楽をきくという行為、クラシック音楽を鑑賞するということの意義の変遷を追いかけることで、この特異性を考えていくというものです。以前にも「音楽好きの脳」とか、人は音楽をどのように受け入れるのかということに関連する本を読んだことがあります。著者の議論は類型になりがちですが、とても分かり易い。ここで言っているように、音楽で言うとクラシック音楽と流行歌の関係は、表現にかかわるもの全般にいえることです。演劇の世界で言えば、歌舞伎俳優は人間国宝として国家から顕彰されるのに、商売として多くの利益を生み出すテレビドラマの売れっ子タレントが何らかの表彰を受けるには、それなりの格調高いとされている芸術的作品と見なされる品目で、それは往々にして興行としては儲からない、で新境地をひらいたとか評価されなくてはならない。また、絵の世界で言えば日本画とか画壇といったものはすでに経営的には崩壊しているのに、国家的な保護で展覧会が開かれ、補助金が下りる。これに対して、まんがやアニメーションは表現の規制が行われる。この背後に流れるものを分析して見せたと言う点で、以前読んだ「芸術崇拝の思想」にも通じるところがあると思います。

もともと、このような著作に興味を持つようになったのは、例えばクラシック音楽で評論家や批評家と呼ばれている人たちが、自分がどのように音楽に接しているかと言うことに対して、無自覚でいるとしか考えられないような文章に多く触れてきたことへの欲求不満からでした。この演奏はいい、とか、この作品はいい、とか、彼らが言う場合に、どうしていいと言えるのか。かれらと意見を異にする人、ベーシックな音楽観を異にする人への言葉がないということです。そういう異質な人に話すには、先ず自分から、私はこうだというのを、相手と共通できる地盤まで下りていって、そこから違いを認識させていく議論が必要なはずです。それをしないと、単に好き嫌いの言い合いに終始することになってしまいます。例えば、著名な吉田秀一という音楽評論家は、文章はたいへん文学的で上手らしいのですが、なぜその演奏をとりあげたのかという議論は巧みに避けていて、たまに、そういう箇所にくると、この良さが分からない人はそもそもクラシック音楽など聴かなければいいのだ、と断言して決め付けてしまう。そういう不誠実さを目の当たりにしていると、そもそも、音楽に接するとはどういうことなのかと考えてみたくなったというわけです。この著者の議論は首肯で切る部分は多いのですが、少し物足りないところがあります。それは、きくという行為を切り離して独立させたのはクラシック音楽に特徴的なことかもしれませんが、レコードやCD、携帯音楽プレーヤーといったものは、一人しずかにきくために作られ、世界中多くのひとが利用している。クラシック音楽以外のきくだけではない参加する音楽も、この機器に取り込まれている。こういう状況まで踏み込んで分析してほしい。「芸術崇拝の思想」の著者ならここに文化帝国主義の幻影を見るかもしれません。

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