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2011年4月 6日 (水)

小穴晶子「なぜ人は美を求めるのか─生き方としての美学入門─」(7)

第6章     仏教思想と日本の美意識

日本の文化形成には仏教、とくに大乗仏教と密教の多大な影響があります。仏教という思想の特徴として重要なものが「諸法無我」の考えであると筆者は言います。「諸法」とは一切の現象の法のことをいい、「無我」とは実体、本体と言われるような永遠不滅の存在はないということです。西洋思想でいうイデアや神のようなものは認めない、正確に言えば、あるかどうか人間には分からない、だから人間存在に関する確実で現実的な思想を展開しようとするかぎり、実体はないということか出発するということです。このような「無我」の考え方を肯定的に展開すれば、あらゆるものは生成消滅変化するということになります。これを人生最大の問題である死をどうやって乗り越えるかという問題で考えると、死を人間存在の真理の表れとして、心安らかに受け入れようということになります。つまり、実体的なものに縋るようことをしないで、死を心安らかに受け入れることが仏教の求める悟りの境地です。

「無我」の思想と関連して「縁起」という世界観も重要です。すべては縁によって決まるという、この世には関係性のみがあるという世界観です。普通、関係性といっても二つ以上のものがまずあって、それらの間に成立すると関係と考えますが、縁起とは、ものがあるというのは間違いで、本当は関係しかないということです。とすれば、世界は実体の集まりではなくて、縁によって起こる出来事の総体だということになります。出来事とは始まり終わるという運動のことで、本当はその運動しかないのに、運動する何かがあると思うのが迷妄ということです。例えば、仏教からきた無常観は、ふつう、人の命ははかないものだという説明されますが、このような仏教の考え方に照らし合わせれば、自分の命があってそれがはかないというのではなくて、そもそも自分の命があると思うことが迷妄なのであって、そう考えれば、自己の死もたいしたことでないと心安らかに受け入れられることになります。それが悟りの境地だということです。

このような悟りに至るには、どうしたらよいか。その違いが仏教の様々な宗派を生み出しました。おおきな流派として大乗と小乗に分けられます。小乗では悟りを開くためには出家しなくてはならず、しかも実際に悟りを開いたのは釈迦だけであり、「仏性」は釈迦のみにあるという考えでした。これに対して大乗は、すべてのひとが仏性を持ち、必ずしも出家を要しない、大乗は釈迦との時代的な隔たりが大きく、思想が釈迦個人偉大さを離れ、より一般的な論理性により考えられるようになった結果ともいえます。小乗の修業は自己完結したものでしたが、大乗では他社との関係も修行の対象となります、そのため仏教に思想的基礎をおいて国家を統一しようという聖徳太子のような者が出てくることになります。さらに、密教では釈迦を超えたものとして大日如来をつくりました。釈迦は心理を発見したから偉いのであり、論理的に考えれば真理の方が尊い、その真理をイメージ化したのが大日如来で、密教の悟りとは大日如来との一体化を指します。大日如来は、すべてのものでありつつまた何ものでもなく絶えず変化し続ける動きそのものです。それゆえ、あらゆるものは大日如来の化身であって、自分すらももとをただせば大日如来の化身であるから、そのままで大日如来と一体化する可能性があるというわけです。これを即身成仏と言い、密教の修業の目的である悟りの内実です。こう考えると、釈迦を悟りの手本とすることが無くなるわけです。極端なことを言えば、悟りを開くための経典を読んで勉強する必要もなくなります。では何をするかというと、呪術的な実践に傾いていくのです。

この呪術的な実践として儀式のための法具が、いわゆる密教美術です。その中心となるのが曼荼羅です。現代の人間から見れば美術品なのでしょぅが、当時では悟りだけでなく現世的なものをも包摂した欲望のイメージ化だったと言えます。すべてが大日如来の化身だとすれば、現世的な欲望も、それが大日如来であることが分かれば、そのことにより大日如来との一体化も可能なはずです。だから、どんな欲望も感覚的な喜びもすべて肯定するところから曼荼羅のような豊かな密教美術が花開いたと考えられます。

このような密教思想の影響により、日本ではふるくから「芸道」と言う言葉が使われてきました。西洋起源の「芸術」と対比的に考えてみると、芸術はartの翻訳ですが、これは技術と言う意味があります。古代ギリシャでは芸術はミメシス(模倣、再現)の技術というのが起源にあります。これに対して芸道の道は修行の道です。修行の道ですから、そこで目指されたのは人格形成です。だから、端的に言えば、道の実践によってできたものは副産物でしかないのです。一番重要なことは作り手がどれほど悟りの境地に近づいたかと言うことなのです。作品のよさは作り手の境地の高低によって左右されるものなのです。日本では中世に、密教の影響を受け、徹底した現世肯定の本覚思想が一般にまで広がりました。現世の全てを本覚(悟りの智慧)の現れとし、修行の道は何かを否定して禁欲することではなく、すべてを肯定することだ。だから仏教のことを知らなくても、芸により悟りに近づくこともできる。

著者は、茶の道を取り上げます。茶の精神を端的に示す言葉として、有名なのが「一期一会」で、一生に一度限りであることを意味します。お茶会での人の出会いは一期一会のものと思ってすべてが執り行われなくてはならず、今ここで一緒にお茶を飲んでいるこの人とは、これで別れたらもう二度と会えない。そういう状況で一緒にお茶を飲むにはどうしたらよいか。すべてが、例えば動作、場所や道具がこの点から考えられています。茶室の広さの標準は四畳半で狭く、みすぼらしく建てられています。これは存在を示す建物でなく、無を示す建物でなければならないためです。このような性格のものを「侘び」「寂び」といわれますが、それは一期一会の観点で見えてくるものの姿と言うことができます。茶道の大成者である千利休が活躍したのは戦国時代です。戦国の武将は出陣を明日に控えたとき、いったい何をしたらいいか、という問いが現実にあったわけです。それはむしろ、いざという時にあわてないように日頃から鍛錬しておく、それが茶道の目的だったと言えます。日常茶飯事というように、お茶を飲むことは全くありふれた日常的な行為です。もうこれが今生の別れだというときに、平常心を保って淡々と茶を入れ、飲むことができるようにしておく。戦国の世でなくても、普通誰かと別れる時、何の根拠もなくまた会えると思いがちです。しかし、それは迷妄といえ、縁起の世界観からすれば、すべては絶えざる生成消滅の運動の中にあるから、別れはいつでも今生の別れと言うことになるのです。逆に言えば、今生の別れは、お茶を飲むのと同じくらい普通の日常的な出来事ともいえます。この真理を全身全霊で納得すれば、心安らかに死を受け入れることができる。これが悟りの境地です。

これは、第1章で触れたギリシャ哲学の「死の練習」という点で、共通点があるように思われます。

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