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2011年5月27日 (金)

大塚英志「アトムの命題 手塚治虫と戦後マンガの主題」(2)

第2章 まんが記号説はいかにして生まれてきたか

自らの絵をデッサンに基づく美術的な絵とは全く異質の、「写実」とは一切関係のないもので、まんが表現における絵を、たまたまお話をつくる道具としての絵らしきものとする「まんが記号説」の基本となる考えが手塚の中で成立したのは昭和40年代前半ごろのことだろう、と著者は推定する。ちょうどこの時期は、トキワ荘グループによって手塚まんがの方法が映像的手法として論理化されていった時期である。しかし、手塚は自身の創作方法を全くの別の側面から論理化していたのだ。手塚は、昭和44年にまんが入門書『まんが専科初級編』を刊行する。そこでは、当時の人気コミックのキャラクターたちを絵柄の構成要素に分解し、分類している。それは、「まずじぶんの画風をかためよう」という内容の作画上のオリジナリティのあり方についての解説の中で行われている。ここで、まんが家の画風を構成要素に還元し、個性とは構成要素の順列組合せにすぎないとするこの手塚の考えは、ギャルゲーのキャラクター萌え要素のデータベースからの順列組み合わせとみなす東浩紀のいわゆるデータベース論を連想させるが、そもそもギャルゲー的な萌えキャラクターがそのように作られてしまうのはポストモダンや動物化の所産ではなく、手塚的な方法の延長に無自覚にそれらの表現があるからであるといえる。構成要素に還元され易いものとしてまんが的な記号はあらかじめ、戦後まんが史の中に自覚的に用意されていたのであり、ギャルゲーのキャラクター表現の中に突然、現われた考え方ではない。このような順列組み合わせによってまんがの絵を規定する考え方は、別の部分で表情集をつくっていることにも窺い知れる。「驚くと目がまるくなる」「怒ると必ず目のところにシワが寄る」というような説明とともに、キャラクターの感情に応じての表情の「記号」のバリエーションが例示されている。さらに、こういった画風を構成する諸要素や表情のバリエーションに加え、「見えない線」を描写する「約束事」としての記号を習得すればまんがは描けると言い切っている。このように、手塚はまんが表現における絵画的側面をあらゆる水準でそれを構成する記号の諸要素に還元しようとしたのであった。

それでは、このような「記号」や「類型」に自身の表現方法を見出す視座はいかにして生まれたのか。手塚は、「まんが記号説」に基づき自らを近代まんが史の中に位置づけようとしていた形跡もある。手塚は戦後の第一期の漫画を漫画のルネサンスと考えていた。戦後の第一期の漫画とは、当然、彼自身のことを示すと思われる。つまり、戦後処理の時代、すなわち占領下のまんが史を手塚が重視していたことが窺い知れる。この点について手塚は明瞭な歴史観を持っていたことは推察できる。手塚は、昭和63年のインタビューで、自らまんが体験を北沢楽天と岡本一平から語り始める。そこで、手塚はまず、自身がいかに戦前の日本で流通していたまんがの技術の影響下にあるかという視点であった。明治期に流入したカトゥーンの影響下にある楽天と絵画的な素養に裏打ちされた一平の絵を峻別するとともに、類型化された人間をその属性を直截に語る名とともにキャラクター化されている楽天の性格の描き分けに影響をうけたと、手塚は自己言及する。ここで語られているのは「まんが記号説」に基づく楽天論であることは言うまでもない。楽天のまんが表現に手塚は自身の起源としての記号性を見出しているのだ。まんがにおける表現上の「記号」をパーツに還元して解釈していく批評は夏目房之介らによって試みられているが、手塚にとってまんが表現とは人間像そのものが類型化してまず認識され、その上で類型を表象するにふさわしい「記号」が動員されるジャンルであることが分かる。まず人間像そのものを「記号」「類型」として把握する視線がまんが記号説の根本にあるのだ。重要なのは手塚がそのことに自覚的であった、ということである。人間像の類型化は否応なく、その時々の表現者や受け手に内在する偏見を無自覚的に反映する。現在、我々が目にするメディアも例外ではない。しかし、そのことに自覚的なメディアの送り手は少ない。手塚はそのことに徹底して自己言及しており、それを自身の方法として積極的に位置づけようとする。そう考えた時、手塚が楽天らについて一通り言及した後で「ぼくの漫画には、昭和の初めからの一種の漫画史の影響が全部あるんですよ。手塚漫画は昭和の漫画史のカリカチュアライズしたものといってもいい」と語っているのは重要である。それはただ自身の表現が近代まんが史の強い影響下にある歴史的所産であるということだけでなく、まんがというカリカチュアライズされた、つまり「記号」化された表現を更にカリカチュアライズしたもの、言い方を換えれば、近代のまんが表現に蓄積された「記号」を手塚まんがはデータベース的に集積したものだと手塚によって自覚されていたことが理解できる。手塚はいわば私自身がまんが史だと語っているのであり、これは実に強烈な自負である。

実際、終戦直後の子供たちにとって未知のものであった戦前のまんが表現の多くを継承し、それを動員して表現したことが手塚の「新しさ」の一面であった。その意味でも、手塚自身が戦前のまんが史そのもののカリカチュアライズであったとする手塚の自己規定は興味深い。インタビューの、このような文脈の中で、手塚は田河水泡の『のらくろ』に言及し、田河の絵の個性をパターン化に見出す。例えば、歩く人がどう歩いたかを示すのに、足跡の代わりに土煙を並べるという方法を採用し、それが、田河の独特のフォルム化されて、初めて見る人は何だろうと思うくらい極端にデフォルメされたと指摘する。ここで手塚の言う「デフォルメ」は、表現する対象の特徴を誇張し、よりそれらしく見せるという「デフォルメ」ではなく、土煙を表現する記号が、しかし、指示対象の土煙を読者にもはや想像させないほどに独特のフォルム化されていることに田河の「デフォルメ」の個性を見るのである。ここで手塚の言う「デフォルメ」はリアリズムか切断されている状態をさす。手塚にとって田河しはこういった記号の発明者として何より評価される。

しかし、田河の『のらくろ』は次第に変容していくことを手塚は指摘する。当初、輪郭部だけで構成された絵に影を入れだし、リアリズムに接近していく。これは戦時下に描かれた『のらくろ』に見られる傾向だと、手塚は言う。前後になると、変化は決定的になる。リアリズムはのらくろにまで及び、「人間がのらくろの皮を被っているような骨組み」という指摘は、本来写実から切り離された記号としてあったはずの田河の作風にリアリズムが導入され、それがキャラクターの表現にまで及んでしまったことの破綻を指摘している。そして、このような手塚の指摘は、戦時下から終戦直後にかけての手塚の中に生じた決定的な変化でもあった。と著者は指摘している。

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