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2011年4月24日 (日)

岡田斗司夫「オタクはすでに死んでいる」

Otaku 身近な体験から、かつてのオタクは「何かを『好き』といった気持ちを抑えきれずに人に伝えてしまう人」だったが、今オタクを自称しているひとは「自分が楽しいのが大事」に変わってきている。

最近のオタクのキーワードとも言える「萌え」が分からないと言います。もちろん、「萌え」が最近使われている意味内容や用法は分かるのだけれども、著者によれば、そもそもオタクであることと本質的には関係があるとは思えないと言います。そして、萌えオタクの人たちは、そのような著者をオタクとは認めないという反応を示す。かつてのオタクの世界では、ジャンルが異なるオタク知識を知らなくても互いにオタクとして認め合っていた。前者のオタクとは認めないというような差別化のメンタリティはかつてのオタクを差別していた普通の人々のメンタリティだといいます。つまり、自分が真ん中にいると信じて疑わない感覚です。かつてのオタクというのは、そういう中心からズレたところにいるという感覚があり、差別されていたため、オタクの間で細かな差別をしても仕方がなかった。そこには、「俺たちはオタクだから」と思っている人たちが共通して持っていた意識、共通基盤のようなものが急激に崩れてきている、と著者は言います。「俺たちは同じだ」という共感よりも、「俺たちはあいつらとは違う」という差異の方がどんどん気になりだしてきた。という人が増えてしまった。

そして、オタクの定義を試み、最近の常識のようになっている、オタク=秋葉原にいる人、オタク=社会性がない人、オタク=萌える人、という等号をひとつひとつ反証を上げていきます。もともと、アニメやマンガ、SFにはそれぞれファンがいました。それを、まとめてオタクと呼びだしたのは外側の人々です。著者は「強制収容所に入れられた」といいますが、彼らの意思とは別に周囲に決めつけられた。当時の彼らは、そういう事情を敢えて引き受けた。当時の彼らオタクたちに共通していたのは、「自分が好きなものは自分で決める」という強烈な意志と知性の表れがあったと言います。テレビや雑誌で今流行しているもの等に流される世間に対して、自分で好きなものは自分で決めるというのは、一つの対決姿勢ともいえ、世間が自分のことが分からないのは当たり前、だから差別されても気にしない。差別する世間を軽蔑している。このようなオタクを世代別に分けると、40代の人が第一世代、後に比べると世間の目が厳しくなかったことから、普通との差異も悩まずに受け入れてしまう。これに対して30代の第二世代は宮崎勤事件を同時代に持ち世間からの差別を強く意識せざるを得なかった世代で、オタクとしての自意識が強い。そして、20代前半中心の第三世代は、いわゆる萌えオタクが中心で、オタクの数が増え、世間の評価も好転し、子供のころからオタク商品に囲まれ、これを当然と受け入れてきた世代といえます。この世代はオタク趣味をある種の純粋でいられる逃避場所と受け取る傾向が強いといいます。この下に第四世代、「働きたくない=オトナになるのは損=だから子供でいられるオタク文化を好む」という人たちが存在する。

ここで視点を変え、著者は日本全体に起きている変化に目を向けます。例えば少年マンガ雑誌の表紙の変遷です。例えば少年マガジン創刊号の表紙は当時の横綱朝潮です。それからは、戦記イラスト、科学や宇宙へと拡がり、サンダーバードのようなキャラクターから黒沢明と変遷します。それが1972年当時のアイドル南沙織を表紙に取り上げて以来、一貫してアイドル路線をとりました。この路線が続いたのは部数が伸びたからです。これに他のマンガ雑誌が追随します。この傾向が一般紙にまで広がるのです。1980年代あたりから、日本は美少女好きになっていったといいます。このなかで、アニメには美少女を扱う、ひいては性的な要素が前面に出るようになっていきました。その結果、アニメファンの中で美少女という性的なものをどこまで自分の趣味の中に取り込むかということにより、アニメファンの中で断絶が生まれてきたと著者は言います。このような状況で便利な言葉として注目されだしたのが「萌え」という言葉です。2000年代に入ってから、オタク・ブームが起こり「萌え」の独り歩きが起こる。その結果、かつてのオタクの共通文化が徐々に崩れ始めた。

