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2011年4月 5日 (火)

小穴晶子「なぜ人は美を求めるのか─生き方としての美学入門─」(6)

第5章     イスラム教

イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教と同じ創造主を信仰する一神教の系譜に属している宗教です。だから、イスラム教の世界観か、前章のキリスト教の世界観と同じものです。創造主である神がこの世を無から創造し、そうして始まった世界はやはり神の手による最後の審判で終わることになるというものです。こうした共通性を持ちながらも、キリスト教と決定機に異なる点は、イスラム教ではキリストが神の子であることを認めないことです。そして、イスラム教の独自な点は、ムハンマドが人間だということの強調です。ムハンマドの権威は、唯一、彼が「真の」預言者ということで、神の言葉がムハンマドを通じて人間に伝えられる、いわば、通り道のようなものです。問題は、ムハンマドを通じて伝えられた言葉が本当に神の言葉かどうかです。それを保証するのは、言葉そのものと言うことになります。それは神の言葉である「コーラン」を読んでみれば分かるということになるわけです。こんなに美しく、立派な言葉は神によるものとしか思えない。人間にはとうてい無理だという理屈です。神の言葉がそのまま書かれている聖典というのは、ユニークなもので、キリスト教の新約聖書はキリストの弟子が実際に自分の見聞したことを書いた形をとっているのと大きく異なるものです。このような聖典の違いは、それぞれの思想の考え方の違いと深くかかわっていると言えます。前章の通り、キリスト教はできるかぎり事実になろうとする思想であることから、神性を持ったキリスト、神と人との仲介者としてのキリストが事実存在するということで、神と人との距離を縮める。これに対してイスラム教には、神と人との距離を可能な限り遠くしようという傾向があります。神と人との関係は主人と奴隷の関係としてイメージされています。絶対的な言葉を介して神から人に命令が下る。神と人の両者は絶対的な断絶という関係にあります。この「絶対的な断絶」を強調することから、イスラム教では「偶像崇拝の禁止」という掟がとりわけ重視されます。人間の力の及びもつかない神について、何かをイメージすることさえ原理的に不可能なことであり、それをしようとすることは神に対する冒涜である。人間から神に向かうあらゆる道は閉ざされている。ただ、服従あるのみ。ということになるわけです。

このようなイスラム教と芸術との関係を考える上で最初に問題となるのは「偶像崇拝の禁止」の掟です。宗教的な活動のなかで具体的なイメージを描くことを禁止していることから、キリスト教のような描写的な絵画がないのです。その代わりに、イスラム教の宗教美術は、一般に「アラベスク」と呼ばれるデザイン化された文様が中心となります。ちなみに、西洋文化の中では、「アラベスク」という言葉は一般化されて、アラビアの文様以外のものを指すこともあり、その場合は、具体的な意味を持たないデザイン化された形象という意味で捉えられています。例えば、音楽の楽曲の標題に「アラベスク」とついていれば、悲しみや喜びなどを表現した曲ではなく音の戯れを楽しむための曲ということになります。イスラム教では、原則的に宗教儀式において音楽を使うことも禁じられています。なぜなら、音楽はあくまで人間の感覚にとってすばらしかったり、美しかったり、喜ばしかったりするものだから、それによって神を賛美すれば神も喜ぶだろうというのは傲慢な考えなのです。だから、それもやはり神への冒涜となり「偶像崇拝の禁止」の原理で否定されます。

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