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2011年4月28日 (木)

前島賢「セカイ系とは何か~ポスト・エヴァのオタク史」(4)

第三章 セカイはガラクタの中に横たわる 2004~06年

2003年以降、セカイ系という語は文芸批評を中心に、活字の分野に進出し、そのなかで「エヴァっぽい」あるいは「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」といった歴史的側面が抜け落ち、抽象化されて定義づけられていく。そして、この定義自体が、新たなセカイ系を作り出していくのが、この時期であると著者は言います。この変容に併行して、「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品」から「主人公とヒロインの恋愛によって世界の運命が決定してしまう作品」という定義の移り変わりが起こっていた。

これは提唱者であった“ぷるにえ”の定義にあった『エヴァ』によるパラダイム・シフトという視点が欠け落ちていく。その理由としては、“ぷるにえ”の定義がネット特有の口語的なもので評論等に馴染まなかったことや、当初の揶揄的に使われていたのが、後の論者たちはこの言葉や作品を肯定的に捉えていたために、意味合いの「脱臭」と「更新」が必要となったと、著者は言います。その結果として、セカイ系は、それぞれが自身の肯定したい作品につける

マジックワードと化し、そしてまた各々の論者がその意味の定義づけをめぐって独自の論を立て合う言葉となってしまったと指摘します。そのなかで、セカイ系ということばは広く流通し、さらに概念の混乱を深めて行きました。

このような状況の中で、オタク文化においてセカイ系と名指されたのは大雑把に次の二つのグループに分けられると著者は言います。ひとつはループもの、もうひとつはセカイ系への応答作品です。

まずループものの作品とは、時間SFの一種で、登場人物が何らかの原因によって、同じ1週間やある時点から自分が死ぬまでの時などのような特定の時を繰り返す物語です。1984年の押井守監督による『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が嚆矢とされますが、学園祭1日前をずっと繰り返す主人公たちを描くことで、連載が何年続いても時間の経過しない原作のラブコメ世界の姿を自己言及的に描き出し、その実験的な映像とともに問題作とされたものです。ゼロ年代のループものは、主人公が巻き込まれた何らかの事情が解決されない限り、基本的に、世界は同一時間を繰り返し続ける。しかも、これらの作品において、しばしばループを脱出するカギは、恋愛など、個人的な人間関係に求められる。このような構造が「きみとぼくの関係性と世界の運命の直結」というセカイ系定義に合致する。さらに、これらの作品においてはループの記憶を保持するのは主人公ひとりだけという設定が頻繁に導入されることから、ループ者は、認識を共有する他者を失い内省的に(=一人語りが激しく)なる。

また、ふたつめとしてセカイ系が、そう名指され、定義されたことを受けて書かれた作品も多数現われました。例えば2005年の風見周の『殺×愛─きるらぶ─』は、相思相愛になった女性に殺してもらわなければ、世界が滅亡してしまう運命を背負わされた主人公を描いた物語で、明らかに「きみとぼくの二者関係と世界の運命の直結」というセカイ系の定義を意識して書かれた作品と言えます。この作品はセカイ系がセカイ系として批判される所以たる「世界の終りと男女の恋愛が直結する」という荒唐無稽な構造を、意図的に導入し、その上で真摯な恋愛物語を描いたものです。これは、セカイ系と名指され批判され定義されることで却って、セカイ系的構造を意図的に内側に取り込んだメタ・セカイ系とでも言えます。このような事態がなぜ起こったのか、ということに対しては自己言及的な構造こそがセカイ系の本質ではなかったかと著者は指摘します。