「萌え」というのは感覚的で、一見分かり易い。それが浸透していくに従って、それが次第には、「わかりやすい=萌え」以外の作品や感性を排除し始める。それは、オタクである以上、マンガ好きだとは言っても、多少はミリタリーや鉄道の事情も知っておきたい。もちろん自分が一番好きなマンガにおいては、少女マンガから劇画まで一通り押さえておかなくてはからない。そのようなかつてあった「オタクとしての必要な教養」をどんどん排除して、「俺が今好きなものがいい」という短絡的な価値観のみになってきている。

いわゆる第三世代のオタクたちは分かる作品だけ、好きな作品だけ見たいと考えてしまう。これは、この人たちにとってオタクとは自分の弱さを認めて、現実を忘れて逃避する場所になっているからです。オタクであることがアイデンティティーの問題になっている。つまり、オタクであるということが第一世代のように人生をかけた趣味の問題でもなければ、第二世代のように社会性の問題でもなく、第三世代では「わたし」の問題になっている。だからこそ、第三世代には、「これがオタクだ」とう中心概念が存在しない。中心にあるのは「わたし」なのです。第三世代のオタク同士で共有できる思想がなく、そこにあるのは「萌え」という感覚だけで、感覚だから言葉は共通していても共有はできない。アイデンティティーというのは「私はみんなと違う」という場所探しだから、「オタクとはこういうものだ」と言われると、「当たっている部分」ではなく、「違っている部分」を探してしまう。だから、中心概念を認めてしまったら、自分が疎外されることになってしまう。このような違う部分を探していれば、違う部分が気になって、自分がオタクではないことになってしまうからです。だらか、「わたし」の好きな作品以外には、ほとんど価値を認めない。だから第一世代や第二世代にあった共通文化や相互理解のようなものはなくなっていった。

実は、このような「自分気持ち至上主義」はオタクに限らず、今の日本社会全体に広がっていると著者は言います。「自分の気持ち至上主義」は、我慢や協調を強いる共同体の縛りつけを解きますが、共同体の結びつきによってかろうじて維持されている同族意識や共同幻想、すなわち「文化」自体も破壊してしまう。

オタク文化というのは、極論すれば大人になっても子供時代の趣味をやめない、ということだけれど、この前提として、ふたつの要素が見えてくる。それは、日本の大人は子供っぽいのでオタクになる、ということと、日本の子供文化は大人っぽいので卒業する必要がない、というふたつの要素の両立が前提となっている。

しかし、90年代以降日本が不景気の時代に突入すると、不景気は長期化し将来への希望がしぼんで行くにしたがい、現実の生活は「明日は今日より苦しいかもしれない」という兆候しか見えず、子供は大人になりたがらず、大人は子供に戻りたがるようになる。今、急激にオタクが増えているのは、オタク・ブームのためだけでなく、このような「大人になるのは損」という判断が行きわたってしまったことにもよる。「大人の品格」とか「大人の見識」とかいうような大人の属性。あえて苦労を引き受け、常に向上を求める大人の姿勢は、短絡的に見るとあきらかに「損」としか見えません。短期的な感情=「今の気持ち」だけで判断することは「自分の気持ち至上主義」です。

だからと言って、「今の若い者は…」というのも違う。なぜなら時代は人の上に次々とOSのように新しい思想をインストールしているから、例えば、今の70代は40年前の70代に比べれば明らかに幼稚です。だから、「自分の気持ち至上主義」は私たち自身の価値観にインストール済みなのです。今の日本に生きている証しなのです。この価値観を不快に思っても、共存を考えずに排除だけを考えると時代を否定し「昔はよかった」と嘆くだけになりかねない。だからと言って時代に迎合する必要もない。周囲が幼稚化しても、自分自身が幼稚化する言い訳にはならないはずです。日本全体としての共同幻想の大人というのはなくなってしまったかもしれませんが、個人の中では生き残れるのです。

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