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2011年4月 2日 (土)

小穴晶子「なぜ人は美を求めるのか─生き方としての美学入門─」(3)

プラトンの弟子にあたるアリストテレスは、イデアをダイナミックに捉えようとしました。彼は、本質の探究方法をソクラテスのように二元論に基づき本質と現象を切り離すのではなく、本質は現象に内在していると考えました。ソクラテスやプラトンが本質をイデアから本質を想起するという方法をとったのに対して、アリストテレスは現象をよく観察し、そこから発見される本質をエイドス(形相)と呼びました。具体的には数多くの現象を観察して共通の性質探し出し、それにより定義するという近代科学にも通じる思考方法がここで生まれたと言えます。このような本質と現象が不可分と考えられるようになると、魂と肉体は不可分となり、ソクラテスの死の練習という哲学とは袂を分かつことなるわけです。しかし、一方で現象の地位が上がることになり、芸術の美が肯定されることになります。アリストテレスもプラトンと同じように芸術をミメシスだとしますが、このミメシスを肯定的に捉えます。人間は現物を見れば怖いものでも、上手くミメシスされているものを見ると喜びを感じます。食欲は生命維持に、性欲は子孫の繁栄に役立つように、ミメシスの喜びは学ぶ喜びにつながるとアリストテレスは言います。これは哲学に向かいための入り口となります。芸術はこのような上に成り立ち、哲学に人を導くものとして存在意義が認められることになったのです。アリストテレスは『詩学』の中で、悲劇を取り上げ芸術について論及しています。悲劇は筋によって決定され、アリストテレスは“われわれより優れた人間である主人公が、何らかの過失によって幸福から不幸に転じる”ものと言っていますが、このことにより観客の心に主人公に対する同情の気持ちを引き起こすのが悲劇です。アリストテレスは悲劇が観客に与えるべき効果を同情(エレオス)と恐れ(フォボス)という二つの用語で示しています。これらの二つの感情はどちらも主人公にふりかかる不幸に起因する。この不幸を目の当たりにして、「なぜ何も悪くないあんなに良い人にこんな不幸が」と、主人公に肯定的に感情移入するところから「同情」が生じ、どうしてもこの不幸が避けられなかった人間の無力さを痛感し、運命の力の大きさに圧倒されるところから「恐れ」が生じる。プラトンは、これをパトスを引き出すものとして否定しようとしましたが、アリストテレスは、「カタルシス」という概念を持ち出して説明しました。悲劇の目的は観客にエレオスとフォボスを引き起こすことであり、これらを引き起こすのがミメシスの技術だということになります。ミメシスが成功すれば、これらの感情は生き生きと現実性を持ったものとして感じられるでしょう。しかし、観客はこれらの感情が決して本当のものでないことは知っています。だからこそ、どんなに恐ろしい悲劇であろうとも、観客は安心して、どこか喜びを感じながら見ることができるわけです。逆に言えば、ミメシスによって引き起こされた感情は、いわば、知性によってからめとられた感情であり、感情は魂によって統御可能なものとなるわけです。いわばロゴス化させることになるわけです。これを「カタルシス」と呼びます。さらに、アリストテレスは、このような「カタルシス」を引き起こすものとして優れた芸術の条件を論じています。まず適度な「大きさ」で、一度に全体が見渡せて、同時にその部分の判別ができるような大きさと言います。これは「完結性」につながります。完結性は多様の統一性につながります。統一性があるといことは、そこに存在する部分が、一つの目的に向かっているということです。そのために無駄があってはいけないし、不足があってもいけない、あるべきものがあり、あるべきでないものは何もないという状態にあるということです。このような統一性のある完結体を美とする根底には、理性によって感覚の世界を支配することを目的とするギリシャ哲学の思想があります。

プロティノスは、ギリシャ哲学の伝統から出発します。本質とは何かという問いです。ここで、プロティノスは、このような問いが可能となるのは、「あるもの」の本質を問う場合には、問われるべき「あるもの」が「あるもの」としてとらえられているからだ、と言います。様々に椅子が周囲にあって、そこから椅子とは何かと問われるべき椅子のイメージがあるように、感覚的なデータしては、我々を取り巻く世界はバラバラであり、その中から一定のデータをまとめて一つのものと見なすことによってはじめて「あるもの」が存在する。このようなことを、プロティノスは世界のあらゆる存在を一者から「流出」したものととらえます。そして、あらゆる存在を可能にする根拠としての一者それ自身では存在ではない。そして、一者から流出したあらゆる存在は一者からの近さにより秩序づけ、つまり階層づけられます。このことは、あらゆるものが一者からの連続性として捉えられることと、一者から遠ざかるにつれ秩序から離れ無秩序に向かうということになります。そして、人間は理性によって無秩序から秩序に向かう努力をするものだと言います。プロティノスはこれを「帰還」と呼びますが、論理的な思考を駆使して、秩序を与え、より統一的な一体性を求めるということ、これは、これまで紹介されてきたギリシャの哲学者たちと同じ姿勢です。プロティノスは、ここからさらに、最終段階で一者そのものをどのように知るのかという時に、一者との合体、脱我という、いわば理性を超えた、一種のエロス的な働きを考えます。このような思想を反映して、プロティノスは単一なるものの美を強調します。多様の統一といったアリストテレス的な美はここでは否定されます。多様な部分の統一を把握するのは知性であって、感覚ではとらえきれないものです。アリストテレスにはギリシャ哲学の知性尊重主義が底流にあります。しかし、プロティノスはどうでしょうか。アリストテレスらとの大きな違いはミメシスの考え方の違いにあります。それ以前は現象を模倣するということが中心だったのに対して、プロティノスはミメシスの対象の現象ではなく、それらのものの背後にあって存在を可能にしている形成原理なのだと言います。ここまでくると芸術の目的は写実ではなくて理想化された美しい形象を創ることになります。だから重要なのは外観ではなくて、内面なのです。芸術家がよりどころにするのは魂にある理想像になります。だから、実際にない架空の人物や見ることのできない神々を描くこともできるわけです。理想像との接触によって感覚的なものが魂の方に引っ張り上げられることによって美的形成が行われる。プロティノスは、この上位に引っ張り上げられるものに接することにより輝き出てくるのか美なのです。つまり、美が「帰還」の原動力となるのです。では、この美に触れるためにはどうすればいいのか。美をみようとする自分はもともと「一者」であった。だから自分と「一者」は論理的には同一で、美に触れるということは、美である「一者」と同じになるということだ。美を見たいのであれば、自分自身が美しくならなくてはならないということになる。ここでプロティノスの言う自分とは魂のことです。魂の美しさを彼は問題としているのです。このためには自分の内側を見つめ不純なものを取り去って、言うならば純粋の本当の自分との出会いを求めるということになる。ギリシャの哲学には不死の追求という目標があり、ソクラテス以来普遍性への憧れにつながっていました。それは、いつでも、どこでも変わらないロゴスの探求でした。これに対して、プロティノスは一者をすべての存在の根拠に求めて唯一性を強調しました。これは後のキリスト教的な考え方への橋渡しにもなったと言えます。

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