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2011年4月26日 (火)

前島賢「セカイ系とは何か~ポスト・エヴァのオタク史」(2)

第一章 セカイ系の中心でアイを叫んだけもの 1995~99年

セカイ系という言葉を最初に提唱したとされる“ぷるにえ”が最初に定義したのは

・エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品に対して、わずかな揶揄を込めつつ用いる

・これらの作品の特徴として、たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから「セカイ系」という名称になった

というように、作品の構造ではなく、「エヴァっぽい」作品を示すものが起源だったようだ。

『新世紀エヴァンゲリオン(以下、エヴァと略す)』は1995年にテレビ東京系で放送されたテレビアニメで、大きな商業的成功をおさめ、大きな話題となった。しかし、『エヴァ』がオタク文化史、あるいは日本の文化史の中で特筆すべき作品としての影響力の大きさは、商業的な成功だけによるものでない。ちょうど、『エヴァ』がテレビ放映された1995年の社会は平成不況が長期化し、経済大国日本という神話に陰りが生じ、阪神大震災や地下鉄サリン事件が起こり時代の閉塞感が表面化する。そのような不安な時代の中で、アダルトチルドレンに代表される心理学ブームが起こり、人々の関心も「内面」「本当の自分」といった内省的なテーマに向かう。『エヴァ』はそんな時代を鏡のように写しとった作品と著者は言います。心に傷を抱え人との距離感が分からない少年少女の心理面に重点を置いたストーリー、ロボットアニメでありながら、自閉的な主人公がロボットに乗って戦い成長する、というドラマツルギーを拒否する展開。そしてまた、聖書をはじめ様々な宗教、神話の引用からなるカルト的ともよばれる世界観。そのような自閉的で、終末的で、カルト的な90年代の空気を見事に捉えた同時代性により、『エヴァ』はアニメでありながら、オタク層以外からも大きな支持を得ました。

しかし、このような『エヴァ』の同時代性、普遍性は、必ずしも意図的なものではなかったと著者は言います。少なくとも放送開始時は、むしろ、正反対のきわめて狭い客層に照準した、もっと率直にいえば、究極のオタク向けアニメとして作られていた。そして、この試みの失敗により、かえって普遍性を獲得した=大ヒット作となった逆説的作品だと言える。

例えば、『エヴァ』のオープニングアニメは、カット割りがとにかく早い。わずか数コマしか登場せず、録画した映像をスローモーションでも見なければとても判別できないような絵が混ざっている。これを十全に鑑賞するためには、そのようなカットに気付く鑑賞力が必要だし、場合によって録画して繰り返し鑑賞する熱意を求められる。さらには様々に工夫された趣向、先行作品からの膨大な引用や参照。このような引用の群は、しばしばオタクたちに作品試聴態度の分裂を要求する。このような究極のオタク向けアニメとしての『エヴァ』は放送開始時から、オタクたちから歓迎されたと言います。

ところが『エヴァ』はそのような作品として完結することができなかった。製作体制上の問題からスケジュールが破たんしたと一般にはいわれているが、第19話あたりをピークに映像の質はどんどん下がり、ハイクオリティな映像は見る影もなくなり、物語の視点は、どんどん登場人物の内面へと移り、謎への回答は一切放棄され、最終話では、物語を完結するのを放棄したようにも見えるものとなった。

しかし、このような終盤における崩壊、失敗にもかかわらず、否、それ故に、『エヴァ』は単なるオタク向けアニメを越えた社会的大ヒット作になってしまう。著者は『エヴァ』終盤で描かれたのは、監督庵野秀明の内面、自意識の悩みそのものだったと言います。観客へのサービス精神を放棄し、自分の内面に目を向けたことで、かえって幅ひろい共感を呼び、外に開かれてしまうという皮肉な事態は、内省の時代、自分探しの時代だった90年代を象徴する出来事だったと著者は言います。このような『エヴァ』は激しい毀誉褒貶に晒されることになった。作品の受容態度を巡っての感情的な対立まで引き起こしていく。マニアとしてのオタクの態度には、作品を一歩引いて客観的にシニカルに眺める視点が不可欠で、『エヴァ』終盤の展開は破綻したものとして笑うべきもので、同時に一般大衆がトレンディドラマの主人公に没入するのと殆ど変らない理由で『エヴァ』の主人公に感情移入する視聴者は批判の対象となった。しかし、『エヴァ』終盤は、そのようなオタク的姿勢を観客に放棄させ、劇中で苦悩する主人公の姿に素朴に感情移入させるだけの内実を、切実さを、同時代性を獲得していたのも事実だ。そのような受け手からみれば、これを批判する態度は冷笑的に映る。それゆえにそれは作品の価値ではなく、作品を評価する個人の人格へと及ぶ。このような形で『エヴァ』をめぐる論争が激化したと言える。

最初に“ぷるにえ”が指摘したセカイ系の定義として「『エヴァ』っぽい」というのは、とくに後半の『エヴァ』のことであり、自意識というテーマで、これを受け継いだ作品こそが、セカイ系として名指されたと、著者は言います。

このような『エヴァ』後半につづくような作品は、低調であまり作られなかった。むしろ、ポスト・エヴァを狙ったアニメよりもライトノベルや美少女ゲームというメディアに自意識というテーマを正確に受け継いでいると著者は指摘します。

この二つのジャンルは、『エヴァ』ブームの渦中に変動期を迎え、決して大手とは言えない会社から送り出された作品が口コミで大ヒットにつながり、ジャンルのトレンドが大きく変わっていきました。実際にはゼロ年代はブームに沸くアニメよりもライトノベルと美少女ケームの時代になったと著者は言います。それには「萌え」というキーワード、美少女キャラクターを消費する「萌え」という作品受容態度に最も適していたのはアニメではなくライトノベルと美少女ゲームだった。さらに、『エヴァ』後半のオタクの文学としての側面、つまり内面を描くメディアとして発達した小説、活字こそが適していた。

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