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2011年4月 7日 (木)

小穴晶子「なぜ人は美を求めるのか─生き方としての美学入門─」(8)

第7章     実存主義と解釈学

東洋の思想と西洋の思想の基本的な違いとして、東洋の「この世主義」と西洋の「あの世主義」を著者は指摘します。西洋の思想は、イデアや神などこの世を越えたものを想定し、そこから逆算してこの世のことを考える。「本質」探究の姿勢は典型的な現れといえる。これに対して、現実の存在、つまり「この世」に目を向けようとしたのが実存主義です。

本質を探究するという立場からは、人間とは何かという本質(定義)が分かれば、人間はそのように生きるのが正しいということになります。こうして人生の目的が定まり、生きるべく生きていくことが人間にとり最高の幸せであるなら、哲学の最終の目的は幸福とは何かを考えることになる。これが西洋哲学の伝統です。しかし、実存哲学は、この問いそのものを問題視します。人間は何であるかと言う問いに対して、本質に記優秀されてしまわずに、絶えず本質からはみ出ようとする存在、そういうものとして人間を捉えようとしたのが実存主義で、「人間とは定義できない存在」という否定的な答えにより、人間とは何かという問いを無効にしてしまおうとする。実際に、人間とは何かという問いを立ててみて、様々な答えが用意できるし、これまで、様々な答えが出されました。答えの内容は様々であっても「人間とは何々である」と定義すると、それと同時に、「何々ではないものは人間ではない」という命題が論理的に成立してしまうことになります。そうすると、現実の存在としては人間であっても、この定義に外れるから人間ではないという存在が出てきます。定義には、このような排除が必ず含まれてきます。人間であって人間でないものが存在するのは、あってはいけないことだ。現に人間として存在している以上、どんな人間でも人間としての存在価値がある。すべての定義を取り去って、何はなくとも私を人間として認めよ、というのが実存主義の基本的な背景といえます。

著者は、ここでハイデッガーを取り上げます。ハイデッガーはまずSeinというドイツ語から出発します。「~がある」「~である」の両方の意味を持つ動詞です。Seinについて考えることは「ある」とはどういうことかを考えることでもあります。ハイデッガー自身も言っていますが、これを問うことは伝統的な哲学の問いです。ギリシャ哲学であればイデアという答えに行きつきましたが、イデアに代表される「本質」とは、言い換えれば定義のことで、ここでの言葉づかいでいえば「~である」ということになります。「~である」がすなわち、「~がある」ということになるわけです。しかし、「~である」に吸収されない「~がある」があるのではないか、と言う問題意識が出発点です。

そこで、ハイデッガーは、先の問いで問われるものを自分に置き換えます。「自分とは何か」という問いに対しては様々な答えが返ってきます。人間、男、会社員、その他、これらの答えは全て正しいものですが、どれをとってもそれだけでは物足りないものです。このような答えをどれだけ積み上げても「自分とは何か」への答えになるとは言えず、これらの定義のような答えをすり抜けたところに答えられない本当の自分があるように思える。ハイデッガーは、このように定義的な答えを共存在と呼び、本当の自分とは区別します。共存在とは、他人と共にいるという視点から規定されたもので、社会的な役割を負った存在と言えます。普段の我々は自分とは何かなどとは考えずにこのような共存在として生きています。でも、ある時、何かのきっかけがあって「自分とは何か」と考え始めてしまうことがあるのです。ハイデッガーはそのきっかけは「不安」だと言います。「不安」とは漠然とした気分ですが、これは人間存在に深く根差したものだといいます。平たく言えば「自分はいったいどこからやって来たのか、そして、これからどこへいくのか」という問いに対して、答えを持っていないところから生じるものだと言います。さらに言えば、このような問いを発することこそが人間と言うものなのだ、と言います。結局のところ、この問いには答えられない。人間は理由なく生まれ、死んでいく。これは、人間に関する本質論の排除で、人間は定義できないとするもので、これを肯定的に受け容れようとするのが実存主義です。

ハイデッガーは、実存としての自分に気が付くためには、自らが死に向かう存在であることの認識が重要だと言います。人間は理由なく生まれ、理由なく死ぬ。だからこそ、いつ生まれ、どれだけの時間を生き、いつ死ぬかと言う観点で人を見たときには、誰一人として同じ人間はいません。自分は、絶対に他人に代わってもらうことのできないかけがえのない存在だということ。自分の人生を生きることは誰にも代わってもらえない。自分でやるしかない。これが実存として生きることです。

ここで問題になるのは、実存としての自分は定義不可能な自分であるから、どう生きるべきかという指針を全く失っていることです。例えば、人間が理性的であることが本質ならば理性を鍛えることが人生の目的となるでしょう。そうして、そのような生きるべき仕方で生きることが至福の人生として用意されていることになります。しかし、本質から解き放たれた人間は、このような「べき」をもはや失い、路頭に迷うのです。

では、どうしたらよいか。ハイデッガーは実存としての自分に深く思いを致したときに、どのように生きるかが自ずと分かってくると言います。これを「先駆的覚悟性」といいます。これを著者は、実存として決断を説明する比喩的な表現だと解釈します。つまり、誰に訊いても自分の生き方を教えてくれる人はいない、それは、自分がどの人間とも異なる唯一の時間を生きる実存だから。このことが心底から分かれば、絶対にダレル自分を助けてくれない、いや、助けることがそもそもできないのだ、ということが分かる。そうなったら、自分で決めるしかないし、決められるはずだ。だから、決めろということだ、といいます。もともと。決断と言うのはそういうものです。「えいやっ」という勇気でとにかく決めることです。むろん、決断の前に考えたかったらいくらでも考えてもいいですが、その考えが最後の決断に自ずと移行することなどないのです。両者の間には断絶があるのです。ハイデッガーは跳び込むという意味合いの表現をしますが、まさにそういうことなのです。

ハイデッガーは実存としての自分に気づくために「不安」をきっかけに「死に向かう存在」であることに深く思いを致すことでしたが、ガブリエル・マルセルは違う方法をとります。マルセルは、実存としての存在に気付くために必要なのは「愛」だと言います。実存があって愛があるのではなく、愛があって実存がある。実存に目覚めるためには、自分一人ではダメで、他者との引き合う関係において初めて明らかになるものだといいます。これは、絶対的な孤立の中で死に思いを致すというハイデッガーとは正反対ともいえます。

人を愛するのは勇気のいることです。なぜか。自己を開かなくてはならないからです。扉を開けば、自分の家の中に他人が土足で入ってくるかもしれない。そういうことから身を守れるのかどうかは分からない、全く無防備な状態になるのです。そこには何がしかの自己の崩壊の不安が付きまとうはずです。他者を受け入れるのは怖いことでもあります。しかし、こういった自己崩壊の危機を受け入れなければ、そして、ある程度、自分を壊して見なければ、本当の自己創造はできない。自分と言う狭い殻の中に閉じ籠っていてはダメなのだ。デカルトは「我思うゆえに我あり」と言って自己の存在を確認しましたが、マルセルは実存としての自己は「ある」ではなくて「(超えて)ある」と規定すべきだと言います。実存は、絶えず今ある自己を超えた自己になろうとする意志として存在する。「ある」で人間を規定するのは本質論であり、定義して人間を固定しようとする。「超えてある」は、その固定的な定義を絶えず否定し、別のものになろうとし、また実際になっていく動きとして捉えます。実存とはこのような自己創造の過程として捉えられるのです。

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