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2011年4月 3日 (日)

小穴晶子「なぜ人は美を求めるのか─生き方としての美学入門─」(4)

第3章     中国の思想と東洋世界の美意識

ギリシャ世界と同じころ、東洋では中国で文明が発達していました。代表的な思想としては儒教があげられます。儒教は徹底した現実主義に立ち、ギリシャ哲学のように現実に存在するかしないか分からない魂のようなものを語ることはしません。儒教が人間の幸福とは何かと問う時、戦国の混乱した社会という現実の環境もあり、国家の安定が必要不可欠で、思想はそのために現実に向いていかなければならないというものでした。孔子は秩序の基本単位として家族を考えました。この家族のなかでは封建的な秩序関係がつくられるわけですが、この家族の維持が確保されれば家族を構成要素とする国家の安定は保証されます。これを維持するために秩序意識の植え付けとして「仁」つまり上位のもの、最終的には年上の男性を敬うという気持ちと、それを行動に移す「礼」が生まれました。こうした儒教の思想は、今日の我々から見れば支配階級のための思想と言うことができます。これが人々に受け入れられた理由は、どこにあるのか。儒教は国家の構成単位である家族の維持をも目的としています。つまり、儒教に従っていれば家族は維持され、たとえ自分が死んでも家族は永遠に続くことになり、結果的に自分も家族の連鎖に関わる、共同体としての不死に与ることができるわけです。こう考えると、儒教も死を乗り越えるための思想としても位置付けられることになります。どうやって人生を無意味な消滅に終わらせないかという課題について、ギリシャ哲学は魂の不死を説きました。これに対して儒教はもっと現実的に家族の永遠の存続に貢献することで個人の人生を意義づけたのでした。このような儒教は、美をどのように捉えていたのか。

儒教思想における「美」は「仁」の表れであると作者は言います。孔子にとって一番重要なのは「仁」の習得で、その段階として、まず「仁」とは何か、なぜ大切かを理解させる、次に毎日の「礼」の実践を通じて「仁」を身につけさせる、まだそれだけでは不十分で「仁」を行うことが楽しくなるまで教育しなくてはならない。全員が自発的に「仁」を実践するようにしないと、全体としての国家の秩序が安定しない。「美」という漢字は「羊」が「大きい」ということで、羊は生贄の動物で、美とは犠牲が大きいということで、個人を犠牲にして、家族や国家という全体のために生きられるということが根本にある。これを端的に示しているのが、音楽だ。音楽が目指しているのは音の調和だが、それは単に音の問題だけに止まらない。音の調和は、その音を出している人々、また、その音に耳を傾け聴いている人々の心の調和の結果と言える。いま自分がどんな音を出したらよいか、それは、それまでに出された音を受け継ぎ、次に出される音を予感するという連続の中で決まってくる自分の役割を認識した心の声でなくてはならない。すべての音が全体の調和を乱すことなく適切に奏でられたとき、最も美しい音楽が実現する。その美しい音楽を聴いて感動する人々、その感動のもとになっているのは、そこに集う人々の連帯感なのであり、このような状態の実現が自発的な喜びとともに行われるとき人々の調和が完成するというわけです。

このような儒教と全く反対のような老荘思想は、儒教とは、いわば車の両輪のようなもので。結果的に相互で補完関係にあるようです。老子が説いたのは無為自然ということで、人為的な儒教を批判し、人間は自然の一部で、もともと自然なのが、教育によって自然から遠ざかり、忘れてしまった赤子の心を取り戻すことが人生の目標となるわけです。老子の後の時代の荘子は、より個人的な視点で考察を進めました。荘子は、西洋で言う魂の救済をテーマとして取り上げたのです。しかし、現実的な中国思想の性格から、西洋の場合の来世というのではなく、あくまでも現世での救済を考えます。だから魂の救済というよりは心の平安と言い換えるべきかもしれません。荘子は、心の平安は真実のもののあり方を知ることによって、それは得られると言います。その荘子が真実のもののあり方として提示するのが「万物斎同」です。これは老荘思想で説くあらゆるものの根源である「道(タオ)」のことをさし、混沌の状態にあることをさします。混沌とは、あらゆるものがあるのだが、それらが皆同じ状態で、区別されない状態のことです。生まれてすぐのときは人もこういう世界に生きている、と荘子は言います。しかし、成長して分別がつく大人となると、つまり、周りの大人からああだこうだと分けて教えられてくると、かえって本当のもののあり方が見えなくなり、そこから悩みや不安が生まれてくるというのです。だから、真実のもののあり方を曇らせている分別を取り除いて「万物斎同」を悟ることが荘子の思想のテーマとなります。これを荘子は鏡に譬えます。鏡の表面には何もありません。だからこそ何でも映すことができる。鏡をそちらに向けさえすればいいのです。何もないからこそ無限のものを含むことができる。映すものを選ぶようなことはしないのです。こういう鏡のような心を獲得することが無為自然に環ることなのです。このような考え方と美というものが、どのように結びつくのかというと。例えば、中国の絵画で山水画と言うのがあります。西洋絵画では風景画最初に出てくるのが16世紀オランダで、実際の風景を描くということに、これだけ大きな時代の隔たりがあるのは、自然の捉え方が異なることが要因していると考えられます。これには自然にポジティブに性格が付与されることにより描かれる可能性が出てくるわけで、自然に環ることを人生の目的とする老荘の思想が自然の風景を描く山水画の成立に重要な役割を果たしたと考えられます。山水画を描くことは、このような理想をイメージ化するための重要な手段であり、それゆえに価値が認められるわけです。ただし、山水画は忠実な風景の写実を目指したものではなく、省略や誇張が見られるのは、老荘思想で目指された自然が人間の外の自然と内なる自然が一体化した自然だったからです。この場合の表現には、作為的なものは避けられます。無為自然の理想を表現技術では無心ということになる。さらに、荘子のところで根源であるタオを混沌ととらえ、分別することの愚かさを荘子は説きましたが、真実と言う観点から見れば、現実と非現実の区分もしないことにもなります。豊かなイマジネーションによる創造が成立する根底にあるのは、このような現実と非現実の境界に真実があるという考えです。

この章の最後では、儒教や老荘思想以前に起源をもつ陰陽五行思想について考えていますが、あまり美との関連は触れられておらず、章の最後のところでこう著者は言います。“さらに重要な点は、陰陽五行思想を支えているのが普遍的な合理性ではないというまさにその点である。五行配当、相生の関係、相剋の関係で見たように、この思想の論理性を支えているのはイメージの連鎖なのである。これは言ってみれば想像力の「論理」とも言えるものである。想像力は理性のように普遍的な合理性を持つものでない。だからと言ってまったくのでたらめでもない。青と言う色は論理的・必然的に木に結びつくものではないけれど、木、火、土、金、水のどれに関連が深いかとえば多くの人が木に結びつけることに納得するだろう。この結びつきが文化的に定着し継承されればさらに確かなものとなり、人々を動かす思想としての力を獲得する。そして人間にとって理性と同じく想像力は大切なものである。想像力の「論理」が主導する思想はほかにあまりないし、その意味でも陰陽五行思想は大事な例である。そして、特に、豊かなイメージ形成の力になった点では無視することのできない思想である。”

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