著者はセカイ系について、「一人語りの激しい」から「きみとぼくの世界の直結」へと定義が変わっても、自意識という共通点は保持され続けたと指摘して、自己言及性をセカイ系のコアに求めます。もともと90年代以降のオタク文化において自己言及的な表現がしばしば目につく。例えば。ループものは同じ時間を繰り返すという点で、必然的に自己言及性を孕むが、そのような意識的、主題的な自己言及まで行かなくても、90年代中盤には、ロボットアニメのなかの登場人物が「ロボットアニメみたいだ」と発言する、というような場面がしばしば見られた。この登場人物たちは巨大ロボットを既知のものとして出会う。そこで描かれているのは、日常的にロボットアニメを見て育った少年が、現実にロボット出会ったらどうなるかという表現です。そして、セカイ系応答ものでは、ほとんど過剰なまでに、自分たちの出合うロボットなどの事態が、フィクショナルでチープなものでしかないと作中で指摘し続ける。しかし、それらを茶化したり笑いものにするのではなく、極めて深刻な自意識の悩みという主題を展開させていくのです。

東浩紀は『ケーム的リアリズムの誕生』のなかで、このようなセカイ系の構造を支えるものとして半透明な文体という概念を提示しています。現実をありのままに描き出そうとする自然主義リアリズム(透明な言葉)に対して、アニメやコミックという世界のなかに存在するのが、まんが・アニメ的リアリズムである。この二つのリアリズムの対比に大塚のいう「アトムの命題」を結びつける。大塚は、日本のマンガ史のターニングポイントを手塚治虫の『勝利の日まで』という作品で、主人公のフクちゃんが米軍の戦闘機に撃たれて血を流す場面に求める。大塚によれば、このとき、本来、平面的な身体、死なない身体と傷付かない心しか持たないはずだったマンガのキャラクターが、しかし、傷付く身体を手にしてしまったのだという。それ以来、日本のマンガ表現の中で描かれるキャラクターたちには、記号的な傷付かない身体と、生身の傷付く身体という二重性が宿り、それが手塚治虫作品の主題となっていったのだという。『鉄腕アトム』の主人公アトムが内面を持ちつつも成長できないロボットとして描かれるのは、まさにこの二重性があるがゆえであり、大塚は、これをアトムの命題と呼んだ。そして、これを享けて、東の議論は、日本のマンガに宿るこのような傷付く身体と傷付かない身体の二重性は、そのまま、マンガ・アニメ的リアリズムの中に流れているという。そして、マンガ・アニメ的リアリズムは、自然主義的リアリズム(透明な言葉)とは異なるが、かといって自然主義以前、前近代の不透明な言葉とも異なった半透明の言葉である、と東は言う。と、セカイ系の根拠を、文体そのものに求める。

しかし、と著者は言う。文体だけでは、あくまでセカイ系の立つ土台を指し示したに止まるという。文体だけでは内に秘めた「アトムの命題」=半透明性という問題系を呼び覚ますことはできない。セカイ系の諸作品は、読者と同じ現代に生きる若者を登場させて、過剰なまでの自己言及を行い、巨大ロボットや最終兵器、名探偵や宇宙人、そしてセカイ系などがマンガチックな、虚構の存在にすぎないことを示そうとする。近代的な自意識と、傷付く身体を持つ生身の人間、いわば透明な文体で描かれるべき存在であることを明らかにする。そのうえで、彼らを、まさに彼ら自身が虚構であると名指した不透明な世界=宇宙戦争、密室殺人、セカイ系の中へと投げ込むのである。東が言うセカイ系の半透明性は、このような自己言及の運動によって成立している。

さらに、著者は続ける。実は、幼いころからマンガやアニメに親しんできた人間にとって、これらが荒唐無稽だと認識するのは、難しいことだ。『エヴァ』の後半において、主人公である碇シンジという薄いセル画の上の絵が、庵野秀明という一個の自意識の受け皿となり、作品を完全に破綻させるほどの勢いで「アイを叫ぶ」という事件が起こるまで、オタクたちはマンガやアニメのキャラクターたちが、生身の人間と同じような身体や切り口を持つということの、あるいはそこにみずからの自己を投影することの不自然さを認識していなかったと言います。そして、『エヴァ』という事件によって芽生えた不自然さへの驚きと問いが、セカイ系の自己言及の運動となるのではないか。

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