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2011年3月23日 (水)

宮木あや子「花宵道中」

Miyaki 江戸時代の吉原を舞台に遊女たちの人生模様を連作短編の形式で描く。ある妓楼での遊女たちが織り成す人間模様、それぞれの遊女たちの一人語りをさせるように、それぞれの性格を浮かびあがらせていく。時系列的には行きつ戻りつし、次第に、あの場面は、実はこうだったのかというのが、読み進めていくうちに、明らかになっていく。

遊郭を舞台にしながら極限の男女の愛憎やら、遊女たちの悲惨な境遇のような、いかにもの題材は背景でさりげなく少しだけ匂わされる程度。女性向け官能文学の賞を受けたということだが、濃厚な官能描写は抑えられている。

それぞれが、うまく書かれていると思う。女性向けとの先入観を持っているわけではないが、例えば、OLとかいった人には、環境こそ違え、仕事場での人生模様として、それぞれのキャラに自分と似た点を見出し、感情移入するとか、共感するとかして読めるのではないかと思う。その意味では、サラリーマン小説(OL小説)の時代物版と考えてもいいのではないかと思う。

例えば、最初の短編で朝霧という遊女が東雲という男と縁日で出会ったあと、座敷で馴染客の席で再開するも、遊女という立場がらその男の前で馴染客との醜態を見せざる得なくなる。その後、東雲がその馴染客を刺し殺した後、たった一度の逢瀬のあと、朝霧は自殺してしまう。これを東雲の側からの事情は第3話で明かされ、彼が殺したのは実の父であることが明かされ、彼は朝霧を姉に同一視しながら、抑えていた父親に対する複雑な思いをたぎらせ、殺害に及ぶのが書かれている。しかも、東雲が朝霧の姉女郎として彼女に芸を仕込んだ霧風という遊女の実の弟ということも明らかになる。このような錯綜した関係から、語られることはあると思うけれど、朝霧の心の動きというが、ほとんど書かれていないので、なぜ、東雲との一度の逢瀬から年季明けも近く、見受け先も悪くないところで決まっていたのに、自ら命を絶つまでに至ったのかが、想像できない。その後の短編のなかで、時々、朝霧の死はエピソードとして出てきて、周辺の事実は次第に明らかにされていくのだが、どうして、朝霧がそこまで思いつめたのか。また、そのような大きな事実が周囲の人々、例えば親しい遊女たちに対する波紋のようなことが、あまり書かれておらず、結局は、朝霧という遊女の存在感がとても稀薄になってしまっているように思う。これは、この作品の登場人物に全般に言えることで、その点では、題材といい、ストーリーといい、作者の手際の良さがめぐまれているのに、今一歩の突っ込みが足りないように思われて、非常に残念な気がした。

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