無料ブログはココログ

« 前島賢「セカイ系とは何か~ポスト・エヴァのオタク史」(4) | トップページ | 山口瞳「血族」 »

2011年4月29日 (金)

前島賢「セカイ系とは何か~ポスト・エヴァのオタク史」(5)

第四章 セカイが終わり、物語の終わりが始まった? 2007~09年

2006年までには、セカイ系の終わりが認識されていた。そこに宇野常寛による『ゼロ年代の想像力』という強力なセカイ系批判が登場することで、延命していると著者は言います。この中では、宇野は、基本的には古い想像力(1995年後半の想像力)と新しい想像力(ゼロ年代の想像力)という二項対立を中心に議論を進める。古い想像力とは『エヴァ』を代表とする大きな物語(社会全体に共有される価値観)が崩壊し正しいことが何か分からなくなり、何かを成そうとすれば必然的に誰かを傷つけるという時代の空気から生まれた、「引きこもり/心理主義」的傾向とその結果出力された「~しないという倫理」が、その特徴である。一方、2000年代に入ると、引きこもっていては殺されてしまう「サヴァイヴ感」が社会に広く共有され始める。そんななかで、何も選択しないことの不可能性が明らかになる。そのなかで、その時代性を反映した作品が生まれている。このような作品には「決断主義」的傾向があり、これに対して、ゼロ年代初頭に花開いたセカイ系は、登場した時点ですでに時代遅れだったと宇野は言う。宇野のセカイ系に対する批判は2種類ある。ひとつは古い想像力であるという点、もうひとつはレイプ・ファンタジーであるという点です。「本当は女の子になんて戦ってほしくはないけれど」とか「本当は女の子を傷つけたくないけれど」と言った反省を間に挟み、にもかかわらず、仕方なく「戦ってもらう」「セックスする」ことで、罪悪感や責任感を軽減し、欲望を強化する構造を言っている。このような批判は、オタクたちの自己反省という欲望を正確に捉えたものではあるものの、この正しさは言説の内容ではなく、話者の立ち位置によって担保される性格のものであるため、外をめぐる終わらないメタゲームへと繋がる可能性を孕んでいると著者は言います。

このような宇野の批判の根拠にあるのは、オタクたちの反省への欲望にあり、その原因は『エヴァ』にあると著者は指摘します。しかし、『エヴァ』の主人公碇シンジは登場人物のアスカ「キモチワルイ」と拒絶されてしまう。著者はこれは監督である庵野のアニメの外に出よというメッセージではなかったかと言う。しかし、オタクたちは未だにアニメの内にこもり美少女に耽溺している自分と言う罪悪感こそが、まるで原罪のように自己反省の身振りを呼び、セカイ系という内省と自己言及の物語を生んだと、著書は分析している。

これでは、『エヴァ』の最後のメッセージに応えていない、自己反省に淫しているという批判もないわけではない。けれど、“自己反省がいけないと言うのなら、己の欲望のおもむくままに美少女に萌えればいいし、あるいは美少女ゲームをやめればいい。戦争批判などやめて、思う存分戦争を楽しめばいい。あるいはロボットアニメを見るのをやるればいい。しかしながら、それでは物語から葛藤や内省という重要な要素を奪い、あるいは物語自身がなくなってしまうように思える。それは、やっぱり残念だ。アスカは萌えるし、リアルな戦争はカッコイイのである。いくら批判されようと、人間はそう簡単に自意識を捨てることも、自己正当化をやめることも、自己反省をやめることもできない。そのような自意識、自己批判によって自己肯定する自己批判をする自己肯定をする自己批判をする自己肯定をする自己─という懊悩があればこそ、作品や批評も生まれてくるのであるのはないか。そのような自意識の運動の果てに、これまで見てきたようなセカイ系という文化が生まれてきたのなら、アスカに拒絶され、オタクをやめろと言われ、それでもオタクのままだった我々も、半分だけ、肯定されてもいいと思うのだ。”と著者は言います。

さて、セカイ系という言葉は『ゼロ年代の想像力』を経てオタク文化から、文芸へ、社会批評へと越境を果たします。それに伴い、その定義内容も拡散していきました。例えば『エヴァ』に対して、ロボットに乗って戦うことを拒否しようとする主人公の内向的な姿勢が批判の対象となる一方で、無差別テロを起こしたオウム真理教との類似において批判されるというように、ひとつの作品が全く正反対の批判を受けるという事態も起こりました。

この時期、オタク文化としてのセカイ系は終息していきました。その理由は、セカイ系自体に内包するもので、次のようなことが考えられます。ひとつは、『エヴァ』では衝撃的だったアニメ等のエンターテイメントで自意識の問題を赤裸々に一人語りを始めるというのは、同じような作品を他に何本も見たいとは思われない、言ってみれば娯楽の本分からの逸脱であり、最終的には出来損ないのエンターテイメントとしてしか成立しない宿命にあると言える。ふたつめは、これに関連するが、そもそも商売に向いていない。セカイ系の作品は、明確な構造によって支えられることになるため引き延ばしによる長期化には向かないし、戦闘シーンのような映像的に映えるシーンを排除してしまいがちのためアニメ化のようなメディアミックスにも不向きだし、そもそも一人語りは映像化を難しくしている。また、関連商品の展開も難しい。このような点で商品としての欠点が大きいことが、その原因と考えられる。セカイ系はサブジャンルのひとつとして定着しつつあるといっていい。筆者は、最後にポスト・セカイ系について、いくつかの可能性を提示していますが、それは、もはやセカイ系とは別物でしょう。

で、全体的な感想は、著者はオタク史といっても、冷静に概観するというよりは、渦中にあって、悪戦苦闘する現場実況に近い。だから、時折、分析を逸脱して思いを語り始めるところが、セカイ系的とも言える。そして、直前に取り上げた岡田斗司夫と続けたことにもよるのだろうが、岡田の言うオタク第三世代というのが、ここで語られていることに、ほとんど丸ごと当てはまってしまっている。だから、オタク文化の流れに通じていない人は、岡田の著作を読んでから、本作を読むと大きな流れの中でのセカイ系に位置を捉えられると思う。ただし、岡田も指摘しているように、趣味から自分語りというアイデンテテイーの問題になり、差異に重点が置かれると定義が拡散し、「オタク」とか「セカイ系」といった定義づけ自体が困難なのではないか。セカイ系の定義自体がもともと拡散していたのは、受容のされ方とか、受容するオタクのあり方の性格に起因する点もあるのではないか。むしろ、私には、そこにセカイ系の独自性があるように思える。というのは、本書で著者が言及しているセカイ系の定義や特徴について、セカイ系でない作品が次々と思い浮かんでしまうのだ。セカイ系と、それらがどのように違うのか、著者の議論では、いまいち説得的ではない。例えば自己言及に淫しているものとして、太宰治の『人間失格』や夢野久作の作品、あるいは世界を限定してしまうものなら少女マンガ、例えば紡木たくの『みんなで卒業をうたおう』や『ホットロード』、ループものなら萩尾望都の『ポーの一族』などとの違いは、と突っ込みたくなる。多分、そういう突っ込みを許してしまうような構造がセカイ系にあるのではないか。

« 前島賢「セカイ系とは何か~ポスト・エヴァのオタク史」(4) | トップページ | 山口瞳「血族」 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 前島賢「セカイ系とは何か~ポスト・エヴァのオタク史」(5):

« 前島賢「セカイ系とは何か~ポスト・エヴァのオタク史」(4) | トップページ | 山口瞳「血族」 »